ベルギー領コンゴ

          本稿は「コンゴ自由国」の続編です。


 かくして発足した「ベルギー領コンゴ」は植民地憲章(憲法)を制定し、行政機構の再編にとりかかった。コンゴ全土を4州(後に6州)に分割し、各部族の長を行政の末端に登用した。しかし首長たちは各自の部族の構成員に対する司法権を認められはしたが、具体的には投獄2週間もしくはムチ打ちという軽い刑罰しか扱うことが出来なかった。ベルギー政府はさらに黒人による商業活動の自由を認める等の改革を打ち出したが、しかしじきに始まった「第一次世界大戦」の序盤でベルギー本国がドイツ軍の占領下に置かれたため、改革は遅々として進まなくなった。

 とはいっても、本国が敗れたことで植民地の支配体制が揺らぐようなことは全然なかった。コンゴのベルギー公安軍は隣接するドイツ植民地のルワンダ・ブルンジ(ドイツ領東アフリカの西部)から攻め込んできたドイツ軍を撃退し、16年4月には逆に攻勢に出てルアンダ・ブルンジ全土を占領してしまった。公安軍はさらに別のドイツ植民地のカメルーンにも出兵したが、ベルギー植民地はそれらの作戦に26万人もの黒人を労務者として駆り出したという。ルアンダ・ブルンジは大戦終結後そのままベルギーの統治下に組み込まれてしまう。

 その後、コンゴでは鉱物資源の開発が進展(註1)し、本国からやってきた白人が居住する都市の建設が盛んになった。白人人口は自由国時代の3000人からやがて10万人にまで膨張する。もっともコンゴに住む白人の大多数は仕事で一時的に滞在しているだけで、永住を決めていたのは1割程度だったが、本国では植民地官吏の養成を専門とする植民地大学が開設され、コンゴの現地では主にカトリック系の学校が黒人を対象とする初等教育の普及に努力した(高等教育については後述する)。植民地官吏と初等教育に関してはベルギー領コンゴはアフリカ随一であったとされている。そして「第二次世界大戦」で再び本国がドイツ軍に占領された時にもコンゴ植民地はドイツ・イタリアへの抗戦を続け、イギリス軍によるイタリア領東アフリカ(エチオピア・エリトリアとソマリアの南部)攻撃(註2)にその兵力を提供したりした。

註1 自由国時代の主産品だった天然ゴムは合成ゴムの開発によってその重要性が低下した。

註2 当サイト内の「イタリアのアフリカ侵略」を参照のこと。


 二次大戦の終結後、ベルギー本国は復興のためにコンゴの資源を必要とした(註3)。1953年にはベルギー領コンゴは世界の工業用ダイヤモンドの70パーセント、ウラニウムの半分を産出するようになっていた。二次大戦前のコンゴの経済開発は多国籍の民間企業にまかされていて(註4)本国政府はほとんど口出ししなかったのだが、49年からは「コンゴ社会・経済10年計画」によって500億ベルギー・フランを投入する開発計画が着手された。具体的にはまず国際空港を始めとする交通網の整備が行われ、さらに工業の発展が急がれた。60年頃にはビールや靴やセメントといった工業生産についてアフリカでも有数のものとなる。

註3 ただし、ベルギーはドイツに占領された諸国の中では損害の少ない方であった。ドイツから解放された後のベルギーはコンゴからの収入だけでなく、(本国の)アントウェルペン港が米軍の補給基地となったおかげで大儲けした上に、政府の適切な経済政策のおかげで速やかに復興を成し遂げることが出来たのであった。

註4 鉱山労働者の調達も民間が行ったため、悪質なブローカーが黒人を苦しめた。


 さて、コンゴの黒人の間に民族主義の波が沸き上ってきたのは……話が前後するが……1920年代初頭からのことである。まず21年の春、シモン・キンバングという大工が「神の啓示を受けた」と称して病人の治療や死者の蘇生を行い、たちまち多くの信者を獲得した。「信者」というのは、キンバングは以前にプロテスタント(バプティスト)系の学校で教育を受けたことがあり、自分でキリスト教の教義を再解釈して独自の教会を建設したからである。キンバングの教会は日曜日ではなく水曜日を安息日に定めたため、彼の信徒の多い地域の農園や工場は水曜日は欠勤だらけという状態となって操業に支障を来した。さらにキンバングの信者の間では、「1921年10月21日に世界終末の日が来たって全ての白人を滅ぼすだろう」という予言が広まった。これは、当時のアメリカ合衆国の黒人たちが全世界の黒人の権利の向上を目指す運動を盛り上げていたことの影響と考えられている。危機感を抱いたベルギーは6月にキンバングを逮捕、しかしその現場で信徒たちが大騒ぎした隙に逃げられてしまった。その後の捜索が厳重を極めるのを見たキンバングは8月になって自首し、裁判で死刑を宣告された。彼は後に終身刑に減刑され、1951年になってようやく獄死した(註5)。ベルギー領コンゴでは他にも、「エホバの証人」系のムワナ・レサがキンバングと同じような予言を説いて弾圧されている。

註5 キンバングの教会は1950年代になって彼の末子によって復興され、現在ではコンゴで最大規模の教会となっている。


 そして、第二次世界大戦の後、大規模な投資・開発によって急速に膨張し出した都市部に居住する黒人たち(註6)は、次第次第に近代的な政治意識に目覚めるようになり、数々の政治結社を組織するに至ってきた。そこでベルギーは57年に主要都市における民主的選挙を導入して黒人の政治運動をかわそうとした。その程度で充分と考えていたのである。56年にベルギー人の大学教授がゆっくり段階的にコンゴを独立に導こうとの「コンゴ解放30年計画」を発表したが、ベルギー政府はそれすらも急進的すぎるとした。ベルギー政府はコンゴの資源や労働力を収奪するかわりに黒人にそれ相応の経済生活を保障してやるという考えでおり、黒人たちはそれに満足しているものと思い込んでいた。しかし実際にはその頃のコンゴは黒人による労働争議が頻発しており、もっと広いスパンでも世界の時代の流れはベルギー政府の理解を越えて進んできていた。

註6 いわゆる「リンガラ音楽」は彼らが生み出した文化である。


 1958年、ベルギー本国の首都ブリュッセルで開催された万国博覧会にコンゴの黒人が大勢招待され、アフリカの他の地域(他国の植民地)で独立運動が盛り上がってきていること、ベルギー本国の進歩的知識人が黒人の政治的権利の向上に意欲を持っていることを目の当たりにした。実はそれ以前のコンゴの黒人はヨーロッパに渡ることすら極めて困難であったのである。このとき万国博覧会を見学した黒人の中には7年後に大統領になって「コンゴ」を「ザイール」に改称するジョセフ・モブツもいた。

 58年10〜12月、コンゴに隣接するフランスの諸植民地が続々と限定的な独立を達成し、各々「自治共和国」を組織した。それらの諸国はまだ完全な主権を有していた訳ではなかったが、それでも、特にフランス領コンゴの自治共和国化はベルギー領コンゴの黒人たちを刺激するのに充分以上であった。フランス領コンゴの主要部族はベルギー領コンゴの首都レオポルドヴィルの付近に居住する人々と同じバ・コンゴ族であり、(フランス領コンゴの)首都ブラザヴィルはレオポルドヴィルのコンゴ河を挟んだ真向かいである。これでベルギー領は独立のどの字もないというのはあまりな話である。少し詳しく書くとそれらの自治共和国は外交・防衛・経済等をフランスと共有するという体裁をとっており、58年の時点で完全にそこから抜けたのはギニアだけであった(註7)。このギニアと、去る57年にイギリスから独立したガーナが本稿の主人公の1人パトリス・ルムンバの強力な味方となる。

註7 フランスはギニアの完全独立を認めるのと引き換えに一切の援助を打ち切り、それまで植民地行政官として働いていた白人たちも一切合切をフランス本国に持ち帰った(書類どころか事務机まで持ち去ったという)。という訳でギニアの行政・経済は独立の瞬間に麻痺状態となったため、初代大統領のセク・トゥーレはソ連と結ぶことでこの難局を切り抜けようとした。ちなみにセク・トゥーレは独立時に「隷属の下での豊かさよりも、自由のもとでの貧困を選びます」という名文句を吐いたことで知られるが、実際には独裁的人物で、架空のクーデターをでっちあげて反対派を粛清するようなことをやっている。


 ルムンバは1925年ベルギー領コンゴのカサイ州北東部に生まれ、中等教育を受けた後は東部州のスタンレーヴィルの郵便局員の立場から組合運動を組織、その後ビール会社の販売主任をつとめたりしながら58年12月にガーナ大統領エンクルマが開催した「全アフリカ人民会議」にコンゴ代表として出席した。この会議ではいまだヨーロッパ諸国の植民地支配下にある黒人たちに蹶起が呼びかけられ、その熱気にあてられたルムンバは帰国後コンゴの独立運動をいやがうえにも盛り上げることになる。

 しかしベルギー領コンゴはもともと各地に散在する部族ごとの独立性が強く、諸部族が連合してベルギーに対抗することが出来なかった。58年末頃のコンゴには、次に述べる3つの有力な独立運動が存在した(他にもたくさんあります)。

 まず「アバコ党」。元教員のジョセフ・カサブブに率いられるこの党はコンゴ全土ではなく西部のバ・コンゴ族の居住する地域のみの独立を指向している。彼らバ・コンゴ族は15世紀頃に強力な王国を築いていたことがある。党首カサブブは上の方で紹介した「コンゴ解放30年計画」が発表された時、「30年はとうていまてない」として黒人の政治的権利・集会・思想・出版の自由を訴え、57年にコンゴで初めて民主的な自治体選挙が実施された時にアバコ党員多数を首都レオポルドヴィルの市議会に当選させ、自身は58年にデンダール市長に当選している。

 次に「コナカ党」。指導者はバ・ルンダ族のモイゼ・チョンベ。ベルギー植民地の首都レオポルドヴィルから最も遠隔に位置するカタンガ州(コンゴの南端)諸部族の連合体である。レオポルドヴィル(ちなみにアバコ党の縄張り)は首都としては西に偏りすぎており、部族も違うことからカタンガからみれば外国のように思われたという。党組織に黒人だけでなく白人入植者も加わっているのがその特色である。アバコ党のカサブブがバ・コンゴ族の伝統と文化に深い誇りを抱き、ベルギーによる植民地支配は自分たちの文化に対する侮辱であると考えていたのに対し、コナカ党のチョンベは比較的にベルギーとの友好関係を重視しているという違いがあった。

 そして、「MNC(コンゴ国民運動)」。指導者はまず例のルムンバ、それからアルバート・カロンジ等がいた。アバコ党もコナカ党も基本的に部族政党として、独立を勝ち取った後の国体は地方分権の連邦制(もしくはバラバラの独立)が望ましいと唱えていた(註8)が、このMNCは部族・地方といったレベルを超越した、コンゴ全土を包括して支配する中央集権的政権の設立を訴えていた。強烈なカリスマを持つ党首ルムンバは他のアフリカ諸国の政治家たちの受けがよく、コンゴ国内でも都市部のホワイトカラー層(事務職や販売職など、製造に携わらない労働者のこと)に強く支持されていた(ルムンバは語学の才能があり、各地の部族語を話すことが出来た)が、同時に独裁的な性格から党の内部に対立の火種を抱えていた。特にアルバート・カロンジの派がルムンバに対して反抗的であり、しかもこの2人は同じ州(カサイ州)の出身であった(カロンジは南部、ルムンバは北部の出)から、同州ではこの対立に伝統的な部族対立が絡んで大規模な流血沙汰が起こるような有り様であった。

註8 コナカ党はかなり明確に地元カタンガ州のみの独立を指向していた。アバコ党も最初はそうであったが、やがて考えを変え、各地方に大幅な自治を認めた上での連邦制が望ましいと主張するようになった(その方が他党と連繋してベルギーに対抗しやすいからである)。


 これらの諸政党は、大衆の支持をより強く掴むためにより急進的な言動をとる傾向があった。そもそも独立運動の指導者たちの多くは高等教育を受けておらず、「独立すれば給料を2倍3倍にする」「白人の女を買えるようにする」とか吹聴する者もいたといい、庶民の中には、「独立」という名の神様が汽車にのってやってくる、と信じ込んでいた者もいたという(石坂欣二著『コンゴ』)。上の方で説明したとおりコンゴにおいては教会による初等教育は盛んであったのだが、それに依存しすぎていて世俗の(教会と無関係の)学校は46年まで存在せず、教会も植民地政府も中等以上の黒人教育には関心が薄かった。黒人の大学進学が認められたのは55年のことである。

 イギリスの植民地では少数の黒人に行政や法律に関する高等教育を施して植民地支配の道具に仕立て、将来に自治を行わせるための経験を積ませる「経験主義」という政策が行われており、フランスの植民地では黒人にフランス的な教養を教え込んでフランス人に同化させる「同化主義」という政策を採用していた。ただし、イギリスのいう「自治」とはイギリスの利益を損なわない範囲のものであるべきと考えられていたし、フランス植民地でも、実際にフランスに同化したと認められフランス市民権を授与された「エヴオリュエ(開化民)」は少数にすぎず、大多数は「アンディジェナ(原住民)」と呼ばれて差別され続けた。これらに対してベルギーは、黒人全体の学力を少しづつ(物凄くゆっくり)底上げしていくのが望ましいと考えていた。ベルギーは基本的に黒人のことを子供とみなし、子供に必要な程度の教育しか与えなかったのである。こういう政策を「父権主義」と呼んでいる。『コンゴ独立史』によればコンゴの黒人教育は59年の時点で小学生146万に対して中学生はわずか3万弱(しかも小学生の半分は2年で中退した)、同じ時期の医者や薬剤師は全員ベルギー人で黒人は助手や看護士のみ(ただし病院の1人あたりの設備はアフリカ随一であった)、大学卒業者は60年6月の時点でたったの21人(註9)、もちろん弁護士も裁判官もおらず(中学教師すらいなかったという)、行政職も責任ある仕事はベルギー人に独占されていた。しかも、都市部に住み政治意識を持つ「開化民」は黒人全体の中では実はまだそれほどの数ではなく、黒人人口の8割はまだ田舎で通貨経済以前の生活を続けていた(コンゴ独立史)。もうひとつ、政治意識に絡む重要な問題として……コンゴが植民地化される以前に普通に頻繁に行われていた部族間の戦争はベルギーの強権によって抑えられていたが、既にMNCの説明で触れた話で分かるようにその力にも弛みが生じており、やがては一気に爆発することになる。

註9 コンゴには大学が2つあったのだが、それでこの数字である。ベルギーは「白人と同等の生活水準に達していない原住民に大学教育を施すことは、不満分子と煽動者の育成を促すだけである」と考えていた(http://www.inosin.com/page009.html#1−2)。


 その一方でベルギー人の入植者は、57年まで参政権を持たず植民地独自の(白人の)政党も政治家もなかった(註10)ため、黒人の独立運動に対する反対勢力にはなりえなかった。これは、自由国時代にベルギー政府が全く関与しない状態で国王に好き勝手されていたことへの反省から、ベルギー領コンゴでは本国の議会及び植民地評議会が強大な権限を独占して、現地の植民者にほとんど政治的権利を与えない方針であったからである。

註10 白人がコンゴに渡るのには資格が必要で、貧乏人が一旗揚げるために入植するということはなかった。


 そして1959年1月4日、ベルギー領コンゴの首都レオポルドヴィルにて、植民地政府がアバコ党大会の開催を禁止したことから大規模な暴動が発生した。本国からの軍隊の投入も考えられたが、本国の労働組合や左翼政党(ベルギー社会党)はコンゴ人民を支持し、ベルギー憲法にある「軍隊を植民地に投入する場合には、志願者に限る」という条文を楯にとって、ベルギー本国軍の兵士たちにコンゴ派兵に参加しないよう呼びかけた。一般のベルギー国民はコンゴに利害も興味も持っておらず、独立運動を無理に弾圧して泥沼の植民地戦争に突入する可能性を警戒した。ちょうどこの頃ベルギーの隣国のフランスがアルジェリア植民地の独立戦争に手を焼いていた(註11)からである。暴動に関しては公安軍によって鎮圧され(公式発表では死者49人、非公式の推定では200人)、アバコ党幹部の多くが拘束、田舎に追放されたが、かえって追放先での勢力伸張に成功した。アバコ党は税金不払い運動を展開し、ベルギーの出先機関はこれを抑えられなくなってきた。

註11 この頃のフランスは植民地の大半に独立を与えつつあったが、最重要植民地アルジェリアの独立を認めるか否かについてはぐちゃぐちゃに揉めていた。詳しくは当サイト内の「ド・ゴール伝」を参照のこと。


 こうなってはしかたがない。ベルギー政府(註12)はコンゴの独立運動諸派を集める「円卓会議」の開催を告知した。ベルギー政府はコンゴの主要3派の意見が一致していないことをよく知っており、そこに付け込む隙があると考えた。もちろんいまさら独立は駄目だなんていえる段階ではないので、諸派の意見の食い違いを調停してやることで会議をリードするのが得策と思ったのである(コンゴ独立史)。ところが60年1月24日に始まった円卓会議では、なんと諸派は結束してベルギーに対峙してきた。特に、親ベルギー的だと思っていたコナカ党が他の党と連合したのはベルギーには驚きであった(コナカ党はあくまで独立を果たした上でベルギーと友好関係を結びたいと思っていたのであって、もし円卓会議の席上で他の党と争ったりしたら独立出来なくなると考えたらしい)。ともあれベルギー側の思惑は完全に見破られていた。本国の軍隊は動かせず、国連に調停してもらうのはプライドが許さず、ベルギー政府はやむなく独立運動諸派の要求を全て飲み、半年後のコンゴ独立を約束した。ベルギーとしては、強い態度に出られない以上はなるべく相手の要求(早期独立)を受け入れてやった上で友好関係(黒人は依存心が強いから独立後もベルギー無しではやっていけないと考えた)を結びたいとの思惑であったのだが、独立まで半年とはあまりにも短い準備期間であった。

註12 社会キリスト教党(親国王でカトリックの農民の党)と自由党(保守右翼)の連立政権。当時のベルギー政界はこの2党と社会党(反国王で反カトリックの党)が鼎立していた。ちなみに「親国王」とか「反国王」とかいうのは、大戦中にベルギー政府がイギリスに逃れて対ドイツ戦を継続していたのに対して当時の国王レオポルド3世はドイツ軍の占領下にとどまってヒトラー総統と会見したりしていたため、戦後その責任問題をめぐってかなり揉めていたからである。結局レオポルド3世は王位から退き、長男のボードワンが即位することとなった。コンゴに話を戻せば、レオポルド3世は皇太子時代の1926年にコンゴを訪れて黒人たちの過酷な扱いを目の当たりにし、本国政府に警告を発したことがある(http://www.inosin.com/page009.html#1−2)。


 実は独立運動諸派の方も、ベルギーがあまりに簡単に要求を飲んだのに驚いてしまったのだが、とにかく独立の期日は6月30日と決定され、ベルギー政府はこれを覆さないとの約束が出来てしまった以上、準備不足でもなんでも期日通りに独立しなければ「独立派が独立を延期した」ことになってしまう。独立運動諸派は民衆に「早期独立」を説くことで勢力を伸ばしてきたのだ……。「我々はみんな丁度、長い間欲しくて欲しくて仕方がなかったが、それを手に入れることができようなんて夢にも信じられなかったプレゼントを貰った人のような気持ちなのだ」。

 独立後の政権を決める総選挙は5月15〜20日に行われた。選挙戦は円卓会議に参加した諸派の代表たちが帰国した時点で始まった。独立運動の指導者たちが円卓会議で見せた結束はたちまち雲散霧消し、激しい選挙戦のせいで法律や秩序を維持するのも困難な地域が出た(しかしその一方で、部族政党の影響力が浸透しきっているため選挙運動の必要もなかった地域もある)。「やれ選挙だ、やれ独立だ、やれ権限だ、といった調子で次から次へと息つく暇もなく押し寄せてくるのに、それが本当にどういうことなのか知っている者は、ほんの一握りの人間にすぎないといった有り様だったのだ。残りの連中ときたら、ただむやみに興奮し、絶対に置いてきぼりをくわされまいと堅い決意を固めていただけだった(コンゴ独立史)」。

 コンゴ在住のベルギー人の中には先行きに不安を感じて本国に帰る者が現れ、コンゴ独立に好意的だったベルギー社会党もこの状況に苦慮するようになってきた。学のない黒人だけで行政機構を仕切るのが不可能なことは最初からわかっていたため、ベルギー政府はコンゴ在住のベルギー人官吏に対して「自身ではどうにもならない理由で」帰国するなら本国での再就職を保証するとした上で、それ以外の理由で帰国するか否かの選択権は与えないとした(註13)。コンゴからはとりあえず300人からなる黒人の官僚候補生がベルギー本国に研修に向かったが、その第1陣が帰国するのは8月という見込みであった。

註13 手元の資料でははっきりしないが、官吏でも退職すれば自由に帰国出来たと思う。しかしその場合は再就職の保証がないという訳である。


 5月29日の開票の結果、第1党はMNCとなったが、単独で政権を持てる程ではなかったことからアバコ党・コナカ党その他あわせてなんと10党で連立政権を組織することにした。MNC代表のルムンバがなるべく諸党派の代表をいれた「国民政府」の樹立を望んだからである。そして首相はもちろんルムンバ、大統領はアバコ党のカサブブが選ばれた(註14)。政治手腕は前者が上だが、このコンビでうまく行くかどうかは未知数である。彼等の政府が発足したのは6月30日に予定されている独立式典の1週間前である。閣僚は、ベルギー側は10人程度だろうと予想していたが蓋を開ければ23人という大所帯になってしまい、各大臣は自分の職掌も把握出来ないという有り様であった。国家体制は、大枠では中央集権制であるが、各州が独自の州政府と州議会を持つ、という甚だ曖昧なものであった。実際に行政を仕切る高級官僚たちは当分の間はベルギー人が主力で、数える程しかいない黒人の大卒者は各自の専門分野よりも出身地や部族によって(同郷の閣僚の下に)配置が決まったりしたという(コンゴ独立史)。

註14 大統領は神聖にして不可侵だが、国務大臣の副署がなければ法的行為をなし得ない。コンゴにおける大統領と首相の関係は、ベルギーにおける国王と首相の関係を模したものであった。


 それから、コナカ党首のチョンベはあえて総選挙には出馬せず、地元カタンガ州の地方選挙に出てそちらで当選、カタンガ州首相となった。このことの意味はすぐに分かるであろう。カタンガ州は人口こそ175万と少数だが、銅やコバルト、ウラン(註15)などの天然資源に恵まれ、ここだけでコンゴ全体の外国貿易の40〜50パーセント、歳入の40パーセントを占めていた。ただ、コナカ党の勢力が強かったのはカタンガ州の南部(主にバ・ルンダ族)だけで、北部では「バルバカ党」「フェデカ党」「アトカー党」といった中小の部族政党がジェイソン・センドゥエ(バ・ルバ族)の指導下に「バルバカ・カルテル」を組織して反コナカ・親MNCの動きを見せていた。カタンガ州議会選挙ではコナカ党25議席、バルバカ・カルテル23議席となった。

註15 カタンガ産出のウランは第二次世界大戦の際に日本に投下された原子爆弾に使用されている。


 MNCのルムンバ派とカロンジ派が激烈な選挙戦を展開したカサイ州の地方選挙では後者が第1党となったが、ルムンバ派は中小の友党と結ぶことで州政府を掌握した。この結果に憤懣やるかたないカロンジは州の南部に独自の州政府を樹立すると言い立てた。カロンジはカタンガ州に赴いてコナカ党への協力を申し出、ルムンバはバルバカ・カルテルと同盟した。


          「コンゴ独立」に続く。

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