三十日戦争

 1453年のビザンティン帝国の滅亡以来オスマン・トルコ帝国の領域だったギリシアが独立を回復したのは1830年のことである。しかし独立当初のギリシアの総面積は現在のそれよりもずっと小さなものであり、オスマン帝国は現在のギリシア共和国北部やエーゲ海の島々といったギリシア人の多く住む地域の支配を継続していた。今現在の国でいうならマケドニア共和国やアルバニアの全域、それにブルガリアの南西部も20世紀初頭までオスマン帝国の領域であったのである。ギリシアはなんとしてでもオスマン帝国領内のギリシア人居住地域をその手におさめたいと考えていた。その様な主張を「メガリ・イデア」と呼ぶ。(詳しくは当サイト内の「ギリシア近現代史」を参照のこと)

 1890年代のギリシアは経済危機に苦しめられていた。貧窮する農村からはアメリカに移住する者が続出し、93年には債務不履行による国家破産が宣言された。国内の閉塞情況を打破するもっとも手っ取り早い方法は「メガリ・イデア」の実現を声高に叫ぶことである。ちょうどそのころエーゲ海のオスマン領クレタ島のギリシア人がオスマン当局と激しく対立していた。

 クレタ島は1669年以来オスマン帝国の支配が続いていた(註1)。19世紀後半頃のこの島の住民構成はギリシア人7割・トルコ人3割ほどであった(註2)とされ、ギリシア人はながらく抑圧されていたのだが、まず1866年に大規模な反乱を起こし、2年間の苦しい戦い……たとえば反乱軍の拠点の1つであったアルカディ修道院がオスマン軍に降伏を迫られ、火薬庫に点火して自爆した……の末に様々な譲歩(ギリシア・トルコ混合の議会の創設等)を勝ち取った。しかしギリシア人はその程度では満足せず78年に再び反乱を起こし、その頃オスマン帝国がロシアとの戦争に負けたことやイギリスの仲介もあってさらに広範な自治権(行政や警察へのギリシア人の広範な参加等)を約束する「ハレパ協定」をもぎとることに成功する。その後のクレタのギリシア人は自治のみで満足する穏健派と、ギリシア「本国」との統合を主張する急進派の2派が対立するようになり、次第に優勢になった後者が88年に議会の多数を確保すると、危機感を抱いたオスマン帝国政府は島に軍政を敷いてこれに対処した。ギリシア人によるテロも起こった。

註1 クレタ島はもともとはビザンティン帝国の支配下に置かれていたが、1204年にイタリアのヴェネツィア共和国によって占領され、それをさらにオスマン帝国が占領・支配したのであった。

註2 本稿では便宜的に「ギリシア人」「トルコ人」という表記をしているが、正確には「キリスト教徒」「イスラム教徒」と記すべきである。オスマン帝国においては人種の違いはあまり問題ではなく、宗教によってクラス分けがされていたからである。それが、18世紀から19世紀にかけて、キリスト教(東方正教)を信じギリシア語を話す者は「ギリシア人」であるという自覚(民族意識)が強く持たれるようになるのである。


 そして96年5月、オスマン当局によるギリシア人虐殺事件を契機としてまたまた大規模な反乱が発生(ギリシア本国からの支援があった)し、島の内陸部はギリシア人が完全に支配した。これは列強諸国(英独墺仏伊)の調停によって収まったものの翌97年2月にはまたぶり返した。ギリシア本国の首相デリイアニスはクレタのギリシア人を助けるため総動員令を発し、現地に艦隊を派遣した(宣戦布告はしていない)。2月14日にクレタに上陸したギリシア軍の指揮官バロス大佐は現地のギリシアへの併合を宣言した。

 3月2日、英独墺仏伊露の列強6ヶ国がギリシアの強引な行動に怒り、最後通牒を突きつけてきた。ギリシア政府はこれを受けてクレタ島から艦隊を撤収させたものの、バロス大佐は島に残らせた。しかし島は列強の艦隊によって封鎖され、これ以上の手出しは不能となった(註3)。ところがギリシア政府の狙いは他にあり、ギリシア世論は日頃の「メガリ・イデア」熱がクレタ問題のせいで加熱しきっていてこのままではすまされない状況となってきた。

註3 しかし列強艦隊は、オスマン側がクレタ島に艦隊を送ってきた場合はこれを阻止し、列強の保護のもとで島の自治を守ると約束した。列強のこのような行動は、ただ単に島での流血を阻止するために行われた(近代ギリシァ史)。


 情勢が緊迫する一方の3月18日、オスマン艦隊が母港を出ようとした。別にどこかを攻撃するとかではなく、もしギリシア艦隊が先制してきた場合にこれを食い止めるために外海に出ておくという程度の作戦である。しかし……オスマン帝国海軍は20年ほど前に外国の中古艦を買い漁って大増強を遂げていたが、その費用がかかりすぎたために国家財政が悪化、せっかくの艦隊を満足に維持出来なくなっていた。帝国首都イスタンブール(コンスタンティノープル)の金角湾を威風堂々出撃しようとした9隻の艦隊は、しかし湾から出ないうちに旗艦「メスウーディエ」のボイラー8つのうち3つが破裂、なんとか湾から出たら暴風雨で1隻がはぐれて座礁、オスマン艦隊では最新鋭艦である筈の「ハミディーエ」は浸水が酷過ぎて使い物にならず、他の艦も砲撃演習で数発撃っただけで大砲が壊れるという惨状となった。オスマン政府としては最初から海軍にはあまり期待していなかったとはいえ、これはあまりにお粗末な話であった。期待は陸軍の肩にかかる。その頃のオスマン帝国にはドイツが熱心な経済進出をしており、オスマン陸軍はそのドイツの顧問の指導を受けていた。

 4月9日、ギリシア本土のテッサリア州から不正規軍(民兵)3000人がオスマン国境を越えた。宣戦布告のないままの実質的な開戦である。ギリシア政府の真の狙いはクレタ島ではなくこちらにあったのである。しかしこの部隊は最初は快進撃を続けたがすぐに逆襲されて潰走した。

 正式の宣戦布告は4月18日である。オスマン軍の総兵力は70万を数えたが広大な国土の治安維持や他国との国境を守る必要があることからギリシアに向けられるのはとりあえず13万である。対してギリシア軍(正規軍)の方は総兵力21万のうち7万を投入可能であった。それから、ギリシアがオスマン領土に野心を持っているのと同じようにセルビアやブルガリアもまたその領土を狙っており、うまく立ち回れば両国をギリシアの味方につけることも可能であったのだが、そんな巧みな外交が出来るような政治家は当時のギリシアにはいなかった。また、19世紀初頭のギリシア独立戦争の際には「古代ギリシアの英雄たちの末裔を救う」として西欧から大勢の知識人が義勇軍として駆けつけてきたものだが、今回の戦争では宣戦前に不正規軍を動かすような不実な行動のためそちらの支援も受けられなくなった。

 さて、戦線はギリシアからみて北東のテッサリア州と北西のエピルス州の2つである。本稿ではまず両軍の主力が展開しているテッサリア戦線について記述する。この方面のオスマン軍はエデン・パシャ率いる歩兵6個師団9万3000に騎兵1200と大砲205門、ギリシア軍はコンスタンディノス王太子(当時のギリシアは王制)率いる歩兵2個師団4万3000に騎兵750と大砲95門であった。ギリシア正規軍は実は宣戦布告の2日前に既に国境を越えていた。序盤はギリシア軍が優勢であったが22日には数に勝るオスマン軍に押されて後退した。続いて23日にはオスマン軍が攻勢に出てギリシア領内に攻め込み、その2日後にはこの方面のギリシア軍の拠点ラリッサ市を占領した。この敗報を受けたギリシア首都アテネの官民は驚き怒り、首相や陸海軍大臣・参謀総長が責任を問われて免職となった。しかしこの時のオスマン軍の進撃は緩慢なもので、ギリシア軍は容易に南方のファルサロス市に退却することが出来た。ここは紀元前48年に古代ローマの武将カエサルとポンペイウスが戦った古戦場である。

 27日、オスマン軍1個聯隊がラリッサを出撃、ファルサロス市とその東のヴォロ港の連絡(鉄道で連結している)を断とうとした。しかし途中の川を渡るのに手間取った上にベレスチノンにてギリシア軍1個大隊に阻まれて退却を強いられた。翌28日のオスマン軍はもっぱら敵情偵察を行い、29日になって再びベレスチノンに接近したが撃退された。そこで翌30日早朝に再び攻撃である。ベレスチノンのギリシア軍は(オスマン軍が慎重な偵察で時間を潰している間に)戦力を増強して9000の軍勢を揃えていたが、そこに押し寄せたオスマン軍はわずか5000である。オスマン軍はまたしても敗れ、350ほどの死傷者を出して退却した。この戦いではオスマン軍の騎兵2個中隊が味方との連絡がうまくいかないままギリシア軍に突入してほぼ全滅するという一幕があった。

 テッサリア戦線では両軍の戦力は倍の開きがあったがエピルス戦線ではオスマン軍がヒフジー・パシャ率いる歩兵2個師団2万6000に騎兵400と大砲50門、ギリシア軍がマブロミハリース少将率いる歩兵1個師団2万3000に騎兵250と大砲50門、と、ほぼ互角であった。4月18日の宣戦布告の際に先に戦端を開いたのはオスマン軍の砲台であったが翌日にはギリシア軍7000が国境を越えて進撃、オスマン軍は北方へと退却した。オスマン軍の司令官ヒフジー・パシャは責任を問われて免職となった。23日さらなる進撃をはかったギリシア軍前衛はしかしペント・ピガティヤにてオスマン軍に食い止められた。ギリシア軍は25日には開戦時のラインに押し戻された。ギリシア軍は5月1日に再び攻勢を行ったがまたしても失敗した。

 5月5日、テッサリア戦線のオスマン軍は主力でファルサロスを、一隊でベレスチノンを攻撃することにした。この時のオスマン軍は開戦時よりも戦力を増強しており、7個師団を動かせるようになっていた。対してギリシア軍は以前と変わらず2個師団にすぎないため後退することにした。幸いにもオスマン軍の進撃は緩慢であり、ファルサロスのギリシア軍は容易に南方のドモコスまで撤収した。しかしベレスチノンの部隊には後退命令が届かずそこに現れたオスマン軍と激戦となった。ファルサロス方面のオスマン軍はベレスチノン方面に増援を送ったが(例によってモタモタしていたので)ギリシア軍はこれが到着する前に撤収した。その時点で講和交渉の話が出たため、オスマン軍はそれ以上は動かなくなった。以後数日間は自然休戦である。

 12日、ギリシア軍がエピルス戦線で戦闘を再開した。講和交渉を優位に運ぶ材料を欲したからと思われる。増強を受けたギリシア軍は4隊にわかれて進撃したがうち3隊はすぐに食い止められ、残り1隊は要地プレヴェザ要塞に迫ったが結局後退、16日には4隊とも開戦時のラインに押し戻された。ギリシア軍の死傷者は1150、オスマン軍のそれは360であった。

 テッサリア戦線では17日のオスマン軍の進撃によって戦闘が再開された。オスマン軍の兵員数はギリシア軍の倍以上、大砲だと5倍以上に達していた。もう勝ち目が無いギリシア政府はロシア皇帝(ギリシア国王の近親)に仲介を頼んだ。戦いつつ後退するギリシア軍は正規軍だけでなく不正規軍を含んでおり、後者の質が悪くて道々略奪を働いたりしたことから正規軍の懲罰攻撃を受けるようなことがあった。ギリシア軍はテルモピレーまで後退した。ここは紀元前480年の「ペルシア戦争」の時にスパルタ軍がペルシアの大軍を迎え撃って全滅した古戦場である。しかし今回はここでは戦いは起こらなかった。20日をもって休戦が成立したからである。開戦以来1ヶ月であった。

 以上、この「三十日戦争」におけるギリシア軍の死傷者は3600人、オスマン軍のそれは3800人であった。6月3日からオスマン帝国首都イスタンブールで始まった講和会議にはギリシア代表は出席を許されず、かわりに列強6ヶ国がオスマン帝国と話し合うことになった。そして12月7日に成立した「イスタンブール講和条約」により、ギリシアはテッサリアの北部を割譲、さらに歳入の3分の1にあたる6億フランを賠償金として支払わされた。これでギリシア経済は壊滅的なものとなる。しかしこの戦争のそもそものきっかけとなったクレタ島に関しては、オスマン帝国が任命する高等弁務官のもとで島民の政府が自治を行うこととなった。その「高等弁務官」にはギリシア国王の三男が就任したし(註4)、島民の政府は議院内閣制に基づいて組織されることになったので、クレタ島はほぼ完全にオスマン帝国の支配から離れたという訳である。そしてこの島がギリシア領に組み込まれるのは1908年(註5)、そのことが国際的に承認されるのは1913年のことだが、そこまでは本稿の述べるところではない。

註4 初代のクレタ高等弁務官となったゲオルギオス王子は1890年に従兄弟のロシア皇太子ニコライと一緒に日本に来たことがある。彼らが滋賀県の大津を人力車に乗って通りかかった時に護衛の巡査津田三蔵に斬りつけられるという「大津事件」が起こったが、ゲオルギオスは人力車夫と供にステッキを振るって津田を撃退した。

註5 この時、クレタ島民政府の首班であったエレフセリオス・ヴェニゼロスがギリシア本国の首相となった。


                                  おわり

   参考文献

『戦争史 世界現代編1』 伊藤政之助著 戦争史刊行会 1942年
『近代ギリシァ史』 C・M・ウッドハウス著 西村六郎訳 みすず書房 1997年
『オスマン帝国の近代と海軍』 小松香織著 山川出版社 2004年
『ギリシア史』 桜井万里子編 山川出版社新版世界各国史17 2005年
「希土戦争(1897)」http://ww1.m78.com/topix-2/grecoturkowar1897.html
 

トップページに戻る