普墺戦争 イタリア戦線


 現在のオーストリアは内陸国だが、かつてのオーストリア帝国はアドリア海の北岸にその勢力を有しており、特に1797年の「ガンポ・フォルミオ条約」以降、北東イタリアの港町ヴェネツィアをその統治下におさめていた。しかしヴェネツィアはあくまでイタリア人の住む地域であり、1861年にイタリアの統一がとりあえず達成されると、そのヴェネツィアをオーストリア領からイタリア領に移すべきとの動きが現実味をおびてきた。

 1866年6月、オーストリア・プロイセン間の「普墺戦争」が勃発した。開戦直前のオーストリアはイタリアに対し「局外中立を守ればヴェネツィアを譲る」との申し入れを行ったが、イタリアはすでにプロイセンと攻守同盟を結んでおり、開戦と同時に対オーストリア宣戦布告を断行した。

 イタリア方面に展開するオーストリア軍はアルブレヒト大公の率いる総勢15万である。しかしその半分は海岸守備隊や要塞守備隊で、野戦軍は3個軍団7万5000、大砲は168門であった。対してイタリア軍は野戦軍のみで25万である。当然イタリア側が積極策を立てた。イタリア軍は主力の20万(残りはチロルの山岳地帯で行動。後述)を国王直率の第1兵団とジャルジニ率いる第2兵団の二つに分けてひとまずヴェローナを目指しての分進合撃をはかる。しかしこの動きは深い戦略の結果ではなくイタリア軍首脳部の意見がまとまらなかったことから生じたもので、第2兵団がたまたま増水していたポー川の渡河に手間どうことが予測され、ここにオーストリア軍のつけ込む隙が出来てしまった。当初のオーストリア側の計画では防御のみを考えていたのだが、思いきって攻勢に出ることにしたのである。

   

   クストッツァの戦い

 6月22日、オーストリア軍は敵第2兵団8万人の進路に歩兵1個大隊・騎兵4個中隊だけを残し、主力をもって敵第1兵団12万を叩くべく行動を開始した。数的に優勢なイタリア軍は相手が攻勢に出るとは考えず(敵に遭遇するとは思わず)歩兵に至るまで重い装備を背負って行軍していたが、オーストリア軍は最低限の装備のみを携え、23日夜に降り出した大雨の下で強行軍を行った。

 戦闘は4ヶ所でほぼ同時に発生した。まとめて「クストッツァの戦い」と呼ぶ。まず24日午前7時、ヴィラフランカにてオーストリア軍の騎兵2個旅団がイタリア軍2個師団(第7・第16師団)を破った。イタリア軍は大雨の泥濘のため砲兵が遅れていたことから有効な反撃が出来なかった。この方面のイタリア軍は目の前の相手を敵主力と誤認したため以下に述べる他地域での戦闘に参加しようとしなくなった。

 9時、オリオシにおいてオーストリア軍1個師団(予備師団)がイタリア第1師団に勝利した。この戦闘では一旦はイタリア軍がオリオシ北方の高地を占領したのだが、オーストリアの槍騎兵わずか3個小隊の反撃によって追い散らされた。退却するイタリア軍にさらに新手のオーストリア軍1個旅団が襲いかかり、イタリア軍は師団長までが重傷を負う等の大損害を出しつつ敗走した。イタリア第2師団が救援に駆け付けてくるがそれでも防ぎきれない。

 セント・ルシアでもオーストリア第5軍団(3個旅団からなるがそのうち1個はオリオシで戦闘)が勝つ。この戦いでは最初はイタリア第5師団が進撃してセント・ルシア北方の高地を占領したがすぐに2方面から攻撃されて退却に追い込まれた。

 クストッツァではイタリア第3・第8師団、さらに第9師団(大損害を出した第3師団と交替)がオーストリア第9軍団の攻撃をしのいだが、午後4時半頃に予備のオーストリア第7軍団から2個旅団が投入され、先にセント・ルシアで勝利していたオーストリア第5軍団が来援して三方から攻め立ててくると防ぎきれず5時頃には退却した。先にヴィラフランカで一勝していたオーストリア軍騎兵が追撃してさらなる打撃をあたえた。もっと後方にいたイタリア軍は大雨のため救援に来られなかった。

   

   海の戦い

 戦闘は陸だけでなく海でも行われようとしていた。当時のオーストリア海軍の戦力は5000〜3000トンの装甲艦7隻、その他非装甲艦・小型艦20隻である。この国の海軍の本格的な建設は1854年からだから新しい組織であった。対してイタリア海軍は5500〜2000トンの装甲艦12隻、その他非装甲艦・小型艦22隻を揃えていた。艦艇数だけでなく大砲の数と大きさもイタリア側が優勢であり、その大砲もオーストリア側が前装式(砲の先から弾を込めるタイプ)なのにイタリア側の装甲艦は新式の後装式という違いがあった。

 今次の戦いにおけるイタリア海軍の作戦は、優勢なる海軍力をもってアドリア海のオーストリア艦を制圧し陸軍の進撃を援護するとのものであった。6月22日、出撃命令を受け取ったイタリア艦隊は輸送船15隻を伴ってタラント港を出港、ひとまずアンコナ港に立ち寄った。24日、オーストリア艦隊もポーラ港を出撃し、27日にはアンコナ港の沖に到着した。オーストリア艦隊は11隻、イタリア艦隊は12隻と数の上ではほぼ互角であるが、イタリア艦はその多くが機械の故障と乗員の訓練不足によって急の出撃が不可能であり、なんとか出撃した6隻(最初から沖に出ていた艦も含む)も積極策をとらずに洋上作戦会議に明け暮れる有り様、そのうちにオーストリア艦隊は悠々と引き上げてしまった。

   

   第2ラウンド

 さてイタリア第2兵団は「クストッツァの戦い」における第1兵団大敗の報を受け、戦意を喪失して退却した。オーストリア軍としては敵第1兵団を追撃してイタリア領の奥深くまで侵入することも考えられたが、そこまでやるのは中立国フランスを刺激することになる(ロンバルディア地方には侵入しないとフランスに約束していた)のでここで滞留することにした。しかし7月4日、ドイツ方面の「ケーニヒグレーツの戦い」にてそちらのオーストリア軍がプロイセン軍に完敗したため、イタリア方面から撤収して首都を固めよとの命令が届いた(3個軍団のうち2個を撤収)。7月7日、再編されたイタリア軍18万が進撃を開始した。オーストリア軍が残していった兵力は微弱であった(第7軍団2万8000を主力とし海岸守備隊や要塞守備隊をあわせて7万7000)ことから今度はイタリア軍の快進撃でことが進み、26日には休戦した。

   

   チロルの山岳戦

 戦いはチロル方面の山岳地帯でも行われていた。時間を開戦時に遡る。この方面のイタリア軍はガリバルディーの指揮下に4万、クーン率いるオーストリア軍は1万6000であった。クーンはイタリア方面からチロルを通ってオーストリアに向かう道路6本(ガルタ湖の西に4本、東に2本)にそれぞれ小部隊を配置し、そのどれかが敵軍と接触すればすかさず予備の部隊を投入して対処するとの作戦を立てた。イタリア軍(以下この軍団をガリバルディー軍と記す)は6月中旬よりガルタ湖の西のルートからの進撃を開始したが慣れない山岳地帯での行動である上にゲリラの襲撃を受けてすぐに行き詰まり、6月24日のクストッツァにおける味方の敗報もあって一旦退却した。

 7月3日、オーストリア軍の小部隊がスエロ山にてガリバルディー軍を不意打ちした。戦闘はオーストリア軍優勢で敵司令官ガリバルディー自身まで負傷させたが、翌日にはオーストリア軍の方が撤収した。ドイツ方面での敗北に対処して戦線を縮小せよとの首都からの命令が届いたためである。これを見たガリバルディー軍は態勢を整え直してガルタ湖の西の3路から進撃を再開した。うち2路は囮であったのだがオーストリア軍のクーン将軍はこれを見破り、ガリバルディー軍主力の進路に予備隊を投入してこれを打ち破った。

 ところがそこに、ガリバルディー軍とは別のイタリア軍1個師団(メディチ師団)がガルタ湖の東のルートからチロルへと侵入してきたとの報告が入った。クーンは急遽そちらに転進することにしたのだが、ガリバルディー軍の押さえに残した小部隊は完全に孤立して降伏に追い込まれてしまった(7月19日)。勢いにのったガリバルディー軍が3たび進撃するが、またしても急遽反転してきたクーンによって撃退された(21日)。東方から迫ってきていたイタリア軍(メディチ師団)は22日に10個大隊の兵力をもってその進路を警備していたオーストリア軍4個中隊を破った。クーンはこれに対処しようとしたが、7月25日には首都からの命令で休戦となった。

   

   リッサ島攻略

 また話を戻し舞台を変えて海の戦いである。7月7日、政府の督促を受けたイタリア艦隊が再び出撃した。しかし艦隊の志気・訓練は最悪で、ただそこらをぐるっとまわっただけで13日には港に帰ってきた。イタリア国民は憤激し政府は呆れ返ったが、艦隊司令官ペルサノは「艦隊はいまだ海戦に耐えず」の一点張りで、ようやくダルマチアのオーストリア領リッサ島を攻略せよとの命令だけを受け取った。陸戦で敗北したのを小島の占領で回復しようとの目論みである。 

 リッサ島のオーストリア軍は2000弱の兵力と88門の小型大砲を備えるが、弾薬・糧食は不足気味で、やる気のないイタリア海軍でもここならば簡単に攻略出来ると考えられた。また、オーストリア海軍は積極的な攻勢策はとらないだろうとの希望的観測が支配的であった。

 7月16日、イタリア艦隊28隻が4戦隊に分かれてアンコナ港を出撃した。上陸用の兵員はとりあえず1500人、増援も遅れて出港する予定であった。18日午前にリッサ島への西と南東からの同時攻撃を開始したイタリア側第1・第4戦隊は、しかしこの時も積極的な攻勢を行わず、島の砲台の反撃にあって沖に引き上げた。艦隊主力による砲撃はかなりの戦果をあげたものの、少し調子にのってオーストリア砲台に近付きすぎた所を反撃されてかなりの打撃を被った。その間、島の守備隊は海底電信線を用いて本国に向け艦隊の出動を要請していた。

 19日、再びイタリア艦隊の攻撃が始まった。3次に及ぶ砲撃はオーストリア砲台の3分の2を使用不能としたが、何故か上陸作戦は不可能と報告され、司令官ペルサノ大将もそれについて何の発言もしなかった。この日夜におけるイタリア艦隊の戦力は増援を加えて32隻、上陸用の兵力は2600人であった。

 20日午前8時、イタリア艦隊アルビニー隊が上陸作戦の準備を整えたまさにその時、「上陸中止」「敵艦見ユ」の信号が飛び込んできた。オーストリア艦隊が到着したのである。   

   

   リッサの海戦

 いよいよ決戦である。テゲトフ少将率いるオーストリア艦隊は装甲艦7隻を含む25隻に大砲約500門、ペルサノ提督率いるイタリア艦隊は総戦力32隻を数えるが、そのうち最初にオーストリア艦隊に立ち向かったのは装甲艦9隻のみであった。午前10時、単縦陣で進むイタリア艦隊のペルサノ提督が突然装甲艦「レ・ディタリア」から最新鋭艦の「アッフォンダトーレ」に乗り移った。当然この2隻(とその後ろの艦)は停止したが、しかし「レ・ディタリア」より前の艦はそのまま進んでしまい、艦隊がまっぷたつに分かれたところにオーストリア艦隊が突っ込んできた。イタリア艦隊の前衛にいた装甲艦3隻は後ろがもたついたことも知らずに前に進み過ぎたため、以下の戦闘に参加出来なくなった。ちなみにオーストリア艦隊の陣形は三重の逆V字型、これは衝角(艦首部の特別頑丈につくられた部位。これを敵艦に激突させる)で戦う(つまり体当たり)のに適した陣形であった。第1列が7隻の装甲艦、第2・第3列は木造艦である。

 まずイタリア艦隊旗艦「アッフォンダトーレ」がオーストリア艦「カイゼル」に突進するも巧みに回避され、その「カイゼル」はイタリア艦「レ・ディ・ポルトガロ」の機関部付近に衝角を喰らわせた(もっとも「カイゼル」の方が大きなダメージを受けてしまったが)。「レ・ディタリア」は旗艦と勘違いされた(実際に先刻まで旗艦だった)ことからオーストリア艦4隻の総攻撃を受け、最後はオーストリア艦隊旗艦「フェルディナント・マックス」の衝角を受けて沈没した。近くにいたイタリア艦「パレストロ」は砲弾の起こした火災によって爆沈した。衝角戦まで行ったオーストリア艦「カイゼル」が木造であり、オーストリア側の他の木造艦も極めて勇敢に敵の装甲艦に立ち向かったにも関わらず、イタリア側の木造艦隊を率いていたアルビニー提督はほとんど戦闘に加わろうとしなかった。オーストリア艦隊はさらに敵木造艦隊に攻めかかろうとしたがこれはイタリア装甲艦によって妨げられ、一旦艦隊を整えて戦域を離脱した。イタリア艦隊は命令の不徹底からその背後を突くことが出来ず、やむなく本国に引き上げた。オーストリア艦隊はリッサ島の港に入って皇帝からの祝電を受け、戦死者の葬儀を行った後母港に帰還すべく出港した。この海戦におけるオーストリア艦の沈没はゼロ、死傷者176人(戦死38人)であった。対するイタリア艦隊は「レ・ディタリア」「パレストロ」が沈没し、さらに損傷を受けた「アッフォンダトーレ」もその後沈没した。死傷者は700人前後(戦死620人とも667人とも)であったという。

 こうして「リッサの海戦」はイタリア海軍の敗北に終わった。しかし戦争全体の行方は……同じことを繰り返してしまうが……「リッサの海戦」より17日前にオーストリア・プロイセン間に行われた「ケーニヒグレーツの戦い」にて既に決されていた。そして8月23日の「プラーグ条約」締結によって正式に戦争が終了する。イタリアは海でも陸でも敗北したにも関わらず同盟国プロイセンのおかげでヴェネツィアを獲得したが、さらに奥地のチロルその他の割譲を望んでオーストリアの憤激を買った。プロイセン軍に敗北したとはいえ、まだそれなりの兵力を持つオーストリアはイタリア国境に軍勢を集結し、これを見たイタリア政府はプロイセン国王の忠告もあって要求を引っ込めた。

 この戦役は戦史的には、「リッサの海戦」にて衝角の有効性が証明されたことが知られるが、時代が下って艦の速度があがってくると体当たり自体が難しくなるため、これ以後の海戦で衝角で敵艦を撃沈したのは1879〜83年の南米3国の「太平洋戦争」が最後となった(註1)

 註1 南米3国の大平洋戦争については当サイト内の「大平洋戦争」を参照のこと。1894年の日清戦争の時の「黄海の海戦」で清国艦隊が衝角を使おうとしたが回避されて砲戦で決着をつけられた。第一次世界大戦の時に衝角で潜水艦を沈めたという話を聞いたことがあるが詳しくは知らない。

                        

おわり     

      
   

   参考文献

『世界戦争史9』 陸軍少将伊東政之助著 1939年(1985年原書房復刻のもの)

『ハプスブルク家かく戦えり ヨーロッパ軍事史の一断面』 久保田正志著 錦正社 2001年

「リッサ海戦」http://www31.ocn.ne.jp/?tactic/lisa.html

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