ドイツの植民地 第8部 海の戦い

   コロネル沖海戦   目次に戻る 

 次に述べるのは海の戦いである。日本参戦以前に外海に出ていたドイツ東洋艦隊の戦いはまず8月4日(日本参戦の前)、日本海のウラジオストックと横浜をつなぐ航路で獲物(ロシア商船)を探していた巡洋艦「エムデン」が新造商船「リューサン」を拿捕したことによって始まった。その時点では太平洋の各地に散らばっていた東洋艦隊主力は8月12日にマリアナ諸島のパガン島沖に集結、ここで開いた作戦会議の席で艦隊司令長官シュペー中将は南米経由で本国に帰ることに決めたが、これに反対したミュラー艦長の乗艦「エムデン」と給炭船「マルコマニア」だけはシュペーの許可を得たうえで反対方向のインド洋に向かっていった。ミュラーの目的は通商破壊作戦だが、とりあえずはシュペーの行動を記述する。(本稿ではこれ以降、シュペーの率いる艦隊のことを「シュペー艦隊」と表記する)

 シュペー艦隊はまず9月30日に南太平洋のフランス植民地タヒチ島を砲撃、続いて11月1日には南米チリのコロネル沖でクラドック少将の率いるイギリス艦隊と遭遇した。この時のシュペー艦隊の戦力は装甲巡洋艦「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」と巡洋艦「ライプツィヒ」「ドレスデン」「ニュルンベルク」。対してクラドック艦隊は装甲巡洋艦「グッド・ホープ」「モンマス」、巡洋艦「グラスゴー」、仮装巡洋艦「オトラント」であった。仮装巡洋艦とは商船に臨時に武装を施したものなので、数も戦闘力もシュペー艦隊有利ということになる。クラドック艦隊には他にも別行動の艦がおり本国にも増援を頼んでいたのだが、それらが集まる前にシュペー艦隊とぶつかった恰好となった。実はクラドック艦隊は無線傍受と暗号解読でシュペー艦隊の動きを掴んでいたので、味方が来るまで適当に時間を潰すことも出来たのだが、その道は選ばず弱体の戦力のまま海戦を挑んだのである。

 両艦隊は午後4時頃にお互いを視界におさめた。クラドック艦隊はそれまで組んでいた横陣(偵察用の陣形)から縦陣(戦闘用の陣形)に組み替え、太陽を背にして相手の目を眩まそうとしたがシュペー艦隊はこれを察知してなかなか射程に入ってこず、そのうちに太陽が沈んでくると、チリの陸地を背にしていたシュペー艦隊の方が背景に溶け込んでクラドック艦隊の目を眩ませてしまった。おまけにドイツ艦の方が新型で、より多くの主砲を遠距離から撃つことが出来るようになっていた(イギリス艦の主砲の方が大口径ではあったが)。そして午後6時40分から射撃開始である。距離1万メートルで行われた砲撃戦は完全に一方的なものになった。イギリス艦「グッド・ホープ」「モンマス」が沈没、司令官クラドック少将も戦死した。「グラスゴー」は被弾しつつもどうにか逃走、一番非力な「オトラント」は最初から戦闘に参加していなかった。

   フォークランド沖海戦   
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 この結果に驚いたイギリス本国は新たにスターディー中将を南大西洋・太平洋方面艦隊司令長官に任命し、彼に巡洋戦艦「インヴィンシブル」「インフレキシブル」をはじめとする強力な艦艇を与えてシュペー艦隊殲滅にあたらせることにした。

 その情報はシュペー艦隊にももたらされた。が、シュペー提督は何故かチリ付近でもたもたして時間を潰し、南アメリカ大陸南端の近くまでやってきた時には既に12月に入っていた。同月8日、シュペー艦隊はイギリス領フォークランド諸島の無線基地を破壊しようとこれに接近した。これはシュペー提督の発案によるもので、彼の部下たちは弾薬の無駄だと反対したのだが……。

 果たして、部下たちの献言を聞いていれば良かったのである。フォークランド諸島のスタンレー湾には既に前記のスターディー提督の艦隊が(石炭の補給に)入っていたのであった。こうして起こるのが「フォークランド沖海戦」である。予想外の強力な敵との遭遇に驚いたシュペー提督はすぐに逃走にかかり、スターディー艦隊が大急ぎで湾から出撃してきた午前10時までにかなりの距離を稼いだ。しかし開戦以来4ヶ月も航海を続けてきたシュペー艦隊と本国から到着したばかりのスターディー艦隊とでは艦体のコンディションが違っていてたちまち追いつかれてしまう。

 観念したシュペーは午後1時25分をもって針路反転、敵に立ち向かおうとしたが、シュペー艦隊の主力の装甲巡洋艦とスターディー艦隊の主力の巡洋戦艦とでは(字だけ見ても分かるように)後者の方がはるかに強く、しかも艦砲の射程距離にも開きがあった。一方的に叩かれたシュペー艦隊はまず午後4時17分に「シャルンホルスト」が沈没、続いて午後5時40分に「グナイゼナウ」も沈没した。この2隻とくらべれば小型なためシュペーに逃げるように言われていた「ライプツィヒ」と「ニュルンベルク」もやがて追いつかれて撃沈された。シュペー艦隊の戦死者はシュペー提督を含む2200名という。特に「シャルンホルスト」は生存者皆無であった。唯一逃走に成功した巡洋艦「ドレスデン」も翌年3月14日にチリ沖のファン・フェルナンデス島付近にてイギリス艦隊に補足され、自沈という結果になった。

   巡洋艦「エムデン」   
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 次に述べるのは、シュペー艦隊と別れてインド洋での通商破壊に向かった巡洋艦「エムデン」の行動である。これは有名な話で資料も多いので少し詳しく書く。「エムデン」の艦長ミュラー中佐には、当時イギリスの最重要植民地だった(イギリスの抑圧的支配を受けていた)インドのイギリス基地に痛撃を与えることによってインド人大衆を反イギリス闘争に立ち上がらせたい(そしてドイツの味方につけたい)という思惑があった。「エムデン」は太平洋からインド洋へと向かう道すがら、まず9月10〜12日の間にイギリス商船「インダス」「ロバット」「キリン」を相次いで拿捕・撃沈、その後も次々と行き会うイギリス商船を拿捕・撃沈していった。「エムデン」はそれらの船を沈めるに際しては紳士的に相手の乗組員を退去させており、14日には拿捕商船「カビンガ」に捕虜を乗せて解放してやった。

 そして9月21日夜、目的地インドのマドラス港に到着、3本煙突の「エムデン」にもう1本偽物の煙突をつけてイギリス巡洋艦(4本煙突が多かった)に化け、市街地を巻き込まないよう注意しながら港の砲台と石油タンクを砲撃、石油5000トンを炎上させることに成功した。この事件についてイギリス本国の『ロンドン・タイムス』紙は「ドイツ巡洋艦の勇敢さは素直に認めるべきである」と論評した。「エムデン」はその後も商船狩りを続けたため、イギリス側からは(フランスや日本からの応援まであわせて)多数の艦艇が出動して警戒を厳にした。「エムデン」は10月4日にインド洋の真ん中にあるイギリス領ディエゴガルシア島に現れたが、そこに住んでいたイギリス人はなんと大戦が始まったというニュースをまだ知っておらず、「エムデン」に石炭を補給してくれた。

 10月28日未明、「エムデン」は今度はマレー半島(ここもイギリス植民地)西岸のペナン港に忍び込み、そこにいたロシア巡洋艦「ゼムチューグ」に魚雷と砲弾を喰らわせて撃沈、港湾施設を叩き、港から出た所でさらにフランス駆逐艦「ムースケ」をも撃沈した。「エムデン」は事前に中立国の商船から得た情報でペナンにフランス艦がいることは予測していたが、ロシア艦に会うとは思わなかった。ここではたまたま停泊していた日本商船も炎上しているが、ドイツ側も太平洋から連れてきていた給炭船「マルコマニア」を失った。「エムデン」はペナンで海面から拾い上げたフランスの負傷兵を翌日外海で拿捕したイギリス商船に移し替えて逃がしてやった。商船を何隻も沈められたイギリスでは海上保険料が通常の4倍に跳ね上がり、アジアから輸入していた物資の値段も大幅に引き上げられた。オーストラリアとニュージーランドはその頃ヨーロッパ戦線に派兵する準備を整えていたが、そのための輸送船が「エムデン」に襲われる可能性を警戒して出発が延び延びになってしまった。

   ココス諸島の戦い   
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 続いて11月9日……日本軍が青島要塞を落とした直後……「エムデン」はインドとオーストラリアの中間点に位置するココス諸島(海底電信線の中継基地)に現れ、島の通信施設を破壊しようとミュッケ大尉以下の陸戦隊約50名を上陸させた。「エムデン」はこのあと紅海に向かうつもりでいたが、まず逆方向のココス諸島の通信基地を叩いておけば、敵は「エムデン」の予測進路を見誤ってくれるだろうという見積もりであった。しかし問題の通信施設は陸戦隊に襲われる直前に相手を照会する無電を発していた。彼らは島に接近してきた「エムデン」が何者なのか分からなかったので、まずは挨拶文を送ったのだが、それをたまたま500キロ離れた海域を航行中だったイギリス艦「ミノトーア」が受信した。「ミノトーア」の受信機はココス基地からの無電を正確には受信出来なかったので問い合わせの返電を発し、これを「エムデン」が傍受して「ミノトーア」の位置を把握(計算)した。

 しかし「エムデン」は、500キロも遠くにいる「ミノトーア」がすぐに飛んでくる訳でもあるまいと、海底電信線を探し出して切断する作業にとりかかった。ここで島の通信員がなかなか電信線の位置を吐かなかったため、時間を無駄に浪費してしまった。そしてそんな時に限って、意外なほど近くの海域を敵の輸送船団が航行していたのである。これはオーストラリア・ニュージーランドのヨーロッパ派遣軍3万2000名と馬1000頭、大砲50門という大軍団を搭載した38隻の大船団で、オーストラリア巡洋艦「メルボルン」「シドニー」と日本派遣の巡洋戦艦「伊吹」に守られていた。彼らもココス諸島からの無電を傍受しており、ひょっとしてその正体不明艦は後述する「ケーニヒスベルク」ではないかと予測したが、実はもっと大物の「エムデン」だったのである(彼らは「エムデン」はベンガル湾にいるという誤報を受けていた)。ともあれ船団からは「シドニー」がココス諸島の様子を調べに向かうことになった。

 その頃まだココス諸島に停泊していた「エムデン」は、しばらく前に拿捕していた給炭船「ブレスク」から石炭を積み込もうと、少し離れたところにいた同船を呼びつけたところだった。そんな訳で「エムデン」の見張員は遠くから接近してくる「シドニー」を「ブレスク」と見間違え、相手の正体に気付いた時には陸戦隊を収容する時間もないままの逃走を余儀なくされてしまった。ところが「エムデン」はここでまた勘違いした。視界が悪かったせいで、どんどん接近してくる相手艦は自分より小型の艦ではないかと思ったのである。

 そして「エムデン」の方から射撃開始、3回目の一斉射撃で相手艦に命中弾を与えた。数分後に「シドニー」も射撃を始め、これは外れであったが、砲弾の落下点から物凄い水柱があがったことから「エムデン」はようやく相手の戦力を把握した。「シドニー」は「エムデン」よりずっと大型の艦であった。「エムデン」は勇猛果敢に相手艦との距離をつめて魚雷で決着をつけようとしたが、速度を上げるのに手間取った(長期間の航海のせいで機関のコンディションが落ちていた)ため、魚雷どころか大砲の射程外にまで逃げられてしまった。そのうちに「シドニー」の大口径砲(長射程)の放つ砲弾が「エムデン」に命中しだし、砲塔や無線室を破壊した。死屍累々となった「エムデン」は、せめて沈没だけは免れようと、近くの暗礁に自分から乗り上げた。

 これを見た「シドニー」は「エムデン」目掛けて2度一斉射撃し、進路を変えて別の獲物を叩くことにした。給炭船「ブレスク」の煙突が吐き出す煙が遠くに見えていたからである。「ブレスク」は何の抵抗も出来ず、重要書類や酒類を処分して海水弁を開いたうえで(自沈処置を施したうえで)降伏した。「シドニー」の艦長は、ここで捕虜にしたドイツ兵の口から、さっき叩いたドイツ艦が噂に高い「エムデン」であったことを初めて知った。「シドニー」は「エムデン」乗組員を捕虜にしようと同艦が座礁している地点に戻ったが、その「エムデン」にまだ軍艦旗が翻っていたことから砲撃を再開した。反撃不能の状態(負傷者の救護をしていた)で砲弾を浴びせられた「エムデン」はここにきてようやく降伏した。「シドニー」側では砲撃開始前に降伏勧告の信号を発したのにこれに応じなかったと主張し、「エムデン」側ではそんな信号は受けていない、座礁した時点で降伏したのと同じだったと主張している。「エムデン」乗組員は武装を解かれたが、後にイギリス国王ジョージ5世の特別のはからいによって艦長ミュラー中佐以下の士官たちの剣を返却された。「エムデン」はこれまでに30隻以上の艦船を撃沈または拿捕しており、その勇戦ぶりはドイツのみならずイギリスにも高く評価されていたのである。(「エムデン」の残骸はその後も長らく放置され、1950年になってやっと日本の業者によって解体された)

 ココス諸島の陸地に取り残されていたミュッケ大尉の陸戦隊は、母艦が座礁した時点で近くにあった帆船に乗組んで(持ち主から買い取って)逃走した。彼らはまずオランダ(中立国)植民地の港の外(入港は許可されなかった)でドイツ人居留民に物資を貰い、さらにオランダ支配海域にいたドイツ商船の指揮権を譲り受けて、イタリア(これもこの時点では中立国)の旗を掲げてアラビア半島南部のイエメンの港に行き着いた。そこはドイツの同盟国オスマン・トルコ帝国(註1)の領域であったがその統治は安定しておらず、一行はイギリス軍に味方するアラブ遊牧民と戦ったりしながら小型船やラクダを乗り継いで北上、どうにか安全地帯に辿り着くことが出来た。彼らが故国ドイツに帰還したのは1915年の3月である。陸戦隊の指揮官ミュッケ大尉はその後あらためてオスマン帝国領に派遣されてそちらで終戦を迎え、戦後の一時期ナチス党員になった(なんとヒトラーよりも先に入党し、ヒトラーが党首になった時点で脱党している)。

註1 1914年11月にドイツ側に立って参戦。


   巡洋艦「ケーニヒスベルク」   
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 次は東アフリカを根拠地としていた海軍部隊の活動である。ドイツ海軍の東アフリカ部隊は巡洋艦「ケーニヒスベルク」と測量艦「メーヴェ」の2隻のみで、前者は「エムデン」よりやや小型であった。「ケーニヒスベルク」が開戦のニュースを受け取った時、同艦の艦長マックス・ルーフ大佐は最初は青島のシュペー艦隊に合流しようかとも思ったのだが遠すぎるので、近場のインド洋を舞台とする通商破壊活動を行うことにした。

 まず8月6日にイギリス商船「シティ・オヴ・ウィンチェスター」を拿捕、乗組員を退去させたうえで撃沈した。その後は「エムデン」ほどの活躍は出来なかったが、フランス領ソマリランド(現在のジブチ共和国)のジブチを砲撃して鉄道を破壊、9月20日にはザンジバルの港で修理中だったイギリス巡洋艦「ペガサス」を撃沈し、多くのイギリス艦をして追撃に奔走せしめた。しかしその間にドイツ海軍東アフリカ部隊の母港ダルエスサラームはイギリス艦隊によって封鎖され、そこにいた測量艦「メーヴェ」は進退窮まって自沈してしまった。

   デルタの戦い   
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 しかもその後の「ケーニヒスベルク」は機関の調子が悪くなり、東アフリカ南部のルフィジ川の入組んだ河口デルタの内部に隠れることにした。その所在は10月30日に至ってイギリス側に発覚し、イギリス艦隊からは3隻の巡洋艦が出向いて河口を見張ることになった。これで「ケーニヒスベルク」は全く身動きがとれなくなったが、しかし同艦はデルタ内の限られた水路に機雷を設置し、ジャングルの茂みや無数の浅瀬の合間に隠れていたため、イギリス側の通常の艦艇では近付くことも出来なかった。また、東アフリカの陸地ではフォルベック将軍のドイツ植民地軍(陸軍)が健在であるため、陸から「ケーニヒスベルク」に忍び寄ることも不可である。そこでイギリス軍は水上機を取り寄せて空から攻撃しようとしたが、東アフリカの酷暑のせいでエンジン出力があがらず、爆撃に必要な高度がとれないという有り様である。両軍はそのまま滞留を続け、1915年の1月には新年の挨拶が交わされる程であった。

 その一方でドイツ本国からは2月になって輸送船「ルーベンス」が出航(中立国デンマークの商船に偽装)し、イギリス海軍の哨戒網をかいくぐって東アフリカに接近してきたが、あと一歩のところでイギリス巡洋艦「ハイアシンス」に見つかり、逃げ切れないと判断して自分で擱座、船に火を放った(積荷は陸地の友軍に回収された)。実は「ハイアシンス」は機関の調子が悪く、逃げようと思えば逃げられなくもなかった。

 イギリス軍は河川用モニター(大型砲を積んだ小型装甲艦)「セヴァーン」「マージイ」を取り寄せることにした。この2隻はもともとブラジル軍からの注文で河川艦隊用に建造していたもので、外洋を航行するようには出来ていない(吃水が浅い)から東アフリカまで引っぱってくるのは大変な難事であった。しかしこれならデルタ内部の浅瀬でも平気である。イギリス軍はさらにルフィジ川の近くに飛行場を建設し、そこから陸上機を飛ばしてモニターからの砲撃を観測・調整するという野心的な作戦を立てた。(その陸上機は以前の水上機とくらべて性能がよかったのか整備員が変わったのか、期待通りの活躍を示すことになる)

 7月6日早朝、モニター2隻がデルタへの侵入を開始した。2隻は1時間ほどかけて「ケーニヒスベルク」から10キロの地点に到達、そこから砲撃を開始した。「ケーニヒスベルク」の主砲が口径10.5センチだったのに対してモニターの主砲は15センチである。しかし附近の地理を知り尽くしていたドイツ側の反撃(周辺の陸地に観測基地を置いていた)は相当のもので、命中弾6発を受けたモニターは一時後退を余儀なくされた。「ケーニヒスベルク」も3発の命中弾を受けていたが、防御力に関してはモニターより上だったのである。

 同月11日、モニターが再びデルタへと侵入した。今度は「マージイ」が前回の位置に留まってドイツ軍の注意を引きつけ、その間に「セヴァーン」が前進して、より「ケーニヒスベルク」に近い地点から砲撃するという計画で、これは大成功した。上空の味方飛行機からの統制を受けた「セヴァーン」は「ケーニヒスベルク」へと次々に命中弾を浴びせた(前回よりも正確な位置を掴んでいた)が、「ケーニヒスベルク」の方は既に弾薬が乏しくなっていた。1時間半に渡って砲弾を浴びた「ケーニヒスベルク」はやむなく自沈し、同艦の乗組員はその後は陸戦隊となってフォルベック将軍の陸軍部隊と行動を共にすることとなった。(乗組員たちはモニターが帰っていった後で「ケーニヒスベルク」の艦砲を取り外し、陸戦用の重砲に改造してその後の戦闘に役立てた。開戦時の乗組員350名のうち戦後にドイツに帰れたのは15名だけであったという)

   その後のドイツ植民地   
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 そして1918年の大戦終結の後、国際世論においては各民族が各々の意思に基づいて国家を組織すべきとの「民族自決」論が盛んになった。その理屈では旧ドイツ植民地も独立させるべきである。しかし各国はせっかく占領したドイツ植民地を手放すのが惜しいため、それらの統治権を「国際連盟」から委託してもらうという名目で確保することにした。この形式を「委任統治」と呼ぶ。東アフリカやニューギニアは文明の程度の低い地域なので、原住民が独立国家を組織出来る文化レベルに達するまで文明国が後見してやるという理屈である。統治を担当する国は1年に1度国際連盟の委任統治常任委員会に統治報告書を提出することになってはいたが、要は「植民地」という言葉を「委任統治領」に置き換えただけである。

 まず東アフリカのうちルワンダ地区とブルンジ地区はベルギーの、残りの部分はイギリスの委任統治領となった。このうちイギリス領部分が「タンガニーカ」の名で独立を達成するのは1961年、「ルワンダ共和国」「ブルンジ王国」のそれは62年のことである。(ブルンジは66年に共和制に移行。タンガニーカは64年に隣国の「ザンジバル」と合邦して「タンザニア連合共和国」を組織(註2)

註2 この辺の話は当サイト内の「オマーン・ザンジバルの歴史」を参照のこと。


 南西アフリカは南アフリカ連邦の委任統治領となった。委任統治制度は第二次世界大戦の後は新しく創設された「国際連合」の「信託統治」制度に継承されるのだが、南西アフリカだけは信託統治領にならなかった。信託統治の方が受任国(統治を担当する国)に対する制約が厳しいため(註3)。せっかく血を流して手に入れた南西アフリカを是が非でも好き勝手に統治し続けたい南アフリカが我侭を押し通したのである。1960年に国連の総会決議で委任統治終了が宣言された後も南アフリカは不法統治を継続し、それから30年も経った1990年に至ってようやく独立を承認した。国名は「ナミビア共和国」である。ドイツの進出以前にイギリス領になっていたワルビス湾(1910年に南アフリカ領に移管)は94年にナミビアに引き渡された。それから20世紀初頭にドイツに弾圧されて人口の大半を失ったヘレロ族がドイツに賠償請求を行ったがドイツはこれを退け、政府レベルの開発援助で答えるとした。

註3 受任国は毎年の年報を提出する義務があり、3年ごとに国連による視察が行われ、統治領の原住民が国連の信託統治理事会に(受任国を通さずに)直接請願を出すことも出来る。


 カメルーンは9割がフランス、1割がイギリスの委任統治・信託統治領となった。イギリス地区は面積は狭いが開発は進んでいた。フランス地区のうち1911年にフランス領コンゴからドイツに譲られていた部分のみは委任統治領に含めずコンゴに戻した。そしてカメルーンの独立の経緯は、まず1960年にフランス地区が「カメルーン共和国」の名で独立達成、イギリス地区は住民投票の結果、北部は西隣の「ナイジェリア連邦」の東部州に編入、南部は61年にカメルーン共和国と合併して「カメルーン連邦共和国」を組織した(72年に国名を「カメルーン連合共和国」に、84年さらに「カメルーン共和国」に改称)。トーゴはフランスによる委任統治・信託統治時代を経て1960年に「トーゴ共和国」の名で独立達成である。

 ニューギニア北東部とビスマルク諸島、アドミラルティ諸島、ソロモン諸島北部はオーストラリアの委任統治・信託統治領となり、49年にオーストラリア植民地のニューギニア南東部と統合されたうえで、75年に到って「パプア・ニューギニア独立国」という国名で独立を達成した。ニュージーランドの委任統治・信託統治領となった西サモアは62年に「西サモア」という国名で独立した(97年に「サモア独立国」に改称)。オーストラリア・ニュージーランド・イギリスの共同統治下に置かれたナウル島は68年に「ナウル共和国」として独立した。ちなみにナウルは世界で3番目に小さい国である。日本の委任統治領となったマーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島(註4)は第二次世界大戦による日本の敗退とともにアメリカによる信託統治に移行し、そこから「マーシャル諸島共和国」と「ミクロネシア連邦」が86年に、「パラオ共和国」が94年にそれぞれ独立した。ただしマリアナ諸島は86年に信託統治領からアメリカの保護領に改組され、今でもアメリカの統治下にある。

註4 この地域の日本統治時代については当サイト内の「南洋群島」を参照のこと。


 委任統治領にならなかったのが中国の膠州湾租借地である。第一次世界大戦の終了後も日本軍による占領が続いたが、19年に膠州湾の本来の持ち主である中国への返還を求めて中国人が大規模な抗議を行う「5・4運動」が発生し、22年に至って返還が実現した。膠州湾付近の利権(もともとドイツが持っていたもの)については、鉄道は中国が15年賦の国債で買い取り、鉱山は日中合弁で経営することとなった。1937年に勃発した「日中戦争」でまたしても日本軍が膠州湾を占領するが、これも日本の敗戦とともに終わりになった。

                                 おわり

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