ヘロデ王の物語

 イスラエル(ヘブライ)人は紀元前11世紀にパレスチナの地に王国を建設して栄華を誇ったが後に南北に分裂した。そのうち北のイスラエル王国がアッシリアの攻撃によって滅亡したのは前721年、そこに住んでいたイスラエル10氏族は奴隷として連れ去られ(註1)、行方不明となった。南のユダ王国はしばらくアッシリアに臣従していたがその滅亡(前612年)に乗じて独立、旧イスラエル領域も回復したが、すぐにエジプトとの戦いに敗れてその従属国となった。前586年、ユダ王国は今度は新バビロニアの軍門に降り、指導者層は敵の首都バビロンに連れ去られた。「バビロン捕囚」である。この、亡国ユダの人々はこの頃から「ユダヤ人」と呼ばれるようになり、故郷への思慕を独自の一神教「ユダヤ教」の大成へと昇華させていった。

 註1 その跡地にはアッシリアの他の領地から植民が行われた。その子孫「サマリア人」はわずかながら現存する。

 支配者はころころとかわっていった。前538年、新バビロニアを滅ぼしたペルシアはユダヤ人の捕囚を解いてパレスチナへと戻してやったが政治的独立は与えず(註2)、前330年代にはマケドニアのアレクサンドロス大王の軍勢が攻め込んで来た。アレクサンドロスはユダヤ人の信仰を認めたがその帝国は彼の死後分裂し、パレスチナはセレウコス朝シリアとプロレマイオス朝エジプト(註3)の争奪の地となった。

 註2 このペルシア領時代に旧約聖書の多くが編纂されたとされている。

 註3 両方ともアレクサンドロス大王の部将のたてた国である。

 パレスチナは最初はプトレマイオス朝の支配下にあったがその後セレウコス朝に奪われ、アンティオコス4世の時代にはユダヤ教に対する弾圧が行われた。エルサレムのユダヤ教の神殿が破壊され、かわりにゼウス神の神殿(註4)が建てられたのはユダヤ人にとって大変な屈辱であった。ユダヤ人の間にはセレウコス朝に迎合する動きもあったのだが、結局はハスモン家を中心とする抵抗派がイニシアティブを握り、苦しい独立戦争の末、前165年にはエルサレムを手中におさめてほぼ独立を回復した。

 註4 アレクサンドロスの帝国やその系譜の上にたつセレウコス朝は、アレクサンドロス大王が持ち込んだギリシア文化と現地の文化が融合する「ヘレニズム」の国である。アレクサンドロス大王は現地の宗教を尊重していたが、セレウコス朝のアンティオコス4世は熱心なギリシア化をすすめようとしたのであった。

 その後しばらくはハスモン家による政権が存続した。最初は大祭司として祭政一致の政治をしていたが後に正式に王位を名乗って「祭司王朝」と呼ばれることになる。しかし前67年に女王アレクサンドラが没し、彼女の王子2人が引き起こした内紛が西方の超大国ローマの介入を招くこととなるのである。

   

   ローマの侵入

 この頃、かつてユダヤ人を支配していたセレウコス朝シリアは、周辺諸国の圧迫を受けて無政府状態に陥っていた。この頃この地域に遠征してきたローマ(共和政)の武将ポンペイウスは小アジア(現トルコ共和国のある地域)やアルメニアに転戦しつつシリアにも触手を延ばし、そこからユダヤの内紛に介入したのである。

 前65年、セレウコス朝を廃絶してシリアをローマの属州にしてしまったポンペイウスは、ユダヤにて相争う2人の王子の両方から支援要請を受け、より自分に従順と思われた上の王子ヒュルカノスに加担した。ローマ軍は下の王子アリストブロスをユダヤの首都エルサレムに攻め、3ヶ月に渡る激戦の後にこれを陥落せしめた。だが、ポンペイウスと並んで勝者となった筈のヒュルカノスは王位を取り上げられてしまい、大祭司の地位と「ユダヤ民族指導者」という称号だけを与えられた。これにてハスモン家は政治的独立を失うことになる。

   

   ヘロデ台頭

 ユダヤ人のうち、新しい支配者ローマに特に強く忠誠を誓いその出先機関となって権勢を振るったのがイドゥメヤの豪族アンティパトロスであった。ユダヤではその後頻繁にローマに対する反乱が起こったがアンティパトロスは常にこれを鎮圧する側にまわり、さらにこの頃ローマの中央政界で台頭してきたユリウス・カエサル(註5)にうまく取り入ってローマ市民権を手に入れることに成功した。カエサルはなるべくユダヤ人の信仰を侵害しないよう振舞い、アンティパトロスはカエサルが中東の各地に起こす軍事行動に従って勇敢に戦ったのである。

 註5 カエサルはローマ中央にて、先に登場した ポンペイウス、さらにクラッススという人物と共に「第一回三頭政治」を行っていた。そのうち まずクラッススが東方の大国パルティアと戦って戦死、 次にカエサルとポンペイウスとの戦いで前者が勝利して、 前45にはカエサルが全ローマを手中におさめるに至ったのである。

 前44年、ローマ中央にて大事件が勃発した。 アンティパトロスのパトロンであるカエサルがブルートゥスやカッシウスによって暗殺されたのである。 すぐにカエサルの跡目をめぐる紛争が起こったが、 ローマ市民の支持を得られなくなった暗殺者側のカッシウスやブルートゥスは地方に逃れ、 特にカッシウスはシリアにやってきて軍勢を整えようとした。そこから、カエサルの相続人でローマ中央を掌握しつつあるオクタウィアヌス等に決戦を挑もうというのである。カッシウス軍のすぐ近くにいるアンティパトロスも莫大な貢納金を負担させられた。この時まっさきに割り当ての金額を用立ててカッシウスを喜ばせたのがアンティパトロスの次男ヘロデである。

 ヘロデは既に剛胆なる治安維持手腕によってローマ側の信頼をかためていた。彼はわずか15歳の時に父からガリラヤ地方の統治を委せられて現地の反乱軍を鎮圧したが、その処罰に際してユダヤ大評議会の意向をうかがっていなかったことが大祭司ヒュルカノスの派の者の怒りを買い(ヒュルカノス本人は大して怒っていなかったが)、裁判にかけられるところを、ヘロデによる反乱鎮圧の功を評価するローマ側要人の支持と自身の武力威嚇によって乗り切ったという前歴の持ち主であった。

 カッシウスはこれからオクタウィアヌスとの戦いに臨むにあたってヘロデに強く期待し、官職や軍勢を与えると同時に戦争が終わればユダヤ王にしてやるとまで約束した。これが、大司祭ヒュルカノスの派の人々を不安にさせた。ヒュルカノス本人は基本的にヘロデを嫌っていなかったのだが……その派の大物マリコスが先手を打ってヘロデを排除しようとし、まずヘロデの父アンティパトロスに毒を盛ってこれを暗殺してしまうのである。

 だがこれは順序が逆であった。殺すならヘロデを先にすべきであった。ヘロデはカッシウスの支持をとりつけ、カッシウスの命令という形で簡単に父の仇マリコスを殺すことに成功した。ヘロデがカッシウスのお気に入りであったことを考えれば当然の結果である。ヘロデはその後も対立者を次々に弾圧し、その勢力を確実に拡大していった。その一方ではヒュルカノスの孫娘マリアムネと結婚して大祭司ハスモン家に食い込むことも忘れない。

 ところが前42年、ヘロデの後ろ楯であるカッシウスがフィリピの戦いにてオクタウィアヌスとアントニウス(註6)の軍勢に敗れてしまった。中東にはアントニウスが進撃してきたが、抜け目のないヘロデは多額の賄賂を用意してその歓心を得ることに成功する。そもそもアントニウスはその昔ヘロデの父アンティパトロスの世話になったことがあり、ヘロデにも悪い感情を抱いていなかったのである。

 註6 オクタウィアヌスは前述の通り 故カエサルの甥。アントニウスはカエサルの部下。 彼等2人とレピドゥスという人物が組んでローマを動かした のが「第二回三頭政治」。

   

   ヘロデの危機

 ところがアントニウスの要求は過大であった。重税に苦しむユダヤ人の多くが反乱を起こし、その間に挟まれたヘロデは危機的状況に陥った。さらに東方からアルサケス朝パルティアの軍勢が押し寄せてくる。パルティア軍は同盟を申し出て来た大司祭ヒュルカノスを連れ去り、その甥アンティゴノスを擁立した。ユダヤ人のうちかなりの部分がアンティゴノスを支持した。ユダヤの首都エルサレムはパルティア・アンティゴノス軍によって制圧された。ヒュルカノスはアンティゴノスによって両耳を切られ(註7)、ヘロデの兄も自決に追い込まれてしまった。ヘロデ本人はパルティア軍とユダヤ人反乱者の双方に苦しめられつつ各地を転々とし、最後にアントニウスを頼ろうとした。この頃アントニウスはプトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアで女王クレオパトラと同棲(?)していた。ヘロデはとにかく身軽に動くため、同行してきた者の多くを解散し、家族に少数の兵をつけて死海のほとりにある難攻不落の要塞マサダにのこすことにした。

 註7 身体の一部が破損していると大祭司にはなれないという決まりがあった。

 ヘロデがエジプトに駆け込んできた時、アントニウスはたまたま所用でローマに帰っていた(前40年)。クレオパトラはこの時たまたま計画中だった遠征の指揮官にヘロデをあてようとしたが彼は断った。前述のとおりヘロデは敵軍の包囲下に家族を残してきており、クレオパトラに構っている暇がなかったのである。このことで、クレオパトラはヘロデを強く嫌うこととなる。

 それはそれとして、ヘロデは暴風のなか船を乗り継いでローマへと飛び、アントニウスに泣きついた。ここではアントニウスだけでなくオクタウィアヌスもヘロデの味方をしてくれた。オクタウィアヌスはヘロデの父アンティパトロスが自分のおじカエサルに忠勤を尽くしてくれたことを思い出したのである。ただちに招集されたローマ元老院は全員一致でヘロデにユダヤ王位をおくり、ここに「ヘロデ王」が誕生した。もっともこれは完全な意味での独立王国の長ではなく、ユダヤ王にしてローマ市民(ローマ市民権はヘロデの父アンティパトロスの代に獲得している)という、ていのいい従属国の主なのだが……それはともかく、すぐにユダヤ本国に戻ったヘロデはローマ軍の援助を受けつつマサダ砦に籠っていた家族と合流、その後2年間かけてパルティア・アンティゴノスの軍勢を撃破した。前37年、ヘロデ・ローマ連合軍はエルサレムを占領し、傀儡の王アンティゴノスを処刑した。

   

   アリストプロス暗殺

 こうして外からの危機を跳ね返すと、今度は内部をかためにかかる。既に少し話したがヘロデは大祭司ハスモン家のマリアムネと結婚し、血統面でもユダヤの支配者たることを示そうとしていた。

 さらにヘロデはパルティアに拉致されていた元の大祭司ヒュルカノスをパルティア王の許可を得た上で呼び戻し、会合では常に上座の座らせて「父」と呼び厚遇した。ヘロデの妻マリアムネはヒュルカノスの孫なのだから父というより祖父なのだが……ただし大祭司の位には復帰させず(そもそもヒュルカノスは拉致された時に両耳を切られたため、律法によって大祭司の位にはつけない)、かわりにアナネロスという人物を大祭司に擁立した。

 この措置にはヒュルカノスの娘アレクサンドラが激怒した。彼女には2人の子供がおり、娘のマリアムネはヘロデと結婚し、息子のアリストプロスはまだ16歳だが大変な美青年(美少年?)であったのだが、そのアリストプロスを大祭司に擁立しようと考えていたのである。姑と妻にせっつかれたヘロデはその要求を飲み、アナネロスを解任してアリストプロスを大祭司にしてやることにした。

 ただ、アレクサンドラにはこの問題に関してエジプトの女王クレオパトラに支持を訴える等の政治(陰謀)好みの性質があったためにヘロデにあまり信用されておらず、アレクサンドラの方もヘロデを好いてはいなかった。ヘロデは姑の自由を制限し、それを嫌がったアレクサンドラはそのことをまたクレオパトラに訴えて、今度は息子と一緒にエジプトに亡命しようと考えた。

 本来ヘロデは猜疑心の強い人物であった。妻の一族ハスモン家は長い間ユダヤの大祭司をつとめてきた家柄だが自分の出身はさして名門という訳ではなく、しかもヘロデの生母はユダヤ人ではなくアラブ人であった。妻の弟……つまりアレクサンドラの息子アリストプロスは大祭司家の直系として、いつヘロデに(政治的に)とってかわるか分からない存在であった。ヘロデは母子のエジプト亡命計画を察知し、これについては寛大に赦してやったが、しばらく後、水泳中の事故に見せかけてアリストプロスを暗殺してしまうのである。

   

   マリアムネ

 ヘロデはアリストプロスのために盛大な葬式をだしてやったが、アレクサンドラは再びクレオパトラに訴えることにした。先ほども少し説明したことだが……ヘロデはクレオパトラにも嫌われており、アレクサンドラの訴えを聞いたクレオパトラはヘロデに対し様々な嫌がらせをすることになる。クレオパトラの愛人でローマ中央政界随一の実力者でもあるアントニウスはヘロデが王位獲得の際に世話になった恩人でもあり、ヘロデとしてはクレオパトラの機嫌を損ねる訳にはいかないのである。だが、(クレオパトラの要請を受けた)アントニウスに呼ばれて事情を聞かれたヘロデは充分なプレゼントを持ち込んでおり、言葉巧みに言い逃れてしまった。アントニウスはヘロデの王としての裁量権に対し人がどうこう言うべきでないこと、特にクレオパトラは余所の国の問題に首を突っ込むべきではないと発言した(そのかわりクレオパトラに領地をプレゼントした)。

 ヘロデは本気で妻マリアムネを愛し、彼女と結婚する前に一緒だったドリスという女性とその子供を追放することまでやっていた。だが、マリアムネの方は弟アリストプロスを殺されたことからヘロデを深く恨むようになっていた。彼女はヘロデを公然と責め立て、そのせいでヘロデ本人よりヘロデの母や妹たちの方がおさまらなくなってきた。母や妹たちはヘロデにあることないことを吹き込み、マリアムネを排除しようとした。

 特にヘロデを傷つけたのは……マリアムネがアントニウスと姦通しているという噂を流されたことだった。ヘロデはアントニウスに愛おしい妻を奪われ自分も殺されるのではないかとの猜疑心にとりつかれ、2つ前の段落の、アントニウスにアリストプロス暗殺の件で呼ばれていく際に、妹サロメの夫ヨセポスに「もし自分がアントニウスに殺された場合には、マリアムネも殺してくれ」と頼み込むことまでやっていた。そして、ヨセポスはついうっかりそのことをマリアムネに話してしまったのである。

 しばらく後、ヘロデはマリアムネに言った。「かつて他の女を愛したことなどない」。返事は「本当に結構なこと。私を殺せと命じ、ヨセポスへの指示をもって私への愛を見せようとするなんて」。

 こんな重大な話がマリアムネ本人に漏れているとは、これはマリアムネとヨセポスが姦通しているに違いない! ここで、恐ろしいことに、ヨセポスの妻、つまりヘロデの妹サロメはマリアムネを嫌い排除したいあまりに夫の命を犠牲にしようとした。サロメは自分の夫がマリアムネと姦通していることを「証明」し、嫉妬に怒り狂ったヘロデがマリアムネ(とヨセポス)を殺すよう仕向けたのである。ヘロデはマリアムネを殺すことはなんとか思いとどまったもののヨセポスは目通りも許さず速攻で処刑、妻の母アレクサンドラも責任の一端があるとして鎖につないでしまった。(この後の事情がはっきりしないが、アレクサンドラはすぐに釈放されたようである)

   

   ヘロデとオクタウィアヌス

 前36年、アントニウスはクレオパトラの機嫌をとるためにその管轄下の地方をたくさんプレゼントした。これはアントニウス個人の領地ではなく、ローマの領土(含む従属国)を勝手に譲渡したのだが……その中にはヘロデの領地のひとつエリコ地方も含まれており、ヘロデはエリコの領主としてはクレオパトラに臣従するという惨めな立場に立たされた。クレオパトラがヘロデの領地を通った際にはこれを盛大に接待せねばならず、クレオパトラの他の従属国ナバテアが反乱を起こせばその鎮圧を命じられるという有り様である。でもって、ヘロデが反乱鎮圧に成功しかけると、クレオパトラが裏から反乱軍を援助するのである。

 ところが……、ヘロデがナバテアで苦しみつつなんとか勝利を決めた紀元前31年、先の勝手な領土譲渡に怒ったローマ中央の有力者オクタウィアヌスとアントニウスとが戦争になり、ギリシアのアクティウム沖で行われた海戦にてアントニウス・クレオパトラ連合軍の方が敗れてしまったのである。ここで、アントニウスと親しいヘロデの地位も失墜するかと思われた。ハスモン家の元の大祭司で事実上の飼い殺し状態にあったヒュルカノスはこの気に乗じて脱出しようとしたが、素早くその情報を掴んだヘロデは彼に他国との通謀容疑をかけてこれを処刑した。

 その後すぐ、ヘロデは新しい覇者オクタウィアヌスの元に出頭した。この時ヘロデは平民の身なりで裁きを請うたという。余計な弁解は一言も発せず、自分はただアントニウスに忠実であっただけであると訴えてオクタウィアヌスを感服させる。オクタウィアヌスとしても、それなりに強力な武力を持つヘロデをてなづけておくのは得策であると判断された。この後ヘロデはエジプトへと進軍するオクタウィアヌス軍を全力をあげて歓待し、ひたすら媚びを売って新しい領地を追加してもらう。 この後、ヘロデはオクタウィアヌス、いや、「アウグストゥス」(註8)の最も信頼出来る友人となった。

 註8 第二回三頭政治のうち、 レピドゥスは既に失脚、ポンペイウスはクレオパトラと共に滅亡、1人残ったオクタウィアヌスは前27年に ローマ元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を贈られて 全ローマの政治・軍事の実権を掌握した。ローマは彼の時から帝政期に入るのである。

   

   マリアムネ処刑

 弟アリストプロスに続いて祖父ヒュルカノスまで殺され、ヘロデの妻マリアムネの怒りは限界に達していた。この期に及んでもまだヘロデは妻を盲目的に溺愛し彼女の口から発される罵倒に耐えていたが、ヘロデの妹サロメはもはやマリアムネを殺すことしか考えていなかった。ヘロデ夫妻の夫婦喧嘩があったある日、サロメはヘロデの執事に、王の元にマリアムネの名前で媚薬を差し出させた。喧嘩の興奮のさめやらぬヘロデはさすがに疑って執事を詰問したが「この薬はマリアムネが調合した」という返事しか返ってこず、怒り狂ったヘロデはとうとうマリアムネを処刑してしまった。サロメがしつこく唆したのは言うまでもない。

 ヘロデはこの措置を激しく後悔し、ほとんど病人のようになってしまった。マリアムネの母アレクサンドラが実権を握ろうとしたが周囲に応じる者がおらず、逆にヘロデが病床から指示を与えてこれを処刑した。その後ヘロデの容態は回復したものの、周囲の人々を簡単に捕らえては殺すようになってしまった。ともあれ、ヒュルカノスにアリストプロス、マリアムネとアレクサンドラと言ったハスモン家の人間をほぼ殺し尽くしたヘロデに表立って刃向かう有力者は、この時点では1人もいなくなったのである。

   

   神殿の建設

 王国の庶民に対しては、ローマの元首アウグストゥスに媚びを売るためにアウグストゥス神殿を建設して臣民にローマへの忠誠を強要し、それについて保守的ユダヤ教徒に文句を言わせないために徹底的な言論統制を断行した。一神教を信じるユダヤ人にとってアウグストゥス神殿とはとんでもない話なのだが、ヘロデは首都エルサレム周辺での集会を一切禁止し、スパイを放って庶民の動向を探ろうとした。一般の犯罪者に対してもユダヤ古来の慣習を逸脱する苛烈な処罰を与え、罪人を簡単に奴隷にして他国に売り飛ばしたりした。

 だが、ヘロデは飴と鞭を巧みに使い分ける法を知っていた。飢饉が起これば気前良く食料を放出し、時には租税を減額した。いかなる時にも徹底的にアウグストゥスを支持したおかげで広大な地域での徴税権を認められ、粛清した人々から没収した財産は莫大な額にのぼっていた。自分の王国の中だけでなく、ローマ帝国の各地に居住しているユダヤ人を熱心に援助し、他の民族の文化事業の後援も押し進める。ハスモン家の人間がいなくなった後の大司祭職はヘロデの任命する単なる宗教官僚となってしまったが、ヘロデがこの職につこうとしなかったのは、諸民族が混在するヘロデの王国を統治するには特定の宗派を代表しない方が都合がよいと考えたからだと思われている。

 その一方でヘロデはエルサレムのユダヤ教の神殿を大改築するという事業に着手してユダヤの庶民や司祭たちを懐柔しようとする。この神殿は前586年にユダ王国が新バビロニアに滅ばされた際に一度破壊され、前538年に「バビロン捕囚」が解かれた時に再建されたもののあまり立派とはいえないものにとどまっていたのである。

 ヘロデの神殿は境内が南北500メートルに東西300メートル、その周囲を城壁が取り巻き壁内側は高さ15メートルの巨大な柱を並べて柱廊を建造した。中央部の建物は縦横高さとも50メートル、屋根は金、それ以外は白い石で造られていた。大祭司職でないヘロデがこの神殿の聖域には決して入らなかったというのは大した政治感覚である。

 ともあれ、これが新約聖書に登場する「神殿」であるが、建設が始まったのが前20年、実はイエス・キリストが十字架にかけられた紀元30年の時点でもまだ完成はしていなかった(完成は紀元64年)。そして、西側の城壁が今に伝わる「嘆きの壁」である……。

   

   アレクサンドロスとアリストプロス

 刑死したマリアムネは生前ヘロデとの間に男3人女2人の子供をもうけていた。このうち男1人は夭折していたが、残る2人の息子、アレクサンドロスとアリストプロスは長ずるに従って母を殺したヘロデを強く憎むようになっていた。もっともヘロデは最初はこの2人の王子について悪い感情をもってはおらず(こういう所が妙に甘い)、アレクサンドロスにはカッパドキア王の娘を、アリストプロスには妹サロメの娘をそれぞれめあわせてやっていた。

 しかし、カッパドキア王はともかくサロメの娘と結婚させたのは、ヘロデの考えが甘過ぎたとしか言いようが無い。2人の母マリアムネの処刑に最も積極的に加担したのが他ならぬサロメなのである。サロメは2人が母の復讐に立ち上がってくるのを極度に警戒し、ことあるごとに2人への中傷を垂れ流した。

 次第に2人を疎んじるようになったヘロデは、マリアムネと結婚した際に離縁していた先妻ドリスの子アンティパトロスを呼び戻して特に引き立てることにした。アンティパトロスは父に熱心に取り入り、異母弟たちの悪口を吹き込んだ。正確には、利口なアンティパトロスは自分の口からは悪口を出さず、ヘロデに信頼されている取り巻きたちの口を経由するという方法をとっていた。対してアレクサンドロスとアリストプロスは言いたいことははっきり言うのが品のある人間だと思い込んでおり、両者の優劣はあまりにも明白なものといえた。そして、ヘロデはアレクサンドロスとアリストプロスの処刑にまで思い至ることになる。

 前12年頃、マリアムネの2人の息子を殺す決意を固めたヘロデは彼等に毒殺未遂の嫌疑をかけ、ローマのアウグストゥスの前へと引き立てた。アレクサンドロスとアリストプロスはローマ市民権を有していたため、ヘロデの一存で処刑することが出来なかったのである。

 ところが、アレクサンドロスの弁明は見事なものであった。アウグストゥスはいたく感銘してヘロデの訴えを取り下げ、容疑者にされていた2人の息子はヘロデに全面的に従うこと、ヘロデの王国の後継者選任はヘロデの一存にまかせることを条件として両者を和解させることとしたのである。

 しかし、ヘロデはアウグストゥスの顔を立てて引き下がったが内心は不満であり、息子たちにも到底納得出来る裁きと言えるものではない。アレクサンドロスとアリストプロスの敵はアンティパトロスだけではなかった。言うまでもなくヘロデの妹サロメにアンティパトロスの生母ドリス、ヘロデの側室たちといった人々がそれである。例えばアレクサンドロスの妻グラフュラはカッパドキア王の娘という高貴の血を鼻にかけ、本来それほど名門という訳ではないヘロデの妹たちや側室たちを馬鹿にしていた。アリストプロスの方は妻(サロメの娘)が兄嫁のような名門出身でないことを馬鹿にしており、そのことで姑サロメを激怒させていた。

 アレクサンドロスも自分の派閥を拡大しようとした。しかし彼はヘロデの身の回りの世話をする宦官を手懐けようとしたが失敗し、そのことでアンティパトロス派の中傷を受けて投獄されてしまう。その巻き添えで投獄されたアレクサンドロスの友人たちの中には拷問に耐えかねて「アレクサンドロスとアリストプロスが謀反を企んでいる」との虚偽の自白をする者もおり、それを聞いたヘロデの疑念はますます深まっていった。

 その、「アレクサンドロスの陰謀」がどの程度の真実を含んでいたかは不明(勢いでそういう言動をしたのかもしれない)だが、自暴自棄に陥ったアレクサンドロスは、その陰謀とは実は本当のことであり、叔母サロメや叔父フェラロスも加担しているという書状をヘロデのもとへと送りつけた。特にサロメは嫌がる自分と交わりを持ったとまで書いていた。

 だが、この時はアレクサンドロスは舅のカッパドキア王によって救われた。アレクサンドロスは王子なのだから陰謀などめぐらせなくても順当にヘロデの後継者になる可能性があること、このままだと娘とアレクサンドロスを離縁させるしかないが、その場合にはアレクサンドロスがよけいに絶望するだけであり、それよりも、娘とアレクサンドロスは愛し合っているのだから今のまま置いてやった方が家庭的幸福の力によってアレクサンドロスの怒りをおさめることが出来るだろう……。

 こうして、ヘロデとアレクサンドロスはいったん和解することとなった。

   

   2王子処刑

 それからしばらくの後、ヘロデの宮廷にエウリュクレスという詐欺師がやってきた。彼はアレクサンドロスに会った時にはアンティパトロスの悪口を言い、アンティパトロスに会った時にはアレクサンドロスの悪口を言うという具合にユダヤ宮廷の実力者たちの知遇を得ていった。

 特にエウリュクレスを信頼したのはアレクサンドロスであった。アレクサンドロスはエウリュクレスを相手にヘロデへの愚痴をぶちまけ、エウリュクレスはそれをアンティパトロスとヘロデに密告して多額の報酬を得た。さらにカッパドキア王の所に出向いて今度は(王の娘婿の)アレクサンドロスを褒めて彼とヘロデの仲を良くしたいからと言ってまた金をせしめる。

 エウリュクレスは自分の悪事が露見するより先に姿を消してしまうのだが……ヘロデのアレクサンドロス(とアリストプロス)への疑念はますます増幅され、アレクサンドロスに近しい者を些細な疑惑で捕らえて拷問にかけ、ヘロデ暗殺計画の自白を強要させてしまった。

 もちろんこれは拷問を逃れるための虚偽の自白であった。しかし、どこから出て来たのかアレクサンドロス本人によると思われるヘロデ暗殺計画をしるした書状が発見され、もはや疑う余地はないと見て取ったヘロデはアレクサンドロスとアリストプロスの自由を剥奪した。2人の王子は、少なくとも父を暗殺する計画などたててはいないこと、せいぜいアレクサンドロスの舅のカッパドキア王のもとに逃れることを考えていた程度だと釈明した。そのことについてはカッパドキア王も認め、しかし暗殺計画のことは否定した。

 この話を聞いたローマのアウグストゥスは、問題の疑惑が本当ならばヘロデが息子たちを処断するのもやむをえない、しかしとりあえずは関係者を集めて話し合ってはどうかと発言した。

 そして開かれた会議には、問題の王子たちも、カッパドキア王も出席を許されてはいなかった。ヘロデは凶猛な態度で息子2人の罪状を告発し、恐れをなした列席者たちは、せめて極刑を与えるのは許してやってほしいという程度のことしか発言出来なかった。

 ただその会議が終わった後、ティロンという老兵のみが堂々と2人の王子を弁護した。ティロンの言は正論ではあったのだが表現が無骨すぎたためにヘロデの怒りを買って投獄され、すかさずこの時ヘロデの機嫌をとろうとしたトリュフォンなる人物に「ティロンは王を暗殺してアレクサンドロスに褒美を貰おうとした」という中傷を流されてしまった。

 ティロンは激しい拷問に耐えたが、その息子の方は我慢が出来なくなった。ティロンの息子は拷問の停止と引替えに疑惑を認め、ティロン及び仲間として告発された300人と一緒に処刑されてしまったのである。

 こうして前7年頃、数々の告発や疑惑から逃れられなくなったアレクサンドロスとアリストプロスはヘロデの命により扼殺されたのであった。(アレクサンドロスの妻グラフュラは実家のカッパドキアに帰された。彼女が嫁入りの時に持って来た持参金もヘロデが自費で返却したため、悶着はおこらなかった。なんといっても、4つ前の段落でアウグストゥスが王子2人の問題に関してヘロデの裁量権を認めていたことがヘロデの立場を強化していたのである)

   

   アンティパトロスの猜疑

 ヘロデの後継者はアンティパトロスにほぼ確定した(ヘロデには他にも妾に産ませた子供もいた)。しかしアンティパトロスは単純に喜んでいた訳ではなく、今度は、自分が異母弟たちを陥れるために様々な中傷を流していたことが発覚するのを極度に恐れるようになっていった。そうなる前に父にはさっさと死んでほしい……。他にも、ヘロデは処刑した2王子の子供たちについてはなるべく穏当に扱おうとし、それぞれに結婚相手を定めてやっていたが、アンティパトロスはこの甥や姪たちが自分に復讐してくるのを恐れ、なんとか排除しようと策謀した。

 前5年、ヘロデの弟フェロラスが亡くなった。フェロラスの配下の者がヘロデのもとを訪れ、主人の死に疑惑があることを訴えた。媚薬にみせかけた毒を盛ったのだという。激怒したヘロデはフェロラスの周囲にいた疑わしい者たちを拷問にかけたが、その過程で(毒殺疑惑とは直接関係ないが)、フェロラスと仲が良かったアンティパトロスが色々とヘロデへの不満をこぼしていたことが分かってきた。アンティパトロスは特に生母ドリスに対し、ヘロデがいつまでも長生きしているせいで自分の頭も白髪まじりになってきたこと、ヘロデが死ぬまでには他の一族も全部片付けて自分(アンティパトロス)の地位を固めておきたい……といったことを話していたというのである。

 以上の証言は拷問を受けた者の口から出て来たのだが、その者はさらに、ヘロデがフェロラスをあまり信用しておらず、アンティパトロスに対しフェロラスと口を聞かないよう100タラントンの金を与えて言い含めていたという話まで口にした。この話は事実であり、ヘロデとアンティパトロスしか知らない筈であった。この件に関してアンティパトロスはフェロラスに対し「ヘロデは吸血鬼的な獣だ(だからそんな馬鹿げたことをするのだ)」と語っていたという。

 ヘロデは100タラントンの話からしてこれらの証言をすべて信じた。さらに大勢の者が拷問にかけられ、アンティパトロスとフェロラスがヘロデ暗殺のために毒薬を仕入れていたこと、その毒薬はフェロラスの妻が預かっていた、との証言がもたらされた。ヘロデに呼びつけられたフェロラスの妻は自殺をはかったが失敗し、正気に戻ったところを、拷問をすると脅されて以下の証言を口にした。毒の話は本当だがフェロラスは臨終の床で後悔して毒を燃やしてしまうよう自分に指示したこと、自分は言われた通りにしたが一部だけは(もしこの件が発覚した時に自分が自殺出来るように)残しておいた、と。その、「毒薬の一部」は確かに存在した。

 証言は次々にヘロデの前へと届けられた。アンティパトロスの友人の弟がエジプトで医師をしており、問題の毒はそこから入手したのだという。さらにアンティパトロスに使われていた解放奴隷バテュロスが拷問に耐えかねて色々と供述する。彼はアンティパトロスが用意させたという他の毒を持っており、アンティパトロスが他の異母弟(ヘロデが妾に産ませた子)を中傷する書簡を友人の名前で偽造していたとまで白状した。

 拷問と密告の嵐がヘロデの宮廷を吹き荒れるその最中、アンティパトロス本人はローマに滞在中であった。ヘロデの召還を受けたアンティパトロスはローマを発った時点ではさほど事態を深刻にとらえていなかったが、ユダヤについた時には自分の味方が1人もいなくなっていることに気付き愕然とした。必死になって釈明するが、これだけ不利な証拠が揃っていてはどうしようもない。アンティパトロスは獄につながれた。またさらに、彼がヘロデの妹サロメを陥れようとしていたことも発覚した。サロメの名前でヘロデへの中傷を綴った偽手紙をアウグストゥスの妃のもとへと送りつけていたのだという。事件はローマの宮廷まで巻き込んでしまったのである。ヘロデはこのことをアウグストゥスに報告し、その結果アンティパトロスに対する一切の処断をまかせるとのローマ側の言質を得た。ただ、アウグストゥスはヘロデと息子たちとの度重なる抗争にあきれはて、「余はヘロデのヒュイオス(息子)であるよりヘロデのヒュス(豚)になりたい」(註9)と語ったと言われている。

 註9 ユダヤ教徒は豚を食べることをしないから。

   

   ヘロデの最期

 それとほぼ同時に、ヘロデは病に倒れた。ヘロデがこれまでにアウグストゥス神殿を造る等ユダヤの律法を逸脱することが多かったのに不満をたぎらせていた一部の人々が反乱を起こした。これは鎮圧されたものの、ヘロデの病の苦しみは大変なもので、苦痛から逃れるために自殺をはかる有り様であった。自殺未遂の騒ぎを獄中で聞いたアンティパトロスは獄卒に金をやるから解放してくれと頼んだが、獄卒長はただちにヘロデのもとへと注進にかけつけた。ヘロデは最後の力を振り絞ってアンティパトロスの処刑を命令した。ヘロデが死んだのはその5日後のことである。

 ヘロデが亡くなったのは前4年であるが、その少し前にベツヘレムの地に生まれたのがイエス・キリストである。その時、東から占星術の学者たちがエルサレムにやってきて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と話していたが、この話を聞いて不安になった晩年のヘロデは問題の「ユダヤ人の王」がベツヘレムに生まれたことをつきとめ、ベツヘレム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまった。この時、イエスとその家族は天使に促されるままにエジプトへと逃れ、ヘロデが没するまでそちらで過ごしていたという。

   

   参考文献

『ローマ帝国とキリスト教』 弓削達著 河出書房新社世界の歴史5 1989年

『イェルサレム』 高橋正男著 文藝春秋 1996年

『旧約聖書の世界』 ミレーユ・アダズ・ルベル著 矢島文夫訳 創元社 1999年

『ユダヤ人の歴史 上』 ポール・ジョンソン著 石田友雄監修 阿川尚之他訳 徳間書店 1999年

『ユダヤ古代誌 4・5』 フラウィウス・ヨセフス著 秦剛平訳 ちくま学芸文庫 2000年

『ユダヤ戦記 1』 フラウィウス・ヨセフス著 秦剛平訳 ちくま学芸文庫 2002年

おわり   

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