第3部その1

   

   ローザンヌ条約   目次に戻る

 とりかえしのつかない敗北を受け、ギリシア政府は軍隊の動員を解除して総辞職した。パニック状態の敗残兵と避難民が島々と本土に溢れる混乱の中、スミルナからキオス島に逃れていたヴェニゼロス派の将校たちが「革命委員会」を結成して権力奪取の準備を整えた。委員会のリーダーたる「黒騎士」ニコラオス・プラスティラス大佐は1909年のヴェニゼロス政権樹立のきっかけをつくった「軍人連盟」の首謀者の1人であり、今回も(20年以来亡命中の)ヴェニゼロスの復帰をあおいだが、拒否されたためにやむなく自分たちで新政権を樹立した。ヴェニゼロスは先の総選挙の敗北の後、イギリスに亡命していた。今回の敗北の原因をつくったのはヴェニゼロス以外の誰でもないが、その結果が出る前に失脚し、しかも政敵たる国王が何故かヴェニゼロスの方針を踏襲したことは彼個人のレヴェルでは幸運であった。敗北の責任を国王が背負ってくれる形となった訳であり、現実に今回の「スミルナの破滅」でヴェニゼロスの名声が失われることはなかった。国王コンスタンディノスは退位し、かわって即位した長男がゲオルギオス2世を名乗った。5人の元大臣と前最高司令官が「大逆罪」の名のもとに銃殺刑に処せられた(註1)

 註1 本当に「大逆罪」の事実があったかどうかは不明。要するに敗戦の責任をとらされたのである。

 亡命したままのヴェニゼロスは、それでもトルコとの講和交渉役を買ってでた。 領土的な喪失は最低限度ですんだ。23年7月に締結された「ローザンヌ条約」により、 東トラキアとスミルナは後背地を含めてトルコに返還され、北部エピルスはアルバニア領として保障されたものの、 残ったギリシア領土は1913年のそれよりむしろ増加していた。

 それより何より問題だったのは、住民の民族的帰属に基づく領土要求が2度とおこらないよう、 トルコとギリシアの間での住民の強制交換が決められたことであった。この結果130万のギリシア人がトルコから、 40万人のトルコ人がギリシアから送還されるという悲劇が出来した。ここで「ギリシア人」とか「トルコ人」 を定義したのは宗教の違いのみで、トルコ語しか話せない「ギリシア人」が大勢雪崩れ込んできた。 スミルナとその周辺に居住していた彼等の多くは経済的に豊かだったためにこの送還は苦痛以外の何者でもなく、 むしろギリシア本国の方を田舎臭いと思う者もたくさんいた(ギリシャ近現代史)。一応、 東方正教会の世界総主教座のあるコンスタンティノープルとインヴロス島・テネドス島のギリシア人、 逆にテッサリアのトルコ人は送還の対象とはならなかった。

 もともと500万かそこらの人口しかもたない国に100万以上の難民が押し寄せたのだからその影響は尋常のものではなかった。例えば、大戦前にギリシア領となった南部マケドニアでは、それまでギリシア人とほぼ同数だったイスラム教徒のほとんど全部が送還されて逆にトルコからの難民が入植してきたため、住民の4割が難民出身者という地方も珍しくなくなった(前掲書)。17年以来農地の再分配が行われていたが、その土地は主にイスラム教徒やブルガリア人のもの(バルカン現代史)で、難民に分け与えてもまだ全然足りなかった。

 地位も財産もなくした難民に強力に訴える力をもっとも有していたのは18年結成の「ギリシア共産党」であり、その指導者には難民出身者も含まれていたが、その後ろ楯のソ連がマケドニアの独立を考えていたことからギリシア人の広範な支持を得るには至らなかった。一度故郷を逐われた後にマケドニアに落ち着いたばかりの難民が、またギリシアの支配から切り離されるのをよしとするとは考えられなかった(ギリシャ近現代史)。この時点における共産党の拠点はアテネ郊外の難民街「スミルニー・ネア(ニュー・スミルナ)」であった。

   

   ギリシア共和国   目次に戻る

 23年12月、総選挙が行われてヴェニゼロス派が大勝した。 相変わらず他国に亡命中で、既に述べているとおり「スミルナの破滅」の本当の原因は彼にあるのだが、 それでも「さらに大きなギリシア」を唱えてきたヴェニゼロスはトルコからの難民に特に強く支持されてい た(ギリシャ近現代史)。ここで問題になったのは王制の是非であった。ヴェニゼロス派の穏健 共和派は政体に関する国民投票の実施を唱え、それより過激な急進共和派はただちに共和政宣言をした 上で国民投票による批准を行うべきと主張した。何にせよ、両派が共和政樹立という点では一致していたのに対し 、王党派は(この少し前に)その首領メタクサス将軍の政権奪取計画が発覚したことから打撃を受けており( 近代ギリシァ史)、24年3月には共和政宣言が実現、国民投票によってもそのことが確認された。 ゲオルギオス2世は亡命した。「ギリシア共和国」の誕生である。

 とはいっても(例によって)問題は山積みであった。難民受け入れに基づく経済問題や長く続いた戦争 による農地の荒廃(もともと土地がやせている)だけでなく、工業生産は他のバルカン諸国よりは多い とはいえその90%が従業員5人以下の零細企業に支えられるという状態(バルカン、歴史と現在)で、 政界でも、伝統的な政治腐敗に党派間の抗争が絡んで内閣交代が頻繁に繰り返された。強力な指導力を有す る(有していた)ヴェニゼロスはまだ帰国せず、ギリシアの政治家は閥族主義や汚職に励む職業的政治屋で しかなかった(前掲書)。

 対外関係も問題である。トルコではコンスタンティノープルに残留したギリシア人の扱いを巡って激論が続いており、ブルガリア・ユーゴスラヴィア(註1)とのマケドニア問題もまだ解決しなかった。バルカン戦争前にオスマン帝国と戦ったマケドニアの民族主義組織「VMRO」は大戦中にブルガリアに協力したことから戦後はブルガリアに逃れていたが、この頃はそちらの軍部の一部の支援を受けてブルガリア領マケドニアを制圧し、ユーゴやギリシア領でのテロ行為を繰り返していた(註2)。25年6月にギリシアの政権を握った共和派のパンガロス将軍は逆にブルガリア領に侵攻するという事件をひき起こし、国際連盟の介入を受けて撤退と賠償金支払い(これは両国お互いに支払った)を余儀なくされた。

 註1 第一次世界大戦後、セルビアとモンテネグロはそれまでオーストリアの支配下に置かれていた南スラヴ系民族(クロアチア人・スロヴェニア人)と共に「セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国」を建設した。これが「ユーゴスラヴィア(29年に国名として採用)」の始まりである。

 註2 VMROはこの頃は完全にブルガリア軍部の道具と化しており、共産主義者の鎮圧にも協力していたことからそのテロ活動は西欧諸国にも大目に見られていた。おかげでブルガリア国内でも近隣諸国との友好を唱える政治家までがテロの対象となり、内部抗争も激しくおこなわれた。VMROがほぼ鎮圧されたのは(ブルガリアに)独裁政権が誕生した34年のことである。

 そのパンガロス将軍は26年1月に政治的安定と経済再建のための独裁政権を樹立すると宣言したが、何らの業績をあげることなく7ヵ月後に早々と失脚した。政変の主役は昔パンガロスの同僚だった軍部の共和派将校団であった。11月に総選挙が行われて共和諸派が過半数を獲得したものの、政権を維持する自信がないことから王党派との連立政権を組織することにした。この時の選挙では共産党も10議席を確保した。

 共和派と王党派の争いを主軸とする抗争はこの時代の他のバルカン諸国に見られないギリシア政界の特色(バルカン現代史)であるが、前述のとおり汚職ばかりに熱心な政治家たちは現実政治に意欲を失っており(バルカン、歴史と現在)、むしろ軍内部の共和派と王党派の抗争がその後の政局に大きな影響を及ぼすことになった。ギリシアでは第一次世界大戦前の段階でヴェニゼロスによって労働組合創設や義務教育等の社会改革がある程度すすめられていたことから急進的な労働運動もなく(バルカン史)、これも前述のとおりトルコ領からの難民も共産主義には冷淡であった。おかげで他国(とくにブルガリア)で頻発し第二次大戦前後からギリシアにも波及してくる共産主義をめぐる争いとくらべれば、現在のギリシアの国体論争(共和制か王制か)は「相対的にみればつまらないもの(近代ギリシァ史)」であり、にもかかわらず当事者にとっては文字通り命がけの戦いとなるのであった。

   

   ヴェニゼロス復活   目次に戻る

 28年7月、多くの党派の要請を受け、ついにヴェニゼロスの帰国が実現した。彼の名声をもってすれば共和派の優勢確保は確実のものであり、なんとか1年以上続いてきた王党派・共和派の連立政権はその意味を失った。首相に復帰したヴェニゼロスはただちに議会を解散し、支持率47%で議席の7割を獲得、その安定した基盤をもってその後4年半に渡って政権を保つことになる。 

 ヴェニゼロスはすでに年老い、国内問題に取組む意気をほとんど失っていた。しかしその分彼は他国との友好関係樹立にその老練の政治技術の全てを注ぎ込み、ギリシア国民に様々な譲歩を納得させることに成功した。(それらの多くはヴェニゼロス復帰前から進められていてたものではあるが、一応の決着をつけたのは彼である)

 アルバニア領の北部エピルスをめぐる争いは、大戦中から新たなアルバニアの保護者として浮上してきたイタリアとの抗争に発展し、1912年以来イタリア占領下に置かれているドデカニサ諸島の問題も絡んで極めて険悪な状況となっていた。23年8月にギリシア・アルバニア国境策定に参画していたイタリア委員が暗殺されたことから両国(イタリア・ギリシア)関係は戦争寸前にまで緊迫し、ギリシア領のコルフ島を占領したイタリアがギリシア政府に最後通牒を突き付けるところまで突き進んだ。この時は国際連盟の仲裁により、ギリシア側の賠償金支払いとイタリア軍のコルフ島撤退という決着がつけられたが、ヴェニゼロスはさらにドデカニサ諸島の現状維持と、イタリアのアルバニアにおける実質的な保護権承認及び北部エピルスにおけるギリシアの権利主張放棄という妥協に基づく友好仲裁条約を締結した。

 ユーゴスラヴィアはギリシア領マケドニアを通ってのエーゲ海への通路を欲しがっており、23年5月にはテッサロニキ港の一部でギリシアの行政・警察権のもとでユーゴスラヴィアの関税権を認める譲歩が行われていたが、ヴェニゼロスはここでもユーゴ側の権限をさらに強化する譲歩によって友好仲裁条約を締結した。ギリシア側の譲歩にもとづく友好関係の樹立という微妙な政策はヴェニゼロス以外の誰にもなしえないことであった(近代ギリシァ史)。ただし、ブルガリアに対する(ユーゴと)同様の提案はあくまでマケドニアの領土を求めるブルガリア側の拒絶によって果たされず、なんとか国交正常化だけを実現するにとどまった。

 トルコとはもっと険悪な関係が続いていたが、30年6月には、ギリシアから送還されたトルコ人の財産補償として42万5000ポンドを支払うかわりに、トルコがコンスタンティノープル在住ギリシア人の永住権を保障するという妥協が成立し、同年10月には両国間の友好中立仲裁条約や通商協定が結ばれた。ヴェニゼロスは(一般レヴェルの感情は別として)トルコ大統領ケマル・アタチュルクとの友好関係を極めて重視し、実現には至らなかったがケマルをノーベル平和賞候補者として推薦するほどの入れこみようであった。

   

   王制復古   目次に戻る

 華々しい外交施策と裏腹に、国内政治はまったく行き詰まっていた。ヴェニゼロスが政権について15ヵ月後の29年10月にアメリカから「世界恐慌」が出来し、干し葡萄・煙草・オリーヴ油といった嗜好品の輸出や国外の移民からの送金に依存するギリシア経済は壊滅状態に陥った。自国の経済再建に手一杯の列強はギリシアの借款要請に答えようとはしなかった。しかもヴェニゼロス派(共和派)は内部抗争と汚職から世間の信用を失っており(近代ギリシァ史)、共産党も(もともと4%程度の支持しかないうえに)29年の「イディオニム法」によって弾圧されていたことから、王党派の勢力が急速に成長した。不人気を選挙規制と選挙制度改革によって乗り切ろうとしたヴェニゼロスはよけいに激しい反対を受け、32年5月をもって辞職へと追い込まれてしまった。

 33年3月の総選挙の結果、王党派「人民党」が135議席を獲得してヴェニゼロス派の96議席に大きく差をつけた。1909年、23年と、これまで2度も王党派に反発する形のクーデターを起こしてきた「黒騎士」プラスティラス将軍は、今回も共和派(ヴェニゼロス派)守護を掲げてのクーデターを試みたが大衆の支持が得られない(前掲書)まま亡命を余儀なくされ、事件と無関係だったヴェニゼロス本人もテロリストの銃弾に狙われた。王党派から首相に就任したツァルダリスはとりあえずは現体制(共和政)の維持を掲げていたものの軍人事において共和派を冷遇し、共和派将校が再び起こした35年3月の反乱もあっけなく鎮圧された。今度は(不本意ながらも)反乱に参画していたヴェニゼロスもフランスに亡命し、欠席裁判で死刑を宣告された。

 同年11月3日、国体に関する国民投票が実施され、97%の高率で王制復古が実現した。もちろんこんな数字は信用出来ないが、同月25日にそれまでイギリスに亡命していたゲオルギオス2世が11年ぶりに帰国、先に亡命していたヴェニゼロス等共和派への恩赦を宣言した。フランスのヴェニゼロスは国王に感謝し、故国の同胞たちに王制受け入れを促しつつ翌年3月に亡くなった。

 36年1月、改めて総選挙が実施された。今回の選挙はおそらく公正なものであった。ところがしかし、公正であれば、それゆえにまた厄介な問題をひき起こすのがギリシアの政界という所である。王党派が143議席、共和派が142議席と伯仲しているのはいいとして、世界恐慌以来じわじわと勢力を伸ばしていた共産党が15議席と、両者間のキャスティング・ボードを握る態勢を占めてしまったのである。

 もっとも、共産党は得票率ではたったの6%であり、ギリシア国民全体での浸透度はしれたものであったが、こういう状況となると王党派も共和派も黙ってはいられなかった。まず共和派がパンの平価切り下げや特別保安警察の解体等を約束して共産党の支持を取り付けたが、共産党の政権参加を恐れた軍部と国王の反対で共和派・共産党連立政権は実現せず、とりあえずアテネ大学教授デメルジスが(国王によって)首相に任命された。ところがデメルジスはすぐに病死してしまい、後継首相として陸軍大臣のイオアニス・メタクサス将軍が指名を受けるに至った。メタクサスは政治的には極右に属し、議会における支持者が6人しかいなかったにも関わらず、この頃共和派・王党派双方の有力者が次々と世を去っていたことからほとんど消去法で(近代ギリシァ史)首相の任命を受けたのである。ここで台風の目となったのはやはり共産党で、国王は(当然のことながら)この党を恐れており、共和派に至っては、仮に共産党と連携してメタクサスに不信任を突き付けたところで、そうなれば軍の王党派(これも当然反共産党)がクーデターを起こすと考える(バルカン現代史)有り様であった。

 メタクサス首相はその極右的信条にのっとり、労働組合解散・ストライキ非合法化等を宣言した。5月9日には共産党指導下のゼネストと警察が衝突して30人の死者が出た。共産党は8月5日に全国規模のストライキを行うと宣言した。国王は終始一貫して王室に忠実だったメタクサスを頼りにしており(近代ギリシァ史)、(直接的にはメタクサスが造り出した)共産主義の恐怖に怯えきっていた。メタクサスは世界恐慌以来の経済問題を乗り切るためには「強い」政府が必要だと国王に焚き付けた(ギリシャ近現代史)。これはメタクサス個人の「独裁」以外の何者でもなかった。

 8月3日、議会の王党派と共和派が連立政権樹立を決意した。これが3ヵ月前ならよかったかもしれないが、もはやメタクサスの操り人形と化した国王ゲオルギオス2世は議会からの申し出を拒否し、8月4日をもって非常事態を宣言する勅令に署名し、個人の自由に関する憲法条項の停止、次の選挙日を決めないままの議会解散を命令した。首相メタクサスの独裁体制、本人の言を借りるなら「1936年8月4日体制」がここに完成したのである。

   

   メタクサス時代   目次に戻る

 メタクサスは同時期のドイツやイタリアの独裁政権と異なり、国王とそれに忠誠を誓う軍部以外の、大衆的な支持を全く有していなかった(註1)。という訳で、メタクサス独裁体制を生んだ最大の責任は国王ゲオルギオス2世の個人的軟弱さに帰されることとなり、それがまた大波乱を生む要因となるのだが……。

 註1 これはもう全部の資料に述べられている。

 メタクサスは自己の体制を、「ペリクレス(古典古代)時代」「ビザンティン時代」につぐギリシア民族第3の黄金時代「メタクサス時代」であると定義づけ(註2)、青年たちを、ナチス風の格好いい制服やローマ式敬礼を用いる「民族青年組織」に組織した。反対者は容赦なく逮捕・流刑に処したが、ただし拷問や死刑はなく(近代ギリシァ史)、共産党等の反対組織への弾圧も、直接的な暴力よりも秘密警察の離間工作によって自壊を促すという巧みな政策を採用したのは賢明といえばいえた。その一方では労働者の過激化を先手を打って押さえるため最低賃金制・年2週間の有給休暇制・公共事業の増加等を実施したが、それでも大衆の支持はなく(バルカン現代史)、庶民の側もメタクサス体制を鼻で笑うだけの余裕は持っていた。

 註2 いうまでもなくナチス・ドイツの「第三帝国」の模倣である。

 ただし、メタクサスにも取り柄はあった。彼は迫りくる戦争の危機を正確に認識し、政治スタイルはドイツを模倣しながらも現実政治においてドイツに接近するような愚はおかさなかったのである。(もうひとつ、人種差別もしなかった)

 ドイツのナチス党政権(1933年成立)は34年から「シャハト計画」に基づき東欧・バルカン諸国を自国の経済圏におさめる工作に乗り出していた。具体的には世界恐慌以来価格下落に苦しんでいるバルカン諸国の農産物をドイツが高値で買い取り、反対に市場がなくて困っているドイツの工業製品をバルカン諸国に売り込むというものであり、ギリシア経済も煙草の買い取りを通じてドイツの経済支配下に置かれるに至っていた。37・8年のギリシア総輸出貿易において煙草の占める割合は45%に達しており(バルカン)、その最大の得意先がドイツ(前掲書によると4〜5割、39年における総貿易額の3割)とあっては頭が上がらないのもやむを得ないが、メタクサスは「ギリシアは親独的ではない、それは単に煙草の市場を発見するための問題である」と述べつつドイツの経済攻勢をかわすためにイギリスに接近し、トルコやブルガリアとの友好関係を改めて確認した。イギリスは東欧をドイツの勢力圏として認めることによってドイツとの共存を確保しようと考えており(バルカン史)、38年にはギリシアからの同盟条約申し出を拒否する有り様であったが、39年3月にルーマニアがドイツに対する石油輸出量増大を約束させられ、同年4月7日にイタリアがアルバニアに進駐する(註3)とさすがのイギリスもドイツとの対決を決意し、4月13日をもってギリシア(とルーマニア)に領土保全の保障を行った。

 註3 この日アルバニア王位がイタリア国王に引き渡され、国王と政府はギリシアに亡命した。

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