チャコ戦争

 パラグアイは1865〜70年の「パラグアイ戦争」に惨敗した後ながらく低迷し、ブラジル・アルゼンチンの政治的経済的影響下に置かれ領土内にはアルゼンチン軍の駐留を許していた。しかし79年にはアメリカ合衆国大統領の裁定によってアルゼンチン駐留軍が撤収、80年代にはブラジルが国内問題に忙しくなってパラグアイに対する影響力を低下させた。

 パラグアイは外国移民を積極的に受け入れて先の戦争で激減した人口の回復をはかり、資本の誘致にも努力した。20世紀に入る頃には代表的な政党として「自由党」と「コロラド党」が存在し(どちらも80年代の創設)、1904〜36年には自由党が政権を担当した。もっともそれは長期安定政権という訳ではなく任期を全うした大統領は2人だけであったが、農地改革や教育の普及、秘密投票の導入が行われ、経済的にも発展がみられるほどとなる。第一次世界大戦の後にはヨーロッパで用済みになった兵器が購入されて軍の増強にあてられた。

 こうしてパラグアイは未曾有の敗戦から立ち直っていった訳であるが、その北西の隣国ボリビアもまた、1879〜83年の「太平洋戦争」にてこちらはチリに敗れ、その打撃から抜け出す努力を続けていた。ボリビアは太平洋戦争の結果それまで太平洋岸に持っていた領土を奪われて内陸国になってしまっており、そこでパラグアイ国境のチャコ地方を押さえてそこからパラグアイ河(パラグアイ領の真ん中を通る河)を下って大西洋に出るルートを確保したいと考えた。チャコ地方は古くからボリビア・パラグアイ両国の係争地帯であり、1907年には戦争になりかけた。その時はアルゼンチンの調停による「ブエノスアイレス議定書」で衝突を回避して暫定国境線を画定したのだが、31年にボリビア大統領に就任したダニエル・サラマンカは積極的な対外政策を掲げることによる人気とりを狙い、ボリビア国内に利権を持つアメリカの石油会社がパラグアイ河に沿うパイプラインを建設したいと考えてサラマンカを後押しした。ボリビア領内では28年に油田が発見されており、それがチャコ地方まで広がっていると考えられた。

 パラグアイはチャコ地方に外国移民を誘致してボリビアの動きに対抗し、さらにイタリア製の砲艦2隻を河川艦隊用に購入した。ボリビアは自分もチャコ地方に要塞を築いていたのだが相手の砲艦購入に抗議して31年7月にパラグアイとの国交を断絶、32年6月15日にはパラグアイ側への武力侵攻を開始した。これが「チャコ戦争」である。戦力的には人口で3倍も優り資金も多いボリビアが優勢であり、開戦序盤で複数の要塞を占領した。が、ボリビア軍の兵士たちは戦場となったチャコ地方の酷暑に苦しめられた。単に暑いだけならまだ我慢出来るのだが……。ボリビア軍は戦車を多数もっていたのだが、車内が限度を超えて暑いので開閉部を全部開けて戦ったためそこに手榴弾を投げ込まれる有り様であったという。

 7月15日、パラグアイ軍が反撃に出て開戦時に占領されていたアントニオ・ロペス要塞を奪回、9月にはさらにボケロン要塞を奪回した。パラグアイ軍は数と兵器では劣っていたが戦術で勝っていた。翌33年7〜8月にはボリビア軍が総攻撃に出たがパラグアイ軍に打撃を与えるには至らない。9月にはまたパラグアイ軍が反撃に出て、12月にはカンポ・ビアにて大勝した。この時点で開戦してから1年と半年が過ぎており、かなりの長期戦になっているが、これは、特にパラグアイ軍の機械化が遅れていて進撃速度が遅かったからである。ゆるゆると進撃しつつ翌34年12月の「イレンダグエの戦い」にも大勝したパラグアイ軍はさらにパラピティ川にまで到達した。本来パラグアイ政府はそこから先についてはボリビア固有の領土と考えて分捕るつもりはなかったが、しかしこの時は勢いに乗ってそのまま川を渡り進撃を続行、翌35年4月にはチャラグア市を占領した。しかしそのあたりでパラグアイ軍の息がきれてきた。

 長引く戦争のため財政的に苦しくなっていたパラグアイ政府はこの年6月、アルゼンチンの仲介によりボリビアとの休戦協定に調印した。しかし正式の和平交渉はなかなかまとまらずこの後3年に渡って続くことになる。

 苛ついたパラグアイ軍部は36年2月クーデターを起こして政権を奪取した。しかしこの新政府も和平交渉に手間取り、それと平行して進めた労働者保護政策といった進歩的改革が保守派を怒らせたため37年8月には転覆した。ボリビアとの平和条約がなったのはそれからさらに1年近く経った38年7月のことである。パラグアイはボリビア側に一定の自由通行権を認めつつもチャコ地方において1907年のブエノスアイレス議定書による暫定国境とくらべて5万平方キロほど広い地域を獲得した。しかしそうやって苦労して得た地域には、戦前に期待されていた石油は出なかった。

 ともあれこの戦争による損害は、まずパラグアイ軍の捕虜になったボリビア兵が30万、その大部分は養いきれないため殺されたといわれている。パラグアイ側は戦死者3万6000、得たものが少なかった上に、その頃の世界恐慌の影響もあって経済的にも疲弊してしまったのであった。


                               おわり

   参考文献

『ラテンアメリカ現代史2』 中川文雄他著 山川出版社世界現代史34 1985年
『ラテン・アメリカ史2』 増田義郎編 山川出版社新版世界各国史26 2000年
「チャコ戦争」http://ww1.m78.com/topix-2/chaco%20war.html

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