ド・ゴール伝 第3部その3

   

   フランス軍の精鋭   (目次に戻る)

 

 1956年12月24日、新任のアルジェリア派遣軍総司令官ラウール・サラン将軍が着任した。彼はかつてのインドシナ戦争の際に最後のフランス軍司令官をつとめた経歴をもち、コロンから「インドシナで祖国を売り渡した左翼将校」「アルジェリアでも同じことをやるに違いない」と決めつけられていた。もっともこれには何の根拠もなく、以降のサランの行動はかような決めつけとは全く逆の方向に進んでいくのだが‥‥。FLNとの戦いはいっこうに好転せず、いらつくコロンや現地フランス軍の間には、軟弱で妥協的な(と、コロンに思われていた)本国政府や総督府を転覆し、強力な軍事政権を樹立しようとの動きが現れてきた。サラン着任の直後にはアルジェ地区副司令官ジャック・フォール将軍のクーデター計画が発覚し、翌年1月にはサランの執務室にバズーカ砲が打ち込まれる事件(バズーカ事件)が起った。サランは間一髪で逃れたものの、犯人として逮捕されたコロンの過激派グループは、サランを「インドシナの裏切者」と罵り、自分達の背後にはフランス本国の(コロンに同情的な)政治家がついているとほのめかした。

 現地フランス軍は「小さな黄色人種」に敗れたインドシナ戦争の仇をアルジェリアでとろうとし、また、軍隊の様々な不幸の原因は本国の政治家たちにありと考えて、特に後者のそれはスエズ戦争以来どんどん強くなってきていた。なかでもフランス軍の精鋭、インドシナ帰りの将校を中核とする落下傘部隊や、本来がアルジェリア征服のために創設された外人部隊(1830年創設)は以上の考えを持つ(そしてその武勲ゆえに部下達に慕われる)佐官級の将校によって私物化され、FLNと本国政府の双方から恐れられるようになった(アルジェリア独立革命史)。

 落下傘部隊の指揮官としてはすでにデュクルーノー大佐が登場しているが、他にも大戦中中国で勤務して毛沢東のゲリラ戦術を研究したトランキエ大佐、インドシナ戦争のディエン・ビェン・フーの勇士ビゲール大佐等がその姿をあらわしていた。すでにインドシナで名をあげていた指揮官の多くは士官学校卒業生ではなく、下層からの叩き上げであった。ビゲールは部下に猛訓練を施しつつも見た目の「格好良さ」を重視して、部下を閲兵する際にはオープンカーで乗り付け、ヘリコプターから地面に降り立つ時も、わざわざ高空から落下傘で飛び下りていた。本国の若者たちにとって、「自転車マーク」と呼ばれる落下傘部隊のバッジは憧れの的だった。外人部隊は昔からフランス軍最強とされており、フランス軍の征くところ必ず先頭に立ち、自由フランス軍草創期にもその主力を占めていた(註1)ことはすでに述べたとおり。最良の食糧を支給され、専属の移動売春宿まで従えていた。(註1)

 註1 自由フランス側の外人部隊とヴィシー側の外人部隊が戦ったこともある。

 註2 55年当時、外人兵の47%がドイツ人、12%が国籍を放棄したフランス人、11%がイタリア人であった。

   

   アルジェの戦い   (目次に戻る)

 少し話が前後する。1956年6月19日、バルブルース監獄で2人のFLN幹部がギロチンにかけられた。FLNは直ちに報復を指令し、「FLNのメンバーが1人ギロチンにかけられるごとに、100人のフランス人が無差別に殺害されるであろう」と宣言した。その予告に従って、以降の5日間で49人のコロンが殺害された。8月10日、今度はコロンの過激派(あるいはアルジェ市警察か?)がアルジェ市内のFLNテロリストの潜伏場所(という噂のあった建物)を爆破し、アルジェリア人70人を殺した。一方のFLNは幹部ヤーセフ(註1)の指揮下に1400人のテロ部隊をアルジェに集結させ、9月30日に爆弾テロを行ってコロン3人を殺し50人を負傷させた(註2)

 註1 一度フランス警察に逮捕されたが、二重スパイになってやると嘘をついて釈放されたという経歴の持ち主。

 註2 この事件は後にポンテコルヴォ監督が『アルジェの戦い』というタイトルで映画化した。FLNの幹部ヤーセフも自分自身の役で出演している。

 この事件の現場はコロンの上流階級の集まる店で、FLN構成員の中から選んだ若い女性3人に現地民とは思えぬ軽装をさせ、水着で包んだ時限爆弾をいれた鞄をテーブルの下に置いてこさせるという作戦だった。これまでアルジェ市に関してはFLNのテロもなく、むしろ大勢の軍人が派遣されてきたおかげで商店が潤って好景気とさえいえる状態だったのだが……ここにきて遂に、アルジェ市を舞台とするテロ合戦、いわゆる「アルジェの戦い」が始まったのである。「アルジェの戦い」のFLNメンバーは、「フィダイ」と呼ばれる、いわゆる便衣隊で、制服を着たFLN正規兵が行動出来ない都市部において平服をまとって戦う部隊であった。

 貧しいアルジェリア人の住むスラム街(カスパ)の傾いた建物群は、上の階が向かいの家と道路を挟んで軒を接するかのようであり、フランス官憲に追いつめられたFLN戦士は窓から窓へと飛び移って巧みに捕縛の網を免れた。フランス官憲にとって、貧民街に溶け込むFLN戦士は全く目に見えない敵であった。「アルジェ地方のコロンたちは、戦争など存在しないと言い切るのである。『戦争があるとするなら』と彼等は言う。『敵と味方がなければならない。一方にはフランスの軍隊がある。ことろがもう一方には、とらえることも出来ない埃があるだけだ。埃を相手に戦争など出来るものではない。これは、戦争とは別の名で呼ばれるべきものなのだ』(アルジェリア戦争)」FLNは住民の助けを借りて、秘密の通路や爆弾工場(註3)をいくつも設置していた。

 註3 FLNの持つ爆弾はフランス軍やコロン過激派の持つものより非力だった。また、FLNに殺されたフランス人よりも、フランス人に殺されたアルジェリア人の方が10倍は多かった。

 12月28日、アルジェ市長のアメデ・フロジェが拳銃で暗殺された。もちろんFLNの仕業であり、翌日の葬儀の際にも、埋葬予定の墓地に爆弾が仕掛けられていた(こちらは失敗した)。参列していたコロンは怒り狂い、(多分無関係な)アルジェリア人を襲って4人を殺し50人を負傷させた。警察は見て見ぬふりだった。

 翌57年1月7日、総督ラコストは総督府に第10落下傘師団(スエズ帰り)司令官ジャック・マシュー将軍を呼び寄せ、マシュー配下の隊員4600人をもってアルジェ市警備にあて、さらにマシューにアルジェ市の秩序維持に関する全責任を委ねるとの説明を行った。マシュー麾下の落下傘4個聯隊はアルジェ市内にくまなく配置され、FLN容疑者の令状なしの逮捕・拷問を行った。(註4)

 註4 いわゆる「アルジェの戦い」は落下傘部隊の着任から始まったことになっている。

 1月27日、アルジェのアルジェリア人労働者がゼネストに突入した。しかしマシューの落下傘部隊(パラトルーバー)はストに参加する商店のシャッターを引き剥がし、48時間後にはストを完全に崩壊させた。マシューはFLN組織の壊滅に全力をあげ、2月25日にはFLNの幹部ベン・ムヒディの逮捕に成功した。ベン・ムヒディは苛烈な拷問に耐え抜き、情報を吐かないまま獄死した(拷問で殺された)。総督府の公式発表では自殺だが……。ゲリラ戦の権威トランキエ大佐は全市を市街地区防衛配備(DPU)によって細かい街区に区分けし、各街区の責任者に任命した親フランス派アルジェリア人に密告を義務付けた。最も重視されたカスパ(アルジェのスラム街)の治安維持にあたったのはビゲール大佐の第3植民地落下傘聯隊であり、わずか1平方キロの面積に10万のアルジェリア人がひしめくこの地区を徹底的に隔離、各戸ごとの捜索を行った。地区の男子人口の3分の1が少なくとも1度は連行され(アルジェリア解放戦争)、保安作戦部隊(DOP)による拷問にさらされた。

 両者の攻防はその後も続く。5月初め、落下傘兵2人が射殺され、報復に出たフランス軍が犯人が逃げ込んだとみられる公衆浴場で軽機関銃を乱射、80人のアルジェリア人を殺した。6月3日、FLNが報復し、街灯に仕掛けた爆弾で8人を殺し90人に重傷を負わせた。しかしこの時はアルジェリア人まで巻込んでしまったため、次の標的は富裕なコロンのみの出入りするポイントが選ばれた。

 そして6月9日、アルジェ市郊外のカジノに爆弾が仕掛けられ、その爆発で9人のコロンが死んだ。大勢のコロンが怒りにまかせ、アルジェリア人の経営する商店を略奪する等の報復に出た。この辺りでFLNの息が切れてきた。同じ頃、アルジェ市背後の平原地帯ではアルジェのフランス軍を引き出すための陽動作戦が行われていたが、5月25日にアグーネンダで起こった戦闘はアルジェから転用されてきたビゲール大佐率いるフランス軍の完勝に終った。

 9月24日、アルジェのFLN指導者ヤーセフが落下傘部隊の手に落ちた。ヤーセフは軍事裁判で死刑を宣告されたが、翌年のド・ゴールの大統領就任の際に、大統領特赦で釈放されることとなった。他のFLN幹部アリ・ラ・ポワントは落下傘部隊によって爆殺された。結局、「アルジェの戦い」はFLNの敗北によって終結した。数ヶ月間に渡ってFLNのテロに怯え続けたコロンの生活は平常に復し、FLN鎮圧に尽力した「栄光の落下傘部隊」はコロンの絶賛を浴びたのだった。

 ……とはいえ、落下傘部隊による拷問の実体も外部に知れ渡ってしまったため、良心的なフランス知識人による抗議声明も行われた。フランス軍の中でもラ・ボラルディール将軍が辞任を申し出、規律違反の罪で60日間の要塞監禁刑に処せられた。アルジェの総督府政庁警視総監ポール・テージャンまで抗議の辞表を提出した。彼は職務上はアルジェ市の治安に関する責任者のはずなのだが、実際には落下傘部隊のマシュー将軍から送られてくる書類にサインをするだけで、恣意的な逮捕や拷問をとめることが出来なかった。マシューは語った。「アルジェリアにおける我々の行動の不可欠の条件は、こうした方法(拷問)が、我々の魂と良心において、必要な、かつ道義的に価値ある手段として許されることである」(註5)。残虐行為は一部の行き過ぎではなく、政府や軍の高官の承認によって公然と行われていたのである。マシューはFLNの戦いを「国際共産主義とその手先の行っている破壊戦争」であると決めつけ、フランス軍の指揮官のなかには、この戦争の目的は「西欧の守護」にあると本気で信じこんでいる者もいた(アルジェリア戦争)のである。

 註5 映画「アルジェの戦い」は是非読者の皆さんにも観ていただきたい。アルジェリア側の視点に立つ作品ではあるが、マシューの言い分もきっちり描かれている。FLN戦士はもし逮捕された場合には24時間の完黙をするよう指示されており、その間に拷問でもなんでもして情報を聞き出さなければたちまちFLN組織が修復してしまうというのである。

   

   サキエト事件   (目次に戻る)

 「アルジェの戦い」の後しばらくはFLNにとっての暗黒時代であった。FLNと抗争する他の対仏抵抗組織はフランス軍に篭絡され、FLN内部でも権力闘争が絶えなかった。フランス軍はFLNと一般アルジェリア人との隔離をはかり、100万人以上の農民を村から引き離して他地方の宿営所に「再集結」させた(註1)。FLNはフランス軍の猛攻(註2)に耐えきれず、FLNに好意的な隣国チュニジアへの撤収をはかる有様だった。

 註1 これはフランスの評判を甚だしく悪くした。宿営所の住環境は最悪であり、マシュー将軍すら驚いている。

 註2 フランスの正規軍が50万、コロンを召集した「郷土部隊」が3〜4万、同じくコロンが自発的に組織した「自警隊」が7000、親仏派アルジェリア人の「治安維持遊動隊」が8000、同じくアルジェリア人の「ハルキ」が6万であった。これに対してアルジェリア国内のFLN正規軍は約3万と考えられ、その差は歴然である。ただし、「ハルキ」等に属するアルジェリア人にはFLNに内通する者が多数いた。(『アルジェリア解放戦争』による。1960年の数字)

 ところが、FLNは戦闘では不振続きであったが、政治面では勝利をおさめつつあった。FLNは40万を数えるフランス在住アルジェリア人を「フランス連盟」に組織し、彼等から徴集する金を武器購入資金にあてようとした。貧しいアルジェリア人から集めたぼろぼろの紙幣はスーツケースに詰め込まれ、フランス人の親FLN組織「ジャンソン機関」によって主にスイスへと持ち出された。フランス軍によるFLN容疑者に対する拷問の実態が少しづつ知れ渡り、フランス人自身による反戦気運が高まってきた。「ジャンソン機関」は1960年には摘発されて解体するが、その時には約3000人の協力者を擁していたという。また、1956年1月から、アルジェリアの砂漠地帯で石油の採掘が始まっていたが、FLNの背後には石油の利権獲得を狙うアメリカの影があると噂されていた(これについてはよく分からない。が、かなり広範に信じられていたようである)。

 そのアメリカではFLNのエージェントが活躍し、57年7月には当時野党民主党の上院議員だったJ・F・ケネディの支持を取り付けた。ケネディの演説「アルジェリアの独立を承認し、フランス及び近隣諸国との相互依存関係確立の基礎となる解決を達成するための……努力を支援するよう米国の影響力を行使する」。以降、アメリカは国連においてフランスへの支持をやめ、棄権にまわるようになった。

 58年1月、ユーゴスラヴィアの輸送船「スロヴェニア」がフランス艦に臨検された。この船には小銃1万2000挺を含む武器弾薬148トンが積込まれていた。フランス諜報機関はすでに先月東側諸国がFLN援助に踏み切ったことをつきとめていた。また、アラブ諸国の援助や前述のジャンソン機関の活動で資金を得たFLNは、国際武器商人との取引きも活発に行った。武器商人の中にはナチスの残党も混じっていたといい、フランスSDECE(外国資料情報対策本部)の「第二四局」との暗闘を繰り広げた。武器商人が謎の死をとげることもよくあったという。

 FLNの最も強力な味方はチュニジアのブルギバ大統領であった。フランス軍の弾圧を受けたFLNの戦士はチュニジアに逃げ込んだが、その勢力はチュニジアの正規軍を上回るほどになっていた(註3)。チュニジアはFLNの訓練・休養のための最も便利で安全な聖域であった。ブルギバとFLNの仲は必ずしも良好という訳ではなかったが、それでもブルギバは隣国アルジェリアの独立を強く支持し、そのことでフランスと揉めるとアメリカに援助を要請した。

 註3 国外に逃れたFLN戦士は、チュニジアに3万、モロッコに2万いると見られていた。(アルジェリア解放戦争)

 58年2月8日、フランス軍機がチュニジア領内のサキエト村を爆撃した。ここにはFLNのキャンプがあった。

 この頃のアルジェリア国内のFLN勢力は壊滅状態となっており、チュニジアで武器の補給と訓練を済ましたFLN部隊はなんとか母国に戻って戦線に復帰しようとしていたが、それを察知したフランス軍はチュニジア・アルジェリア国境に鉄壁の封鎖線「モーリス線」を建設して厳戒態勢を布いていた。「モーリス線」は二重三重の電気鉄条網にサーチライト、地雷原をはり巡らし、装甲車と飛行機が絶えず偵察を続けており、これをチュニジア側から攻めるFLNは常に大打撃を受けて撃退されてはいたが、フランス軍の方でも「中立国」チュニジアへの越境攻撃を計画し、その結果がサキエト村爆撃なのであった。結果女性や子供を含む69人が死亡、チュニジアは直ちに国連に提訴した。米英両国が(フランス・チュニジア間の)調停に乗り出した。フランス本国のガイヤール首相はこれを受け入れざるを得なくなった。問題が国連に持ち込まれた場合、実際に越境爆撃をしたという点でフランスの不利が見えており、それよりも米英の調停によるフランス・チュニジア2国間協議でことをおさめようとしたのである(新版フランス史)。本国のガイヤール政府は事件の責任を現地軍に押し付け、アルジェリア派遣軍全体の怒りを買った。さらに米英のアルジェリア問題への介入が取り沙汰された。チュニジアのブルキバ大統領はアメリカに対し、自国内のフランス軍基地(註4)の管理権をアメリカに引き渡すという話で味方につけようとした。この話はフランスの新聞にも書き立てられた。アメリカがどさくさに紛れてフランスの利権を奪おうとしている……。

 註4 チュニジアはもともとフランスの植民地であり、独立後もフランス軍が駐留していた。その上でFLNを保護していたのだから、何とも奇妙な関係である。

 アメリカの送り込んだ調停者ロバート・マーフィーなる人物は、大戦中アルジェのアメリカ総領事としてダルラン提督やジロー将軍と親しく交わり、彼等の肩を持ってド・ゴールと激しく争った男だった。この経歴を見てもあまりよい人選とはいえない(かつて自由フランスだった連中を刺激する)のに、さらにチュニジア大統領がマーフィーに対し、アルジェリア全土を国連の管理下におくべきこと等を提案していた。この話を聞いたフランスの右派(ここでは植民地主義者のこと)の怒りが爆発した。「北アフリカにおけるフランスの地位の完全な解体がたくらまれている。これはわが国をサハラ(砂漠にある油田)から叩き出そうとする(アメリカの)石油独占企業の政策だ ! 」前アルジェリア総督スーステル等が絶叫する。

 彼等右派は「フランスのアルジェリア」を唱え、アメリカや弱腰の政府を激しく攻撃した。左派は左派で、マーフィーが「アメリカ帝国主義」を代表しているが故にこの調停役を批判した。フランス国民の対米感情は極度に悪化した。その後マーフィーがまとめた調停案はそれほど強硬なものではなく、その中で一番(フランスにとって)受け入れ難い「アルジェリア・チュニジア国境の国際管理」も、後日の討議にまわすというものであったが、これを受けようとしたガイヤール首相は左右両側からの総攻撃を喰らった。結局ガイヤール内閣は倒壊した。

     

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 この頃、アルジェリアでは「7人組」なるコロンの極右グループが台頭していた。アルジェの右翼学生代表ラガイヤールを中心とする彼等は軍隊がアルジェリアを制圧して「フランスの存在」を維持すべきことを主張していた。極右プジャード派や王党派を含む彼等の中には第二次世界大戦時の対独協力者シャルル・モーラスを崇拝する者もおり、「コロンの中に深く根を下ろしていたペタン派の傾向を代表していた(アルジェリア独立革命史)」ペタン? そう。あの、ペタン元帥である。本来この地域は熱心なヴィシー政権の支持者であった。ダルラン提督・ジロー将軍の時代を経、ド・ゴールですらこの地のヴィシー派を深く追求しようとしなかった、その影響がいまだに残っていたのである。

 この文章のタイトルは「ド・ゴール伝」であるにもかかわらず、もう長いことド・ゴール本人が登場していない(スンマセン)。RPFの失敗以後公的生活から退き、回顧録の執筆に専念していたド・ゴール(註1)は、しかし世間から完全に忘れ去られた訳では決してなかった。すでに1月20日、FLNを支援するチュニジアとの国交断絶を主張する右派と、そこまで強引な行動に踏み切れないガイヤール首相との論戦が続く中、旧RPFの議員ドロンヌが、「ド・ゴール将軍だけが、アルジェリア戦争を終らせるとともに、チュニジアとの関係を正常化出来る威信と権威を持っている」と表明していた。そして旧RPFの多くは断固として「フランスのアルジェリア」を守るつもりでいた。

 註1 一時期経済的に困窮していたが、ロスチャイルド銀行の援助で立ち直った。その時のロスチャイルド銀行の取締役がド・ゴールの後任の大統領となるジョルジュ・ポンピドゥーである。

 この頃のフランス国民議会の構成は以下の通り。 最左翼に共産党他148、左翼に社会党97、中道左派に急進社会党他62、中道派にMRP他104、右派に旧RPF他120、極右にプジャード派他60である。フランス現代史にかんする本をチラリとでも読んだ人ならわかると思うが、フランスというのは伝統的に小党乱立の国であり、しかも第四共和政の定める比例代表制という選挙制度のおかげで議席が分散するために、どの派も過半数に達せず、しかも共産党は一時期は政府に閣外協力を行っていたが、56年にアルジェリア問題で当時のギ・モレ首相ともめ(どうもめたのか、資料がない)、政府支持をやめていた。ギ・モレ政権、モーヌリ政権、ガイヤール政権、どれも不安定な連立政権であり、FLNにいくらか譲歩しようとすると、すぐにコロンやその意を受けた国内右派の攻撃をうけ、しかもどの派もアルジェリア問題をめぐって分裂していた。数十万に達する派遣軍を維持する巨額の軍事費は国家財政を極度に圧迫(註2)しており、多くの国民は長年に渡る戦争に飽き出してきていた。それに前線から伝わってくるFLN容疑者への拷問の実態も国内の厭戦気運を高めつつあった。左翼の社会党も中道派のMRPも(全員ではないが)対FLN和平へと動きだしていた。しかし右派も強硬である。簡単に和平和平といわれても、FLNが頑として譲らない完全独立を認めれば、現地100万のコロンはどうなってしまうのだ? 右派にいわせれば、アルジェリアはあくまで「フランスのアルジェリア」なのである。

 註2 アルジェリア向け軍事支出は全国家予算の10〜15%に達していた。さらに常時50万人の兵士を戦地に送っていたことが深刻な労働力不足をもたらしていた。その分期待されたのがアルジェリア人労働者だが、彼等の稼いだ賃金のかなりの部分はFLNの武器購入資金にあてられた。(アルジェリア独立革命史)

 ただ……この頃のフランス政府は実は、アルジェリア国内のFLNが少なくとも軍事的には壊滅状態(註3)なのを正確に見越していて、ほんの少しの改革案を提示しさえすれば戦闘に疲れきった一般のアルジェリア人がFLNを見限るとよんでいた。この戦略はFLN上層部の方でも最も危惧するところであったのだが……コロンやその意を受けたフランス本国の右翼たちは、どんなにスカスカな改革案であっても絶対にそれを許そうとはしなかった。

 註3 アルジェリア・チュニジア国境を封鎖する「モーリス線」は短期間に1万人以上のFLN兵士を命を奪っていた。

 もちろんここで共産党が政府(社会党・MRPその他)支持を表明すれば、堅実な多数を持つ政府が成立して、アルジェリア戦争の平和解決にじっくりととりかかることも出来たはず(ド・ゴール伝)である。しかし本国の右派は反共産主義という観点からこれを恐れ、その一部(旧RPF)は、「フランスのアルジェリア」を守る運動の旗印として、遂に「自由フランスの英雄ド・ゴール」を担ぎ出すに至る。すでに旧RPF(ここから「ド・ゴール派」と書く)はアルジェリアのコロンに自派の勢力を植え付けていた。

 「自由フランス」以来右翼的な人士の多いド・ゴール派はあくまで「フランスのアルジェリア」の支持者であり、その点ではペタン派「7人組」と一致していたが、大戦中のいきがかりから両者はお互いを軽蔑しあっており、それぞれが別個にコロン大衆や派遣軍の将兵を自派の勢力に取り込もうとやっきになっていた。そして、当然のことながら、コロンの大部分も、派遣軍の幹部たちも「フランスのアルジェリア」を支持していた。

 ド・ゴール派、7人組、派遣軍、彼等全員が信奉する「フランスのアルジェリア」をめぐり、それぞれの思惑が複雑に絡み合い、以後のアルジェリアの情勢は急速に本国政府や総督府の手綱を離れていく。フランス第四共和政を崩壊へと追い込む狂乱の5月が近付きつつあった。

 しかしここで注意が必要である。これからド・ゴール派が担ぎ出そうとするシャルル・ド・ゴール本人は、これからのアルジェリアについて、何の意向も漏らしていなかったのである。

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