アイスランドとグリーンランドの歴史 第3部
グリーンランド再植民 目次に戻る
ヨーロッパ人が再びグリーンランドを訪れるのは16世紀以降のことである。最初はイギリス、オランダ、ドイツの捕鯨船が出没するようになり、中世の入植地とそこに住んでいる筈のヴァイキングの子孫たちを探すための探検隊が組織されたこともあったが、なかなかうまくいかなかった。入植地を探し当てるのに成功したのはようやく1721年のことで、デンマークからやってきたハンス・エーグデという牧師とその家族等44名がイヌイットの案内で東西両方の入植地の廃墟を訪問したが、そこに白人の姿を見つけることは出来なかった。
しかしエーグデはその後もグリーンランドに留まって植民地(伝道拠点兼交易所)を建設、イヌイットを相手にキリスト教を布教した。彼は36年には天然痘で妻を失ったために帰国してしまうが、デンマーク首都コペンハーゲンにグリーンランド伝道のための教育機関を設立、40年には政府から「グリーンランド監督」に任命された。彼の息子たちのうちニルスはグリーンランドでの交易や捕鯨に携わり、ポールはイヌイット語の辞書や文法書を出版、さらに新約聖書を全編イヌイット語に翻訳した。
東部グリーンランド事件 目次に戻る
1774年、デンマーク政府は新たに「王立グリーンランド貿易会社」を設立、これにグリーンランドに関する貿易・供給・交通を独占させた。この会社は営利のみならず行政もまかされており、後者に関してはあまり熱心ではなかったが、外国商人の立ち入りを許さなかったため、デンマークの言によれば「イヌイットは(外国人が持ち込みそうな)新たな伝染病から守られた」ということになった。しかし19世紀になると外国の科学者や探検家が訪れるようになるし、さらに時代が進んで1862年になると地方自治が導入され、1912年には交易会社の行政権が停止されてデンマーク政府による直接支配が行われることになった(会社はその後も営利業務に特化して存続)。それまで交易会社が真面目に行政していなかったのに目を付けたアメリカやノルウェー(註1)がグリーンランド(のうちのデンマーク人が手を付けていなかった地域)の領有権を主張し出したからである。
註1 ノルウェーは1814年以来スウェーデン領であったが、1905年に独立を達成した。
まずアメリカは、19世紀の末にロバート・ピアリー(註2)がグリーンランド探検を行ったことを根拠として北部地域の領有を主張した。デンマークはこれに対し、カリブ海に持っていた植民地バージン諸島(註3)を売ってやるからグリーンランドについては諦めてくれと交渉した。そして1917年に第一次世界大戦に参戦することになったアメリカはパナマ運河防衛(ドイツの潜水艦に攻撃される可能性があった)のための海軍基地の適地としてバージン諸島を250万ドルで購入(註4)、グリーンランドについては諦めた。
註2 アメリカ人の探検家。1909年に西洋人として初めて北極点に到達したことで知られる。
註3 1666年に領有、「デンマーク領西インド諸島」と呼称され、サトウキビ、煙草、コーヒー、砂糖の生産で栄えたが、20世紀に入る頃には治安の悪化で重荷になっていた。かつてのデンマークはバージン諸島以外にも西アフリカやインドに小さな植民地を持っていたが、どちらも19世紀のうちにイギリスに売却している。
註4 その頃のデンマークはドイツによる無制限潜水艦戦によって多数の商船を撃沈され、経済的に困窮していた。
続いて1931年、グリーンランド東部の無人地帯にノルウェーの捕鯨業者が上陸し、ノルウェー政府がその地の併合を宣言するという「東部グリーンランド事件」が発生した。ノルウェー政府は、グリーンランドにおけるデンマークの主権は植民地(人が住んでいる地域)に限定されている、また、古い文書では「グリーンランド」という言葉は西海岸の植民地(デンマークが実際に開拓している地域)のみを指している(ということはそれ以外の地域は「デンマーク領であるところのグリーンランド」ではないのだから今からノルウェーが占有しても構わない)、と主張したが、これはデンマークの提訴を受けた国際司法裁判所の裁定によって退けられた。デンマークは今回の事件が発生する以前からグリーンランド全域に適用する法令を制定したりしている、つまり人が住んでいなくても統治してきたのだからノルウェーの主張はいれられない(人口が希薄で人が定住していない地域については他国が優越的主張を立証出来ない限り主権的権利の行使はごくわずかであってもよい)、また、地図において慣習的に使われる地名は反証のない限り通常の意味に解すべき(「グリーンランド」という慣習的な地理的名称はノルウェー側が有力な反証をあげられない限りにおいてグリーンランド全島を指していると考えるべき)という訳である。
大戦下のグリーンランド 目次に戻る
1940年にデンマーク本国がドイツ軍の占領下に置かれると、グリーンランドにはアメリカ軍が「保護」という名目で進駐してきた。これは駐米デンマーク大使のヘンリック・カウフマンが独断でアメリカ政府と結んだ協定によるものであった。「必要に応じ、離着陸場、水上飛行施設、無線局、気象台を建設、維持、運用する権利を与える」。
その一方で42年にはドイツ軍の調査班が極秘裏に上陸してきて気象情報を収集した。北大西洋と西ヨーロッパの天候を予測するためにはグリーンランド(北半球の気象変化の起点のひとつ)の天候を知るのが望ましいからである。しかしこのドイツ軍の基地は44年にはアメリカ軍の攻撃を受け、撤収に追い込まれた。大戦終結後の冷戦時代にはデンマークとアメリカは改めて共同防衛協定を結び、グリーンランドにはソ連に対する備えとして「チューレ空軍基地」が建設された。これはアメリカ空軍の基地としては世界最北に位置している。(有事の際にソ連軍がアメリカ本土を叩こうとする場合、最も考えられるのは北極を経由しての東海岸攻撃である)
その後のグリーンランド 目次に戻る
53年、デンマークはそれまで植民地として扱っていたグリーンランドを本国の延長である「海外郡」に昇格させ、本国議会に2つの議席を用意した。しかし自治はほとんど与えられず、いちおう「地方議会」があるにはあったが勧告機関にすぎず自己決定権を持たなかった。グリーンランドに関する法案はデンマーク本国政府のグリーンランド担当大臣によって提案され、デンマーク本国議会において可決されていたのである。
イヌイットたちはもともとは主に狩猟・採集で生計を立てていたが、1920年頃から漁業に力を入れるようになったために海岸部への人口集中が進み、デンマーク政府の側も福祉・教育の利便から町への集住を推奨したため、やがてグリーンランド島民の4分の3が沿岸部の町に住むようになった。現在のグリーンランドの最大の産業はやはり漁業およびその加工業で輸出の87パーセントを占めており、主力商品のエビは日本に対しても王立グリーンランド貿易会社の流れを汲む「ロイヤル・グリーンランド社(註5)」を通じて輸出されている。他の産品としては氷晶石や鉛、亜鉛といった鉱物資源があったがどれも20世紀のうちに枯渇してしまい、現在では石炭やウランの開発が進んでいる。観光業も有望である。
註5 第二次大戦後に貿易独占権廃止。その後は国営企業となり、79年に公社化、90年に民営化した。
イヌイットとデンマーク人(白人)の間には公然たる賃金格差があったため、60年頃から前者による自治権獲得運動が盛んになってきた。現在のグリーンランドの人口内訳はイヌイット約4万8000人に対してデンマーク人約7400人にすぎない。73年にデンマークがEC(註6)に加盟すると、EC加盟国の漁船がグリーンランド近海で操業出来るようになったため、これに対するイヌイット漁民の不満を背景として自治権獲得運動がさらに激化、79年の住民投票を経て「自治政府」が発足するに至った。
註6 EUの前身。
この自治政府を構成する閣僚は首相以下7名、さらに31名の議員からなる議会も存在し(デンマーク本国議会にも2議席を持つ)、社会福祉・教育・文化・言語・産業・建設・住宅等々の民政部門を自由に切り回すことが出来る、外交・国防・警察・司法はデンマーク本国政府に握られている(註7)が、一部の国際関係は自治政府の職掌に含まれており、85年をもってECからの離脱を果たした。このまま完全独立に進みたいという声もあるが、今のところ貿易が大赤字なため、デンマークからの大規模援助に依存せざるをえない状態である(註8)。政党には中産階級を代表する団結党、社会民主主義を標榜する進歩党、アメリカ軍基地の閉鎖やデンマークとの手切れを唱えるイヌイット友愛党といった党が存在する。
註7 ただし、デンマーク本国の軍隊は徴兵制なのだが、グリーンランドは対象外となっている。
註8 2005年の総輸出額は24億クローネ、輸入額は36億クローネ、デンマークからの援助額は31億クローネ。ちなみにデンマークの国防費は192億クローネ(2007年度予算)である。