ビリー・ザ・キッド

 1859年ニューヨーク州うまれ。本名はウィリアム・ボニーともヘンリー・マカーティーともされるが定かでない。父親は病気で死んだとも南北戦争で死んだとも家族を捨てて夜逃げしたとも言われている。伝説では12歳の時に母親を侮辱した男を殺してアウトローとなったとされるが、実際には家を出たのが母が死んだ15歳の時、最初の殺人を犯したのが17歳の時であった。

 その後各地を放浪したビリーはニューメキシコ準州リンカーン郡に現れ、小牧場を経営するジョージ・コウという人物の家に居候させてもらうこととなった。ビリーはここで富裕な牧場主タンストールと出会い、翌年1月からそちらの牧場で働くこととなる。当時のリンカーン郡の開拓者たちはドラン派とマクスウィーン派の2派にわかれて争っていたが、78年2月、マクスウィーン派に属するタンストールが殺され、これをきっかけに世に言う「リンカーン郡戦争」が始った。

 3月、ビリーはタンストール殺しの犯人2人を襲撃して雇い主の仇をとったものの、以後数ヶ月に渡り両派の報復合戦が続き、多数の死傷者を出すに至った。7月15日、ドラン派はマクスウィーン派の皆殺しをはかり、40人のガンマンを集めて敵の本拠を包囲した。この時の銃撃戦では決着がつかなかったが、ドラン派には政治家司法関係者が味方についており、18日には大砲にガットリング・ガンまで携えた騎兵隊がやってきてマクスウィーン派を威嚇した。その日の夕刻、ドラン派は屋敷に火を放ち、マクスウィーンを殺して同派を壊滅させた。ビリーは命からがら脱出し、以後は牛泥棒をして生活を立てることになった。彼が「ビリー・ザ・キッド」のあだ名を用いるようになったのはこの頃からという。

 79年3月、ビリーはニューメキシコ準州知事のルー・ウォレスと極秘に会見し、説得された上で投降した。が、期待していた恩赦は受けられそうになく、6月には留置所を脱走した。ちなみにこの準州知事ルー・ウォレスは小説家として有名で、大作映画『ベン・ハー』の原作者でもある。

 80年11月、ビリーの親友だったこともあるパット・ギャレットがリンカーン郡の保安官に選出され、その頃ニューメキシコ準州における家畜泥棒の元締になっていたビリーの逮捕に乗り出してきた。その年のクリスマス・イブ、ギャレットはフォート・サムナーの近くでビリー一味を待ち伏せして1人を射殺し、3日後の早朝にはビリー本人の逮捕に成功した。これまでに数人を殺していたビリーは裁判で絞首刑を宣告され、リンカーン郡役所の最上階に監禁されることになった。しかしビリーはどこからか銃を手に入れて脱獄し、ここでメキシコに逃げてもよかったのだが、どういう訳か前回自分がギャレットにしてやられたフォート・サムナーに潜伏した。

 81年7月13日夜、助手2人を連れて町にやってきたギャレットは、ビリーの隠れ家をつきとめてそこに乗り込み、助手の姿を認めて玄関に出てきたかつての親友を隠れていた家具の陰から狙撃した。この時ビリー21歳、その短い生涯においてちょうど21人を殺したところだったという。

おわり

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