ド・ゴール伝 第1部その2

   

   第二次世界大戦の勃発   (目次に戻る)

 そして第二次世界大戦の勃発(註1)。この時点でのフランス軍の指導者たちは、来るべきドイツ軍の侵攻作戦を次のように予測していた。ドイツ・フランス国境を固めるマジノ線はやはり強力であってドイツ軍はこの方面での正面衝突を避け、北のベルギーに侵入してそちらからフランス北東部に攻め込むであろう。そうくればフランスは同盟国イギリスと連合して迅速にベルギーへと大兵力を展開し、(フランス国内ではなく)ベルギー国内において決戦を挑む、という考えである。

 註1 ドイツ軍がポーランドに攻め込んだのが39年9月1日、英仏がポーランドに味方してドイツに宣戦したのが9月3日である。

 ベルギーは英仏の味方と考えられ、ドイツ軍がそちらに攻め込んでくるのを待つ、基本的に「攻めるよりも守る」作戦である。これは一次大戦の際に、機関銃陣地に歩兵突撃を繰り返しては大打撃を受けてばかりいた経験に由来するものであるが、完璧に時代遅れの発想であり、特に、39年9月にドイツ軍がポーランドに攻め込んだ際にほとんど何もしなかった(註2)のは致命的な失敗であった。これはポーランド軍が予想以上に早く崩壊したせいでもあるが、やはり戦争を嫌い、平和主義を貫く人々が多数存在したことにも起因する(註3)

 註2 本当に何もしなかった訳ではなく、9月9日にドイツ国境を越えていくらか進撃してはいる。しかしドイツ側のジークフリート要塞線の防御力を過大評価したのと、大口径砲・戦車・航空戦力の不足、等から防御に転じてしまった。(マジノ線物語)

 註3 それはそれで評価すべきだが、相手が狡猾すぎたのである。

 しかし、その時のフランス軍の師団100個以上に対し、フランス国境に展開するドイツ軍はわずか23個師団であった。また、ベルギーは実はこの時点では「厳正中立」を唱えており、「英仏軍がベルギーに援軍に入ってドイツ軍を迎え撃つ」といっても、肝心のベルギーの地理(要塞や陣地)の様子が良く分からなかった。それにむしろ、この時点ではドイツとソ連が「独ソ不可侵条約」を結んでいたことから独ソ両国は同盟関係にあると考えられており、遠征軍を送って先にソ連の方を叩く作戦が真剣に討議されていた。

 1940年5月9日、ドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵入し、これを受けたフランス・イギリス軍も当初の作戦通りベルギーに入った。ところがドイツ軍の狙いは別にあった。ベルギーに侵入したドイツ軍はあくまで囮であって、主力はベルギーとマジノ線の中間、アルデンヌの大森林地帯を抜けてフランス国内へと雪崩れ込んできた。フランス側は、この森林地帯での大規模な部隊の展開は不可能であると考え、適切な防御措置を施していなかったのである(註4)

 註4 アルデンヌ突破は12日夜間に行われた。ドイツ軍はフランス爆撃機が夜間精密爆撃の能力に劣ることをみこし、堂々と灯火して突き進んできたという。

 アルデンヌ方面のフランス軍は総崩れに陥った。ドイツ軍の先頭を突き進む各装甲師団(戦車を主力とする部隊のドイツにおける呼称)の破壊的な威力はフランス軍の戦力はおろかその志気まで粉々に打ち砕いてしまい、退却中に味方の戦車と行き会ったフランス兵たちは、「こんなところまでドイツ戦車が来た、もうおわりだ!」と言ってさらに逃げる有様であった。

 ところで、フランスは38年の段階でド・ゴールの熱意に押される形(ド・ゴール大戦回顧録)で2個の機甲師団(装甲師団と同じ)を創設していたが、一方のドイツ軍の装甲師団が39年のポーランド戦役の際にすでに破壊的な威力を発揮しており、フランスでもその戦訓を気に止めてさらに2個の機甲師団の編成を始めてはいた。しかしフランス軍の戦車の大半は他の歩兵師団の支援用に振り分けられていたことから各機甲師団手持ちの戦車は200輛程度にすぎず(註5)、これでは、平均325輛の戦車を持ち、しかも数個師団でまとまって行動するドイツの装甲師団とは比較にも何にもならない。2〜3個の装甲師団からなる装甲軍団5つ、さらに急降下爆撃機まで加わった電撃戦の前に、フランス軍の4個機甲師団のうち3個はたちまち消滅してしまった。フランス空軍の戦闘機隊はかなり奮戦したが対空砲は足りない。陸ではドイツ戦車を食い止める地雷も対戦車砲も乏しく、フランス側から戦車戦を仕掛けようとしても地雷探知機がなくてドイツ側の地雷を踏んでしまう。神速をもってし、様々な兵科が緊密に連携するドイツ軍とくらべ、フランス軍の指揮官は優柔不断、さらに通信設備が旧式のため、戦車部隊を動かしても燃料補給部隊との連絡が悪くてガス欠が続出する有様である。

 註5 すでに述べたとおり、ド・ゴールはその著『職業軍の建設を!』の中で、機甲師団は500輛の戦車を持つべきことを提言していたのだが‥‥。

   

   フランスの戦い   (目次に戻る)

 5月11日、つまりドイツ軍の進撃開始の2日後、ド・ゴール大佐のもとに「第4機甲師団の指揮をとれ」との命令が届いた。以前から戦車の集中運用を主張していたド・ゴールに対し「さあ、ド・ゴール君 !  敵が今応用している考え方をずっと前から奉じていた君のことだ。活躍の時がきたではないか」とは直属の上官ジョルジュ将軍の言葉だが、この時まだ編成中だった第4機甲師団が一応の集結をおえたのは5月19日、戦車約150輛に歩兵1個大隊、砲兵1個聯隊からなる師団は無電すら持たず、部隊間の連絡にはオートバイの伝令を飛ばす必要があった。

 第4機甲師団の位置するラン付近に迫るのはグデーリアン率いる第19装甲軍団(装甲3個師団その他)である。グデーリアンもド・ゴールと同じく早くから戦車の重要性に着目し、ドイツ軍の機械化構想に大きな役割を果たしていた。まさに両雄激突である。第4機甲師団はドイツ軍の急降下爆撃機に苦しみつつも勇敢な攻撃を繰り返して敵軍にいくらかの損害を与えたが、自身も打撃を受けて退却を余儀なくされた。実はこの時グデーリアンの指揮所から1マイルにまで迫っていたというのだが。(註1)

 註1 しかし、ド・ゴールは勇猛ではあったが、実地の指揮官としてはあまり有能でなかったという話もある。

 5月28日、増強された第4機甲師団は今度はアベヴィルのドイツ軍を攻撃した。この3日前、49歳のド・ゴールは臨時に准将の位を与えられ、「フランスで最も若い将軍」と呼ばれるようになっていた。この戦役の時点では極めて強力な武装を誇ったB型戦車を押し立ててのフランス軍の猛攻は一時はドイツ軍を押し返したが、空からの援護を受けられないまま決定的な勝利は取り逃がしてしまった。

   

   フランス脱出   (目次に戻る)

 それでも約400人の捕虜を得たド・ゴールは、「士官中の逸材」との感状を送られ、さらに6月5日にはパリに呼ばれることになった。レイノー内閣に国防次官として参加せよとのことである。「私はこの師団の師団長だったことを名誉に思う。フランスの最後の勝利を信じる」。6月7日、ド・ゴールは第4機甲師団に別れを告げ、単身パリへと戻った。他の戦線では、既に5月28日にベルギーが降伏し、6月4日には、北フランスの一角に孤立していた英仏軍の一部が、ダンケルクの海岸からイギリスへと逃げ込んでいた。パリのフランス政府はまだ降伏した訳ではないとはいえ、もうフランス国内で戦うのは無理である。フランス中部で戦いが続いている今のうちに、少しでも多くの戦争資材を北アフリカの植民地に輸送し、その地で戦争を継続すべきである。すでに諦め顔で「もうおしまい」と語る国防大臣ウェイガン将軍に対し、「なんですって? おしまいですって? では世界は? 植民地は?(ド・ゴール大戦回顧録)」こう答えたド・ゴールは自らロンドンに飛び、英首相チャーチルに会見を申し込んだ。イギリス空軍が引き続きフランス上空で戦い、北アフリカへの輸送を援護してくれるよう頼むためである。しかしこの依頼はフランスよりも自国の防衛が大事なチャーチルに断られ、幾らかの地上軍増派という約束を得たのみでパリに引き返さざるを得なかった(註1)

 註1 チャーチルの方もこの前後に何度も英仏間を行き来しており、ド・ゴールと何度か会っている。この時点のチャーチルが(まだ無名といっていい)ド・ゴールのことを実際にどの程度評価していたのかは知らないが、回顧録では「これこそフランスを背負って立つ人」「苦痛を耐え忍ぶ並々ならぬ資質」と褒め讃えている。

 6月10日、フランス政府がパリからボルドーに移転した。同日にはイタリアがフランスに宣戦布告した(註2)。パリは「無防備都市」たることを宣言した。1907年のハーグ陸戦条約により、無防備都市への攻撃が禁止されていたからである。ドイツ軍はすでにセーヌ河畔に達しており、フランスの滅亡は刻一刻と迫りつつあった。

 註2 イタリア軍部の一部は「瀕死のフランスに一撃するのは卑屈」と対仏宣戦に反対したがムッソリーニに押し切られた(ムッソリーニの戦い)。現実に進撃を始めた後、フランス軍の防御陣に阻まれてほとんど前進出来なかった。

 ド・ゴールは久しぶりにペタン元帥に会った(註3)。ペタン曰く「君も将軍になったね。だが、祝いの言葉はなしにしよう。敗戦の最中に昇進したって何になるかね?」「しかし、元帥、あなた御自身にしたところで、はじめて将軍の星を受けられたのは、1914年の退却の最中でしたよ。数日後がマルヌの戦い(英仏軍の最初の勝利)です」「……何の関係もない……」。

 註3 ペタンはこの時は副首相をつとめていた。彼が副首相に就任したのは5月20日、つまりドイツ軍の侵入が始まった後である。それ以前はスペイン大使を勤めていたが、敗北がほぼ決りかけた母国に呼び戻され重責を担わされようとするペタンを引き止めるフランコ総統(スペインの独裁者)に対し「祖国が私を呼んでいる」「私には義務があります」と語り帰国したという(村松ド・ゴール伝)。

 ヨーロッパの戦いに対し中立を守っていたアメリカは英仏独伊間の和平を打診していたがこれは独伊に無視され、フランスからの度重なる参戦依頼の方は拒否し続けていた。この頃のアメリカ世論は孤立主義の雰囲気が濃厚であった。12、13日、さらに15日、移転先でフランス政府の閣議が開かれた。国防大臣ウェイガン将軍や副首相ペタン元帥は休戦を主張し、レイノー首相、マンデル内相、そして国防次官ド・ゴールは、まだ無傷の海軍(註4)と海外植民地を利しての徹底抗戦を唱えた。そして6月16日、議論をまとめられなくなった首相レイノーが辞任して、かわって副首相のペタン元帥が新内閣を組閣した。「すべてのフランス人は、このつらい試練の時にあたって、私の主宰する政府のまわりに結集してほしい……」。すでに14日にはドイツ軍がパリ入城を果たしていた。これ以上の戦闘は無用の流血を招くだけである。元帥はすでに84歳、第一次世界大戦の「ヴェルダンの英雄」も年老い、前線での敗北の原因を聞かれて「伝書鳩の使い方が悪かったのだ。無電に頼りすぎたのだろう……」と答えたというが、少なくとも今のフランスに勝ち目がないことだけはしっかりと理解していた。

 註4 フランス海軍の主力は地中海におり、イタリア海軍と交戦していた。

 しかしド・ゴールの考えはかつての上司のそれとは異なっていた。彼は決して抗戦を捨てることをせず、ここは一旦イギリスに逃げるという決意を固めた(註5)。前首相レイノーがくれた機密費10万フラン(註6)をポケットに英軍機に飛び乗った(註7)のが6月17日(註8)、その一方で、ペタン新内閣がドイツ軍と休戦協定を結んだのが22日であった。以後、ド・ゴールはイギリスにて「自由フランス」を、ペタンは本国にて「ヴィシー政府」を率いてあい争うこととなる。

 註5 対してペタンたちは、フランスの負けが決ればイギリスもすぐに降参すると考えていた。

 註6 戦前の日本円で約7000円という。

 註7 これは、文字どおり「飛び乗った」のだという。この時フランスに派遣されていたイギリスのスピアーズ将軍が乗って帰ろうとした飛行機が、昇降口の階段を外しプロペラを回しはじめた時にいきなりド・ゴールが歩み寄ってきて乗り込んだのである(村松ド・ゴール伝)。これは、ド・ゴールとスピアーズ、チャーチル英首相が前もって段取りしていたのだともいう(チャーチル大戦回顧録)。

 註8 夫人と子供たちも最後の船便で脱出してくる。母親は病気のためフランスに留まり、8ヵ月後に亡くなった。

   

   ヴィシー政府   (目次に戻る)

 ドイツのヒトラー総統はフランスとの休戦交渉に際し、最初は極めて過酷な要求を考えていた。しかしフランスの海軍(註1)と植民地が無傷であることを考慮し(対独協力の歴史)、むしろそれらをフランスの手に残してやるという寛大な条件で早急な休戦を実現することにした。まだイギリスが徹底抗戦を叫んでおり、フランス艦隊と植民地がそちらに合流したら困るのだ。という訳でペタン元帥率いる「フランス国」は海軍と植民地を保有したまま(註2)の存続を認められ、表面的にはその権限はフランス全土に及ぶこととなった。政権の所在地から「ヴィシー政府」(註3)と呼ばれるこの政府はおかげで(フランス史3)全世界に承認された(註4)が、実際にヴィシー政府の完全な主権が及ぶ地域は植民地以外にはフランス南東部の「自由地区」に限定され、ドイツ軍が直接占領するフランスの北半と大西洋沿岸には、ヴィシーの閣僚ですらドイツ軍の許可なしには入ることが出来なくなった。おまけに1日4億フランの「占領税」の支払いを義務づけられ、これまでの戦いでドイツ軍の捕虜になっていたフランス兵たち(150万人)も引き続き抑留されてしまったが……。しかし、「休戦協定は締結された。戦いは終ったのだ……。我々が同意しなければならなかった条件は厳しいものである。……だが少なくとも、名誉は守られた。何人も我々の飛行機や艦隊を使用することはないであろう。我々は、本国と植民地において、秩序を維持するのに必要な陸海軍部隊を保持している。政府は依然として自由である。フランスはフランス人によってのみ統治されるであろう」とのペタン元帥の言葉に、多くのフランス人が安堵のため息を漏したのであった(対独協力の歴史)。

 註1 1940年のフランス海軍は戦艦7隻・空母2隻・巡洋艦19隻・駆逐艦32隻等の強力な艦隊を保持していた。

 註2 陸軍は10万人に制限された。植民地軍は別枠だが。

 註3 ヴィシーは南フランスの温泉地。ホテルが多いことから政庁を設置するのに便利と考えられたのだという。

 註4 アメリカ合衆国も承認した。

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