コルシカ島の歴史 前編

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 地中海で4番目に大きな島である「コルシカ島」に人類が現れたのはせいぜい9000年前のこととされている(註1)。その人々の来歴ははっきりしないが、最初は主に島の南部に散在して狩猟や牧畜を営み、紀元前3000年頃から山中での集住を開始して、さらに紀元前2000年頃には巨石文化を築くに至った。彼等が築いたドルメン(支石墓)やメンヒル(単一で直立した巨石記念物)といった遺跡が現在までその姿をとどめている。

註1 地中海で一番大きい島はシチリア島、次がサルディニア島、次がキプロス島である。コルシカ島の面積は8700平方キロメートルで、これは四国の半分ぐらいの大きさである。


 文献記録に登場するのは紀元前6世紀のことで、ギリシアの地理学者ヘカタイオスの著作に登場したのが最初だが、実はその頃には既にギリシア人の一派であるフォカイア人がコルシカ東岸のアラリアに植民地を築いていた。ギリシア人たちはその少し前に南フランスのマッサリア(現在のマルセイユ)に植民都市を建設していたのだが、アラリアはそのマッサリアとイタリア方面を繋ぐ中継基地として格好で、しかも天然の良港であった。

 アラリアの支配権はその後エトルリア(註2)に、その後さらにカルタゴ(註3)の手に移る。しかしギリシア人もエトルリア人もカルタゴ人もこの島を単に海洋交易の拠点として扱っていたため内陸には入らず、地元民(コルシカ人)とは棲み分ける恰好となっていた。コルシカ島の大部分は山岳(アルプスの支脈で2500メートル級の高峻な山々が連なる)からなっていて平野は海岸ベリにごく僅かしかなく、コルシカ人の住む村落は内陸の山麓や斜面にへばりつくように散在していて、外来者が行き来する沿岸部とは無縁の生活を営んでいたのである。

註2 紀元前8〜4世紀頃にイタリア半島の中部にあった都市国家の集団。紀元前4世紀頃から徐々にローマと同化し、やがて消滅した。

註3 現在のチュニジアの北部にあった国。最盛期にはモロッコからリビアに至る北アフリカ沿岸部、イベリア半島の東部、サルディニア島、マルタ島、バレアレス諸島、シチリア島の西部といった地域を支配した。


   ローマ時代   目次に戻る

 紀元前259年、沿岸部はローマによって占領された。これはローマとカルタゴの間に行われた「ポエニ戦争」の結果である。コルシカは南隣のサルディニア島と合わせて「コルシカ・サルディーニア属州(註4)」となり、その首都はアラリアに置かれた。

註4 ローマの辺境領で、「総督」を派遣して統治した。


 ローマ人はそれまでの外来者と異なり、島の内陸部に入り込んでコルシカ人との衝突を繰り返した。ローマのお目当ては鉄・銅・鉛といった鉱物資源であった。前181年と前166〜163年には大規模な戦いが発生している。ローマ側の著名人がコルシカ人……ローマ人は「コルシ族」と呼んだ……について語った記録としては、史家ディオドロスの「彼らは大部分の蛮族と異なり、社会生活では理性と正義に基づいて行動する」や地理学者ストラボンの「彼らは野獣にも劣り、刃物をふりかざし掠奪して生計を立てている」といったものが知られている。ちなみにディオドロスもストラボンもコルシカ人に直接会ったことはない。

 前100年頃になるとローマの将軍マリウスが「マリアナ」という植民都市を建設、前81年にはこれもローマの将軍であるスラがアラリアを軍事都市化してコルシカ人征服事業を強化し、さらに時代が進むと初代ローマ皇帝アウグストゥスがアラリアにガレー船艦隊の基地を設定した。アラリアは潟の奥の小高い丘の上に位置し、外海からアラリアを見ることは出来ないがアラリアからは外海を見渡すことが出来るという、非常に軍事基地に適した立地であった(ただし生活環境はあまりよくなく、マラリアが発生することがあった)。

 コルシカ人はやがて帰順し、ローマ人が沿岸部に築いた農園で奴隷として使われたりするようになった。農産品は小麦・オリーブ・葡萄といったところ、牧畜や漁業も行われており、塩田があったので魚を塩漬けにして輸出していた。また、「マキ」と呼ばれるコルシカ独特の密生林はローマ人にとっては賞賛の的で、良質の木材は船の建材として用いられ、木タールや樹脂、鑞も珍重された。アラリアの遺跡からはスペイン製の陶器やギリシア製の壷、さらにはエジプト製のガラスといった国際色豊かな文物が出土している。紀元後1世紀頃のコルシカにはアラリアとマリアナ以外に32の町が存在したという記録があり、2世紀には海岸部だけで21の都市があったというが、それらがどの程度の規模だったのかは不明である。まぁローマ帝国全体の中では田舎であったことは間違いないようで、紀元後1世紀の前半にその時代のローマを代表する思想家・政治家であったセネカが皇室関係者の妬みを買ったせいで8年間に渡ってローマ中央からコルシカへと流刑にされたことがある。その一方で、コルシカ人が島外で奴隷として売られていたという記録もある。

   暗黒時代   目次に戻る

 420年、「ゲルマン民族の大移動」の一派であるヴァンダル人の軍勢が島に来襲し、アラリアを破壊した。沿岸部の都市や農場はローマ帝国の衰退とともに廃れ、コルシカ人は内陸奥深くの山岳地帯に引き蘢ってしまった(註5)。その後のコルシカ史は数百年に及ぶ「暗黒時代」となる。沿岸部は東ゴート族(ゲルマン人の一派)やイスラム教徒(註6)の襲撃が繰り返され、内陸は親族単位の小集落が自給自足の生活を送るという状態が長く続くのである。島にはローマ時代の2世紀には「キリスト教」が入っていたが、この有り様のため大して浸透しなかった。8〜9世紀頃の西地中海はイスラム勢力が絶対的に優勢であり、キリスト教徒は板子1枚浮かべることが出来ないとさえいわれていた。

註5 その頃の人口は約12万であったという。21世紀現在の人口は約26万である。

註6 イスラム教徒は北アフリカ経由で8世紀初頭にイベリア半島に侵入、そちらで王国を築いていたゲルマン系西ゴート族を滅ぼし、さらに南フランスに侵入していた。詳しくは当サイト内の「メロヴィング朝年代記」を参照のこと。


   ピサの進出   目次に戻る

 そのことはローマ教皇の憂慮するところであった。コルシカはローマのすぐ近くなのである。教皇は6世紀以降コルシカ伝道を唱えてこの島の領有をはかっていたが、イスラム海軍に妨げられて全く進展しなかった。ところが10世紀の末頃になると、イタリア中部の「ピサ共和国」が強力な海軍を持つ海洋都市国家(註7)として躍進してきた。ピサは11世紀の初め頃にティレニア海からイスラム勢力を駆逐、エルバ島やサルディニア島の北部を領有し、さらに北アフリカにまで遠征する勢いをみせた。

註7 当時のイタリアには中小の諸国が乱立していた。ピサ共和国もその1つ。


 戦だけでなく商業活動も活発に展開する。同世紀の末に「十字軍(註8)」が中東へと遠征すると、ピサはこれ(十字軍)を支援するために120隻もの武装船団を派遣して現地の市場を確保、やがて東地中海のコンスタンティノープルやシリア、さらにはエジプトにまで達する商業ネットワークを構築した。「アラビア数字」を西欧に伝えたのはピサであるとされている。かの「ピサの斜塔」は1063年にシチリア島でイスラム艦隊を破った時に獲得した戦利品を財源として建設されたものであるという(着工は1173年)。

註8 その頃キリスト教の聖地エルサレムはイスラム教徒の支配下に置かれていたが、1096年に至って西欧のキリスト教諸国が「聖地奪回」の軍を起こした。これが十字軍である。


 その前後の1077年、ローマ教皇庁はコルシカの管理をピサの大司教に委ねるという形で島に本格的な布教を施すことにした。

 ピサの人々はコルシカにて布教と交易を熱心に行い、コルシカ人もその恩恵に与って(それまで自給自足経済だったのが)商工業に手を出したりした。ピサ人に対して特に反抗することもなかったようである。島のあちこちにはロマネスク様式の小さな教会が建てられ、教会組織を基礎とする地方行政の単位「ピエーウェ(郡)」が創設された。

   ジェノヴァの登場   目次に戻る

 しかしやがて、コルシカはピサの商売仇の「ジェノヴァ共和国」に目を付けられるようになる。当時のイタリアにはピサ、ジェノヴァ、それから「ヴェネツィア共和国」「アマルフィ共和国」という計4つの海洋都市国家が存在し、それらが地中海の商権を巡って激しい競争を繰り広げていた。そんな中にあってジェノヴァ人はコルシカ島(西地中海の交通の要)に入り込んで勝手に町を建設し、さらに1284年の「メロリアの海戦」でピサ艦隊を大破した。海洋都市国家としてのピサはこれで転落し、コルシカは以後500年近くに渡ってジェノヴァの支配を受けることになる。ピサのバックには教皇庁がいた筈なのだが、両者(ピサと教皇)の関係はジェノヴァが出てくるしばらく前から悪化していた。ジェノヴァはピサにかわってちゃんと布教活動を行うと約束して教皇の歓心を買い、コルシカ領有を認めて貰った。ジェノヴァはさらに1298年にヴェネツィアと戦って勝利し、黒海から大西洋に至る通商網を築き上げて莫大な富を蓄積した。(ただしヴェネツィアはピサと違って完全に転落することはなく、その後また盛り返している)

 で、コルシカでは、ピサが北東部のマリアナに拠点を置いていたのに対し、ジェノヴァはそのさらに北のバスティアに拠点を構えた。アラリアのような古代都市を除けばこのバスティアがコルシカ史に登場する最初の都市である。西岸のアジャクシオや南岸のポルトヴェッキオといった現在のコルシカを代表する都市もジェノヴァ領時代に築かれたものである。ただし、基本的に開発が進んでいたのは東岸の「山のこちら側」と呼ばれる地域であって、西岸の「山のあちら側」とでは住民の習俗もかなり違っていた(註9)

註9 現在でも別々の行政単位となっている。


 1453年、ジェノヴァ共和国政府はコルシカの統治を「サンジョルジオ銀行」に委託することにした。この銀行は営利のみならず行政や法制度の整備も任されていた。まずは経済上の利便から税制の整備を押し進め、コルシカ人の提供する労働にはきちんと対価を与え、貿易を振興して治安の維持にも努力する。サンジョルジオ銀行の政策と利害が衝突して反乱を起こすコルシカ人も一部にはいたが、大半の人々は特に不満を感じていなかったという。

 15世紀後半以降の地中海では再びイスラム勢力(オスマン・トルコ帝国(註10))の勢いが伸びてきたため、サンジョルジオ銀行は沿岸部に円形の見張り塔をたくさん建設してイスラム海軍の来襲に備えた。この「ジェノヴァの塔」は現在でも60ほど残っているが、昔はもっとたくさんあり、海岸線に5キロ間隔で配置されていた。

註10 この頃中東から北アフリカ、バルカン半島までを制圧していたイスラムの強国。コルシカを攻撃したこともあり、キリスト教諸国に非常に恐れられていた。


   フランス戦争とサンピエロの乱   目次に戻る

 1553年、コルシカにフランス軍7000が攻め入ってきた。「フランス戦争」の勃発である。フランス軍の中にはサンピエロ・コルソという人物に率いられた500名のコルシカ人傭兵がいた。山がちの島に住むコルシカ人は射撃の才能があり、各国の軍隊から傭兵として求められていて、かなり出世する者もいた。コルソもその1人で、若い頃にイタリアに渡って傭兵となり、その後フランス国王に仕えていたのである。当時のフランスはハプスブルク家(註11)と争っており、ジェノヴァは後者に加担していたが、コルソはこの情勢を利用してフランス軍の力を借りることで故郷コルシカからジェノヴァ人を追い払おうとしたのであった。

註11 その頃オーストリア・スペイン・オランダ・ベルギーといった広大な地域を支配していた王家。


 コルシカ人たちは概ねフランス軍に帰順した。ジェノヴァに忠誠を誓うのは北西部のカルヴィだけとなった。数ヶ月後、ジェノヴァ軍1万2000が上陸、フランス軍との戦いを繰り広げた。フランスはコルシカ以外でもネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー)及びイタリア方面でハプスブルク家と戦っていたがどちらの戦線も不調で、1559年には講和条約「カトー・カンブレジ条約」を締結、コルシカをジェノヴァに返還することになった。

 フランスは返還の条件として、これまでフランスに味方していたコルシカ人に恩赦を与えるようジェノヴァに約束させたのだが、コルソはあくまでジェノヴァとの戦いを続けようとした。彼は各国に支援を頼んでまわったがうまくいかず、やむなく100人にも満たない少数の部下を率いてコルシカ南部でゲリラ戦を行った。これが「サンピエロの乱」である。コルソ軍は少数ながらもかなり奮戦してジェノヴァ軍を苦しめたようである。

 コルソは以下のような檄文を発してコルシカ人大衆を動員しようとした。「われわれが隷属状態から解放されるようにとわたしは努力している。奴隷でも口をきく権利はある」「かならずわれわれについてきてくれ。われわれとともにあれば諸君は幸福なのだから。心配はむようである。わたしは下心があってきたのではない。わが哀れな祖国を解放するためだけにやってきたのだ。できるかぎり多くの人を集めてほしい。心待ちにしている」。しかしコルシカ人の大半はややいかがわしいところがあったとされるコルソの呼びかけに応じず、それどころかコルソは最終的には親ジェノヴァ派のコルシカ人によって殺害されてしまった。コルソの部下の主立った者たちはジェノヴァ本国に連行されて、八つ裂きや溶かした鉛を浴びせるといった残酷な刑に処せられたという。

 この混乱の最中、ジェノヴァ政府は島の管理をサンジョルジオ銀行から共和国の直接支配に移管し、バスティアに総督を派遣して統治することにした。戦乱のせいで税金の徴収や経済活動が滞っていたからである。コルシカ人には一応の自治権が認められ、有力者からなる「十二貴族会議」が島民を代表することになって、ジェノヴァ本国に2人の大使を派遣することになった。しかしそういった役職はやがて形骸化してしまい、コルシカ人の待遇は銀行統治時代よりも悪くなった。ジェノヴァ人はコルシカ産の小麦やワインの輸出を独占し、島外からの輸入をうまく管理してコルシカ人の間に工業が育たないよう細工した。このせいで、それまでエルバ島から鉄鉱石を輸入していた東海岸の鍛冶業者が困窮した。また、ポルトヴェッキオやボニファシオには塩漬け産業があったのだが、ジェノヴァ人が塩の専売権を握ったせいで潰れてしまった。

   ジェノヴァの平和   目次に戻る

 しかしその一方で開発事業が熱心に押し進められた。コルシカの沿岸の平野部の大部分は「暗黒時代」に外敵の侵入を受けて以来ずっと放置されたままであったのだが、ジェノヴァ政府の直接統治下において穀物や果樹の農園が建設されていったのである。ジェノヴァは自国民を入植させるとともにコルシカ人にも開拓事業を推奨したが、コルシカ人の中にはコルソのように他国に傭兵稼ぎに行きたがる者が多くて人手が不足しがちだったため、ジェノヴァは傭兵稼ぎを禁止しようとしたがうまくいかなかった。そこでジェノヴァ以外の国からの移民を招致したりしたが、その中にははるばるギリシアから入植してきたグループもおり、彼らの子孫は今でも独自のコミュニティを維持しているという。

 産品は栗・オリーブ・葡萄・イチジク・桑・麦といったところであった。ジェノヴァ本国では葡萄酒やオリーブ油が不足していたため、コルシカ産のものが期待されたのである。全ての地主は毎年4株の葡萄の木と、その他の果樹5〜10株の植え付けを義務づけられ、怠ると罰金を課せられた。結果的にはこの果樹政策のおかげで(収入源が増えたので)コルシカ人の間にも富裕層が育つことになったが、そういった名士階級「プリンチパリ」が自分たちの果樹園を無理に拡大しようとしたことから、その周辺で牧畜を営んでいた人たちの放牧地を一部奪ってしまうことになり、両者間に対立が発生したりもした。

 とはいっても、「サンピエロの乱」が終わった後の百数十年の間、コルシカは概ね平和を享受した。ヨーロッパ(大陸)ではその間に何度かペストが流行したが、コルシカはもともと閉鎖的な島なので検疫がやりやすく、病原の流入を阻止することが出来た。外国の戦乱に直接巻込まれるようなこともない。コルシカ史にいう「ジェノヴァの平和」の時代である。ジェノヴァ本国の方はスペイン(註12)と密着することで国際金融業に躍進していた(註13)が、政界では金融を営む門閥大貴族と一般市民との政争が絶えず繰り返され、さらに17世紀に入ってフランスやオランダ(註14)の勢いが伸びてくるのと反比例してスペインが弱体化、それにつられる形でジェノヴァもだんだん衰えてきた。

註12 ハプスブルク家は1556年にオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分裂した。

註13 当時のスペインは中南米に広大な植民地を持っていたため、そのスペインに密着していたジェノヴァもまた潤うことが出来たのである。

註14 オランダはもともとスペイン・ハプスブルク家の領国であったが、1568年に独立戦争を起こし、80年に及ぶ戦いの末の1648年に完全独立を果たした。その間の1602年には「東インド会社」を設立してアジア方面へと通商網を押し広げ、日本の西洋貿易を独占したりした。


   四十年戦争の勃発   目次に戻る

 1715年、ジェノヴァは治安維持や反乱防止の観点でコルシカ人から「武器携行税」を徴収することにした。ジェノヴァとしては出来れば武器の携行を全面的に禁止したかったのだが、とりあえず高額の税金を賦課すればだんだん武器を持つ人間が減ると考えたのである。

 ところが1729年12日、内陸部のボジオという村で武器携行税に絡む争乱が起こった。カルドネという名の貧しい村人が徴税吏に差し出そうとした硬貨(2セイーニ硬貨1枚)が偽金と見なされて突き返されたのが直接の原因であり、この年の不作がその背景にあった。争乱は他の地域にも飛び火して十二貴族会議のメンバーまで糾合する大規模な反乱に発展、ジェノヴァ総督の駐在するバスティアの町を包囲するに至った。もうだいぶ衰退しているジェノヴァ共和国はこの争乱をどうしても鎮圧することが出来ず、後世コルシカ史において「四十年戦争」と呼ばれる長い長い戦いが続くことになる。しかし実際には40年間延々と戦闘が続いた訳ではなく、かなり長い休戦期間を何度も挟んでいる。とりあえず本稿では以降、ジェノヴァに抵抗するコルシカ人たちのことを「コルシカ軍」と表記する。

 ジェノヴァはオーストリアに頼んで兵隊8000人と大砲30門を貸してもらった(費用はジェノヴァ持ち)がそれでも駄目である。そこで32年にコルシカ軍と講和を結び、29年に遡っての武器携行税の停止、自治の拡大といったことを約束した。しかしジェノヴァはすぐにコルシカ人への弾圧を再開し、コルシカ側も34年にはジャチェント・パオリ等を指導者として反乱を再開した。ジャチェントはコルシカ史に名高いパスカル・パオリの父である。その時にはオーストリアは別のところで戦争していたため、ジェノヴァを助けることは出来なかった。

   テオドール王   目次に戻る

 そして35年にはジェノヴァからの独立が宣言され、(人間ではなく)聖母マリアがコルシカ女王とされた。国歌は「聖母よ護り給え」で、軍旗には聖母像が描かれた。しかし翌36年にはちゃんとした人間が即位する。ドイツ人の貴族テオドール・フォン・イノホフ伯爵である。この人物は1694年にドイツ西部のケルンの小貴族の子として生まれたが若い頃に何らかの事情で故郷から亡命し、その後は各国の宮廷で華麗な遍歴を繰り広げていた。容貌華麗で口が立ち、色事にも剣術にも強かったというが、その才能を活かしてまずフランス宮廷の貴婦人たちを幻惑し、スペインでは権勢ある枢機卿に仕え、スウェーデンではなんと首相の位にまで登り詰めている。しかしスペインでもスウェーデンでも揉め事を起こし(註15)、その後はイギリスやオランダで詐欺まがいのことを繰り返した(らしいが詳細不明)あげくに投機に失敗して破産、イタリアのフィレンツェに逐電していたところでコルシカ反乱の話を聞いたのであった。

註15 スウェーデンでは彼を首相に推薦した重臣が死刑になり、スペインでは金や宝石を持ち逃げした。


 まぁ要するに一種の山師であった訳だが、コルシカで一旗あげられると考えた彼はコルシカ軍の首脳部と連絡をとり、36年3月12月に美々しく着飾った姿で島に上陸、4月12日に島民から「コルシカ王」に推戴された。彼は上陸に際して武器・弾薬・食糧・軍資金を携えており、「匿名を希望する強力な君主」の後援を受けていると語った。コルシカ人たちはテオドールの経歴を知らなかったのだろうか。

 ともあれ、テオドールは即位するやいなやまずコルシカ軍の首脳部が作成していた憲法を尊重することを近い、宮廷・軍隊・税制の整備を進め、さらには「テオドール王」を意味する「T.R.」を刻印した金貨まで鋳造した。しかし、コルシカ人たちは単純にテオドールを歓迎してくれたが、テオドールの方はコルシカという島が予想(妄想)していたほど豊かではないということを知って驚いた。結局テオドールはジェノヴァ軍との間に行われた数回の戦闘に失敗し、即位して半年後には「武器弾薬を調達してくる」という名目で島から去っていった。以降のコルシカ軍はジャチェント・パオリ、ルイージ・ジャッフェーリ、ルーチェ・ドルナノ等からなる「摂政会議」が仕切ることになった。

 テオドールはその後、ジェノヴァ官憲の追跡をかわしつつヨーロッパのあちこちを転々とした。オランダにいた時には借金不払いのため何ヶ月か投獄されたという。その後はローマに移って古い友人のいる僧院に隠れ、さらにイギリスに渡ったが、56年12月に貧窮のうちに亡くなった。いちおうコルシカから去った時点では「コルシカ王」の位を放棄した訳ではなかったのだが、それも最晩年の55年に債権者に譲渡してしまっている。そのとき債権者を前にしたテオドールは「自分に残されたものはコルシカ王国しかない」と語ったというが、それでどの程度の借金がチャラになったのであろうか。

   フランスの再介入   目次に戻る

 ところでテオドールを後援していた「匿名を希望する強力な君主」というのは実はオスマン・トルコ帝国であった。実のところオスマン帝国はあまりテオドールの力にならなかったのだが、その実質はともかくオスマン帝国が動いていたという事実が西欧諸国を驚かせた。万が一コルシカがオスマン領になったりしたら大変である。

 そのような背景のもとに動き出すのがフランスである。フランスはここしばらく他の問題に忙しかった関係でコルシカを顧みる余裕がなかったが、35年以降はコルシカ島内に「音を立てずに」「こっそりと」「フランスのしていることだとは分からぬように」影響力を強めていく方針をかためていた。

 テオドールがコルシカを去った翌年(1737年)、ジェノヴァの方からフランスへと支援要請がなされた。フランスは38年にひとまず「ジェノヴァとコルシカ人の仲裁を行う」という名目で3000の兵力を派遣した。フランス軍はやがて8000に増強されたが本国政府からは慎重な行動を求められており、司令官ボワシュー将軍などはコルシカ人に友好的に接しようとしたのだが、あくまで強硬な態度を望んでいたジェノヴァ政府とコルシカ人の間で板挟みとなり、やがてコルシカ軍との衝突を起こしたうえに敗退してしまった。ボワシュー将軍は辞職し、まもなく病没した。後任のマイユボワ将軍は断固たる措置をとり、本国から送られてきた増援軍を用いてコルシカ軍を攻撃した。

 その頃のコルシカ軍にはテオドール王の甥を名乗るフレデリック・ド・イノホフなる人物が参加していた。彼は伯父がコルシカを去った3年後に十数人の手下を連れて島に現れ、最初はコルシカ人から胡散臭い目で見られていたが、伯父よりもずっと勇敢に戦ったおかげで人々の信望を得たという。しかしやがてコルシカ軍はフランス軍の攻撃の前に内陸奥深くへと追いつめられ、41年には降伏せざるを得なくなった。フランス軍は投降してきたジャチェント・パオリ等をジェノヴァ政府には引き渡さず、イタリアのナポリ王国へと亡命させてやった。その意図は説明するまでもなかろう。

   ガフォリとリヴァローラ   目次に戻る

 40年、ヨーロッパの主要諸国を巻込む大規模な戦乱「オーストリア継承戦争」が勃発した。この戦争はまずオーストリアとプロイセンの戦いとして始まり、やがて前者にはイギリス等が、後者にはフランス等が加担するに至った。フランス政府はコルシカからマイユボワ将軍を呼び戻し、ジェノヴァもプロイセン・フランスに加担してオーストリア軍との戦いに参加した(コルシカどころではなくなった)ため、コルシカは一時的に統治者不在に近い状態となった。

 しかしジャチェント・パオリ等はまだナポリに亡命中だったため、コルシカ人たちは45年8月に新たに外科医ジャン・ピエール・ガフォリを中心とする3人組の「執政官」を選出した。ところがジェノヴァ政府はこの動きを承認せず、ガフォリに対する逮捕命令を発した。ちなみにガフォリという人物は1704年にコルシカ中央部のコルチに生まれて若い頃はジェノヴァの大学に留学して医学を学び、コルシカに戻った後はテオドール王の「摂政会議」の一員となった。むろん彼もジャチェント・パオリと共にナポリに亡命する羽目になったのだが、あまり大物だとは思われなかったのか早期に帰国を許されていた。

 その一方で、イタリアのサルディニア王国の宮廷に仕えていたリヴァローラというコルシカ人がテオドールのような「コルシカ王」になりたいと策謀していた。そしてサルディニアはオーストリア継承戦争においてオーストリア・イギリスと同盟していたため、リヴァローラは45年11月にはイギリス軍と一緒にコルシカに上陸、島の北部のバスティアを制圧した。コルシカ人の一部がリヴァローラに加担する。ところがイギリス軍は他の戦線でフランス軍と戦うためにすぐにコルシカから撤収してしまい、やがてジェノヴァ軍が上陸してきてリヴァローラに味方するコルシカ人の軍勢を打ち破った。リヴァローラのその後の行方は不明である。

 そのころ島の内陸部の支配権を固めていたガフォリは、リヴァローラと共闘しようとはしなかった。外国のヒモがついているリヴァローラを信用しなかったからだといわれているし、子供がジェノヴァ当局に人質にとられていたという説もある。ジェノヴァ本国の方はやがてオーストリア軍の攻撃を受けて危機的状況に陥り、コルシカでは(ジェノヴァ軍は)いくつかの拠点をフランス軍の力を借りて何とか維持するだけという有り様となった。

   ガフォリ暗殺   目次に戻る

 46年7月、ガフォリ率いるコルシカ軍が内陸部のジェノヴァ軍の拠点コルチを攻撃、占領した。そのあたりは険阻な山岳地帯であり、外部の軍勢が行動するのは困難であった。ガフォリはコルチに本拠地を定めて51年には新しい憲法を制定し、以降は「将軍」と呼ばれることになった。ただしコルシカ人たちはこの時も、自分たちの上に誰か高貴の人を国王として戴きたいという願望を抱いていた。「将軍」というのは「国王」の臣下としての最高位である。ちなみにオーストリア継承戦争は48年に終結したもののフランス軍は引続きコルシカに駐留していた。フランス軍は文化的な政策を施してコルシカ人の心を掴もうとしたがうまくいかなかった。

 フランス軍は財政上の理由で53年2月には一旦撤収するが、ジェノヴァ当局はガフォリ暗殺のために2人の刺客を放った。どちらも金で雇ったコルシカ人で、仕事をやりおおせた後はジェノヴァ本国での生活が保証されていた。そして同年11月3日、刺客は自宅に帰る途中のガフォリを待ち伏せて銃弾2発(一説に6発)を喰らわせた。ガフォリはこれで絶命し、側にいた仲間が反撃しようと銃の引き金を引いたが不発となった。実はガフォリの弟アントン・フランチェスコがジェノヴァに買収されて問題の銃に細工をしていたというが真相は不明である。刺客2人はさっさとコルシカから逃走、ガフォリの弟は(コルシカ軍の)監獄にぶち込まれ、数日後に何物かによって殺された。

 ガフォリの妻のファウスティーナはなかなかの女傑で、ガフォリの遺体が家に運び込まれた時にその血まみれのシャツを脱がせて息子に見せ、必ず復讐することを誓わせたという。コルシカ人は殺人事件が起こった時には被害者の一族が加害者に対して復讐を行う「ヴェンデッタ」と呼ばれる習俗を持っていることで有名である。コルシカの司法制度は伝統的に腐敗していて賄賂によって裁判が左右されたため、何かあった時には公的機関に頼らずに自分たちで解決する必要があったからである。ヴェンデッタは義務であり、怠る者は周囲から蔑まれた。実はガフォリはこういう社会体制にメスを入れ、司法制度を整備して民事と刑事を分離したりしていたのだが……。

 

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