橘奈良麻呂の変

 橘奈良麻呂は、聖武天皇に仕えて一時はその第一の権臣となった橘諸兄の子である。諸兄は天平9(737)年に流行した天然痘でそれまで権勢をふるっていた藤原の4兄弟が揃って亡くなった後を埋める形で大納言となり、翌年には右大臣に進んで事実上の政府首班となった。諸兄政権は天平12(740)年に九州で起こった藤原広嗣の乱を鎮圧、東大寺の大仏建立や国分寺の造営にとりかかり、平城京から恭仁京への遷都(すぐに廃都)といった政策を行った。諸兄は天平15(743)年にはさらに左大臣に昇進したが、その頃から藤原仲麻呂という人物が頭角を現してきた。

 仲麻呂は先に天然痘で死んだ藤原武智麻呂の子で、光明皇后の甥でもある。天平感宝元(749)年、聖武天皇が退いて娘の阿部内親王が孝謙天皇として即位した。この時の人事で諸兄の子の奈良麻呂が参議となったが仲麻呂も大納言に取り立てられ、さらにその1ヶ月後に光明皇太后のための役所「紫微中台」が新設された際に(仲麻呂は)その長官に任命された。このころ聖武上皇は病気がち、孝謙天皇は東大寺の造営に力を注いでいて実際の政治を担当するのは光明皇太后という形になっていたから、皇太后を補佐する仲麻呂は政権の中枢に食い込んだことになる。かような仲麻呂の栄達に危機を感じた諸兄は酒の席でつい穏やかならぬ発言をしてしまい、そのことが聖武上皇の耳に届いたと聞いて辞職した。特に咎められはしなかったが、諸兄はもう70過ぎであって寿命が近づいており、しばらく後に亡くなった。諸兄の死後に政権のトップとなったのは仲麻呂の兄で右大臣の藤原豊成であったが、実際の政治力は仲麻呂におくれをとっていた。

 本稿の主題である橘奈良麻呂の陰謀はその前後の頃から始まっていた。武力で仲麻呂をのぞこうというのである。奈良麻呂は藤原氏に不満を抱いていそうな大伴氏や佐伯氏……どちらも古くから朝廷の軍事に重きをなしてきた……の有力者に声をかけてまわったが、なかなかよい返事を貰えなかった。奈良麻呂は、聖武天皇の代から続いている東大寺の造営が民衆を苦しめているとして自分の行動を正当化しようとした。実際にどの程度そういう社会状況だったのかはともかく、奈良麻呂自身はそのことで最後に墓穴を掘るのであるが……。

 天平勝宝8(756)年、聖武上皇が亡くなった。仲麻呂は未亡人となった光明皇太后に取り入ることでさらに権勢を拡大した。孝謙天皇は女帝で独身だったので皇太子は聖武の遺言により親戚の道祖王に決まったが、翌年3月、仲麻呂は皇太后と天皇を動かしてこれを廃し、自分の亡き長男の妻の再婚相手である大炊王を新太子に擁立した。仲麻呂はさらに同年5月、軍事を掌握する「紫微内相」という役職を設けてそれに就任し、それと同じ日、祖父の藤原不比等が40年前に編纂してそのまま放置されていた『養老律令』を施行した。

 かような動きには奈良麻呂のみならず他の有力者たちも不満を募らせてきた。一度は奈良麻呂の誘いを断った大伴古麻呂やその一族の池主・兄人、賀茂角足、皇族の黄文王その他諸々である。彼等は奈良麻呂をリーダーとして頻繁に会合を開き謀議を巡らした。ただ、『万葉集』の歌人として知られる大伴家持も誘われたが彼は同調しなかった。大伴宗家の嫡流である彼は伝統ある大伴氏の多くが奈良麻呂の周りに集まっているのを心配した。「惜しき清きその名ぞおほろかに心思ひて虚言も祖の名断つな」「しきしまの大倭の国に明けき名に負ふ供の緒こころ勤めよ」。

 謀議の噂を聞いた仲麻呂は6月9日、「諸氏の氏長(うじのかみ)は公事でないのに一族を召集してはならない」「京(平城京)中を20騎以上の集団で行動してはならない」といった布告を出し、同月16日には橘奈良麻呂・大伴古麻呂・賀茂角足らを左遷する人事を行った。その異動は具体的には例えば大伴古麻呂が陸奥鎮守将軍として奥州に飛ばされる等であったことから奈良麻呂陣営の動きは急激に活発化した。28日、山背王という人物が「奈良麻呂が兵器を備えて仲麻呂殺害を謀っている。そのことは大伴古麻呂も知っている」との密告を仲麻呂にもたらした。翌29日、橘奈良麻呂・大伴古麻呂・黄文王・安宿王・多治比礼麻呂その他あわせて20人あまりが集まって誓いの塩汁をすすりあい、翌月2日夜に反仲麻呂のクーデターを決行することを確認した。具体的には仲麻呂の邸宅を囲んでこれを殺し、孝謙天皇と皇太子の大炊王を廃する……しかしその後に誰を新しい天皇にするかはまだ決まっておらず、その誓約の場にいた安宿王に至っては兄弟の黄文王に誘われて訳も分からず誓いを立てさせられ、その後ではじめてクーデターの計画を聞くという有り様であったという。それに先に密告を行った山背王というのも黄文王の兄弟であったから、奈良麻呂陣営は仲間集めにかなり焦っていたようである。

 そして問題の7月2日、噂を聞いた光明皇太后と孝謙天皇は、謀反を企む者などいよう筈がないと前置きした上で事の次第を調べることにしたと表明した。なるべく荒事を回避したかったのか、「人の見咎むべき事わざなせそ(人に見とがめられることをしてはならぬ)」「明き清き心を以て皇が朝を助け仕へ奉れ」とも語る。しかしその日午後遅く、上道斐太都という人物が仲麻呂に非常に具体的な密告を行った。奈良麻呂派はまず400の兵で仲麻呂邸を囲み、それとは別に大伴古麻呂が新しい任地の陸奥国に赴く途中に不破の関にて病気と称して停止、そのまま関を固める計画だという。斐太都は奈良麻呂派の小野東人という人物(彼は備前守だったが先の左遷人事で解任されている)にこの日の昼すぎにクーデター参加を要請され、一旦は承諾したが考え直して仲麻呂に注進したのである。

 仲麻呂は配下の高麗福信に命じてまず小野東人を捕縛した。しかし奈良麻呂や大伴古麻呂ら最重要人物と目された5人はいきなり逮捕はされず、まずは事を穏便に済ませたい光明皇太后……といっても彼女は基本的に仲麻呂を信頼している……の特別の心遣い「汝等は吾が為に近き人なり。一つも吾を怨むべきことはおもほえず」で罪を問われないことになった。が、先に逮捕されていた小野東人が拷問に耐えかねて全てを白状してしまった。そうなると光明皇太后も庇いきれず、先に放免された奈良麻呂らも取り調べを受けた。

 史書『続日本紀』の記述によれば尋問役の藤原永手は奈良麻呂を以下のように問い詰めたという。「逆謀、何によりてか起せし」。奈良麻呂こたえて「内相(仲麻呂)政を行ふ甚だ無道多し。故に先ず兵を発して(以下略)」。対して永手「政を無道しというは、いかなることをか謂ふ」。奈良麻呂「東大寺を造りて、人民苦しみ辛む。氏々の人等もまた、これ憂とす(以下略)」。永手「いふ所の氏々とは、いずれの氏をか指す。また、寺を造ることはもと、汝が父(橘諸兄)の時より起れり。今、人の憂へという。その言似ず(その言は不適当である。そんなことが言えるのか)」。こう言われると奈良麻呂は反論出来ず「辞屈りて服ふ」。つまり言葉につまって屈服した。

 このようにして罪を認めた奈良麻呂らは投獄され、その一味も残らず逮捕された。黄文王・大伴古麻呂らは杖で打たれる拷問で死亡、安宿王は佐渡に流罪、死刑・流刑あわせて443人を数えたという。しかし、何故か首謀者の奈良麻呂については最終的にどのような処罰を受けたか不明である。恐らく獄死したのであろう。さらに仲麻呂の兄で右大臣の豊成は奈良麻呂の謀議を察知していながら何もしなかったとして左遷となった。確かにそれは事実で、豊成は弟が権力を集め過ぎているのを快く思っていなかったとされている。ともあれ、この「橘奈良麻呂の変」を通じて朝廷における藤原仲麻呂の権勢は揺るぎないものとなったかにみえた。以後のことについては別稿をご覧いただきたい。

                                  おわり     



   参考文献

『奈良の都』 青木和夫著 中央公論社日本の歴史3 1965年
『奈良朝政争史 天平文化の光と影』 中川収著 教育社 1979年
『藤原仲麻呂』 岸俊男著 吉川弘文館人物叢書新装版 1987年
『続日本紀(中)全現代語訳』 宇治谷孟 講談社学術文庫 1992年
『続日本紀4巻』 青木和夫他校注 岩波書店新日本古典文学大系15 1995年
『平城京と木簡の世紀』 渡辺晃宏著 講談社日本の歴史04巻 2001年


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