征台の役

 1871年11月30日、琉球の那覇を出帆した宮古島船が嵐で難破し、12月17日台湾南端に漂着した。乗員の宮古島民69名のうち3名は上陸の際に溺死、残りは台湾先住民(註1)の一部族「牡丹社」に救助を求めたが襲撃されて54名が首を取られるという事件が発生した。生存者12名は清国官吏に保護されて福建省福州を経由して琉球に送り返された。この頃の沖縄はまだ琉球王国が存続していて鹿児島県の管理を受けていた。それはともかく事件が北京駐在の日本公使から東京の政府に報告されたのが翌72年5月、琉球ルートから鹿児島県庁に報告されたのが同7月である。

註1 オーストロネシア語属の言語を話す人々。現在の台湾は大陸から移ってきた漢族が多数派である。


 9月、琉球と歴史的に深い繋がりを持つ鹿児島県の参事大山綱良が外務省に対し、問罪のための台湾への軍艦派遣を建言した。台湾征討論のはじめである。鹿児島に駐屯する陸軍の部隊長である樺山資紀もこれに賛同して政府部内の薩摩閥に働きかけた。樺山は23年後に初代台湾総督となる人物である。しかし宮古島を含む琉球王国は清国の宗主権下にあり(古くから中国の王朝に臣属する)ながらも鹿児島県の管轄を受ける(17世紀初頭に薩摩の島津氏に占領される)という日清両国の係争の地であり、台湾に至っては明確に清国の領域であるという問題があった。

 ただ……台湾全島は1683年以来清国の領域であるとされてはいたが、実際には全部がその支配に服していた訳ではなく、先住民の居住地域「蕃地」のうち清国統治の及ぶ地域を「熟蕃」(主に平地の農耕民。平埔蕃とも)、及ばない地域を「生蕃」(主に山岳地の狩猟民。高山蕃とも)と呼んでいた。宮古島民を殺したのは後者である。

 琉球の帰属に関しては以前から問題になり処置が進められていた。日本政府は欧米諸国に琉球の日本領土たることを通告して承認を受け、ついで琉球の国王を廃した上で改めて「琉球藩王」に任命し、その外交権を全て日本の外務省に引き継がせた。ただし琉球と清国の関係については保留した。

 さて、日本で起こってきた台湾征討論にアメリカが興味を示した。台湾先住民と外国人の揉め事は以前にも起こったことがあり、その経験者であるアメリカの元厦門領事リゼンドル退役少将と駐日アメリカ公使デ・ロングとが今回の台湾問題に首を突っ込んできたのである。リゼンドルの関与した事件でもやはり台湾に漂着したアメリカ人が首をとられていた。その「ローバー号事件」(67年)の時には清国側は「清国は台湾東岸地区に住む民に対する事実上の支配権をもっていない」から責任はとれないと逃げをうったため、アメリカはまず軍艦を送って犯人の部族を懲罰しようとしたが失敗、次に現地の首長と条約を結ぶことで手打ちにしたのであった。そのこと(アメリカが台湾に派兵したり現地民と条約を結んだりすること)については清国側は特に厳重抗議のようなことはしなかった。しかし条約を結んだ首長の支配圏は限られていたために同種の事件は何度も起こり、清国側はそのつど上に述べたような言い逃れを繰り返した。

 デ・ロング公使は日本政府の外務卿副島種臣と会見し、今回の宮古島民殺害事件に関しても現地の首長と直接交渉すべきであると助言した。問題の地は清国の管轄だが実質支配が及んでいない以上は「無主地」である(だから清国政府でなく現地の首長と直接交渉しても清国は文句は言えない、それはローバー号事件が証明している)、と。さらにデ・ロングは副島にリゼンドルを紹介した。副島と会ったリゼンドルは、はっきりと日本が台湾をとれとまで言ってしまった。アメリカ側では、日本が現地を領有してくれるなら、清国よりは責任を持って現地民の跳梁に対処してくれるだろうという思惑が存在していた。

 とりあえず樺山資紀が清国・台湾の視察に旅立った。11月、副島外務卿は明治天皇に対し台湾の生蕃の地を日本が領有すべしと上奏した。さすがにこれは当時の日本の国力からすると大胆にすぎ、大蔵大輔の井上馨等が財政上の理由から反対した。「征台論」とか言っても現地民をちょっと懲らしめてくるとかその程度にすべきである。副島はとりあえず清国との交渉に赴くこととなった。副島をそそのかしていたリゼンドルは副島の倍の給料で外務省に雇われた。

 副島が旅立ったのは翌73年3月、清国皇帝謁見のやり方といった問題でゴタゴタしつつ6月になってようやく宮古島民殺害に関する清国政府への抗議が行われた。清国は事件を起こしたのは「化外の民(清国皇帝の教化の及ばぬ人々)」たる生蕃だから責任はとれない、と、いつもの言い逃れをした。被害者の宮古島民は清国の属国(琉球)の者であって日本国民ではない、とも。しかし「化外の民」ならば、(デ・ロングも言うように)別に日本が台湾の生蕃の地に出兵しても問題ないようにも思われた。

 さらにこの年、今度は小田県(現岡山県の一部)の住民が遭難して台湾に流され、略奪を受けるという事件が起こった。(死人は出なかった)

 しかし日本では政変があったりして、正式に台湾征討が決定されたのは最初の事件が発生してから2年以上も経った74年2月6日のこととなった。政変とは武力で朝鮮を開国させようとした西郷隆盛等「征韓論」の論者(註2)が「内治の急」を唱える大久保利通等と対立して政府から抜けた「明治6年政変」のこと(註3)である。しかしそこでは外征に反対した大久保利通(註4)等も、このころ士族の不満が高まりつつあった(西郷の下野につられて一挙に表面化)のを勘案し、ここは台湾征討という外征によって国論の統一をはかろうとした(註5)のであった。その少し前には右大臣岩倉具視が土佐の不平士族に襲撃され、少し後には肥前の不平士族が「佐賀の乱」を起こしている。

註2 この論の中心とされる西郷隆盛は実際にはあくまで交渉で朝鮮を開国させるつもりだった。

註3 実際には征韓論云々というより薩摩長州閥と土佐肥前閥の抗争であり、西郷が辞職したのも別の原因が絡むともいう。それから副島種臣も辞職している。

註4 前註に述べたが別に外征に反対するという意味で政変を引き起こした訳ではないともいう。

註5 明治6年政変で成立した大久保政権が単に即効性の実績を欲しがっただけともいう。


 そして台湾征討の具体的な計画立案である。まず外交面。もし清国が文句を言ってきた場合には交渉で時間を稼ぎつつ軍事上のことを進めて機を見て和解するとした。問題の地域を永続的に占領する意思はとりあえずは示さないが、情況次第によってはその方向に進むこととする。それから、日本軍が宮古島民(琉球人)殺害の報復をするということは、琉球の日本領土たることを清国に強く示すことにもなる。「台湾蕃地事務都督」として台湾征討軍の司令官をつとめるのは陸軍中将西郷従道、その下には陸軍の谷干城少将、海軍の赤松則良少将がつく。それから参議大隈重信(彼は肥前出身だが明治6年政変では大久保派)が「台湾蕃地事務局長官」、つまり事務方の責任者となった。

 台湾の知識を持つ外国人が何人か雇われた。だが、そこにイギリス公使パークスが局外中立を宣言して自国民の雇用を拒絶すると言ってきた。日本が台湾で騒乱を起こすとイギリスの中国貿易の邪魔になりかねないからであり、また彼は以前に長らく清国で仕事をしていてそちらへの思い入れが強かった。それにつられて他国の外交筋も日本を批判する。これまで日本に台湾政策をたきつけていたアメリカ公使のデ・ロングは異動で帰国してしまい、後任のビンガムはパークスに追随して日本を非難するに至った。日本政府はとりあえず計画を延期する旨を既に長崎にて準備を進めていた西郷・大隈に打電した。大隈は従いかけたが西郷はこれを無視、4月27日をもって第1陣270名を乗せた「有功丸」を出発させた。海軍陸上砲兵隊といった部隊である。政府からの延期の電文をみた征討軍参謀の佐久間左馬太陸軍中佐(後に第5代台湾総督となる)が、これは西郷都督に宛てたものであって部下には関係なし、として出発したのであるともいう。しかし、征討軍を運ぶために借りるつもりでいた外国籍の大型船はイギリス・アメリカの妨害で使えなくなったため、とりあえず出発させた「有功丸」には定員の倍以上の人員を無理矢理に詰め込んでいた。その中にはアメリカ人の従軍記者E・H・ハウスも乗り組んでおり、彼の著作『征台の役従軍記』は本稿の主要参考文献の1つとなっている。(しかしこの本は詳しくて面白いのだが徳富蘇峰の『近世日本国民史』あたりと比べると事実関係にかなり食い違いがある)

 大久保がとりあえず西郷を止めようと(註6)5月3日長崎に到着したが、征討軍主力はその前日に出発してしまっていた。その陣容は軍艦「日進」「孟春」と輸送船「明光丸」「三国丸」に分乗する熊本鎮台(註7)歩兵第19大隊・東京鎮台第3砲隊、それから信号隊、鹿児島士族300名の徴集隊(註8)、輜重を請け負う大倉組の人夫であった。輸送船を用立てたのは三菱会社である。それでもまだ船が足りないため、大久保が来た時の長崎にはまだ西郷都督を含む600名の兵士が残っていた。数日後、大久保は出兵を追認し、西郷たちは18日に「高砂丸」で出発した。「高砂丸」は老朽船なのに600人も押し込まれて超満員となり、台湾への航海中に食糧が腐ったり水の配給を巡って揉めたりしてなかなか大変だったという。ともあれ同月19日、政府から国民に対して琉球藩・小田県の人民に危害を加えた台湾先住民を懲罰する旨の布達が行われた。これが近代日本初の外征「征台の役」である。

註6 実は西郷に賛同だったとも。そもそも彼は計画延期を決めた会議には佐賀の乱の後始末のため出席していない。

註7 「鎮台」とは当時の陸軍の軍団のこと。当時は6鎮台があった。1888年に廃止されて「師団」にかわった。

註8 「徴集」というがこれは志願兵である。


 さて、第1陣の「有功丸」は5月3日、まず厦門に立ち寄って清国の福州総督に出兵の告知をした(返事は後で届く)。しかし出発時の情況が情況とはいえ、常識で考えるならそういうことはもっと早くに外務省から北京に対して告知すべきことである。

 そして5月7日、征討軍第1陣が台湾南端に近い琅橋湾へと上陸した。指揮官は福島九成少佐である。近在の台湾先住諸部族のうち小麻里と猪労束は友好を表明した。その時の交渉で日本側は、すぐにでも2万5000の大軍を投入出来るとか法螺を吹いて相手を脅かしている(実際に日本が投入したのは全部で3568名)。翌日には船の物資を陸揚げしたが段取りが無茶苦茶で、従軍記者E・H・ハウスは例えばガットリング砲(機関銃の先祖)の扱いがあまりに不注意なのに恐れ入っている。兵員が(暑さのせいか)あまり熱心に設営作業をしないため、現地民に金を払って手伝わせてもいる。現地民は賃金ほしさや物珍しさ(特にガットリング砲に興味を示したという)で大勢が集まってきたが、賃金をつりあげようとしたことから日本側はその雇用を打ち切った。10日には後続の部隊が到着・上陸した。

 日本軍は奥地の部族と接触をもとうとした。11日、そもそもの発端である宮古島民殺害を行った牡丹社の首長と会見して犯人捕縛を要求したが拒否された。17日、100名ほどの部隊が奥地を偵察行動中、別行動をとった6人の兵員が銃撃され1人が死亡した。E・H・ハウスによれば彼らは勝手に隊を離脱して現地の村に入り込んでいたといい、徳富蘇峰の『近世日本国民史』では彼らは任務中だったことになっている。とりあえずこの、薩摩士族徴集隊の伍長であった北川直征という人が近代日本外征史上における戦死者第1号ということになる(註9)。犯人は牡丹社の者であると思われた。さらに、軍艦「日進」の小型艇が銃撃を受けるという事件が発生し、たまたま「日進」に乗っていた赤松則良少将を激怒させた。

註9 ちなみに北川たちはスナイドル銃という素早い装填が可能な銃を持っていたが、敵方は火縄銃であった。

 そのあと数日間つづいた大雨を経て21日、北川伍長の死んだ現場に出向いた調査隊の調べ(これはハウスの記述によります)により、北川を殺したのは牡丹社ではないこと、北川がむやみにブラブラ動き回っていたこと、日本軍はとりあえずは現地民に危害を加えないよう注意していたのにそれが殺した側の部族によく伝わっていなかったことが明らかとなった。調査隊はさらに奥地に踏み込んだところで50名ほどの現地民に攻撃され、負傷者2名を出しつつこれを撃退した。日本側は応援を寄越したが、地形を知る敵は巧みに反撃しつつ姿を消した。

 翌22日、佐久間左馬太中佐の指揮する部隊が先日の戦闘で敵が消えた方向へと足を踏み入れた。その編成は第19大隊の一部、海軍陸上砲兵及び信号隊若干、薩摩士族徴集隊若干からなる約500名である。指揮官佐久間中佐は「佐賀の乱」で活躍した人物である。そして牡丹社に通じる石門というところで現地民70名ほど(一説に300名)と本格的な戦闘となった。ここは左右が山、正面は切り立つ岩という要害で、現地民は日本側から見えないポイントから銃撃してきたが、日本軍は左の山の崖をよじ登って敵の背後に出ることで勝利した。この「石門口の戦い」で現地民は16(一説に12)の死体を残して退却、日本側の戦死者は6名(一説に4名)、負傷者は20名を数えていた。現地民の死体には牡丹社の首長親子も入っており、日本軍はその首をとって青竹に吊るし掲げて意気揚々と凱旋した。ちょうどこの日には日本からの出発が一番遅かった西郷従道都督とその部下が上陸してきていたのだが、西郷は首をとるような振る舞いはすべきでないと注意した。……ともあれこの戦いは征台の役における最大の激戦であり、20年後の「日清戦争」で台湾を領有した日本はこの地で追弔祭を行うことになる。

 話を戻す。石門口の戦いの同日、西郷の連れてきた部隊が上陸作業をしていたところに清国軍艦が現れた。征討軍第1陣の「有功丸」が台湾上陸に先だって厦門に立ち寄り清国の福州総督に出兵の告知をしたことへの返事を持ってきたのである。台湾は清国に属しているからそこへの侵犯は領土相互不侵越を定めた日清修好条規(71年に締結)違反である、即時撤兵されたしとのことであった。にしても、上の方でに述べた通り台湾先住民と外国との戦闘は過去にも起こったことがあるのだが、清国は今回の日本の出兵についてだけは非常に強い反応を示すことになる。これについて、E・H・ハウスは清国が諸外国にあれこれ唆されたからだと言っている。ともあれ征討軍は清国側の要求に顧慮することなく駐留を継続し、敵対部族を絞り込んでいった。叩くべき目標は牡丹社とあと「石門口の戦い」にも参加していた高士仏社という部族に決められた。

 そして牡丹社の本拠地への侵攻は6月1日から始まった。本当はもっと早くするつもりだったが大雨に祟られたのである。事前の調査では牡丹社の戦士は250名と推定されたが、それより地形の複雑さが憂慮された。出発したその日も大雨で、川を渡る時に兵士1人が溺死した。日本軍は3隊にわかれて進撃した。本隊は西郷都督直率、右翼隊は赤松少将指揮、左翼隊は谷少将指揮で総勢1700名である。大砲やガットリング砲も持っていく。本隊と左翼隊が牡丹社を、右翼隊が高士仏社を叩くとの作戦である。進軍中……途中で西郷が迷子になったりした……に通りかかった廃村にてこの遠征のきっかけとなった宮古島民の墓を発見し、遺体53柱を回収した(1柱だけ行方不明)。3日には牡丹社・高士仏社の村を片端から占領・破壊した。戦闘はあったが大したものではなく、部族民の大半は逃げ散っていた。日本軍は逃亡者を包囲するという意味もあって周辺部族との交渉を進め、友好関係を結んでいった。そして西郷は7日、はっきりと現地の植民地化を東京に向け建言した。ゲリラ戦はその後も続くが、7〜8月の間に57部族と友好関係を結ぶことに成功した。

 話を戻して6月21日、再び清国軍艦が現れた。清国使節はフランス人の顧問を伴っていた。西郷都督との会見の模様は以下のようなものであった。清国使節は、「現地には清国の統治が及ぶ」との前提のもとに、日本側の出兵告知(「有功丸」が厦門で行ったもの)がもっと早ければ清国も軍隊を派遣して日本軍を支援出来た(同行を求められもしなかったのは遺憾であった)と不満をもらし、日本側の今後の計画を聞き出そうとした。西郷は、まだ作戦は進行中なのでそれは明らかに出来ないとした。清国側はこれからは清国軍の力で台湾の秩序維持にあたりたいと語ったが、西郷は、清国は自分で牡丹社の懲罰をしようともしなかったのに日本が動くと「同行を求められなかったのは遺憾」とか言い出す、そのような国の発言が遵守されるとは思えない(今後は清国が台湾の秩序維持をやるなんてのは口先だけの話だろう)、と攻撃した。しかし西郷はこの場では、たとえ架空のものであったとしても清国の所有物をもぎとるつもりはない(日本には台湾領有の意思はない)とも明言した。征討軍の目的は現地に将来に渡って安全な状態を確立することだけである(それが清国に出来るとは思えない)、と。次いで、現地が清国の統治下にあるというのなら、本来清国がやるべき牡丹社の懲罰・秩序維持を日本がしているのだから、その費用は清国が支払うべき、との発言が飛び出した。その場ではそういう方向で話を進めるということで清国使節は帰っていった。

 以上のやりとりはE・H・ハウスによったが、北京では24日、清国皇帝が「日本が撤兵に応じない場合はこれを討伐せよ」との勅命をくだした。費用負担云々はここでいったん立ち消えになったようである。清国は諸外国に対し、今回の日本の行動は国際法に違反するとか言い立てた。何よりも日本政府が困ったのは、駐日イギリス公使パークスが清国の肩を持ったことである。日本は諸外国の反対を押し切って強引に征討軍を派遣したという弱みがあった。普通ならこういうことはもっと慎重に根回しをしてから実行するものである。特に日本などという弱小国は。

 清国は澎湖島に兵力を進めてきた。とりあえず1万人の派兵が可能であった。日清戦争勃発の一歩手前である。しかし清国の沿岸部の総督たちも、日本の陸軍幹部の大半も、このまま戦争するのは準備不十分と述べた。日本の一般の世論は……台湾から日本に引き上げていた従軍記者E・H・ハウスによれば……清国との戦争やむなしという熱気に包まれていた。しかし、少なくとも政府レベルでは両国とも本気で戦争する気にはならず、日本国民の多くも、戦争は出来得る限り回避したいが来るなら来い、といった空気であったという。

 8月上旬、日本政府は大久保利通を全権として清国に派遣した。交渉は難航した。台湾の現地が「化外(清国皇帝の教化が及ばない)」であることは誰もが認めることであるが、そこで日本軍が行動していることの是非が問題である。日本側は現地は国際法の基準では「無主地」として扱われるから問題ないとしていたが、清国側はそれは清国流の統治をしているだけであって無主地ではないと主張した。大久保は、清国が現地民に対する支配力を持っていたが使わなかっただけだと主張したとしても、遭難者を襲うような行為を見過ごした責任から逃れることは出来ないと主張した。対して清国は「現地民への教化は徐々に行っていく。日本政府が遭難事件について詳細な報告書を出していたならきちんと対処した」と反論した。大久保は納得しなかったが、清国側はこれから現地民の教化を行うという約束を信じてもらえないならこれ以上議論の余地はないとした。

 さてその間、台湾の征討軍では7月からマラリアが流行り、8月には死者続出の惨状となった。9〜11月の間に交替として熊本鎮台第11・第22大隊、東京鎮台歩兵第1大隊が派遣された。

 外交交渉の席では駐清国イギリス公使ウェードが調停を買って出た。彼は万が一日清両国が開戦した場合に自国の貿易が阻害されることを恐れていた。そしてウェードの尽力により(彼はその件に関して駐日公使のパークスとも話し合っていたという)、ようやく10月31日に至り「日清両国間互換議定書」が調印された。征討軍は金と引き換えに撤収する。具体的には、清国は日本の行為を「民を保つ義挙」と認めて先住民に害された者の遺族に見舞金10万両を、台湾の現地に日本の征討軍が設置していた施設や道路を清国が買い上げるという名目で40万両を支払う。清国側のメンツを立てるために「賠償金」という言葉を避けたのである。それから「民を保つ義挙」の民とは琉球人(宮古島民)のことで、それを保護する日本の行動を「義挙」というのだから、「琉球は日本領土である」ことを清国が認めた(註10)のだと解釈された(明言はされていない)。そして、現地の部族が2度とあのようなことをしないよう清国がしっかり管理するとの約束がなされた。大久保はなんとか交渉をまとめたことで大歓迎のなか東京に戻ることが出来た。

註10 本稿の上の方で述べたが、琉球王国は日本と清国の両方に服属するという係争の地であった。


 12月1日、約束の金額が支払われた。台湾の征討軍は当初の予定ではもう少しゆっくりする筈であったが2日にはそそくさと撤収した。西郷を始めとする征討軍のほとんど全員がマラリアに罹って苦しんでいた。従軍した総員は3568名、戦死は11名、事故死(溺死)が1名に過ぎないが病死は561名(一説に547名)にも達していた(それ以外に人夫120名程が病死)。戦費は771万円であった。これは当時のレートでは清国からとった金の10倍であった。

                             おわり


   参考文献

『近世日本国民史90 台湾役始末篇』 蘇峰徳富猪一郎著 近世日本国民史刊行会 1961年
『明治維新』 井上清著 中央公論社日本の歴史20 1966年
『台湾史再発見 石器時代から近代まで知られざる事跡の数々』 喜安幸夫著 秀麗社 1992年
「日本の近代化と沖縄」 我部政男著 『岩波講座近代日本と植民地1 植民地帝国日本』 岩波書店 1992年
『日本海軍史 第1巻 通史 第1・2編』 海軍歴史保存会編集発行 1995年
『台湾出兵 大日本帝国の開幕劇』 毛利敏彦著 中公新書 1996年
『台湾 変容し躊躇するアイデンティティ』 若林正丈 ちくま新書 2001
『征台の役従軍記』 E・H・ハウス著 金井信行他訳 オフィス・コシイシ 2005年

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