ルムンバ暗殺

          本稿は「コンゴの『憲政上の危機』」の続編です。

 カサブブは既に述べた通り委員会内閣に協調していたが、ルムンバはあくまで妥協を嫌っていた。モブツはルムンバの復権を恐れ、彼の逮捕を望むようになるが、ルムンバのいる首相官邸は国連軍の兵士によって警護されており、国連サイドは大臣や議員を逮捕するためには基本法(コンゴ憲法)に基づく議会の同意が必要であるとしてルムンバの身柄を守った。議会はまだ停止したままなのだから、こうなると手出し不能である。国連によるカタンガや委員会内閣のベルギー顧問への非難は時間の経過とともに厳しくなり、これに怒ったベルギー政府では国連機構からの脱退を示唆する閣僚も現れた。アメリカがベルギーの肩を持ち、国連の態度は受け入れられないとの公式声明を発する。ルムンバは国連の動きについて「真理と事実に一致する」と声明し、さらに新聞に「私の休暇は終わったのだ」というコメントを出した。ところが、肝心の国連の方からまた風向きが変わってくる。

 ちょうどその頃、国連にブラザヴィル・コンゴをはじめとする旧フランス植民地の諸国が大挙加盟してきた。前に註で説明した通りこれらの諸国は独立後もフランスに依存する傾向が強く、数年前に早々と独立していたギニアと違ってルムンバに同情を示さなかった。11ヶ国からなるこのグループは筆頭株のブラザヴィル・コンゴの名をとって「ブラザヴィル・グループ」と呼ばれ、これからの国際社会において無視できない勢力を持つことが予測された。

 これに対し、積極的にルムンバ支持を唱えるグループとしては、お馴染みのギニア・ガーナ・アラブ連合、それからインド・マリ・モロッコ・セイロン・インドネシアの計8ヶ国からなる「アジアアフリカ・グループ」が存在した。ギニアはともかくマリとモロッコという旧フランス植民地の国が名を連ねているのは、マリは独立後は反フランスを打ち出してギニアと仲良くしており(註1)、モロッコは国内世論が親ルムンバだったのに配慮したのと、隣国のモーリタニアとの間に抱えていた領土問題をインドやインドネシアを味方につけることで有利に解決したいという思惑があったかららしい(コンゴ独立史)。それから、アジアアフリカ・グループはコンゴに展開する国連軍1万7000のうち8000を提供していた(註2)が、残りの人員の大半を受け持っていたのがチュニジア・スーダン・エチオピア・リベリア・リビア・ナイジェリア・ソマリア・トーゴの8ヶ国で、これらの国はあまり旗色を鮮明にせず、カタンガに対しては厳しかった(その点はアジアアフリカ・グループと一致)がルムンバ問題に深入りするのは望まなかった。本稿ではこれらの国のことを「穏健派グループ」と表記する。

註1 マリは独立当初は西隣のセネガルと連邦を組んでいた。しかし、アフリカのフランス植民地としては最も古い歴史を持ち優遇されていたセネガル(都市部の住民は早くも1833年にフランス市民権を付与された)とそのような背景を持たないマリ(市民権はもらえず「従属民」という扱いを受けた)はすぐに意見があわなくなって分裂してしまい、前者はブラザヴィル・グループに仲間入り、後者はアジアアフリカ・グループに取り込まれたのであった。

註2 正確に言うと、この時点でこのグループに属する国の全てが国連軍に兵力を送っていた訳ではない。インドの派兵はもう少し後。

 そして国連の議場では9月上旬以来、カサブブの送った代表とルムンバの送った代表が並立していてお互いの正統性を主張していた。この問題の審査は12月にやることになっていたのだが、親ルムンバ筆頭のギニアが、それまでの間はルムンバ代表を席につけるのが法(国連総会議事手続法規則第29条)的に正しいと主張した。アジアアフリカ・グループとソ連がこれに同調したがアメリカは反発した。それからしばらく時間が経つと、ギニアの主張には法的に無理があるらしいことがわかってきたため、この件については討議を無期限に延期する(コンゴ情勢が落ち着くのを待つ)ということになった。ところが、ここでギニアの主張が引っ込んだのに自信を持ったアメリカが、カサブブ代表を席につけてしまえとの動議を提出した。これにブラザヴィル・グループが同調する。その結果、11月22日の総会において、53対24(棄権19)でカサブブ派の正統性が決議されてしまった。それまでルムンバに同情的だった国、たとえばメキシコが土壇場になってカサブブ支持に乗り換えるという動きを見せており、これについてはアメリカの圧力があったのだと噂された(コンゴ独立史)。こういう状況下において党派を鮮明にしてしまうのを怖がって棄権した国も多かったようである。

 11月27日の夜、カサブブの勝利の祝賀会が行われているレオポルドヴィルからルムンバが抜け出した。先行きに不安が募ってきたので、支持者の多い東部州のスタンレーヴィルに逃れて新政府を樹立しようというのである。また、しばらく前からスイスに病気治療に行っていたルムンバの娘がこの月の18日に亡くなり、スタンレーヴィルに埋葬されることになったため、これに立ち会いたいという動機もあった。ルムンバの官邸を護衛していた国連軍はこういう場合の措置を指示されておらず、何もしなかった。その国連軍を遠巻きにしていたコンゴ国軍部隊(モブツの部下たち)は数が少なかったうえに組織が滅茶苦茶になっていて、やっぱり何もしなかった(コンゴ独立史)。国軍部隊が事態に気づいたのは翌日の午後であったという。

 ところがルムンバは12月1日になって、レオポルドヴィルから130キロほどの所で国軍部隊に逮捕されてしまった。道を急ぐべきだった(目的地のスタンレーヴィルまでの行程の1割もきていなかった)のに、途中の村々で車をとめては演説をぶとうとしたせいで捕まってしまったのだという。そこから飛行機で首都に連れ戻されるまでの間にかなりボコボコにされたというルムンバはシスビル陸軍兵舎の監獄にぶち込まれ、報告を受けたモブツはシャンパンでお祝いした。

 ……実はルムンバの処遇については、アメリカがモブツの背後で暗躍していた。アメリカ政府がルムンバを狂信的共産主義者であると決めつけていたことは既に述べた通りである。ここで時間を遡り、フリーマントル著『CIA』に依拠してアメリカの動きを追ってみたい。

 アメリカ政府がルムンバを疑うようになったのは7月に彼がワシントンを訪問した時からのことで、8月18日にはCIAのコンゴ支局長ローレンス・デブリンがルムンバを「アカ」もしくは「自分の安定勢力を育成するためにアカ戦術を用いている」との判断を本国に発信し、翌日にはルムンバ除去のための工作を認可されている。それと同日に(アメリカの)ロードアイランド州ニューポートで開かれた会議に出席したアイゼンハワー大統領がルムンバ暗殺を命じたという会議参加者の証言もある。その会議の公式記録にはそのような発言はのっていないともいうのだが、しかしアイゼンハワーが「暗殺」とまではいかなくても「非常に直截な行動の必要を痛感」していたことは他の会議の議事録で確認されている。CIAの現場責任者であるデブリンは8月24日、というからまだ「憲政上の危機」が始まる前に、まずカサブブにルムンバ暗殺を勧めたが、拒否された。

 そして「憲政上の危機」の最中の9月13日、レオポルドヴィルに出張していたCIAアフリカ部長ブロンソン・ツイーディが「ルムンバの才幹、ダイナミズムたるや、その地歩が半ば失われたように見えながら、そのつど失地回復をはかるうえでの決定的な要素となっているように思われる。換言すれば、ルムンバは土壇場でも民衆を動かせる主張を披瀝し、状況を有利に急転させうる力量を持つということだ」と本国に打電し、その翌日にはデブリンも「唯一の解決法は1日も早く彼(ルムンバ)を除去することにあり」と打電した。そして国連が議会の再開をはかるようになるとデブリンは「それは恐らくルムンバを再び権力の座につけるだろう」との警告を発し、その場合にはソ連の影響力が回復するものと危惧された。ルムンバに手を焼くカサブブに変わって政権を握ったモブツのクーデター(9月14日)をCIAが支援したらしいことは既に述べた。モブツはコンゴが独立する前はベルギーでルムンバの代理人をつとめていたが、その頃からCIAと接触していたという(http://www.inosin.com/page020.html)。

 CIAは猛毒を扱う生化学博士シドニー・ゴットリーブや、フリーランスの暗殺者QJウィンとWIローグをコンゴに送り込み、国連軍の警護下にある首相官邸からルムンバを誘き出す工作にとりかかった。そして既に述べた通りルムンバは11月27日夜に官邸を抜け出してスタンレーヴィルに向かう訳なのだが、この行動にどの程度CIAの工作が絡んでいたかははっきりしない。その脱出劇より2週間前の時点でCIAが「脱出の際は投入しうる若干の“資産”を用意し、また若干の行動計画を検討しつつあり」と報告したことだけが分かっている。

 そして、CIAは暗殺者の1人QJウィンをスタンレーヴィルに送ろうとしたのだが、ルムンバは目的地に行き着く前にモブツの配下の国軍部隊に捕まってしまった。この時ブラザヴィル・コンゴ政府がルムンバ追跡用の低空飛行用航空機を提供していたともいう(コンゴ独立史)。逮捕現場の近くにいた国連軍ガーナ部隊がルムンバを救出しようとしたが、国連の上部から「絶対に介入するな」という厳命が出た(コンゴ独立史)。

 ハマーショルドは、ルムンバがそれまで国連軍に守られていた首相官邸から自分の意思で抜け出してしまった以上、コンゴ当局(モブツと委員会内閣)に対しては法律に基づく行動を求めるしかない、という意味のコメントを出すにとどまった。この弱腰に苛立ったアジアアフリカ・グループは「国連軍から自国部隊を引き上げる」と言い出した。国連軍の戦闘部隊は12月5日現在で1万7500名を数えていたが、これは植民地時代の公安軍の人員より8000人も少なく、しかも広範囲に分散配備されていたことから、緊急時にいまいち頼りにならなかった。それがさらに減ったら大変である。しかしハマーショルドはあくまで説得と勧告のみで問題を解決すべきと唱え、12月20日の国連総会では結局なにも決めることが出来なかった。そして、アジアアフリカ・グループのうちギニア・アラブ連合・モロッコ・インドネシア、それから(これはアジアアフリカ・グループではないが)ユーゴスヴィアの5ヶ国は派遣部隊の引き上げを実施してしまった。ハマーショルドは引き上げ云々は駆け引き上のハッタリだと思っていた(「憲政上の危機」と国連)のだが、本当に6000人からの兵員が出て行ってしまったのである。

 その頃、ルムンバが行こうとして行けなかった東部州のスタンレーヴィルにはルムンバ派の勢力が続々と結集していた。彼らは現地在住のベルギー人を逮捕、その一部の人を手酷く暴行し、ルムンバを釈放しなければベルギー人を殺すこともあり得ると言い立てた(コンゴ独立史)。彼らは12月12日には旧ルムンバ政府の副首相であったアントワーヌ・ギゼンガを首班とする新政府の樹立を宣言する。この政府はコンゴの中央政府を名乗り、約5000の軍隊を編成した。この軍隊は全て黒人で白人は1人もおらず、モブツがクーデターを起こす前に国軍の最高司令官をつとめていたルンドラ准将によって指揮されることとなった。本稿では以降、ギゼンガの率いるルムンバ派政権を「スタンレーヴィル政府」、モブツと委員会内閣の派を「レオポルドヴィル政府」、と呼ぶ。スタンレーヴィル政府はソ連とその衛星国、さらにアラブ連合の援助を受けた(援助で貰った金で軍隊を養った)。ギニアやガーナといったアジアアフリカグループの国々もギゼンガに支持を寄せてくる。スタンレーヴィル政府軍はクリスマスに東部州の隣のキブ州に進撃してこれを制圧した。

 レオポルドヴィル政府はスタンレーヴィル政府を武力で鎮圧する自信がなく、せいぜい交通路を封鎖するにとどまった。カタンガ・南カサイと相次ぐ分離独立騒ぎで地方からレオポルドヴィルへの徴税機構が崩壊しているのに公務員の給料は(少なくとも帳簿の上では)増額されており、ここにきてさらに東部州に叛かれたことで経済問題がさらに悲観的なものとなった。しかも、そんな状態にもかかわらずスタンレーヴィル政府はレオポルドヴィルの中央銀行から金を引き出すことが出来たという(コンゴ独立史)からもう無茶苦茶である。

 レオポルドヴィル政府においてはさらに内部対立が発生した。モブツはクーデターの際に停止した議会について、年明けには再開させると明言していた。が、時間が経つにつれて彼はその約束を守る気がなくなってきた。対してカサブブの支持母体であるアバコ党は議会の再開に向けてやる気満々になっており、国連も相変わらず議会の再開(註3)を求めていた。それについて、CIAが不安がった。委員会内閣がまるで使えないことも相俟って、もし議会が再開した場合、有能な煽動政治家であるルムンバ……獄中にあるとはいえ……の勢力(とそのバックにいるソ連)が一挙に大躍進するのではないかと恐怖したのである(フリーマントル著『CIA』)。

註3 その「議会」というのは、レオポルドヴィルのみならずコンゴの全党派が参加する議会である。


 ただカタンガ問題に関しては、最も強硬な反カタンガ論者であったルムンバの失脚によってレオポルドヴィル政府とチョンベとの話し合いの道が開けてきた。ブラザヴィル・コンゴがその間を取り持とうとしたし、レオポルドヴィル政府としては財政再建のためにも資源豊富なカタンガと復縁出来ればそれにこしたことはない。そしてブラザヴィルで行われた話し合いは、残念ながらうまくいかなかった。チョンベは強大な自治権の確保にこだわっていたし、この話し合いのホスト役のブラザヴィル・コンゴ大統領ユールーが「ブラザヴィル・グルーブの諸国を説得してカタンガ政府を正式承認させるから、カタンガはその謝礼としてブラザヴィル・コンゴ国内でのダムの建設に協力してくれ」とか言い出してチョンベにゴマをすり、そういうやりとりを見たカサブブが腹を立てるというひとコマがあったという(コンゴ独立史)。それにブラザヴィル・グループの他の国はユールーの話に乗らず、純粋な調停やコンゴの全党派による話し合いが望ましいとの無難な主張をするにとどまった。

 その間、カタンガ政府はスタンレーヴィル軍やレオポルドヴィル軍の侵攻に備えるための足固めを急いでいた。委員会内閣が素人仕事だったのに対してカタンガは最初からベルギー人の全面的な協力を得ていた(大臣秘書官13人のうち9人がベルギー人)のは幸いだった。しかし、コンゴの諸勢力のうちでカタンガと協力関係にあるのはカロンジの南カサイ(カタンガ憲兵隊の援助で約2000名の軍隊を編成した)だけ。こんな状態をいつまでも続けていられる筈もない。それに、だいぶ前に触れたことだが、カタンガの諸部族は全部結束してチョンベ政権を支持していた訳では全くなかった。特に北部カタンガ(チョンベ派と反チョンベ派が入り交じって暮らしていた)ではバ・ルバ族の一部が8月頃から反乱を起こしてチョンベ派の族長たちを殺戮し、しかもこれがルムンバ派との連繋を打ち出していた。

 バ・ルバ族の兵士たちは麻薬てハイになり(アフリカ傭兵作戦)、手足切断とか生きたまま焼くとかの残虐行為を繰り広げた。9月頃にはバ・ルバ族はカタンガ北部をほぼ制圧し、「北部カタンガ共和国」を設立した。指導者はジェイソン・センドウェである。無論チョンベはこれを潰したがったのだが、このような状況を憂慮した国連は10月、チョンベと話し合った上でカタンガ北部にとりあえず2ヶ所の中立地帯を設定し、その内部では国連軍が法と秩序の維持に責任を持つからカタンガ憲兵隊は手出しをしないという取り決めを行った。しかし中立地帯ではその後も緊張が続いたため国連は治安維持という名目でセンドウェにパトロールをさせ、その措置を聞いたチョンベと国連の仲がますます悪化した。

 ただ、実のところ北部カタンガには大した資源はない(せいぜい錫を産出する程度)ので、チョンベとしては南部カタンガだけしっかり押さえるという方針でもよかったのだが、スタンレーヴィル軍やレオポルドヴィル軍が北部カタンガを基地化して南部に攻め込んでくるかもしれないという危惧があり、ここは何としてでも制圧しておく必要性が感じられた。

 という訳でカタンガ政府は戦力増強のため、「白人傭兵」の雇用に動き出した。給与は士官で月250ポンド、下士官で180ポンド、兵卒で70〜120ポンド、それ以外に各種手当がつく。条件は身体頑健で軍隊経験があること、つまり即戦力である。まずは南アフリカや中央アフリカ連邦(註4)の白人に声をかける。それらは少数の白人が多数の黒人を差別的に支配する国であり、白人を優遇するカタンガに同情的であった。

註4 中央アフリカ連邦とは現在のジンバブエ・ザンビア・マラウイからなる連邦(53年に結成)で、イギリスの派遣する総督の下で限定的な主権を行使する半独立国であった。詳しくは当サイト内の「ローデシア」を参照のこと。ここと南アフリカは白人入植者が黒人を抑圧的に支配していた。


 カタンガ憲兵隊がベルギー人の士官・下士官が黒人の兵士を指導・指揮する組織であったのに対し、南アフリカ・中央アフリカで集められた白人傭兵は言語の問題(コンゴはフランス語圏(註5)だが南アフリカ・中央アフリカは英語圏)から白人のみの部隊を(カタンガ憲兵隊とは全く別個に)編成することになった。これが総勢約200人からなる「インターナショナル・カンパニー」、別名「白人軍団」である。映画や小説で描かれる「傭兵部隊」は、基本的にこのカタンガの英語傭兵をモチーフとしている。後にコンゴ全土を暴れ回って「最強の傭兵部隊」と呼ばれる「ワイルド・ギース」の隊長となるマイク・ホアーがコンゴに現れたのはこの頃である。ちなみに、第二次世界大戦後の世界で傭兵の存在が知られるようになったのはこの時からだが、インターナショナル・カンパニーはまだ企業的な組織ではなく、たとえばマイク・ホアーの隊では何か揉め事が起こっても指揮官のうろ覚えの軍法で対処していたという。

註5 ベルギーはゲルマン系とラテン系の混合国家であり、フランス語・オランダ語・ワロン語の3つの主要言語が用いられている。その影響で現在のコンゴ民主共和国ではフランス語が公用語となっている。


 その一方で、ベルギーにおいてもベルギー軍OBを雇い入れるための募集事務所が開設された。これはベルギー国防省の支援によるもの(アフリカ傭兵作戦)で、ベルギー政府はこの動きを口先だけ非難した。それどころかベルギー人傭兵の給料はベルギー政府が払っていたという(アフリカ傭兵作戦)。もとからコンゴに住んでいたベルギー民間人の身分から傭兵になった者もいた。彼ら白人傭兵をパイロットとして用いる「カタンガ空軍」も整備されるに至る。

 カタンガ政府はさらにイギリスやアメリカの右翼勢力に協力を頼んでまわった。アメリカはモブツに期待していたことからチョンベの話にはいまいち乗ってこなかったが、イギリスの保守党右派は相当にチョンベに入れ込んでいた。彼らは中央アフリカ連邦や南アフリカ(どちらも旧イギリス植民地)の白人権益を守護するつもりであったから、カタンガはそのための格好の盾になりそうであった。たとえば、インターナショナル・カンパニーの隊長ウィリアム・ブラウンはイギリスの保守党議員の親族であったという。また、カタンガは独立宣言を行う前はコンゴ領内の鉄道を使って鉱物資源を大西洋の港へと輸出していたのが、独立宣言の後はモザンビークやアンゴラの領内を通過するイギリス資本のベングエラ鉄道(註6)を使って輸出するようになり、おかげで同鉄道の年間総収入が550万ポンドから750万ポンドに増加したという(コンゴ独立史)。しかも、カタンガ憲兵隊の使う武器も同鉄道を使って輸入していたという(コンゴ独立史)。

註6 モザンビークもアンゴラもポルトガル植民地だが、イギリス資本の影響下にあった(特に前者)。


 年末、スタンレーヴィル軍の支配するキブ州にレオポルドヴィル軍が進攻した。結果はレオポルドヴィル側の敗退である。この時レオポルドヴィル軍にルワンダ・ブルンジ駐留のベルギー軍人が協力していたらしい(註7)ことからキブ州在住の白人(この州はそれまで割合に平穏であった)に対する暴動が発生し、さらに部族紛争まで起こってかなりの混乱へと発展した。州内にいた国連軍は事態を沈静化させるために全力を尽くしたが力が足りなかった。

註7 ベルギーの海外植民地はコンゴ以外にルワンダとブルンジがあり、その2地域はコンゴが独立した後もベルギーの支配下にとどまっていた。正確に説明すると、ルワンダとブルンジはもともとドイツの植民地だったのが第一次世界大戦の時にベルギー軍によって占領された地域である。一次大戦後の旧ドイツ植民地は「委任統治領」という名目で国際連盟から大戦の戦勝国に統治を委託するという形式がとられ、さらに第二次世界大戦の後は国際連合の「信託統治領」制度に引き継がれた。今回のレオポルドヴィル軍の作戦にはルワンダ・ブルンジに駐留するベルギー軍の兵士が協力していたのである(コンゴ独立史)。


 年が明けて1961年1月7日、今度はスタンレーヴィル軍がカタンガ方面へと進出し、北部カタンガ共和国と手を握った。北部カタンガ共和国は「ルアラバ州政府」に名称を改めた。この時スタンレーヴィル軍は国連が設定していた中立地帯を侵犯したのだが、付近にいた国連軍ナイジェリア部隊は驚きのあまり何も出来なかった(そもそも彼らは数が少な過ぎた)。この動きを見たカタンガ政府は「国連はスタンレーヴィル軍とつるんでいるのだ」と叫んだが、それを裏付ける証拠はないようである。ともあれスタンレーヴィル軍の相次ぐ勝利は各地のルムンバ派を元気づけ、同月13日にはルムンバが監禁されているシスビル陸軍兵舎ですらルムンバ派の兵士による暴動が起こるに至った(カサブブとモブツが急行して鎮圧)。さらに、昨年スタンレーヴィル軍がキブ州を制圧した時に捕らえられていたレオポルドヴィル政府サイドの人々が意外と丁寧に扱われている(少なくともボコボコにされたりはしていない)ことが分かってきた(コンゴ独立史)ため、エチオピアやチュニジアといった穏健派グループ(註8)の国々もスタンレーヴィル政府に理解を示すようになった。

註8 改めて説明すると、コンゴ国連軍に兵員を提供している国のうち、反チョンベではあるが親ルムンバでは必ずしもなかった国々のこと。


 この頃レオポルドヴィル政府は、自分たちが逮捕・投獄したルムンバの処遇に困るようになっていた。もし死刑にすればかえってルムンバ派を勢いづかせるだろうし、万が一スタンレーヴィル政府に奪回されれば、もっと厄介なことになる。また、この月の20日をもってアメリカ大統領が共和党のアイゼンハワーから民主党のケネディに変わることになっており、今のところ反ルムンバであるアメリカ政府が考えを変えてしまう可能性があった。そこでレオポルドヴィル政府は、ルムンバの身柄をカタンガ政府に引き取らせるという奇策を思い付いた。一説によればこの話を先に言い出したのはチョンベであったといい、レオポルドヴィル政府の内部においてこの計画を進めたのはカサブブやボンボコ(カサブブがルムンバを解任した時にカサブブに協力した政治家。元ルムンバ派の大物)であってモブツは蚊帳の外であったともいう(コンゴ独立史)。なんにせよ、レオポルドヴィル政府とカタンガ政府はルムンバ派に敵対するという点で共通しており、1月17日に飛行機でカタンガの首都エリザベートヴィルに送られたルムンバは、そこで惨殺されてしまった。

 前後関係を正確に説明すると、まずチョンベはルムンバ引き取りの話を少なくとも表向きは断っている。それならばと今度は南カサイのカロンジに話が行き、レオポルドヴィル政府が南カサイの自治権を承認するという条件でとりあえず話がまとまった。そういう訳でルムンバを乗せた飛行機は南カサイに向かったのだが、カロンジは土壇場で考えなおして飛行場を封鎖、やむなく飛行機は(誰の意志によってかはよく分からないが)カタンガのエリザベートヴィル空港に着陸した。エリザベートヴィルには昨年8月以来国連軍スウェーデン部隊が駐留しており、彼らが飛行機からおろされるルムンバらしき人物を目撃している。

 実のところルムンバをどうするかはカタンガ政府の閣僚の間でも意見が割れており、すぐに殺してしまうか、レオポルドヴィルに送り返すかで議論になった。チョンベはルムンバを殺したら国際的に恨まれるのではないかと危惧したらしいのだが、最も強硬な反ルムンバ派であった内相ムノンゴの主張により処刑が決定した。執行はベルギー人の顧問が行うことになった(http://www.inosin.com/page003.html)。ルムンバの死体は一旦埋めたが発見を怖れて掘り起こし、硫酸で溶かしてまた埋めたという。この事件から40年を経た2002年、ベルギー政府が「ベルギー政府の役人と軍がルムンバの死と死に至った経緯に関与した」ことを公式に認め、ルムンバの遺族とコンゴ国民に謝罪したことで一応の決着が着いている。

 CIAの関与についてはいまいちはっきりしない。とりあえずこの事件が起こる直前の段階では、新アメリカ大統領(に就任予定の)ケネディが、ルムンバに復権させた方がコンゴのためになると考えていたといわれており(現代アフリカ・クーデター全史)、ソ連やアラブ連合がスタンレーヴィル政府から手を引いてくれるならば、ベルギーやフランスにも手出しを控えるようアメリカから圧力をかけてもいいと考えていたともいう(コンゴ独立史)。つまりケネディとしては、全てを白紙(独立時)に戻すことでソ連の手出しをも白紙撤回させる狙いであった訳である。ただし、アメリカにおいては国務省の内部や政界有力者の一部に熱心な反ルムンバ派がいてケネディのこのような動きに激烈に反対していた。

 2月9日、レオポルドヴィルの委員会内閣が解散、改めてジョセフ・イレオを首班とする新内閣が発足した(註9)。これまでの委員会内閣は若手の大学卒業者(つまり官僚の卵)を集めた政府だったのが、今度は政党関係者を中心とする政府に模様替えしたのである。これはおそらくカサブブの提案によるもの(コンゴ独立史)で、国連が親スタンレーヴィルの諸国に押される形でレオポルドヴィルに厳しい態度をとってくる前に比較的に民主的な体裁を持つ新政府を樹立しておこうと考えたのである(そうすれば国連にどうこう言われる筋合いがなくなる)。また、この動きは、カサブブをはじめとする政党関係者がモブツ(国軍)の排除を狙って行ったという側面もあったようである。モブツは委員会内閣(モブツ子飼の内閣)の解散と引き換えに少将に昇進させてもらったが、昨年末にキブ州でスタンレーヴィル軍に負けたことですっかり威厳を失っており、首都を離れて故郷の赤道州に隠遁することにした。それから、イレオ新内閣の閣僚ポストにはいくつか空席があったが、これは今のところ我々に敵対している勢力がいつか合流してくれる時のためのものですよ、というポーズであった。

註9 イレオは「憲政上の危機」が始った時にカサブブに首相に任命された人物だが、モブツのクーデターの際に辞任させられていた。


 ところが、新内閣成立のニュースは大した話題にはならなかった。そのすぐ後にカタンガ政府がルムンバの死を公表したからである。この時点ではルムンバは「カタンガ当局の手から脱走したところでとある村の住民に殺害された」ということになっていたのだが、無論そんな話は誰も信じなかった。カタンガ政府内相ムノンゴは「ルムンバが死んで残念であるかのようにみせかけるつもりは、私にはさらさらない」「民衆は、暗殺したのだといって、我々を非難するだろう。それに対して私は、ただ、一言、その証拠を示せ! と答えるだけだ」と声明した(コンゴ独立史)。

 スタンレーヴィルでは、政府当局は感情の激発を抑えようとしたが末端の兵士たちが怒り狂った。彼らはこの事件にレオポルドヴィル政府が関与していると睨み、昨年のキブ州制圧の時に捕えていたレオポルドヴィル軍の士官を処刑した。国際世論の同情はスタンレーヴィル政府に集まり、各国でルムンバ追悼のデモが行われた。ソ連はルムンバの死の責任は国連にあり(註10)としてハマーショルドの解任を訴え、さらにベルギーへの制裁やモブツ・チョンベの逮捕を求めた。ギニアとアラブ連合はスタンレーヴィル政府を正式に承認した。「正式承認」とは、これからは国連の意向を完全に無視して遠慮なくスタンレーヴィル政府のみを支援するという意味である。ただ、ルムンバに同情的な国の中でも、インドのネール首相などはギニアやアラブ連合のやり過ぎに待ったをかけ、あくまで国連の活動の枠内で行動するよう訴えた。国連が強力な措置をとってくれるならば、インドがコンゴ国連軍に戦闘部隊を提供してもよい、と。

註10 「ルムンバ暗殺に国連が関与している」と思ったのか、「国連が力づくででもルムンバを助けていればこんなことにはならなかった」という程度の意味なのかは資料不足でちょっと分かりません。


 アメリカのケネディ新政権は、ベルギーやソ連のような外国勢力の介入を一律に閉め出し混乱を終息させるために国連の権限を拡大すべきという考えを明らかにした。そうすることでアメリカにとって一番の問題であるソ連の手出しを封じることが出来るし、インドのような穏健なルムンバ支持国を味方につけることにもなる。ソ連に叩かれたハマーショルドは一時は辞任を考えたが、仮にそうしたとしても後任者がまたソ連に叩かれて国連そのものが麻痺しかねないと思われたため、辞任を思いとどまった。アジアアフリカ・グループも、国連が機能しなくなったらそれはそれで困るため、ここはやはりハマーショルドに留任してもらった方がいいと考えたようである(コンゴ独立史)。ハマーショルドは2月15日、国連軍に今までよりも大きな権限を付与したいと声明した。

 2月17日、国連安保理(註11)においてアラブ連合・リベリア・セイロンから以下の決議案が提出された。これはブラザヴィル・グループを除くアジア・アフリカ諸国(註12)の大多数の意志を纏めたものであった。まずルムンバの死を悼み、続いて「国連が、休戦の取り決め、一切の軍事作戦の停止、衝突の阻止、必要な場合に限ってあくまで最後の手段としての武力の行使を含む、コンゴの内乱の発生を阻止するための一切の適切な措置を即時とることを、要求する」「あらゆるベルギー人および他の外国の軍人および軍属、国連司令部の管轄に属しない政治顧問、および傭兵をコンゴから、即時撤退させ、引揚げさせる措置を講ずるよう要求する」「すべての国に、上記の要員がコンゴに向かって、その領土から出発するのを防止し、彼らに輸送およびその他の便宜をはかることを拒否する措置を、即時且つ効果的に講ずることを要請する」、等々。コンゴ国連軍はこれまで自衛のためにしか武力の行使を許されていなかったのだが、その枷を緩くせよというのである。

註11 この年の初めに非常任理事国6ヶ国のうち4ヶ国が交代した。

註12 親ルムンバの「アジアアフリカ・グループ」という意味ではなく、広い意味でのアジア・アフリカ諸国のこと。


 そして21日、国連安保理はこれを「コンゴ問題にかんする決議S4741号」として採択した。ソ連とフランスが棄権、他の国(9ヶ国)は全て賛成で、反対はなかった。この決議にある「国連が……武力の行使を含む……一切の適切な措置を即時とる」という文章について常任理事国のイギリスは、その「国連の武力」はコンゴの諸勢力の間の戦闘をやめさせるために使用することもありうるという意味であって、特定の勢力を潰したり、諸勢力の統合・統一を促進するために使用していいという意味ではない、とコメントした。つまり例えば、カタンガの独立を取り消させるための措置を国連の武力を用いて行ったりしてはいけないということである。また、「傭兵の即時撤退」という項目も、それをやるためには無条件に国連軍を用いて良いという訳ではなく、あくまでコンゴ諸勢力間の戦闘を阻止するためにやるのだと皆が納得出来る明確な状況下でなければ国連の武力は使えない、というのがこの決議についての一般的な解釈であった。

 と、かようにこの決議は非常に強い制約を課せられたものではあったが、安保理の理事国でない国(特にいま現在の国連軍に兵力を提供している国)がこの制約にきちんと従って行動してくれるかどうかはいまいちはっきりしなかったし、レオポルドヴィル政府とカタンガ政府は国連が遠慮なく武力を用いて介入してくると明確に決めたのだと誤解した(らしい)。これは両政府首脳部の理解力が少し足りなかったことや、彼らの周囲のベルギー人顧問(決議に基づき追放される人々)に色々と吹き込まれたかららしい(コンゴ独立史)。

 そういう訳でレオポルドヴィル政府首班のイレオは今回の国連決議を「コンゴの主権を侵害するもの」、カサブブは「国連はコンゴを裏切った」と声明し、カタンガのチョンベはさらに強硬に「決議はコンゴ全体に対する国連の宣戦布告である」と言い放った。南カサイのカロンジも同じ態度をとる。ベルギーもむろん反発した。決議の際に棄権したフランスのド・ゴール大統領とベルギー国王とがこの件に関して親書をかわしたという報道が流れた。

 そして28日、イレオ・チョンベ・カロンジの3人がカタンガ首都エリザベートヴィルに結集、国連及びスタンレーヴィル政府に対抗するための軍事協定を締結した。コンゴ各地で働いている国連職員が侮蔑を受け、3月3日にはレオポルドヴィル政府軍と国連軍スーダン部隊が衝突する事件が発生した。ただし、2月21日の決議の際に少数派になってしまったソ連は孤立を怖れたのか態度を軟化させ、ハマーショルドを叩くのをやめた。

 3月8〜12日、ブラザヴィル・グループに所属するマダガスカル共和国の首都タナナリブにてレオポルドヴィル政府のカサブブとイレオ、同政府内の各州の代表、そしてチョンベ、カロンジが会談し、改めてカサブブを大統領とする「ゆるやかな連邦国家」の設立を目指すとの「タナナリブ協定」を決議した。この会議の音頭をとったのはチョンベで、その「連邦国家」の中央政府は権限を持たず、カタンガをはじめとする「州国家」が実質的な独立国として扱われる(ただし外交に関しては合同会議で処理)というものであった。カサブブやイレオはチョンベの鼻息の荒さに反発を覚えないでもなかったのだが、国連(とスタンレーヴィル政府)に対抗するにはカタンガ(強力な軍事・経済力を持つ)と結んでおくのが得策であるからとりあえず同意を示したのであった。

 ベルギーはこの成り行きを単純に喜んだが、アメリカは頭を抱えてしまった。レオポルドヴィル・カタンガ・南カサイの連合がもしスタンレーヴィル政府を脅迫したりした場合、またソ連が正義の味方ヅラで介入してくる可能性があるからである。また、今回の決議の背後にはフランスがいるという噂もあった(コンゴ独立史)。

 その間にもカタンガ憲兵隊が活発に動いていた。彼らの当面の任務は北部カタンガのスタンレーヴィル政府系「ルアラバ州政府(旧北部カタンガ共和国)」を叩くことである。憲兵隊は2月11日から攻勢を開始し、3月31日にはルアラバ州政府首都マノノを占領した。ただ、その時まではカタンガ駐留の国連軍は情報不足のため動きが鈍かったのだが、4月2日に国連軍の新たな戦力としてインド部隊が到着する頃から行動に弾みがついてくる。同月3日カタンガ憲兵隊はカタンガ首都のエリザベートヴィル空港のコントロール・タワーに駐留していた国連軍スウェーデン部隊を排除しようとして逆に排除された。

 話を戻して……、タナナリブからレオポルドヴィルに帰ってきたカサブブたちは、時間の経過とともに「タナナリブ協定」を後悔するようになっていった。この協定はいくらなんでもカタンガ・南カサイに都合の良すぎるものであったし、2月21日の国連決議が実はそれほど強硬なものではないことがカサブブたちにも理解出来てきたからである。これについてはハマーショルドからの働きかけも大きく作用した。具体的にはハマーショルドは去る3月10日、コンゴ国連機構の現地代表ダヤル(カサブブたちによる国連批判の矢面に立っていた)を国連本部に召還し、その代理としてスーダン人メッキ・アバスを送り込んで来たのである。その1週間前の3月3日に国連軍スーダン部隊との衝突を起こしていたレオポルドヴィル政府はそれについてかなり後悔して、スーダン関係の有力者と話をつけたいと思っていたところであった(コンゴ独立史)から、これは実に適切な人事であった。さらに3月23日、チョンベがブラザヴィル・コンゴを訪問して経済援助に関する協定(カタンガがブラザヴィル・コンゴ領内のダム建設を援助する)に調印したのだが、これは「外交に関しては合同会議で処理する」というタナナリブ協定の規約を無視する行いであり、だいたい外国を援助する金があるならコンゴ国内の問題のために使うのが筋ではないかとカサブブたちには思われた。

 そんな訳でレオポルドヴィル政府はカタンガを疑うようになり、それよりもスタンレーヴィル政府と仲直りした方が良いのではないかと思えて来た。こういう心境の変化につられて国連との関係も急速に修復される。その一方で北部カタンガでは4月7日、ルアラバ州政府の最後の拠点カバロに対するカタンガ憲兵隊の攻撃が開始された。総勢約1000名からなる憲兵隊は水路(河船2隻)と陸路(鉄道)の二手からカバロに進撃し、それとは別にインターナショナル・カンパニーの白人傭兵30名が空からカバロ空港に強攻着陸するという作戦であった。ところがカバロには国連軍エチオピア部隊2個中隊が駐留しており、これがカタンガ側の河船2隻のうち1隻を撃沈、残る1隻も撃退した。空からカバロ空港に降り立った白人傭兵たちはその時点では抵抗を受けなかったが、市街地に入ったところで包囲され降伏した。陸路でカバロに突入しようとしていた部隊は作戦を諦めて撤収した。これは国連軍が2月21日の決議に基づいて戦闘を行った最初の事件となった。捕虜となった白人傭兵の大半は南アフリカや中央アフリカ連邦から来た連中だったため、イギリス政府はコンゴで国連機構以外の軍務についているイギリス連邦(註13)の国民の旅券を無効にすると発表し、今回の戦闘は国連決議に照らして合法かつ正当な措置であったと声明した(イギリス政府も本心では色々と葛藤があったのだろうが)。ただ、国連軍はカバロ市を防衛するのに手一杯で周辺地域については放置せざるを得なかったため、そちらではカタンガ憲兵隊とルアラバ州政府側住民との惨たらしい殺し合いが継続した。

註13 イギリス及びイギリスの旧植民地からなる緩やかな連合体。中央アフリカ連邦は準加盟国、南アフリカは正規の加盟国であった。


 この戦いの10日後の4月17日、カサブブが2月21日の国連決議を受け入れると表明した。この決断の背景はおそらくカバロでの国連軍の活躍にあったのであろう。インターナショナル・カンパニーの英語傭兵はカバロの敗退で志気をなくし、多数の隊員がカタンガを離れてしまったが、その穴はフランス人の傭兵が埋めることになった。

 フランスのド・ゴール大統領は、「いかなる形式であろうと国連には用はない」と言明、国連がコンゴでとった行動は全て非合法であるとすら考えており、コンゴ国連機構の軍事予算のための特別予算の分担金の支払いを拒否していた(コンゴ独立史)。フランスは自分だけの意志で勝手にやるということである。フランスの財界には、カタンガのベルギー利権をうまいこと乗っ取ってしまおうという動きも存在したという。

 という訳で、ド・ゴールは既にこの年1月の時点でトランキエ大佐という人物をカタンガに送り込んでいた。これはカタンガ側から要請されたもので、トランキエは憲兵隊の最高司令官の椅子を約束されていた。ところがこの動きはフランスの左翼系の新聞(反チョンベ)に叩かれたことからブレーキをかけざるを得なくなり、カタンガの現地でもベルギー人の傭兵がフランス人に憲兵隊内の地位を奪われるのを嫌ったことから、トランキエは3月にはフランスに帰らざるを得なくなった。しかしトランキエはそれまでの時点で15〜20人の傭兵(元フランス軍人)を集めていて彼らはそのまま憲兵隊に就職した。

 その頃、フランスの最重要植民地アルジェリアで独立戦争が最終局面に達しつつあり、アルジェリアの独立を容認するようになったド・ゴール大統領とアルジェリア在住フランス人(コロン)との対立が鮮明化していた(註14)。4月21日、というからコンゴで「カバロの戦い」が起こった2週間後、コロンに味方するフランス軍第1外人落下傘聯隊その他がド・ゴールに反旗を翻し、これはあっさり鎮圧されたのだが、いくつかの部隊が反逆の咎で解隊となった。そして、その指揮官だった連中の一部がカタンガに流れてきて憲兵隊に再就職した。インドシナ戦争やアルジェリア戦争を戦った彼等の流入は、カタンガにとって実に励みになった。トランキエ(ド・ゴールの意向でカタンガに来た人)が連れてきた連中とアルジェリア崩れの連中(ド・ゴールに解職されてきた人)とで喧嘩にならなかったのかと他人事ながら心配になってしまいますね。カタンガ政府によるフランス製ジェット練習機「フーガ・マジステール」3機の買い入れ(註15)といったことも行われた。

註14 アルジェリアは1830年以来フランスの植民地支配を受けていたのだが、1954年に原住民による独立戦争「アルジェリア戦争」が勃発した。フランスはアフリカの他の植民地については割とあっさりと独立を認めたのだが、アルジェリアだけは100万もの白人(コロン)が入植していたことから、独立を認めるか否かで非常に揉めた。1958年にフランス大統領となったド・ゴールはこの問題について当初要領をえなかったがやがて独立承認へと傾き、コロン(独立絶対反対)と激しく対立するに至っていた。詳しくは当サイト内の「ド・ゴール伝」を参照のこと。

註15 フーガ・マジステールは「練習機」とはいっても優れた操縦性を持つことからフランス空軍のアクロバット・チームで1980年まで愛用されており、十分に実戦で使える機体であった。(1967年の「第三次中東戦争」の際にイスラエル軍が使用し、アラブ側が用いるソ連製戦闘機ミグ21との空戦を行っている)


 カタンガ政府においてフランス人の導入に積極的だったのは内相のムノンゴで、彼は1891年にカタンガがコンゴ自由国に組み込まれる時に自由国によって殺されたバ・イエケ族の王ムシリの子孫だったことからベルギー人を嫌っており、それと噛み合わせるためにフランス人の導入を推進したといわれている。カタンガ政府はベルギー人の協力なしではやっていけなかったのだが、肝心のベルギー政府はいつまでたってもカタンガ独立を正式承認してくれず、それどころかレオポルドヴィルとカタンガに二股をかけているのは腹立たしい限りであったし、仮にベルギーが全面協力してくれたとしても少し非力なのではないかという不安もあった。

 4月24日、赤道州のコキラトヴィルにてコンゴ諸勢力による会議が開催された。これはタナナリブ協定で決めた項目について更に具体的な話し合いをするためのもので、主な出席者はカサブブ、イレオ、アドーラといったレオポルドヴィル政府の面々、チョンベ、カロンジ(この会議の少し前に「南カサイ国王」を名乗った)、そしてタナナリブ会議の時にはいなかったスタンレーヴィル政府の代表団も姿をみせていた。いや、それどころか、カタンガ憲兵隊と交戦中のルアラバ州政府の代表団まで呼ばれていた(彼らもタナナリブ会議には出席していなかった)。チョンベはルアラバ州政府の参加を認めるべきではないと言い立てたが、カタンガ代表団以外の全員(カロンジ陛下を含む)がルアラバの味方についたため、怒ったチョンベはカタンガに帰ることにした。

 議場から空港に向かおうとしたチョンベは身柄を拘束された。これは逮捕という程のものではなく、カサブブたちが命令した訳でもなくて(アフリカ傭兵作戦)、会議が行われているコキラトヴィル市の市民や兵士たちが、きちんと話し合いをすませて一連の混乱を終息させるまでは誰も市の外には出さない、という意思を実力で示したものであった。議場ではとりあえずチョンベ抜き(カサブブたちはチョンベに席に戻るよう求めたが拒絶された)で議事が進み、2月21日の国連決議の受け入れを改めて宣言し、国連の強い指導のもとで諸問題の解決をはかるべきこと、来る6月25日にレオポルドヴィル近郊のロバニウム大学で議会を開いて新しい中央政府を選出するべきことを取り決めた。議会は昨年の9月14日にカサブブが停止して以来9ヶ月ぶりの再開である。その際の議員の輸送や警備は国連が担当することになった。この議会は何故かローマ教皇の選挙になぞらえて「ロバニウム・コンクラーベ」と呼ばれた。カサブブたちは2月21日の国連決議「外国人の即時撤退」の適用第1号としてチョンベが連れてきていた外人顧問を逮捕・追放し、チョンベを正式に拘束した。

 カタンガの留守政府では、コンクラーベに参加するか否かで閣僚の意見が割れた。カタンガが一番嫌いなのはスタンレーヴィル(とルアラバ)なのだから、ここはむしろコンクラーベに参加してレオポルドヴィルと結び、それによってスタンレーヴィルを圧倒するべきという意見。いや、レオポルドヴィルとスタンレーヴィルが連合したところでカタンガを圧倒出来るような経済・軍事力は持ち得ないだろうし、国連もそれほど強硬な措置はとれないだろう(それは2月21日決議に関しての各国の慎重な解釈をみればわかる)から、ここはあくまで徹底抗戦すべしという意見。しかしどちらの意見を唱える者も、チョンベの解放を求めるという点では結束していた。まずは傭兵を使ってチョンベを奪回する作戦を立案したが実施困難なため、何とか外交努力でことを運ぼうとする。

 そして6月22日、チョンベがコンクラーベへの参加を表明し、拘束を解かれた。この時チョンベを説得したのは実は隠棲中のモブツで、カタンガ留守政府から多額の工作資金を貰っていたといわれている(アフリカ傭兵作戦)。3日後に大歓迎のなかカタンガに戻ったチョンベは「コンクラーベ参加の約束は脅迫されてしたものだから無効」としてその破棄を宣言した。モブツがまた説得にやってきてコンクラーベへの参加を求めたが、チョンベを翻意させることは出来なかった。コンクラーベに期待していたコンゴ国連機構はチョンベの態度に腹を立て、もしレオポルドヴィルやスタンレーヴィルがカタンガに対する武力攻撃を発動したとしても、国連としてはそれを「国内の治安維持のための行動」と見なす(カタンガを一切助けない)という厳重な警告を発した。ベルギーでは少し前に政府が変わっていて、チョンベにそれほど同情的でない社会党(ベルギーの左翼)が入閣しており、その影響でかマスコミによるチョンベ批判が行われた。アメリカは、カタンガ抜きでコンクラーベを開催したらその議会はスタンレーヴィル(ソ連の息がかかっている)が優勢になるのではないかと危惧した(コンゴ独立史)。しかし大半の国は、仮にカタンガがコンクラーベに参加したとしても割り当てられる議席は1割以下(人口比の割当)なのだから、経済的には他の勢力より格上のカタンガにそんな悪い条件で参加しろといっても受け入れまい、というような考えを抱いた(コンゴ独立史)。

 7月24日、当初の予定より1ヶ月遅れでコンクラーベが開催された。会場となったロバニウム大学の周囲には電気囲いが巡らされ、国連軍1個大隊が警備にあたるという厳戒態勢である。議場ではスタンレーヴィル派が僅差で優勢であったため、アメリカが慌ててチョンベを引っぱりだそうとした。カタンガ政府ではこの機にキャスティングボードを握るべきことを主張する者もいたのだが、チョンベは(コキラトヴィル会議の時のような)拘束の可能性を恐れたのか、結局コンクラーベに現れなかった。このことについて、ブラザヴィル・コンゴ大統領ユールーがチョンベに欠席するよう要求したのだという話も出回った(コンゴ独立史)。そして議場では、レオポルドヴィル政府内相にして旧ルムンバ派(MNC)の大物だったこともあるシリル・アドーラ(註16)を首相とし、スタンレーヴィル派・レオポルドヴィル派・カロンジ派、それからルアラバ州政府の代表まで含む挙国一致内閣が組織された。アドーラはレオポルドヴィルにもスタンレーヴィル(ルムンバ派)にも顔がきき性質温厚であったから、こういう局面で首相をつとめるには適任の人材であった。スタンレーヴィル派としては、議場での優勢を駆ってギゼンガ(スタンレーヴィル政府首班)を首相に擁立することも可能であったのだが、カタンガに対抗するためには他の派と結束する必要があり、そのためにはアドーラ首相を認める程度の譲歩は必要だと考えたようである。それから、大統領はカサブブのままである。

註16 MNC創設時の副党首であったが、早期にルムンバと喧嘩分かれし、ここしばらくはカサブブ・イレオと行動を共にしていた。


 アドーラ政府樹立のニュースを聞いたアメリカは、とりあえずギゼンガが首相にならなかったことで大喜びした(ギゼンガは第1副首相に就任)。イギリスは少なくとも公式にはアドーラを歓迎したが、政界と実業界にはまだかなりの数の親チョンベ派が存在した。ベルギーもイギリスと同じである。カタンガの新聞『カタンガの発展』紙はアドーラ内閣を「多血質内閣」と呼び、絶対に意見がまとまることはないだろうと論評した。

 
                                  つづく

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