ド・ゴール伝 第2部その4

   

   パリ解放   (目次に戻る)

 ドイツのヒトラー総統はパリの破壊を命じていた。しかしパリのドイツ軍司令官フォン・コルティッツ将軍はこの命令を無視し、永遠の都パリを破壊から守った。8月24日、ルクレール率いるフランス第2機甲師団がパリに到着した。翌日、ドイツ軍のフォン・コルティッツ将軍が降伏した。ルクレールは降伏文書への共産主義者ロン・タンギ大佐の署名を許したが、このことで後にド・ゴールの叱責を受けることになった。ちなみにこの時の降伏文書の宛名はフランス一国のみ、これは第二次世界大戦において唯一のことであったという。

 同じ頃、ヴィシー政府主席のペタン元帥がドイツ警察に連れられ、アルザスの古城へと移されていた。その少し前、ペタン元帥は自らの(大戦前の政権を一応合法的に引き継いでいるところの)政権をド・ゴールに引き継がせようとの書面を作成した。レジスタンスの指導者の中にはこの試みに賛成する者もいたという(村松ド・ゴール伝)が、ド・ゴールはきっぱりと断った。さすがにド・ゴールはかつての師を思い、その回顧録に「私は元帥にこの書面を書かせた崇高な動機を、認めないわけではない。ペタンがド・ゴールの腕のなかに結局倒れこんできたという事実が、民族の将来の精神において演じる重要性を、疑うわけでもない。それでも、私は沈黙をもって答える他になかった」「元帥殿 ! かつてわが軍にかくも偉大な栄誉を与えたあなたは、かつて私の上司であり私の師表であったあなたは、いったいどこへ連れて行かれたのですか」と記さずにはいられなかった。

 25日の夕方、ド・ゴールがパリに入った。一部のドイツ軍部隊が降伏に従わずに抵抗を続けているとはいえ、路上には群集がひしめき、家という家の窓からは三色旗がはためいていた。パリ市街を進むド・ゴールの車が銃撃を受けたが、ド・ゴールは車から降りて銃弾の飛び交うなか悠然と煙草をふかし、「少なくとも国を出たあの時よりは、ましな条件で戻ってきたようだな」。ド・ゴールは陸軍省の建物を訪れた。1940年6月10日、ド・ゴールと当時の首相レイノーとがここを離れて以来4年間、調度は何一つ変わっていなかった。

 パリ市庁舎ではレジスタンスの指導者たちがド・ゴールを待ち受けていた。パリのレジスタンスを指導した共産党員のひとりジョルジュ・マラーヌと「全国抵抗評議会」の議長ジョルジュ・ビドーその他である。ド・ゴールは評議会のメンバー紹介を受けようとしなかった。ビドーはド・ゴールに対し、市庁舎のバルコニーから共和政宣言をすることを提案した。しかしド・ゴールはそのようなレジスタンスからの提案を退け、「共和政はいまだかつて存在しなくなったことがない。自由フランス、国民解放委員会が相次いでこれを体現してきた。ヴィシーは常に無効であったし、いまも無効である。私自身は共和国(臨時)政府議長なのだ。共和政を宣言すべき理由があろうか」といって窓の所に赴いて身振りで挨拶し、群集の大喝采を浴びた。ド・ゴールは共産党を、そしてレジスタンスをも出し抜いたのである。(この場にいた訳ではないが)後の大統領であり、自身もレジスタンスの活動家であったフランソワ・ミッテランは、レジスタンスの栄光をド・ゴールが独り占めしたことに対する強い反発を終生抱き続けていたという(渡邊フランス現代史)。

 26日午後3時、ド・ゴールは凱旋門を訪れ、次いで無名戦士の墓に花輪を捧げた。凱旋門からノートルダム寺院まで3kmのパレード。200万のパリ市民が参加した。ドイツ軍による攻撃の恐れがあったにもかかわらず、いや、現実に銃撃があったのだが、それでもド・ゴールはその2mの長身をゆっくり堂々と運び、パリはその歴史始まって以来の歓呼に包まれたのである。

   

   エピュラシオン   (目次に戻る)

 しかし、ただ単純に喜んでいる訳にはいかなかった。この日の夜にはドイツ軍による大規模なパリ空襲が行われて数千人の死傷者が出、物資の不足は極度に深刻なものがあった。またそれとは別の問題として、ドイツ軍占領下での対独協力者(コラボ)への追放・粛清(エピュラシオン)が荒れ狂った。パリ解放の直後にすでにリンチにあうコラボや、ドイツ士官と付合っていたことを理由に髪を剃られる女性の姿が映像に残されている。とはいえ、その後の正規の裁判の結果死刑に処せられたのはわずか767人(註1)であり、告発の数も年月の経過とともに減っていき、1964年にはついにゼロになった。大戦終結前後に逮捕されたヴィシー政府の要人のうち、死刑になったのは3人だけであった。「忌わしい過去は封印してしまうしかなかった。『フランス人は皆勇敢にレジスタンスを戦った』=この『レジスタンス神話』に逃げ込むことで、フランス人は未来に向かって進もうとした(渡邊フランス現代史)」のである。

 註1 正規でなく死刑になったのが約1万人と『フランス史3』にあるが、実際の詳しい数字は調べようがないだろう。

 1945年4月、ドイツにいたペタン元帥は、自分がフランスで欠席裁判にふせられることを知った。ペタンはヒトラーの制止を振り切ってまず中立国スイスに向かう。ペタンのスイス入りを知ったド・ゴールは、てっきりそのまま亡命してしまうのだと思い(恩師を直接裁くという辛い思いをしなくて済むと)スイス政府に礼を言った。が、元帥はそこからフランスに帰ってきた。スイス側の国境警備隊は敬礼をして見送ったがフランス側はそうはしなかった。ほんの小銭程度の所持金しか持っていなかったという。

 89歳の老元帥に対する裁判が始まったのは7月23日、「私は自分の力を、フランス人民を守る楯として役立てようと、あらゆる努力を重ねました。そのために私は、自分の威信をさえ、泥土にゆだねた。私は占領下の国家の首長としてとどまったのです。こういう条件下で行政を行うことがいかに困難であるか、わかっていただけるでしょうか?」27人の判事は14票対13票で、ペタンに死刑の判決を下した。ド・ゴールはペタンが老齢であることを理由に無期禁固に減刑し、ピレネー山脈のポルタレ要塞に送った。ペタンをさらに減刑しようとの運動が起こったが、獄中のペタンは、自分よりも自分の下でヴィシーに協力したために投獄された人々の方が心配だと語った。その後ユー島に移されたペタン元帥が亡くなったのは1951年、享年95歳であった。(註2)

 註2 ペタンの遺骸は何者かによって掘りおこされ、今もって行方不明である。

   

   第四共和政   (目次に戻る)

 

 話を戻す。1944年9月9日、それまで北アフリカのアルジェに所在した共和国臨時政府(ド・ゴール首班)がパリに到着した。ここで新しいメンバーを迎えた臨時政府はその閣僚22のうち8人が戦前の議員経験者であり、共産党を含む国内レジスタンスの代表者まで入閣する挙国一致内閣となっていた。いうまでもなく問題は共産党である。戦争の混乱で労働者の生活は極度の圧迫を受けており、ド・ゴールはその労働者の支持を受ける共産主義者に政府の権力をわかち与えることで、労働階級をなだめることを急いだ(ド・ゴール伝)のである。

 しかしその一方でド・ゴールは、国内レジスタンスの中で主として共産党が指導していた武装組織「愛国民兵」の解散を命令した。「彼等が政権に対し、それを拘束ないし征服するためにいつでも圧迫を加える用意が出来ている気配が感じられた(ド・ゴール大戦回顧録)」からである。これには相当の反発があったが、11月にフランス共産党書記長モーリス・トレーズが解散受け入れを表明した。彼は当面の任務が対独戦争の勝利にあることを認め、フランス人が一致団結し、平和協力することを最優先したのである。「これは疑いもなく、ソ連がフランス共産党にすすめたことであったろう(ド・ゴール伝)」

 10月23日、ルーズベルト米大統領が共和国臨時政府を承認した。その直後に実施予定の大統領選挙で、ド・ゴールに同情的なアメリカ世論を味方につけるためであった(ド・ゴール大戦回顧録)という。また、フランス共産党(ソ連に忠実)の勢力伸長を抑えるためにもいまやド・ゴール(反共)はなくてはならぬ存在となっており、アメリカによるド・ゴール政権承認は当然の成行きであった(第二次世界大戦〜忘れ得ぬ戦争〜)。それまで米英両国はフランスを分割占領して軍政を布くことを考えており(『ナチ占領下のフランス』他)、それだけは何としても避けたかったド・ゴールの最終的な勝利が確定したのである。

 1945年4月30日、ソ連軍の攻撃下のベルリンでドイツのヒトラー総統が自決し、翌月7日には総統の後継者デーニッツ提督と連合国との降伏協定が調印された。ヨーロッパの戦いは終結した。しかし、話が前後するが……前年の8月にパリが解放された後も、ドイツ軍の軍服をつけて戦うフランス人の若者たちが存在した。ヴィシーのなかでも積極的な協力派に属した彼等は42年頃からヴィシーの許可を得てドイツ軍の各部隊に入隊していたが、パリ解放と同時期に武装SS(註1)の「シャルルマーニュ旅団」に統合された。彼等はフランスからドイツに移動する際に同じフランス人のレジスタンスの攻撃を受けて多数が死傷し、一部はイタリアに転戦、主力は45年2月に東部戦線にて押し寄せるソ連軍の前に壊滅した。主力の生き残り〜名前だけは師団となり「第33武装SS擲弾兵師団シャルルマーニュ」を名乗る〜はベルリンに退却し、ソ連軍の総攻撃下に総統官邸の地下壕を守って全滅したのであった。

 註1 「武装親衛隊」の略称。ドイツ陸軍とは異なる、いわばナチスの私兵。

 ……とにかく、まだアジア・太平洋では日本軍が絶望的な戦闘を続けているとはいえ、第二次世界大戦の終結は目前に迫っていた。この6年間の戦争を通じてのフランスの死者は約63万を数えていた。これは第一次世界大戦の時のフランスの死者135万の半分以下の数字であった(註2)とはいえ、その分ドイツ軍占領下とその後の解放戦争で失われた物的資源ははかり知れないものがあった。

 註2 数十万の死傷者を出す大会戦を何度も繰りかえした一次大戦と異なり、今回の戦争では短期間で休戦していたから。

 10月、国民投票と総選挙が行われた。この選挙では初めて女性参政権が認められ、登録された選挙人2500万のうち2000万が投票した。戦前の、数ヵ月で内閣が変わり続けたという不安定な政情(註3)とヴィシー体制時代の独裁への嫌悪から、国民が新たな政治体制を希求していたのは確かであった(註4)。国民投票では96%という圧倒的多数で戦前の制度の失効・無効化が決定され、新憲法制定とそのための憲法制定議会の招集とが認められた。ここにいわゆる「第四共和政」が誕生した(註5)のである。総選挙の方では共産党が500万票、161議席を占めて第1党となった(総議席588)。続く第2党は、レジスタンスで活躍した南部のカトリック教徒による新政党「人民共和運動(以後MRPとしるす)」と、こちらは戦前から力を持つ社会党とが同数で、それぞれ150議席を獲得していた。

 註3 65年間に102の内閣が交代した。同時期のイギリスで20、アメリカでは14にすぎなかった。これについては本稿の述べるところではない。

 註4 『渡邊フランス現代史』より、しかし、その後成立した「第四共和政」は相変わらず不安定なものになってしまう。

 註5 フランス革命の時の共和政、1848年の二月革命の時の第二共和政、ナポレオン3世失脚後の1875年に出来た第三共和政〜それが二次大戦の敗北まで続いた〜に続く、フランス史で4番目の共和政である。

   

   ド・ゴール退場   (目次に戻る)

 この選挙結果に基づいてド・ゴール首班の共和国臨時政府も改造された。もちろん第1党たる共産党や、社会党も入閣している。閣内で最も親ド・ゴール的なのはMRPで、この党は農民や小ブルジョワを主体とするその性格から、共産党に対抗し得る勢力として支持を集めていた(渡邊フランス現代史)のであって、その点反共的な考えを持つド・ゴールに近い政党だったのである。しかし共産党は挑発的で、全閣僚ポストの3分の1と外務・内務・国防のどれか1つを要求してきた。ド・ゴールも他の党もこれには賛成できかねた。共産党はやむなく要求を下げ、かわりに経済閣僚のポスト4つをもらって満足した(註1)。経済問題に関する詳しい解説は端折る〜筆者が理解出来ないから〜が、とにかくド・ゴールは共産党の協力を受け、大企業の国有化、労働組合結成の自由、社会保障制度の拡充等々を推進した。ただし、ここで国有化されたルノー社とフランス航空にはドイツに協力したという前科があり、共産党の妥協を引き出すための生贄にされたという側面もある(大森ド・ゴール伝)のだが……。全体としては、経済の基軸部門を国家の立場で管理運営し、また、金融部門を国有化することによって投資のための資金源を獲得するという、かなり社会主義的な政策(現代フランス政治史)が実行にうつされたのである。

 註1 この時点ではソ連の方は西側諸国に全面的に協力する意向であった。イタリアでも共産党が入閣しているし、日本でも終戦に伴って出獄してきた共産主義者がアメリカ軍を「解放軍」とたたえている。44〜45年頃の時点でアメリカやイギリスに占領もしくは解放された諸国で共産主義勢力が内戦を起こしたのはギリシアだけだが、これはソ連の意向とは無関係であった(当サイト内の「ギリシア近現代史」を参考のこと)。

 しかし、もちろん戦後の混乱はすぐに終息するものではなく、生活苦にあえぐ公務員の間ではストライキの噂がしきりであったが、本来そこでストを主導すべき共産党のトレーズ書記長が「公務員がストライキをするのは、祖国に対する犯罪をおかすことであろう」と言明したのは、現在から考えればあまりにも露骨かつ極度の政治的発言であった(註1)

 註2 ド・ゴールですらその回顧録に、「『労働者の党』のこの思いもよらぬ、耳目を驚かす発言」と記している。

 次にド・ゴールの前に立ちはだかったのは社会党であった。社会党は政府与党でありながら、議会で突然国防予算の20%削減を要求してきたのである。これは政府首班ド・ゴールに対する明白な裏切行為である。社会党は「政府をして議会の意志の前に屈服させるだけが問題」と表明した。つまり政府よりも議会の力を優先すべしとの考えであるが、ド・ゴールの考えはその全く逆であった。1946年1月20日、ド・ゴールは突然辞意を表明した。「排他的な政党政治が姿をあらわしています(国家全体よりも政党の利害を優先している)。私はそれに気付いています。(政党の思惑を超え、国家のためを考えるには)力による独裁体制の樹立しかありません。しかし、私はそれを望みませんし、それが事態を改善するものでないこともわかっています。従って私は辞任します」。実際の辞任の理由は色々言われている。議会からの慰留という形ですぐに復帰するつもりだったという説(渡邊フランス現代史による。同書によると、この後、最も親ド・ゴールであったMRPに見捨てられたので復帰出来なかったのだという)。この後の国際政治におけるフランスの困難な立場を考え、一時在野で静観して、「ちょっと横に引っ込んでいようと決めた」のだという説(ド・ゴール伝)もある。後者の説には解説が必要であろう(「」内は同書からの引用)。つまり、大戦終結後急速に進む米ソの冷戦を考慮したというのである。現在のフランス共和国臨時政府に「共産党が入閣している限り、アメリカからの大きな援助は期待出来なかった」「世界は国際紛争に向かって進みつつあり、この紛争では、フランスがド・ゴールの気持ちにとって貴重な東西間の、?独特無比の特別な?地位を保つことが不可能と見られていた」というのである。確かにド・ゴールは大戦中からソ連に接近し、同時に米英とも微妙な駆け引きを演じるという独自の外交政策を展開していた。しかし来るべき米ソの2極対立の時代にそれを続けるのは、現在の疲弊しきったフランスには不可能な話であり、かといってアメリカの傘下に隠れてしまうのは「フランスは大国なのです(ド・ゴール大戦回顧録)」と言い切る誇り高きド・ゴールにとって、我慢ならないものだったのである。

 しかしこうとも言える。「フランスは大国」などと言うのはド・ゴールのひとりよがりである。ドイツ軍に敗北を喫し、国家存亡の危機に立たされたフランスにおいて、強い意志と強烈な愛国心を持つド・ゴールは自由フランスの指導者として強力なリーダーシップと政治力を発揮し、それ故にこそ解放後のフランスに「救国の英雄」として帰還出来たのだが、それは自由フランスに参加した人々が「フランスの主権の回復」という一点において堅固な団結を持っていたからである。しかし解放という大目的を成し遂げた今、以降のフランスの復興をいかなるかたちで行うか、これは様々な考えが対立するのが当然で、ド・ゴール独りの意志を押し通せるものではない〜もちろんそれは独裁を別にすればだが〜とにかく今、フランス国家の存亡という危機は去ったのである。「危機に立つ英雄」ド・ゴールの退場は必然であり、その完全復活は、フランスがもう一度本当の危地に立つまで、1958年まで待たねばならないのである。

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