第3部その2

   

   イタリアとの戦い   目次に戻る

 1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、「第二次世界大戦」が勃発した。ギリシアは中立を宣言し、同じくこの時点では中立を保っていたイタリア(註1)もアルバニア・ギリシア国境の警備を緩めてギリシアの恐怖感を除こうとした。イタリアはさらに10月にはギリシアと不可侵条約を結び、バルカン諸国とともに大戦に関係ない中立ブロックを造ろうとしていた(バルカン)。イタリアは広くもなく資源も乏しい国土に多くの人口を抱え、第一次世界大戦の後はバルカン半島に軍事と経済の勢力圏を築こうとの努力を続けてきた(前掲書)。その点でイタリアは、「同盟国」といえども同じようにバルカンに野心を持つドイツを全面的に信頼することが出来ず、むしろそのことがギリシアを戦争に巻込む直接の原因となるのである。その一方でギリシアは軍隊の整備に力を入れ、道路・鉄道網の整備や動員計画、北部国境の要塞線「メタクサス線」の建設を急いだ。

 註1 いうまでもないと思うがドイツの同盟国である。

 40年6月11日、イタリアがイギリス・フランスと戦争状態に入った。実はイタリアの戦争準備は甚だ不充分で、ムッソリーニ本人も、「もし我々が軍備を整えるまで待機するとすれば、参戦は数年先になる」と述べていた(註2)が、「だから我々は直ちに参戦して、全力を尽くさなければならない」「さもなければ戦争が終わりドイツの勝利の暁にはイタリアは孤立し、何物も手に入れることは出来ない」と強引に参戦を決めた(ムッソリーニの戦い)のである。

 註2 イタリア軍が弱体なのはそのイタリア軍の将軍たちが一番よく知っていた。例えばリビアのイタリア軍司令官グラツィアーニは手持ちの25万の軍団でエジプトのイギリス軍3万に勝つ自信がなかった。兵器や輸送機関が貧弱だったためである。

 こうなると、イタリア領アルバニアとイギリス艦隊のいる地中海との中間に位置するギリシアが全く無関係でいることは不可能である。また、隣国ブルガリアもイタリア・ドイツの手を借りてのマケドニア・西トラキアへの野心を強く示しており、そのことがギリシアをしてイギリス側に接近させる大きな圧力となった(バルカン)。メタクサスは予備役の一部を召集し、迫りくる「国家的危機」に言及した。彼は8月に改めて中立宣言を行ったがその月15日にはイタリア(と思われる)潜水艦がギリシア巡洋艦「エリィ」に魚雷を放って撃沈し、ギリシア・イタリア関係が急速に悪化した。メタクサスはドイツとの関係まで悪くしないようにそちらとの通商条約の交渉を続け、ヒトラーにギリシア・イタリア間の仲介役を頼もうともした。

 10月12日、ドイツ軍が油田の確保を狙ってルーマニアに進駐した。これはイタリアに相談なく行われたものであり、不愉快を感じたムッソリーニはついに自軍によるギリシア征服を決意した。「ヒトラーは私にいつでも既成事実を押し付けてくる。だが、今度こそこちらから仕返しをしてやる番だ。今にヒトラーは、イタリアがギリシアを占領したことを新聞で知らされるだろう。こうしてお互いに釣り合いがとれるというものだ」。アルバニアの対ギリシア国境に10個師団16万人の大軍団が展開した。

 10月28日午前3時、ギリシア政府に対し最後通牒が突き付けられた。「ギリシアのアルバニアに対するテロ活動はもはや黙視しえるものではない(註3)。ここにおいて、ギリシア領土内における若干の戦略地点を要求する」。メタクサスはこの文書を事実上の宣戦布告と見なし、イタリアの侵略に対し全軍をもって反抗すると声明した。

 註3 そういうことが本当にあったかどうかは私は知らない。

 アルバニア・ギリシア国境に集結していたイタリア軍が進撃を開始したのはそのわずか3時間後であった。これは予定の行動で、最後通牒を突き付ける時間も最初から決められており、つまりギリシア政府に最後通牒について協議する時間を与えるつもりがなかったのである(ムッソリーニの戦い)。

 しかしギリシア軍はムッソリーニが考えていたよりはるかに強かった。ブルガリアはこの時もギリシア領マケドニアに野心がないではなかったが、その場合はトルコが黙ってはいないとの通告を受けており(バルカン、歴史と現在)、おかげでギリシア軍は背後を気にすることなく対イタリア戦に集中することが出来た。ただ、イタリア軍のアルバニア人兵士にはギリシア側に寝返る者もいたのだが、ギリシアの方ではこの機会にアルバニア南部のギリシア人(註4)居住地区(北部エピルス)を「解放」しようとも考えていた。イタリア軍は数日のうちに大打撃を受けて押し戻され、ドイツ軍のカイテル元帥から、「(ギリシア侵攻に関し)もしドイツ側が事前に通告を受けていたら、この攻撃を思いとどまらせたであろう」と難詰される有様となった。

 註4 何度も書いているがこういう文脈で語られる「ギリシア人」が本当にギリシア人なのかどうかは非常にあやしいものである。

 ヒトラーは最初は「勝手にしろ」とひたすら怒っていたが、問題はイタリア・ギリシア間だけではすまなくなってきた。メタクサスは対戦相手をイタリア一国のみに限定し、ドイツ軍が乗り出してこないようにするためには、イギリス軍が余計な手出しをしないように注意するのが一番だと考え、現にギリシアはイタリアと交戦しつつもドイツとの国交を保っていた。しかしイギリスはとっくの昔からドイツともイタリアとも交戦状態にあり、メタクサスの綱渡りは極めて難しいものといえた。11月11日夜、イギリス空母「イラストリアス」を飛び立った雷撃機10機と爆撃機4機(他に照明弾投下機2機)がタラント港のイタリア艦隊を奇襲攻撃して戦艦2隻を撃沈、巡洋艦2隻と艦隊用補給艦2隻に致命的損傷を与えた。また、ムッソリーニは9月からリビア(註5)のイタリア軍に進撃を命令し、エジプトのシンディ・バラニまで駒を進めていたが、12月にはここでもイギリス軍の奇襲的反撃にあって総崩れに陥った。これにはタラント奇襲のあと楽になったイギリス艦隊の艦砲射撃も大きな役割を果たしていた。この頃にはギリシア軍もアルバニアの半分近くを占領していた。イタリア軍は(なんでここまでと思うくらい)あまりにも弱く、ドイツもさすがにこの勝手な(それはお互い様だが)同盟国を助けない訳にはいかなくなってきた。

 註5  1912年の「伊土戦争」以来イタリア領。

 翌41年1月はじめ、チャーチル英首相はギリシアに部隊を送ろうと申し出た。イギリス軍部としてはこれ以上多方面に部隊を割くのは御免こうむりたかったが、チャーチルは、未開で山がちなバルカン半島ならばドイツ・イタリア軍(特にドイツ軍)の機械化部隊の動きを削ぎ、大軍を比較的楽に足止め出来ると考えていたようである(第二次世界大戦通史を参考とした)。

 ギリシアのメタクサスは既に述べた理由からチャーチルの申し出を断るが、彼は1月の末に病気にかかってあっさりと死んでしまった。独裁者の唐突な死を受けて、平時なら以前の議会制民主主義に戻るところだが今はそんな暇はなく、国王ゲオルギオス2世は政治キャリアを持たない銀行家アレクサンドロス・コリジスを後継首相に任命した。イギリスが再び部隊派遣を申し入れた。コリジスはもはやドイツ軍との戦闘を不可避と考えており、イギリスがドイツ軍を防ぐに足る充分な兵力を用意出来ることを確認した上でこれを認めた。これも既に述べたとおりリビアのイタリア軍は壊滅状態になっており、とりあえずそちらは安全と考えたイギリスは(そのリビアと隣接する)エジプトから3個師団に近い兵力を送り込むことにした。

 ドイツの方でもイギリス軍がギリシアに展開することを警戒しており、ギリシア政府がイギリス軍受け入れを決める(41年1月)より前(40年12月)にギリシア攻撃を決意していた(前掲書)。もしギリシアにイギリス軍の飛行場が出来れば、ドイツの生命線であるルーマニアの油田がその爆撃圏内に入ってしまう。しかも、ヒトラーは既にソ連侵攻「バルバロッサ」作戦を計画(註6)しており、今ギリシアをイギリス軍の足場として許せば(ソ連を攻めるために)東へ向うドイツ軍の横腹を突かれることになりかねないのである。

 註6 ドイツとソ連は大戦勃発の直前に「独ソ不可侵条約」を結んでいたのだが。

 ギリシア攻撃のため、既に親独政権が出来ているルーマニアとブルガリア(註7)を通ってギリシアに侵攻する「マリタ」作戦が検討された。(2月中旬、ひとまずリビアのイタリア軍を助けるためにロンメル将軍のドイツ・アフリカ軍団が投入された)

 註7 41年1月にドイツ軍の領内通過を認める。さらに3月1日に正式に日独伊3国同盟に加盟してギリシア攻撃に加担することになる。

 2月22日、ギリシア軍総司令官パパゴス将軍とイギリス軍の首脳陣とが作戦会議をひらいた。アルバニアにはギリシア軍主力が展開しており、ユーゴスラヴィアが中立を守っている現時点で、何よりも警戒すべきはブルガリア国境だが、比較的劣弱な兵力しかもたないギリシア・イギリス軍ではブルガリアとの長大な国境を守るのは極めて難しい。だが、ブルガリアと国境を接するマケドニアとトラキアはブルガリアとエーゲ海に挟まれた東西に細長い地域であり、ここを一旦放棄してユーゴ国境〜エーゲ海の比較的狭い防衛線「アリアクモン線」に下がればその防衛は随分と楽であろう。ただしそれも、ユーゴが中立を守ってくれればの話であるが。

 この作戦案は一旦会議を通過した。が、数日後ギリシア側でゴタゴタが起こった。戦わずしてマケドニアを放棄するのはけしからんとの政治的圧力がかかったのである(前掲書)。これは、マケドニアからひきあげるにしてもそれはユーゴの態度を確かめた後にすべきであり、もしユーゴがドイツと戦うというのであればマケドニアの防衛も可能だろうという考えである(近代ギリシァ史)。ところが、かようなユーゴとの交渉はイギリス政府が当然やっているもの、ということはその結果が出るまでギリシア軍はマケドニアから退く必要がないということをイギリス側も諒解しているものと、ギリシア側は勝手に思い込んでいたらしいのである(前掲書)。もちろんイギリスにもユーゴにも何の連絡もいっておらず、3月7日からギリシアに上陸したイギリス軍5万7000がアリアクモン線の防備を始めた時点でも、ギリシア軍はまだマケドニアに貼り付いていた。しかも、イギリス軍が守備につくのはあくまでアリアクモン線で、その左翼のユーゴ国境には戦車1個聯隊基幹の貧弱な兵力しか配していなかった。これは全く致命的で、ドイツ軍が攻撃正面と想定しているマケドニアのギリシア軍はたったの3個師団半、ユーゴが中立を破ればそちらの防備はないも同然という、とんでもない状況になっていたのであった。

 ただし、それなりの吉兆はあった。イギリス軍が陸軍部隊を海路ギリシアへと送り込んでいることを知ったドイツ軍は、(ドイツ海軍には東地中海まで進出する力がないので)イタリア海軍にこれを妨害させようとしたが、かような行動はイギリス側も充分予測していた。イギリスはギリシアとエジプトからそれぞれ艦隊を出撃させ、戦艦1隻・巡洋艦6隻・駆逐艦3隻を持って出撃してきたイタリア艦隊を3月27日夜〜翌日にかけての「マタパン岬沖海戦」にて迎え撃ち、巡洋艦3隻と駆逐艦2隻を撃沈して被害ほとんどなしという大戦果をあげたのである。

   

   ユーゴ政変   目次に戻る

 最初、ドイツはユーゴスラヴィアを攻撃するつもりはなかった。というより、血を流して征服する必要がなかった。ブルガリア・ルーマニア・ハンガリーは親独政権が出来ており、アルバニアはイタリア領、オーストリアはドイツ領といった具合に周囲をほとんど全部ドイツ・イタリア勢力に囲まれている状態では、本来親英的なユーゴスラヴィア王国摂政パヴレ公といえども、戦わずしてドイツ側に屈服するのは無理からぬ話であった。また彼は自国の軍隊にドイツ軍と戦う力がないとこを自覚しており、イギリスにはユーゴまで助ける力がなく、この時点では(相手の本心も知らずに)ドイツとの友好を求めるソ連がユーゴへの武器供給を停止し、国内ではセルビア人とクロアチア人の対立が激化していた。クロアチア人の一部はドイツに「大クロアチア」建設の期待を託していたのである(註1)。ドイツはかような窮状につけこむにしては比較的寛大で、同盟を結ぶならばドイツ軍の領内進出、及び参戦義務を免除しても良い、領土を保全する上にギリシアから(マケドニアの)テッサロニキを割譲する、といった大層魅力的な条件を持ち出してきた。摂政パヴレ公は3月25日にこれを受諾した。これで、ドイツはギリシア侵攻に際してユーゴの動きを気にする必要がなくなった訳だが、ユーゴ領内を通らないと約束した以上、ギリシアへの進路はアルバニアでなければブルガリアを通るルート以外にないことにもなる。

 註1 『ユーゴスラヴィア現代史』より。これは実現する。後にドイツ軍の占領下におちたユーゴスラヴィアにおいて、クロアチア人はドイツの傀儡ながらも広大な国土を持つ「クロアチア独立国」を組織してセルビア人虐殺を行うのである。

 ところがその2日後、ユーゴ・ドイツ同盟に不満なユーゴ軍部の将校たちがクーデターを起こし、パヴレ公を追放してしまった。首都ベオグラードでは前日から「条約より戦争を」「奴隷より墓場を」のデモが行われており、今回のクーデターはそれを受けた形だが、新政権はとりあえずはドイツとの同盟を再確認し、その一方でソ連と友好不可侵条約を結ぶという中立路線に訴えようとした。このことはクロアチア人の多くからも支持が得られた(ユーゴスラヴィア史)が、しかし仮にドイツと戦うための時間稼ぎだったとしてもこれは甘過ぎた。この時たまたま日本の外相がベルリンを訪れていたこともあって(前掲書)、ヒトラーはユーゴの政変に激怒した。ギリシアと同時にユーゴを攻撃し、「軍事的にも国家としても破壊しつくすべし」。ギリシア攻撃用の第12軍の他、新たにオーストリア駐留の第2軍、ハンガリー第3軍、イタリア第2軍が整えられた。ユーゴ・ギリシア・イギリス間の連絡は、ほとんどする暇がなかった。

   

   ドイツ軍の侵入   目次に戻る

 1941年4月6日、ドイツ軍がユーゴスラヴィア・ギリシアへと同時に攻め込んだ。ユーゴの航空兵力は初日で粉砕され、首都ベオグラードも空襲を受けて1万7000の死者を出した。ユーゴ陸軍は主に北方の防備を固めていたが、ドイツ軍の主力第12軍はブルガリア方面から4つに分かれてユーゴ南東部とギリシアに雪崩れ込んできた。ギリシア方面では(第18及び30軍団が)マケドニアを突進してわずか3日間でテッサロニキに到達、ユーゴ領のマケドニアに攻め込んだ部隊(第40装甲軍団)もこれを蹂躙してやはり3日間でユーゴ・ギリシア国境に到達、ブルガリアからユーゴ領を北上する部隊(第1装甲集団)は6日後に首都ベオグラードに到達し、北から攻める第2軍とで翌日これを占領した。ドイツ軍としては不必要な程の大戦車軍団を投入しており、まことに「ハンマーで胡桃を割る(ドイツ機甲師団)」ような一方的大勝利であった。

 マケドニアにいたギリシア軍部隊はたちまち粉砕され、そのギリシア軍が前もって合流していればもう少し戦えたかもしれないアリアクモン線も危機的状況に陥った。ユーゴ領マケドニアをまわってアリアクモン線の左翼に出たドイツ第40装甲軍団はそこで2日間食い止められたが、またすぐに前進を再開、その優勢な航空攻撃に晒されたギリシア・イギリス連合軍は陣地を次々放棄して退却した。ギリシア最大の港ピレエフスでは開戦初日の空襲で輸送船「クラン・フレーザー」に爆弾が命中し、積み込んでいた250トンの爆薬が誘爆して港全体を破壊してしまった。

 連合軍はもはやこれまでと海への退却を準備を始めつつ、ほとんど時間稼ぎのためにテルモピレーに踏みとどまってドイツ軍を迎え撃とうとした。テルモピレーは紀元前480年の「ペルシア戦争」の際、レオニダス王率いるスパルタ軍がペルシアの大軍を迎え撃ち、奮戦むなしく全滅した古戦場である。

 ドイツ軍は補給を整えるためにしばらく停滞したが、ギリシア首相コリジスは絶望のあまり自殺した。後継の首相エマヌイル・ツデロスはクレタ島出身で、国王と政府をクレタ島に逃がす段取りを開始した。アルバニア戦線でも12日からイタリア軍が攻勢を始めており、今回はギリシア軍を押しまくって休戦に追い込んだ。軍上層部や政界の一部は最初からドイツ軍への抵抗を絶望視しており、それどころかナチスのイデオロギーに積極的に賛同する者も少なからず存在したのである(バルカン現代史)。

 17日、ユーゴスラヴィア軍が降伏した。たった11日しか抵抗出来なかった。24日、ドイツ軍がテルモピレーの連合軍陣地への攻撃を開始した。連合軍もさすがにここでは奮戦し、狭い道を進んでくるドイツ戦車に対戦車砲を撃ち込んでそれなりの打撃を与えたが、横から山岳師団の攻撃を受けて後退を強いられた。26日夕刻にはテーベの防衛線が突破され、同日ペロポネソス半島と本土をつなぐコリント地峡に落下傘部隊が降下してこれを占領した。アテネにもペロポネソス半島にもドイツ兵が充満した。28日、連合軍とギリシア政府・国王は海路ギリシアから撤退し、一旦クレタ島に引き蘢った。

   

   クレタ島の戦い   目次に戻る

 

 ドイツのヒトラー総統はギリシア本土のみの占領で充分満足するつもりだった。しかしドイツ空軍は落下傘部隊(註1)の奇襲攻撃によってクレタ島を一挙に占領する計画を整えていた。これは強力な戦備を持つ大きな拠点を空からの攻撃のみで進出・制圧するという、第二次世界大戦全体を見渡しても他に例を見ない大胆かつ野心的な作戦で、「東地中海におけるイギリス軍に対する航空基地として、我々はクレタ島を占領しなければならない。この作戦は空軍総司令官にまかせる。この目的を遂行するためには、主として地中海水域に配置された落下傘部隊及び空軍を使用せよ」との「マーキュリー」作戦は、ドイツ落下傘部隊司令官シュツーデント上級大将がヒトラーを強く説得することによって実現したといわれている。

 註1 たいていの国では落下傘部隊は陸軍所属だが、ドイツでは空軍に属している。

 しかし、島に対する攻撃だから普通は海軍が主役になるところを「主として落下傘部隊及び空軍」を使用するというのは、ドイツ海軍は東地中海には勢力がなく、イタリア海軍は去る3月28日の「マタパン岬沖海戦」の敗北以来腰がひけてしまっていたからである。落下傘及びグライダーで現地に降下するドイツ落下傘兵は総勢2万2750を数え、それを空から援護する航空部隊として戦闘機180機・爆撃機280機・急降下爆撃機150機が用意された。対してクレタ島の連合軍はイギリス軍が約3万の兵と戦車9輛、ギリシア軍が定数に満たない2個師団と、兵士の数だけならドイツ軍より多かったが、肝心の飛行機はたったの35機しかなく、そもそも島の連合軍はまさかドイツ兵が空から降ってくるとは思いもよらなかった。

 5月20日、ドイツ空軍による上空制圧と爆撃が行われ、続いて落下傘部隊が降下した。落下傘部隊の損害は甚大であったが連合軍の混乱はそれ以上で、約10日間の激戦の末にギリシア政府・国王ともども再び海へと退却した。ドイツ落下傘兵の死者・行方不明者は4500にものぼったことからドイツ軍は二度と大規模な空挺作戦をやらなくなったが、連合軍は全軍の半分以上が戦死もしくは捕虜となり、空襲で巡洋艦3隻・駆逐艦7隻が沈没、空母1隻・戦艦3隻・巡洋艦7隻・駆逐艦4隻が損傷を受けるという大損害を被ったのであった。

 こうして、ギリシア全土はドイツ・イタリア、さらにブルガリア軍の占領下におちた。ドイツは西トラキアのトルコ国境地帯にアテネ、テッサロニキ、クレタ島と他の島いくつか、ブルガリアは西トラキアの大部分とマケドニアの一部、イタリアはそれ以外の地域を占領した。ブルガリアはユーゴスラヴィアからもマケドニアを奪っており、前世紀以来の野心を一応は満足させた形となった。ただし、占領軍の実行支配は都市部に限られており、地方の山岳地帯では銃を持った農民たちがレジスタンス(抵抗)の準備を整えつつあったのである。

   

   ギリシアのレジスタンス   目次に戻る

 ドイツの指導者たちはギリシアを人類文化発祥の地として崇めていたが、同時に、古代のギリシア人と現在のギリシア人とは人種的に別系統であるとの説も信奉しており、物資や食糧の収奪を情け容赦なく行った。41年から42年にかけての冬、大飢饉がギリシア人約10万人を死に至らしめた(ギリシャ近現代史)。特に悲惨だったのはユダヤ人で、15世紀以来テッサロニキに居住していたユダヤ人5万人ほぼすべてが強制収容所送りとなり、その多くは帰ってこなかった。

 42年6月、ドイツ軍が「独ソ不可侵条約」を破ってソ連へと侵入した。ソ連は全世界の共産主義者に対しドイツ軍に対し抵抗することを呼びかけ、ギリシアにおいてもすでに抵抗組織「民族解放戦線(EAM)」の編成にとりかかっていた共産党が最有力の勢力として浮上した。ギリシア共産党はメタクサス時代にすでに弾圧を受けて地下に潜っていたことから非合法活動のノウハウ(?)に通じており、田舎の伝統的な家父長制に縛られていた女性や若者に訴えることで支持を拡大した。EAMは共産党の主導によるものではあるが、共産党は幅広い層の支持を集めてファシズムに対抗する「人民戦線戦術」を採用してEAMから共産主義臭を消すことに努力し(ギリシアを知る事典)、おかげでEAMの構成員の多くは共産党が組織を主導していることを知らなかったという(前掲書)が、EAMはその「人民戦線」に加盟しない者には敵対的な態度をとり、エジプトに所在する国王とその亡命政府との接触もほとんど持たれなかった(ギリシャ近現代史)。

 その、国王と亡命政府というのが深刻な問題を抱えていた。共産党以外の勢力(伝統的な共和派やかつての王党派の多くを含めて)は、戦前のメタクサス独裁の原因を国王個人の軟弱さに帰す傾向があり、メタクサス死後に(そうせざるを得なかったとはいえ)国民の意志も何も関係なく次々に新しい首相が任命されたことにも強い不快感を抱いていた(近代ギリシァ史)。その点は共産党も同じ(というかここは本質的に反国王)だったので、ギリシアの国王と亡命政府は、国内の政治勢力の支持を全然受けていないという、実に深刻な問題に直面することとなったのである。これは他国(オランダやノルウェー)の亡命政府にはありえない話であった。

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