大津百艘船

   

 いわゆる大津百艘船の特権は、天正15(1587)年の、時の大津城主浅野長吉による五箇条の定書(諸役免除等)に始る。当時大津には軍用等に用いるべき船があまりにも少なかったため、諸浦(坂本・堅田・木浜)の船持ちに特権を与えることによって彼等を大津に集め、その数が百艘に達したというのがそのおこりである。この背景には、船及び加子(水夫)を軍事動員体制に組み込み、さらに、東海・東山・北陸に散らばる秀吉直轄領からの廻米の中継点として、それまで京都との強力なつながりをもって湖上水運を支配してきた坂本よりも、秀吉政権の中心である大坂への連絡が便利な大津が注目されてきたという事情があった。

 琵琶湖には大津以外にも勢力を持つ港はある。まず前述の通り、中世以来強大な勢力を築いてきた堅田であり、さらには海津・今津等、琵琶湖北半の諸浦、後には大津と同じく政治権力をバックとして進出してくる彦根の諸浦がそれにあたる。大津はいわば、豊臣政権という全国政権に特権を認められることにより、各地の浦という地方勢力に対抗する形となった。

 秀吉政権はまず、中世以来の勢力を持つ堅田と、秀吉によって政治的に創設された大津という2勢力の統轄策として、琵琶湖の廻船業に関する優先権を堅田・大津 ( 及び八幡 ) 双方に認め、「船積のために2艘の船が同時に着津した時は。先にともを浜に付けた方から船積みをおこなわなければならない」との「とも折廻船」規定を制定した。さらに彼等在地勢力の上級支配機構として「船奉行」を設置した。この職は大津に役宅を持つ芦浦観音寺がつとめ、秀吉から「江州湖上往還之船定条々」をもらって船運賃等を定めていた。船奉行の職務には、琵琶湖の船すべてに焼き印を押してその身分を確認すること、並びに湖上を運ばれる物資に運送税をかけることであった。

 そして関ヶ原合戦後、大津・堅田 ( 及び八幡 ) は従来の特権を認められたが、京都守護の一端を担う彦根藩井伊家の庇護を受ける松原・長浜・米原の「三湊」が大津に「他屋」を置いて大津百艘船との競合を開始してきた。結果1720年には「大津→彦根」の荷は大津百艘船には積ませないとの京都所司代の判断が下されたのであった。

 それに追い討ちをかけたのが同時期の西廻り航路開設である。この新展開は琵琶湖水運の重要性低下をもたらし、限られた積荷をめぐって大津・堅田と他の浦々との抗争が絶えなくなった。例えば慶安年間の海津等湖北湖西の諸浦と堅田の抗争等がそれにあたる。これらの争いは幕府権力の調停によって、従来からの特権を認められた堅田や大津の勝ちに終ったが、感情的な対立はその後も長く続いた。また、大津の比重低下は船奉行の比重低下にもつながり、同役職も大津代官に吸収されるに至った。いまや日本全体における流通・経済的役割の低下した大津百艘船やその他の浦々の船を統轄する船奉行の役割自体がそれはど重視されなくなってきたのである。そして、在地勢力であった観音寺と異なり、幕府の有能な行政官僚である新時代の船奉行は琵琶湖の諸浦に対し運上銀の徴収を行ったりもした。

 さらに、同じ近江国内の日野や八幡の物資まで、新しいルートを通って桑名方面に陸送されるようになった。琵琶湖の流通における諸特権によって立ってきた大津百艘船は、西廻り航路や新しい陸路の開発といった、日本全体における琵琶湖自体の比重低下という、大津の力だけではどうにもならない要因によってその勢力を減退させてしまったのである。このことは、近世における経済・流通システムの大規模化、及びそれとは逆に地方に立脚する大勢力 ( 彦根 )が、旧来の特権やそれの源泉たる政治権力に頼ってきた大津百艘船という古いタイプの組織を覆してしまった好例といえるのではなかろうか。

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