グアム、ウェーク島の攻略

 「グアム島」はマリアナ諸島の南端、北緯13度27分、東経144度47分に位置する安山岩と珊瑚石灰岩でできた島である。紀元前3000〜2000年頃に東南アジア方面からやってきたチャモロ人が定住しているが、1521年に世界一周航海の途上にあったマゼランの艦隊によって「発見」され、1565年にスペインによる領有が宣言された。その周辺の島々もスペイン領となったが、実際に開発されたのはグアムだけであった。

 時代が進んで1898年、スペインとアメリカの戦争「米西戦争」が勃発し、これに勝利したアメリカはスペイン植民地のフィリピン、プエルトリコ、そしてグアム島を獲得した。グアムの周辺の島々はその時点ではスペイン領のままであったのだが、敗戦による財政難に陥ったスペインはそれらをドイツに売却、さらに1914年の「第一次世界大戦」勃発に際して日本軍が占領した(註1)。そして大戦終結後に結ばれた「ベルサイユ条約」により、中部太平洋の島々のうちマーシャル諸島・カロリン諸島・マリアナ諸島は正式に日本の統治下に置かれることとなった(註2)ため、アメリカ領グアムはその中に孤立する形となった。アメリカはこの島を海軍の管轄とし、大佐クラスの総督を置いて原住民(2万ほどいた)を統治せしめた。

註1 詳しくは当サイト内の「ドイツの植民地」を参照のこと。

註2 詳しくは当サイト内の「南洋群島」を参照のこと。


 「ウェーク島」は北緯19度18分・東経165度35分に位置する珊瑚礁の孤島である。1568年にスペインの探検家アルヴァロ・メンダニーアによって発見され、1899年にアメリカが領有を宣言したが、海鳥ぐらいしか資源がない(原住民もいない)ことから放置となった。

 1935年、パンアメリカン航空がウェーク島に水上機の燃料補給基地とホテルを建設して太平洋航空路の中継点としたことにより、俄然この島の価値が急上昇した。フィリピン〜グアム島〜ハワイ〜サンフランシスコという具合にアメリカ領を繋いでいく海空路において、ウェーク島はグアム島〜ハワイ間の真ん中近くに位置し、しかも日本の支配する島々に対して海空からの睨みをきかせることが可能である。

   アメリカ側の戦備

 ヨーロッパで第二次世界大戦が始まった1939年の末、アメリカは大統領令によってウェーク島を海軍の管轄下に置くことを決定した。(アメリカの)議会は既に前年5月のうちに海軍に対し米本土及びその属領における海空基地の必要性を検討するための委員会の設置を求めており、38年12月にはその「ヘップバーン委員会」がハワイ真珠湾・ミッドウェー、そしてグアム・ウェークの防備強化案を議会に提出してきた。議会はミッドウェーやウェークの強化のための予算は出すことにしたが、グアムについては却下した。戦争になっても守る気はないということである。ただ、グアムでも後になって大統領の権限で使用出来る資金によって潜水艦基地の建設が始まり、さらに飛行場を造成するための若干の作業員が派遣された。しかし潜水艦基地についてはある程度進捗したものの飛行場は開戦時になっても測量しか出来ていなかった。

 ウェーク島の防御工事が始まったのは41年の1月である。約1200名の民間作業員からなる設営作業隊の努力で長さ5000フィート・幅200フィートの滑走路が完成したのが同年8月、同時期には守備隊としてハワイ駐留の海兵隊防御第1大隊が進出してきた。その頃の最新鋭戦闘機であったF4F「ワイルドキャット」12機が空母「エンタープライズ」で運ばれてきたのが12月4日、つまり日米開戦の直前のことであった。同月8日の時点で兵員が522名、民間作業員が1146名、パンアメリカン航空の社員が70名、計1738名がウェーク島の総員であった。全島の総指揮官はカニンガム中佐、その下で海兵隊の指揮はデブルー少佐が、戦闘機隊の指揮はパットナム少佐がとる。糧食は海兵隊が3ヶ月分、民間人が半年分を備蓄しており、飲料水は不足していたが蒸留機を完備していた。大砲は8門、機銃は13あった(一説に5インチ沿岸砲6門と3インチ高射砲20門)。

 グアム島にいた兵員は資料によって750名とも678名とも555名以下とも650名ともいう。艦艇は小型哨戒艇「ペンギン」・第16号哨戒艇・第17号哨戒艇、港用油槽艦「R・L・バーンズ」の4隻がいた。それから、何門か分からないが30ミリ機関砲と45ミリ砲が全兵力であった。島の人口は約2万3000名であった。
 
   日本側の戦備

 さて日本軍の方は、日米開戦の際にはもちろんグアム・ウェーク両島を攻略・占領するつもりでいた。まずウェークに関してだが、日本軍はこの島に関する資料をあまり持ち合わせていなかったにもかかわらず、特に困難な作戦になるとは考えていなかった(註3)。日本軍はこの島の攻略に第4艦隊所属の第6水雷戦隊をあて、艦艇の乗組員で臨時に編成する「艦船陸戦隊」で島の施設を占領するつもりでいた。第6水雷戦隊が本格的な作戦計画に着手したのは昭和16年10月下旬のことである。しかし11月にアメリカに出向いた来栖特派大使がウェーク島に立ち寄った際に見聞きした情報では現地には兵員300に人夫1200がいると推測され、これは当初の見込みを上回る戦備であったので、臨時ではなく専門の陸上戦闘部隊である「特別陸戦隊」2個中隊を投入することにした。それでも、結果を先にいえば、島の米軍の実力を過小評価していたことになる。

註3 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』135


 ウェーク攻略のための具体的な兵力部署が決まったのは11月21日のことである。第6水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦「夕張」、駆逐艦「追風」「疾風」「睦月」「如月」「弥生」「望月」、第32号哨戒艇、第33号哨戒艇、潜水艦「呂65」「呂66」「呂67」、特設巡洋艦(註4)「金龍丸」「金剛丸」、特別陸戦隊2個中隊、8センチ高角砲4門、水上偵察機4機、基地設営班(註5)等々からなる「ウェーク島攻略部隊」が編成された(註6)。指揮官は梶岡定道少将である。これとは別に、軽巡洋艦「天龍」「龍田」からなる第18戦隊が「ウェーク島攻略援護隊」と呼称されて作戦に参加する。第18戦隊は本来ならウェーク島攻略部隊に編入されてしかるべきであったのだが、第18戦隊司令官の丸茂少将が梶岡少将よりも先輩であったためにこのような部隊編制となったのであった(註7)

註4 「特設○○艦」とは民間船を徴用して武装を施したものである。

註5 海軍所属の土木作業部隊。

註6 さっき「ウェーク島の攻略は第6水雷戦隊が担当する」と書いたが、11月21日の部署では同戦隊にさらに他所の部隊(陸戦隊や特設巡洋艦)が臨時に配属され、それらを合わせて「ウェーク島攻略部隊」と呼称したのである。このように、その時その時の作戦の性質にあわせて部隊を組み合わせることを「軍隊区分」と呼ぶ。

註7 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』145


 以上の部隊を空から支援するのが第24航空戦隊で、これは日本統治地域のマーシャル諸島に展開する基地航空部隊であった。まず12月8日から第24航空戦隊がウェーク島を反復攻撃し、さらに9日から潜水艦がウェーク島とその周辺を監視、そして11日に上陸作戦本番という計画がたてられた。特別陸戦隊のうち1個中隊(と高角砲4門・水上偵察機2機)は特設巡洋艦「金龍丸」に、もう1個中隊は哨戒艇2隻に、基地設営班(と水上偵察機2機)は「金剛丸」にそれぞれ乗り込んでウェークを目指すこととなった。

 ウェーク攻略に参加する部隊は全て海軍に所属していたが、グアム島の攻略には陸軍部隊が参加することになっていた。日本軍がウェーク攻略について具体的に構想し出したのは昭和16年に入ってからであった(註8)が、グアム攻略に関しては大正12年から計画しており、現地には海兵隊300に土民(原住民)兵1500がいると予測していた(註9)。これは全くの過大評価であったのだが、陸軍は歩兵第144聯隊・騎兵第55聯隊第3中隊・山砲兵第55聯隊第1大隊等々からなる「南海支隊」を編成し、支隊長に堀井富太郎少将をあてた。人員は4886名である。

註8 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』135

註9 『戦史叢書中部太平洋陸軍作戦1』30


 海軍が出す兵力は「グアム島攻略部隊」と「グアム島攻略支援部隊」からなる。前者は敷設艦「津軽」、駆逐艦「菊月」「夕月」「卯月」「朧」、特設水上機母艦「聖川丸」、特設砲艦「勝泳丸」「昭徳丸」「弘玉丸」、特設駆潜艇「第8京丸」「第10京丸」「珠江丸」「第5昭南丸」「第6昭南丸」「昭福丸」、特設掃海艇「第2文丸」「第3関丸」の計17隻と、陸戦隊1個大隊、及び後方任務の部隊からなる。指揮官は春日篤少将である。後者は重巡洋艦「青葉」「衣笠」「加古」「古鷹」からなり、指揮官は五藤存知少将であった。前者の任務は南海支隊が分乗する輸送船「ちえりぼん丸」「横浜丸」「ちゃいな丸」「べにす丸」「日美丸」「門司丸」「くらあど丸」「松江丸」「太福丸」を直接護衛すること、後者の任務は船団からやや離れたところを航行して敵艦隊の出現に備えるという「間接護衛」であった。

 以上のグアム攻略用陸海軍部隊は「G」作戦部隊と総称されてその大部分が11月下旬に小笠原諸島の母島に集合、訓練・打ち合わせを行い、グアム攻略の後は南半球のニューブリテン島ラバウルを攻める予定であった(時期は未定)。ウェーク島攻略部隊及び援護隊と第24航空戦隊はマーシャル諸島のクェゼリン環礁に集合した。

   ウェーク空襲

 グアム島攻略部隊・支援部隊及び南海支隊輸送船団は12月4日に母島を出発、水上偵察機を用いたグアム偵察と対潜哨戒を行いつつ一路南下した。7日夜にはサイパン島民(註10)でグアムに親戚のいる者10名を密偵に仕立ててロタ島(註11)から極秘裏にグアムに潜入させる作戦を実施したが、米軍に捕えられた。アメリカ側のグアム島総督マクミリン大佐は去る10月17日までに在島の米人婦女子を本国に引き上げさせ、12月6日には機密書類を焼却した。

註10 日本人ではなく島の原住民。サイパンとグアムはそんなに離れていない。

註11 日本の統治する島のうちで最もグアムに近い(30浬しか離れていない)。


 そして12月8日、いよいよ日米開戦である。この日ハワイ真珠湾を攻撃して大戦果をあげた機動部隊(註12)は現地に空母がいないのにがっかりしたが、当時太平洋にいた米空母のうち「エンタープライズ」は既にみたとおりウェーク島に飛行機を届けたところだったし、「レキシントン」はミッドウェー島にやはり飛行機を届けに行っており、「サラトガ」は米本土の西海岸にいた。それはともかくとして、ハワイからの至急電を受けたウェーク島守備隊はただちにF4F戦闘機4機をあげて上空警戒にあたったが、やがて日本支配地域のクェゼリン環礁から日本機編隊が飛来してきた。

註12 空母6隻からなる第1航空艦隊に戦艦2隻・重巡洋艦2隻・軽巡洋艦1隻・駆逐艦9隻等を配属して編成した部隊。


 これは第24航空戦隊所属の九六式陸上攻撃機34機であった。「陸上攻撃機(略して陸攻)」とは陸上の基地から発進する大型攻撃機(「攻撃機」とは爆撃も雷撃も出来る機種のこと)で、長大な航続力と遠距離航法能力を備えていた。しかしクェゼリン環礁からウェーク島まで片道620浬もあるため、戦闘機の護衛は無し(燃料が持たない)である。米軍のF4F戦闘機隊は島から離れたところを高度3600メートルで警戒飛行をしていたが、日本側陸攻隊は高度600メートルという低空から、この日のウェーク島周辺に散在していた雲に隠れつつ米軍飛行場へと殺到した。

 低空からの銃爆撃は正確であった。飛行場に並んでいたF4F8機のうち7機を破壊、緊急発進命令を受けて飛行機に飛び乗ろうとしていたパイロット7名を死傷させるという大戦果である。しかも上空にいたF4F4機が現場に駆け付けてきた時には陸攻隊は既に飛び去っており、着陸しようとしたF4F1機が滑走路に転がっていた爆弾の破片に接触して破損した。それ以外に整備員等の地上要員24名が死傷である(註13)。しかし、米軍側に残されたたった4機のF4Fが予想外の大活躍を示すことになる。

註13 柳田邦男著『零戦燃ゆ1』140(文春文庫 1993年)


 日本側の損害は、墜落は無しだが対空砲火で8機が被弾、搭乗員1名が戦死した(註14)。陸攻隊がクェゼリン環礁に帰投したのは午後2時30分、同環礁で準備を整えていたウェーク島攻略部隊及び援護隊は午後1時45分から3時15分にかけて順次出撃していった。

註14 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』156


 グアム島攻略部隊の方はこの日、水上偵察機16機によるグアム島空襲を実施し、小型掃海艇「ペンギン」を撃沈した(註15)。グアムには日本人が何十人か商用で住んでおり、その全員が開戦と同時に逮捕監禁された。

註15 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』270の引く米軍資料。


 9日、第24航空戦隊が陸攻27機をもって再度のウェーク空襲を実施した。島からはF4F2機が迎撃にあがってきた。この時の空戦で日本側は1機撃墜を報じた(註16)が実際には落としていない。アメリカ側は陸攻2機を撃墜したと報じているが(註17)、こちらも実際には落としていない。とはいっても陸攻隊は無傷で帰れた訳では全然なく、12機が被弾して戦死者1名という被害を出している(註18)。地上に与えた損害は昨日より大きく、死者のみで59名を数えていた(病院に直撃弾があった(註19))。海上を進むウェーク島攻略部隊及び援護隊は、陸攻隊の攻撃によって敵航空戦力はほとんど壊滅し砲台にも大打撃を与えたので敵の威力は恐るるにたらず、という情報を受け取った(註20)。グアム島攻略部隊も昨日に引き続き水上偵察機によるグアム空襲を実施した。

註16 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』160

註17 柳田邦男著『零戦燃ゆ1』142(文春文庫 1993年)

註18 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』160

註19 柳田邦男著『零戦燃ゆ1』143(文春文庫 1993年)

註20 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』157


   グアム攻略

 同日午後11時、グアム島攻略部隊がグアムの島影を視認した。そして10日午前0時、各輸送船が大発(註21)を海におろす作業を開始した。南海支隊は3隊に分かれて行動し、「楠部部隊」が西岸から、「堀江支隊」が東岸から、「塚本支隊」が北岸から上陸することになっていた。海軍の陸戦隊は塚本支隊と行動を共にする。

註21 「大発」とは「大発動艇」の略で、重さ約9.5トン、速力8ノット、人員70名または馬10頭もしくは戦車1輛を搭載出来る上陸用舟艇のことである。


 楠部部隊を乗せた大発群は午前2時45分から動きだし、その先頭は午前4時25分に海岸に到着した。そのあたりは一面の珊瑚礁であったが、海浜部は比較的平らであったうえに水際付近の風浪極めて静かであったため、人員の揚陸に支障はなかった。戦闘もなしである。塚本支隊の大発群は午前2時15分から動きだし、午前3時10分には上陸を敢行した。海軍陸戦隊もほぼ同時に塚本支隊から5キロほど離れた地点に上陸、午前5時20分にグアム政庁を占領した。しかしその時に米軍約80名と遭遇、20〜25分間に及ぶ戦闘で陸戦隊は戦死者1名と軽傷者若干、米軍は死傷者約10名(註22)という損害が出た。グアム総督マクミリン大佐は午前5時45分、別の地点にも日本軍が上陸したと聞き(塚本支隊のことか?)、これ以上の抵抗は自殺行為であり原住民の運命を苦しくするだけであるとして降伏を決意した(註23)。これでマクミリン以下150名が捕虜となったが、他の地区では戦闘が継続した。

註22 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』261 しかしサミュエル・モリソン著『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史1巻』341(改造社 中野五郎訳 1950年)によれば米軍は戦死者17名を出したことになっている。同書によれば日本軍の襲撃を2回に渡って撃退したことになっているが、『戦史叢書』では「小ぜり合い」「ほとんど戦闘らしい戦闘は行われなかった」とある。

註23 サミュエル・モリソン著『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史1巻』341〜342(改造社 中野五郎訳 1950年)


 塚本支隊は上陸点から密林を切り開きつつ前進、やがて道路に出て、そこを進んでいるうちに自動車を利用する敵兵若干と遭遇、これを殲滅した。海軍の水上偵察機も上空からの偵察・攻撃を実施して陸軍の作戦に協力した。

 東岸への上陸作戦を担当していた堀江支隊だけは困難に遭遇した。東岸付近の海上模様は風速10〜12メートル、波高2〜3メートルという悪天候であったため、まず堀江支隊を乗せていた輸送船から大発をおろす作業中に大発3隻が破損、使用不能となった。それでもなんとか大発に乗り込んで陸地目指して動き出した堀江支隊は、当初の予定では入屋湾(日本軍が便宜的につけた地名です)からの上陸を企図していたのだが、その入屋湾に接近してみると波が荒いので予定を変更、少し南の太郎湾へと進路を変更した。海軍嘱託の岡野格平船長(グアムの地理に詳しかった)から事前に聞いていた情報によれば太郎湾は上陸作業に非常に適しているとのことであり(註24)、だから敵の警戒も厳重だと思って敬遠して入屋湾から上陸するつもりだった。実際には太郎湾には敵はいなかったのだが、ここも波が高かったため、やむなく船ごと海岸に乗り上げるという形で上陸を敢行した。これで1隻が使用不能となっている。大発が何隻も壊れたせいで人員の輸送に手こずった堀江支隊がどうにか戦闘に必要な最小兵力の揚陸を終えたのは午後3時のことであった。

註24 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』253


 ともあれ、グアムにおける戦闘は1日で終結した。死傷者の総数は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。捕虜となった兵士はアメリカ人と原住民あわせて650名であったとされている(註25)。それから、開戦時に拘束されていた在留日本人25もしくは35名を救出している。事前に密偵として送り込んでいたサイパン島民の行方は分からなかった。以後のグアム島は「大宮島」と改称され、3年後の昭和19年7月21日に米軍約5万5000名が上陸してくるまで日本軍の統治下に置かれることとなった。

註25 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』266〜268


   第一次ウェーク攻略

 グアムで戦闘が行われていた頃、ウェーク島に対しては陸攻26機による第3回目の空襲が実施されていた。迎撃に出てきたF4Fは4機である。陸攻隊は約30分に及んだ空戦の末に1機を失った(自爆とされている(註26))。そしてその日(10日)の午後10時25分、ウェーク島攻略部隊及び援護隊がいよいよ島の近くへとやってきた。午後10時55分には「列ヲ解キ適当ノ地点ニ到リ舟艇ヲ卸シ上陸セシメヨ」との命令が発される。午後11時頃の天候及び海上模様は、東の風、風速14メートル、波浪うねり共に大、視界10メートルであった。この日、ウェーク付近にいた米潜水艦「トリトン」が日本艦を発見し、魚雷4本を発射したが命中しなかった。

註26 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』160


 そして、海岸から2〜4キロにまで近づいた特設巡洋艦・哨戒艇から大発を海面におろす作業を開始したのが11日の午前0時である。しかし艦の動揺が激しかったため「金龍丸」「金剛丸」の大発それぞれ1隻が破損、使用不能となり、後者は艇員2名が海に落ちて行方不明となった(註27)。当初の計画では午前2時には上陸することになっていたのだが、作業状況が芳しくないのを考慮したウェーク島攻略部隊指揮官(梶岡少将)は午前1時5分に「1時間延期」を指示し、続いて午前1時30分には「揚陸時刻ヲ昼間ニ変更ス」と通達、天明時から艦砲射撃を実施したうえで上陸を敢行することにした。

註27 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』161


 この日の日の出は午前4時16分であったが、その1時間近く前の午前3時20分には早くも島のF4F4機が飛び立ってきた(1機あたり100ポンド爆弾2個を装備)。日本側は8日以来の陸攻隊の攻撃によって島の米戦闘機隊は片付いたと思っていたので、かなり驚いた(註28)。それどころか、島の米軍は日本軍の空襲に際して大砲を隠す等してまだまだ反撃の力を残していたのである。

註28 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』165


 午前3時25分、軽巡洋艦「夕張」以下の各艦が砲撃開始、午前3時58分には島の燃料タンクに命中弾を食らわせたが、午前4時には島の砲台も猛烈な反撃を開始した。日本艦の砲撃は目標まで近過ぎて(至近距離用のセッティングをしていなかったので)効果が乏しかった(註29)のだが、米軍の砲撃はその威力を存分に発揮し、午前4時3分には駆逐艦「疾風」が爆沈した。これは上空からF4Fに銃撃もしくは爆撃されたという説もあるが、いずれにせよ「疾風」は突然黒煙に包まれ、煙が流れた後には影も形もないというあっけない最期であった。「疾風」に搭載されていた爆雷もしくは魚雷が誘爆した(当時の日本海軍が用いていた爆薬は感度が敏感すぎた)のではないかともされている。生存者は皆無である。

註29 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』163


 午前5時37分、今度は駆逐艦「如月」に爆弾が命中、5分後には沈没した。これも生存者皆無である。以下の引用文は戦史叢書の引く目撃者の証言(註30)。「爆煙全艦を覆い、この煙が薄らいで艦影が認められた時には艦橋がなく、甲板上は平坦で艦首が沈んで航走を続けていたが、その後数分して逆立ちとなり、海中深く突っ込んだ。筆舌に現せない悲壮なものがあった」。この艦も「疾風」と同じく爆雷もしくは魚雷が誘爆したようである。

註30 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』165


 午前6時35分には今度は特設巡洋艦「金剛丸」が機銃掃射を受けてガソリンに引火、火災を起こした。さらに軽巡洋艦「天龍」の水雷砲台が破損、同じく軽巡洋艦「龍田」も無電室に被害を被った。他にも駆逐艦「追風」「弥生」、第33号哨戒艇、それから「金剛丸」搭載の水上機1機が損傷した。ウェーク島攻略部隊指揮官は午前6時55分に至って上陸時刻を昼から夜に延期したが、風浪が激しいこともあり、午前10時には一旦クェゼリン環礁に帰って補給修理をすることにした。この日の日本軍の戦死者は341名、重軽傷者は79名、行方不明は2名を数えていた(註31)。米軍側の損害は、地上施設のそれについてはよくわからないが、「如月」に命中弾を与えたエルロッド大尉の機と「金剛丸」を叩いたフルーラー大尉の機が日本側の対空砲火で破損、使用不能となった。F4Fの残り機数は2機だけとなった。

註31 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』171〜172


 ウェーク島攻略部隊が撤収してから4時間ほど後、第24航空戦隊の陸攻17機がウェーク空襲を行ったが、迎撃にあがってきたF4Fの反撃で2機を失った(註32)。翌12日には今度は飛行艇5機による空襲を行い、1機が未帰還となっている(註33)。航空部隊の8日以来の損害は、陸攻3機と飛行艇1機を喪失、戦死者34名であった(註34)

註32 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』167 しかし柳田邦男著『零戦燃ゆ1』148(文春文庫 1993年)の引く米軍記録には陸攻3機を撃墜したとある。どっちにしてもF4Fは1機も落ちていない。

註33 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』170 この機は鈴木五郎著『グラマン戦闘機 零戦を駆逐せよ』103(光人社NF文庫 2005年)によればF4Fに撃墜されたのである。

註34 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』172


 14日には陸攻30機と飛行艇11機が出撃、F4F1機を地上で破壊した。つまり残り1機である。しかし島の米軍は整備員の必死の努力で壊れた機体の部品を外して修理しつなぎあわせ、その後もなんとか2機のF4Fを稼働させることに成功した。

   第二次ウェーク攻略

 そのころ日本側では、去る8日のハワイ真珠湾への攻撃を果たして帰投中の機動部隊のうち、空母「蒼龍」「飛龍」、重巡洋艦「利根」「筑摩」、駆逐艦「谷風」「浦風」を再度のウェーク攻略に転用することを決定した。さらに、グアム攻略作戦に参加していた重巡洋艦「青葉」「衣笠」「加古」「古鷹」、特設水上機母艦「聖川丸」、特別陸戦隊1個中隊、別の方面で行動していた駆逐艦「朝凪」「夕凪」、特設敷設艦「天洋丸」その他もウェーク再度攻略に参加することになった。

 15日には飛行艇8機がウェークを襲った。島の米軍はこの日のうちに重要書類を焼却した。16日には陸攻32機が爆撃を行い、島のディーゼル油タンクや小銃火薬の貯蔵庫を燃やした(註35)

註35 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』199


 第二次ウェーク島攻略作戦は22〜23日頃に行うことになった。指揮官は今度も梶岡少将である。上陸の際に波が高くて大発をおろせない場合は陸戦隊員を乗せた哨戒艇をそのまま岸辺に乗り上げさせるという荒技な作戦が立てられ、艦艇が銃爆撃を受けても誘爆を起こしたりしないための措置も講じられた。その一方でアメリカ軍も、ウェーク救援のために空母「サラトガ」、巡洋艦「アストリア」「ミネアポリス」「サンフランシスコ」、水上機母艦「タンジール」、油槽船「ニーチス」等からなる第14任務部隊をハワイから出撃させた。指揮官はフレッチャー少将である。

 ところで、ウェーク島の周辺海域では日本側の潜水艦「呂65」「呂66」「呂67」が哨戒にあたっていたが、12日には「呂60」「呂61」「呂62」との交替を命じられた。しかし「呂66」だけ何かの事情でその連絡を受信出来ずにそのまま哨戒行動を続けていたところ、17日に交替にやってきた「呂62」と衝突事故を起こして沈没した。その時「呂62」は「呂66」がまだウェーク付近にいることを知らず(とっくに帰ったと思っていた)、スコールの中に突然現れた「呂66」をかわしきれずに衝突してしまったのであった。「呂66」の生存者は3名のみであったという(註36)

註36 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』197〜199


 その日のウェーク空襲は飛行艇8機で実施された。翌18日は休みとなった(偵察のみ実施)が、ウェーク島では非戦闘員の間に下痢患者が続出し、士気が落ちて酒保や糧食庫を荒らす者があとを絶たなくなった(註37)。19日の空襲は陸攻27機で実施、F4Fが2機あがってきたが双方とも墜落はなかった。20日の空襲は天候不良のため中止となった。

註37 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』199


 そして21日、ウェーク西方300浬の地点にやってきた機動部隊差し回しの空母「飛龍」「蒼龍」から艦上爆撃機29機・艦上攻撃機2機・戦闘機18機の計49機が出撃、ウェークの地上施設を銃爆撃した。この日は島のF4Fは故障していたため、空戦は発生しなかった。陸攻隊も同日33機(一説に27機)でウェーク空襲を行った。ちなみにアメリカ側の第14任務部隊は同日午後8時にはウェーク東方400浬のところに到達しており、空母「レキシントン」を持つ第11任務部隊(指揮官ブラウン中将)や、空母「エンタープライズ」を持つ第8任務部隊(指揮官ハルゼイ中将)もウェークを目指して西進中であった。日本側の第二次ウェーク島攻略部隊は同日早朝にクェゼリン環礁を出撃している。

 翌22日にも空母「飛龍」「蒼龍」から艦上攻撃機33機と戦闘機6機が出撃、今度はF4Fと空戦を交え、艦攻2機を失いつつもようやくF4Fを全滅させた。日本側の戦闘機隊指揮官は事前にもっと多くの戦闘機を出撃させるよう上部に進言して容れられなかったため、艦攻を落とされたのは痛恨であった(註38)。ちなみに、大戦前半の好敵手といわれる零式艦上戦闘機(零戦)とF4Fが初めて交戦したのがこの時であった(註39)。第14任務部隊の方は、ウェークから200浬の地点で空母「サラトガ」搭載の飛行機を出撃させ、さらに水上機母艦「タンジール」をウェークに突入させて島の守備隊と民間人を救出する作戦を立てていたのだが、太平洋艦隊司令長官代理パイ中将の判断でどちらも中止、ウェーク救援を諦めて撤収した。真珠湾で大損害を出した太平洋艦隊にこれ以上の被害を与えたくなかったからである(註40)

註38 柳田邦男著『零戦燃ゆ1』156(文春文庫 1993年)

註39 F4Fは12月8日の真珠湾にもいたのだが、飛行場に並んでいたところを爆撃され、離陸することが出来なかった。

註40 柳田邦男著『零戦燃ゆ1』156(文春文庫 1993年)


 同日午後9時17分、第二次ウェーク島攻略部隊の先頭を進む駆逐艦「望月」がウェーク島を視認した。この日の海上模様は、風速15メートル、波高3メートルであった。午後10時6分には第32号及び33号哨戒艇に「大発卸シ方(大発を海面におろすこと)用意」の命令が発された。今回の上陸任務を帯びる特別陸戦隊は「内田中隊」「高野中隊」「板谷中隊」の3個中隊からなり、内田中隊の主力は第32号哨戒艇に、同中隊の一部は特設巡洋艦「金龍丸」及び駆逐艦「睦月」に、板谷中隊の主力は第33号哨戒艇に、同中隊の一部は「金龍丸」に、高野中隊は駆逐艦「追風」にそれぞれ分乗していた。午後10時30分には軽巡洋艦「天龍」「龍田」が濃密な煙幕をはり、続いて偽舟6個を浮かべて敵の目をくらました。第32号哨戒艇は午前0時頃には大発1隻を海面におろした(57名が乗り組み)が、第33号哨戒艇は手間取った。各哨戒艇の大発は艇と陸地を何往復かして陸戦隊をピストン輸送する計画だったらしいのだが、作戦の遅延を憂慮したウェーク島攻略部隊指揮官は哨戒艇2隻とも擱座揚陸(艇ごと海岸に乗り上げる)させることを決定した。第33号哨戒艇はやや遅れて大発の卸し方に成功する(板谷中隊長を含む70名が乗り組み)のだが、擱座揚陸命令は取り消されなかった。

 という訳でまず第32号哨戒艇が午前0時30分に擱座を敢行、その20分後には第33号哨戒艇も擱座した。前者がおろしていた大発も午前0時40分に、後者の大発は1時間ほど遅れて上陸に成功した。これらのうち、第32号哨戒艇から縄梯子で陸地に降り立った内田中隊主力の前面には敵の3インチ砲が待ち構えていたため、身動きがとれなくなった。内田中隊長は午前4時に突撃を敢行、眉間に貫通銃創を受けて戦死した。第33号哨戒艇から降り立った隊も、同艇の大発で上陸した隊も苦戦に陥り、特に後者では板谷中隊長を含む隊員の大部が負傷した。

 高野中隊を乗せていた駆逐艦「追風」は午前0時35分に大発2隻の卸し方に成功した。そのうち1隻は午前1時20分に上陸を果たしたところで敵の攻撃を受け、中隊長以下の全員が戦死した。もう1隻で上陸した人員は敵の砲台1つを占領して日章旗を掲げたが、すぐに敵の反撃を受けてほぼ全滅した。

 第32号哨戒艇の大発で上陸した隊だけは順調に進撃していたが、時間が経つにつれて敵の応戦が激しくなってきた。ちなみに57名からなるこの隊は「決死隊」と呼称されており(指揮官堀江喜六兵曹長)、敵の後方を攪乱する任務を帯びていた。味方の艦艇は午前2時25分から4分間と、午前5時19分から6分間に渡って艦砲射撃を実施し、さらに午前5時16分には味方空母から発進した艦爆・戦闘機それぞれ6機が爆撃を実施した。そのおかげか決死隊の進路にいた敵部隊は続々と降伏してきた。決死隊は夜明け頃には飛行場北方付近で他の隊と合流することになっていたのだが、それらしい姿が見えない(他の隊はみな海岸付近で苦戦中だった)ためそのまま進撃を続行した(註41)。午前6時には再び味方艦爆・戦闘機それぞれ6機が爆撃を実施した。そして午前6時30分頃、決死隊はジープに乗っていた敵の将校2人を捕虜としたが、これが全島の指揮官カニンガム中佐とその副官であった。午前7時45分頃には銃声が止んだが、午前8時18分には味方艦攻9機と戦闘機3機によるこの日3度目の爆撃が行われた。全島の米軍が降伏したのは午前9時25分である。

註41 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』210によると、決死隊は捕虜を先頭に立てて進撃していたという。


 ……以上の第二次ウェーク島攻略作戦における戦闘で日本軍が出した戦死者は、22日の空戦で撃墜された艦攻搭乗員まで含めれば127名、負傷者は97名を数えていた。米軍の戦死者は、8日以来のトータルで民間人まであわせて122名であった。捕虜となった者は1616名もしくは1585名であった(註42)

註42 『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』215〜216


 ともあれかくしてウェーク島には日章旗が翻り、「大鳥島」と名付けられて日本の敗戦に至るまでその統治を受けることとなった。昭和17年2月24日と18年10月にはそれぞれ米軍の空襲と艦砲射撃を受けたが、グアム島と違って上陸作戦の標的になるようなことは最後までなかった。

                                 おわり


   参考文献

『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史1巻』 サミュエル・モリソン著 中野五郎訳 改造社 1950年
『戦史叢書中部太平洋陸軍作戦1』 防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1967年
『戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦1』 防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1970年
『零戦燃ゆ1』 柳田邦男著 文春文庫 1993年
『グラマン戦闘機 零戦を駆逐せよ』 鈴木五郎著 光人社NF文庫 2005年

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