琵琶湖の汽船

 滋賀県(近江)の琵琶湖に最初に浮かんだ汽船は加賀の大聖寺藩が運行した「一番丸」である。何でそんなマイナー藩かというと、幕末の大聖寺藩は京都御所警備の役目を果たすための兵員輸送に琵琶湖の水運を用いていたのである。

 汽船計画は慶応3年春頃から大聖寺藩士 石川嶂と大津百艘船(註1)仲間の一庭啓二によって開始された。実は一庭の計画は最初は藩の理解を得られなかったため、わざわざ脱藩して事にあたったのだという。2人は長崎にて造船技術をオランダ人ポーゲルに、機械を杉山徳三郎に学んだ上で造船工を雇って(近江の)大津川口町に腰をおちつけた。この頃には藩とも話がついており、藩の海軍奉行から数千両の予算を借り、蒸気機関はイギリス人から陸上用のものを2基買い取った。2人は藩からおりた予算1万2385両1分2朱を用いて「大津汽船局(大聖寺藩用場)」を設置した。

 註1 当HPの「大津百艘船」を参照のこと。

 明治2年3月3日、4ヵ月の工期を経て5トン12馬力の木造外輪船「一番丸」が完成し、すぐに運行を開始した。一番丸は後ろに丸子船(琵琶湖の帆船の一種)を曳航し、上等客(料金は金2分と銭500文)を汽船に、下等客(金1分2朱と銭500文)と荷物を丸子船に積み込んでいた。速度は時速約7.4km、航路は大津〜海津であった(註2)。これはかなり繁盛し、同年10月には「二番丸」も完成するが、明治3年6月には新政府によって藩の商売が禁止されてしまったため、一番丸船長 一庭啓二らは組織を「第一琵琶湖汽船会社」に改組してこれに対応した。

 註2 かなり遠い。10時間くらいかかると思う。

 最初は汽船の登場によって仕事を奪われることを恐れた帆船業者や陸上の宿駅関係者が役所に訴えようとしたり、汽船の航路に網をはってその航行を妨害したりしたという。が、そのうちに自分たちでも汽船を運用することを思い立ち、明治3年12月にはまず彦根藩の出資による「金亀丸(30トン10馬力)」が建造されることになる。

 明治4年、それまで江戸幕府という権威によって琵琶湖水運に力を持っていた大津百艘船が解体され、湖上水運は県の管轄とされることが決定した。これで琵琶湖は公道扱いなり、会社や個人の所有する船舶は自由に航行出来ることとなる(註3)。明治5年10月には滋賀県令 松田道之が汽船会社の増設にハッパをかけ、明治7年9月頃には15隻の汽船が運行する運びとなった。これらはほとんど個人の所有であって、伝統的な船大工によって建造されたものもあったようである。

 註3 それまでは幕府直轄領や藩によって取り扱いが異なっていた。

 汽船はもっぱら大津と湖北の海津・塩津・飯之浦とを結び、つまり大津〜北陸という交易路の中継役を果たしていたが、明治5年以降には大津紺屋関と山田(現在の草津市の西部)という短距離を結ぶ「紺屋関会社」その他も創設され、そちらでも新しい汽船が続々と就航していった。 山田港は東海道・中山道の分岐点から大津(そこから京都)に向かう近道である。

 ところが汽船の増加は激しい競争を生み、湖北諸港間の争い、さらに明治7年11月には最初の沈没事故(汽罐破裂による沈没)がおこった。翌年2月には積荷過重のための転覆事故も発生した。競争激化のためスピード出し過ぎや客の載せすぎに走ってしまったのである。

 結果として汽船の利用者減少をみたため、県は外国人技師を用いて機械を点検し、明治9年には汽船運行に関する規則徹底のための「汽船取締会所」を設置した。乗客は1トンにつき8人まで、夜間は15分ごとに号笛を発する……といったことである。さらに県は東浦航路の5隻を三汀社、西浦航路の7隻を江州丸会社にそれぞれ統合、これと湖南の小汽船の三者のみに汽船会社を限定した。しかし統合で利益が安定したことから今度は汽船の保守を怠るようになり、また県の指導が入ったりもした。

 明治12年、汽船会社が1社に統合されるがすぐ分裂し、各社が次々と大型汽船を建造して再び激しい競争が開始されるに至った。96トンの「第二江州丸」や141トンの「長浜丸」は当時としては超大型である。他にも「金龍丸」92トン、「第二庚辰丸」159トン……これらの建造競争の契機は、13年に京都〜大津間に鉄道が開通し、さらに長浜〜敦賀間の鉄道も見込みがついたことから、その中間の大津・長浜間をつなぐ鉄道連絡船の権益獲得をめぐる争いが起ったためである。14年には「彦根航運社」が、15年には北陸の真宗門徒がつくった「真宗社」が参入してしのぎをけずった。国の方針としては鉄道連絡船は在来のもので間にあわそうとしたが、競争激化を憂慮した県は大阪の大資本藤田組に各船主を統合させ、15年5月に18隻1025トンを持つ「太湖汽船会社」(資本金50万円。本社は浜大津駅の構内)をつくらせた。この会社は16年に鉄船「第一太湖丸」498トンと「第二太湖丸」516トンを建造(それぞれ約350人乗り。時速26km)し、これによって日本最初の鉄道連絡船たることの許可を得た。一時は太湖汽船に対抗していた真宗社も買収され、太湖汽船一社で湖航の9割を占めたという。

 しかし、15年設立の太湖汽船会社は営業期間30年となってはいたが、その鉄道連絡船としての役割はわずか5年で終了した。明治22年の東海道線全通によって連絡船の意味がなくなったためである。

 ところでこれは大津と湖北とを結ぶ航路の話であり、堅田以南のごく短い航路(現在の大津・草津・守山に囲まれた湖域)では明治19年に「紺屋関汽船」と「山田汽船」が合併し9隻94トンをもって設立された「湖南汽船会社」(資本金2万5000円)が活躍していた。これは鉄道連絡とは無縁であったがその分鉄道全通にもそれ程極端な打撃を受けることなく、以降太湖汽船ともども観光事業へと移行していった。その後の昭和4年、まず太湖汽船が京阪電鉄と合併してそちらの汽船部に改変され、それが湖南汽船に現物出資されて現在の「琵琶湖汽船」へと引き継がれている(註4)。琵琶湖汽船の社史はその創業を湖南汽船会社の方に求めている。その湖南の方では純粋な旅客業務も昭和中頃までは存続したが、それもごく限られた地域を繋ぐものであり、結局は道路網とバス路線の整備に駆逐されていった。ちなみに筆者(当HP管理人)の家のすぐ近くには汽船の港の跡を示す記念碑が立っている。

 註4 午後10時に大坂から京阪電車で大津に出、そこから深夜の琵琶湖を汽船で北上し、午前4時頃に湖北の港に到着、バスでスキー場に向うというツアーが人気であった。(昭和5〜37年)

   参考文献

『太湖汽船の五十年』 太湖汽船株式会社 昭和12年

『滋賀百年』 毎日新聞社 松村英男編集 昭和43年

「水運の変貌」 藤田影典著 『新修大津市史』 大津市役所 昭和57年

『琵琶湖汽船100年史』 琵琶湖汽船株式会社 昭和62年

『琵琶湖の鉄道連絡船と郵便逓送』 佐々木義郎編著 成山堂書店 平成15年

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