中東のキリスト教

   東方アッシリア教会

 4世紀頃のローマ帝国には「ローマ」「コンスタンティノポリス」「アンティオキア」「エルサレム」「アレクサンドリア」の5つのキリスト教総主教座が存在した。1番大きいローマ総主教座が現在の「カトリック教会」、2番目のコンスタンティノポリス総主教座を中心としているのが現在の「東方正教会」であり、残りの3つもかなり変則的な形ではあるが健在である。

 ローマ帝国の外にもキリスト教徒は存在し、特にペルシア(イラン)とアルメニアには大きな教会組織が構築されていた。しかし組織が発展していくにつれて教義に関する様々な議論が発生したため、全教会の代表者を集めて諸々の教説の是非を問う「公会議」が繰り返されることになる。まず西暦325年に開催された「ニケーア公会議」にて「アリウス派」が「異端」の宣告を受けて教会組織から追放された。同派はゲルマン系諸部族の間に勢力を保っていたがやがて消滅した。

 続いて431年、「エフェソス公会議」において「ネストリウス派」が異端となった。同派はそれまで根拠地としていたエデッサ(ローマ帝国領)からササン朝ペルシア帝国(註1)領のニシビスへの移転を余儀なくされた。ネストリウス派を奉じていたのは主にアッシリア人だが、この「アッシリア人」は古代アッシリア帝国(註2)の末裔とされており(あくまで自称だが)、21世紀の現在もちゃんと生き続けている。彼等は非常に古い時期からのキリスト教徒であり、1世紀のアッシリア人の王アブガルがイエス・キリストに直接教えを乞おうとして果たせなかったといわれている(かわりに弟子のアッダイが訪れた)。ネストリウス派の教会組織は一般に「東方アッシリア教会」と呼ばれ、隊商ルートを利用して中央アジアやさらには中国へと修道士を派遣した。中国史に登場する「景教」がこれである。景教の組織は中国においては早い時期に衰えたのだが、モンゴルや中央アジアでは部族をあげて帰依したケレイト族のような熱心な信徒集団もいた。

註1 西暦226年〜651年にかけて現在のイラン、イラクを中心として栄えた王朝。

註2 紀元前8〜7世紀にかけて現イラクからシリア、パレスチナ、エジプトにかけての地域を支配した国。


 7世紀、新たに興った「イスラム教」が中東全域を席巻したが、東方アッシリア教会はイスラム帝国からそこそこの待遇を与えられた。アッシリア人の学者はギリシア語の古典をアラビア語に翻訳し、これがイスラム哲学・科学の発展に大きく寄与したという。ところが13世紀になって勃興したモンゴル帝国軍が中東へと攻め込んでくると、これを恐れたアッシリア人は北方のアゼルバイジャン山脈に逃れてしまった(ただし、モンゴル帝国内部では先に述べたケレイト族が重用されており、その関係で景教に帰依する王族や貴族も多かった)。さらに16世紀になるとヨーロッパからカトリックの宣教師が訪れ、アッシリア人の大部分はそちらに改宗した。モンゴル・中央アジアにいた景教徒はやがてイスラム教かチベット仏教に取り込まれていった。

 20世紀初頭、第一次世界大戦において、東方アッシリア教徒はイギリス軍に味方してオスマン・トルコ帝国(註3)と戦うことになる。大戦終結後しばらくの間はイギリスの保護のもとに置かれたが、1933年になってイギリスが引き上げるとたちまちイスラム教徒の攻撃を受け、その多くが虐殺された。

註3 1299年〜1922年にかけてアジア、アフリカ、ヨーロッパの3大陸にまたがる広大な地域を支配したイスラムの大帝国。


 東方アッシリア教徒の多くはヨーロッパへと亡命した。教会の総主教座はアメリカ合衆国に移転し、現在もそちらに所在している。何千人かは旧ソ連のアゼルバイジャン共和国に、それより少ない数がイラン・イラク・レバノン・シリアの各地に点在して現在に至っている。その総数は約9万人という(カトリックに改宗した人々の子孫は数百万人いるらしい)。

   オリエンタル・オーソドックス

 451年、「カルケドン公会議」にて「カルケドン信条」が制定された。これはローマとコンスタンティノポリスの2つの総主教管区の主教たちからは完全に支持されたが、中東の主教たちは激しく反発し、既存の教会組織から分離して「オリエンタル・オーソドックス(古東方正教会)」を創設した。いや、中東の主教たちからみればローマとコンスタンティノポリスの方が勝手に分離していったということになる。

 オリエンタル・オーソドックスは大きく分けてコプト、シリア、アルメニア、エチオピア、エリトリア、インドの6つの組織を持っている。これらの組織は基本的に同じ教義を奉じているが、政治的にはそれぞれ完全に独立しており、シリアはローマ帝国の5大総主教のひとつであるアンティオキア総主教、コプトは同じくアレクサンドリア総主教の正統な後継者を自認している。(エチオピア、インド、エリトリアは中東ではないがせっかくなので説明する)

 6教会の中で最大の規模を持つのは「エチオピア正教会」で、総勢3600万の信徒を有している。現在のサハラ以南のアフリカ大陸にいるキリスト教徒は概ね近代以降にヨーロッパ人の布教でキリスト教徒となった人々だが、エチオピアのみは古代から連綿と続くキリスト教が息づいている。4世紀中頃にエチオピアの「アクスム王国」を訪れたフルメンティウスというシリア人が宮廷で気に入られ、後にアレクサンドリア総主教アタナシオスからアクスム王国初代主教に叙任されたのがこの国のキリスト教化の始まりである。その関係でエチオピアの教会組織の首長「アブナ(府主教)」はエチオピア人の自前ではなくアレクサンドリア総主教に叙任してもらうのが慣習となっていたが、1959年に至ってようやく対等の教会となった。思想的には独自色が乏しいが、教会建築や音楽、舞踏、工芸などに関しては最も個性的なキリスト教会であるという。1993年にエチオピアからエリトリア国が独立した際に新たに「エリトリア正教会」が設立されている。

 エチオピア正教会に次ぐ規模を持つのがエジプトの「コプト・オーソドックス」である。現在の信徒はエジプトだけで400〜500万人とされている。一般のエジプト人(イスラム教徒)はアラブ民族(註4)に含まれるが、コプトの信徒はアラブが入ってくる以前の古代エジプト人の末裔を称している。また、生まれたばかりのイエスとその家族がユダヤの王ヘロデの迫害を避けてエジプトに避難したという伝説(註5)がコプト・オーソドックスのひとつのアイデンティティとなっている。

註4 アラブ人は本来はアラビア半島とその周辺のみに住む人々であったが7世紀にイスラム教の勃興とともに中東全域に拡大し土着の人々と融合していった。現在ではアラビア語を母語としアラブの歴史や文化に帰属意識を持つ人々のことを「アラブ民族」と呼んでいる。

註5 イエス・キリストが生まれた頃、ベツヘレムの地にユダヤの王が生まれるという噂を聞いたヘロデ王がこれを殺そうとしたため、イエスとその一家(聖家族)がエジプトに避難したという伝説。ヘロデについては当サイトの「ヘロデ王の物語」を参考のこと。


 ちなみに「コプト」とはエジプトの別称である。エジプトでは本来いわゆる「古代エジプト語」が話されており、これの最終形態が「コプト語」である。紀元前332年にマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトを征服するとコプト語はマケドニア軍が持ち込んだギリシア文字を改良した「コプト文字」で表記されるようになり、後にキリスト教が伝わった時(その時のエジプトはローマ帝国領)にはコプト文字で書いた聖書で布教がなされた。7世紀にイスラム帝国がエジプトを征服する(註6)とコプトの信徒といえどもアラビア語を話すようになってしまうのだが、教会内部の典礼用語は10世紀頃までコプト語が使われ続けた。エジプトにおいてコプトの信徒よりもイスラム教徒の方が多くなるのは9世紀のことで、これは後者の方が税金が安かったからと考えられている。

註6 コプト・オーソドックスはイスラム軍を積極的に歓迎した。コプトはそれまでカルケドン信条を奉じる東ローマ皇帝の支配下にあって抑圧を受けていたため、そこに攻め込んで来たイスラム軍とうまく交渉して独自の地位を保つことに成功したのである。 イスラム教は基本的に他宗に寛容で、特にキリスト教徒(東方アッシリア教会もオリエンタル・オーソドックスもそれ以外も)とユダヤ教徒は「啓典の民」と呼ばれて優遇された。(それ以外の宗派は原則として改宗を迫られることになっていた。あくまで原則だが)


 イスラム帝国の統治下において、コプトはたまに発作的な弾圧に曝されることはあったが概ね平穏に時を過ごした。特に10〜12世紀にエジプトを支配したイスラム王朝「ファーティマ朝」はコプトに好意的であった。ファーティマ朝の支配者層はシーア派を奉じていたが、エジプトの一般的イスラム教徒の間ではスンナ派の方が優勢だったため、スンナを抑えるためにコプトと結んだという訳である。しかし次に成立した「アイユーブ朝(スンナ派)」は西欧のカトリック勢力が起こした「十字軍」との戦いを繰り広げたことから、そのカトリックの親戚にあたるコプトに好意を持たなかった。しかも十字軍の方はコプトを異端とみなしたのだからどうしようもない話である。次に成立した「マムルーク朝(スンナ派)」はかなり頻繁にコプトを弾圧したが、それも14世紀の末には終息した。もう弾圧する必要がない程に衰えてしまったからである。

 コプト・オーソドックスに次ぐ信徒数を持つのが「アルメニア使徒教会」で、旧ソ連のアルメニア共和国(約380万人)を除いてもトルコ、イラン、イラク、シリア、レバノンに現在約50万人の信者が存在する。古代アルメニア王国がキリスト教化したのは西暦302年頃のこと(註7)で、ローマ帝国でキリスト教が公認された313年よりも早いことが強い誇りをもって回想されており、『旧約聖書』に語られる「ノアの方舟」が漂着した「アララト山」は古代アルメニアの中心地であった(現在のアララト山はトルコ共和国領)。ちなみに、「カルケドン公会議」が開催された時にはアルメニア人は隣国のササン朝ペルシア帝国との戦いの真っ最中であり、公会議に代表を送ることが出来なかった。

註7 詳しくは当サイト内の「古代のアルメニア」を参照のこと。


 アルメニアは15世紀にはオスマン帝国とサファヴィー朝(註8)によって分割されてしまい、教会の総主教座もオスマン帝国領のキリキア総主教とサファヴィー領のエチミアジン総主教に分割された。後者は後にロシア帝国領に組み込まれるが、サファヴィー領時代に多数の信徒がサファヴィー朝首都イスファハンに移住させられるという出来事があった。商業や芸術の才能に秀でるアルメニア人は首都の振興に役立つと考えられたからである(彼らの子孫は今でもイスファハン市に住んでいる)。

註8 15世紀末〜18世紀にかけて現在のイランとその周辺を中心として栄えた国。当サイトの「サファヴィー朝」を参照のこと。


 次が「シリア・オーソドックス」である。この教会が典礼に用いる「シリア語」はイエスとその直弟子によって話されていた「アラム語」の方言のひとつで(註9)、数あるキリスト教会の中で最も古い形式を保持しているといわれている。既に述べた通りこの教会の総主教は古代ローマの5大総主教座のひとつアンティオキア総主教の後継者なのだが、管区の信徒の多くはまず431年のエフェソス公会議の際にネストリウス派(東方アッシリア教会)についてしまい、カルケドン公会議の後はコンスタンティノポリス総主教を奉じる東ローマ皇帝の弾圧を受けて非常に弱体化した。

註9 アラム語とは紀元前の中東で広く話されていた国際語である(現在ではこの地域の言語は圧倒的にアラビア語優勢)。


 最後にインドのオリエンタル・オーソドックスである。インドにキリスト教を伝えたのは伝説によれば十二使徒(イエス・キリストの高弟)のひとり聖トマスとされ、4世紀には東方アッシリア教会の勢いが伸びた。ところが16世紀に入ってヨーロッパからカトリックの宣教師が到来すると、インドのキリスト教徒はカトリックに改宗するかどうかで激論になり、カトリックを受け入れるグループと、1653年に主教を派遣してきたシリア・オーソドックスに帰依するグループに分裂した(インドのキリスト教徒は最初からシリア・オーソドックスだったとする資料もある)。後者はさらに19世紀、シリアの総主教に忠誠を誓うグループと、独自にインド人の総主教を戴くグループに分裂した。シリア・オーソドックスの現在の信徒は250〜300万を数えるが、その多くはインドに住んでいる。

   近代以降

 中東にも少数ながら「カルケドン信条」の支持者は存在した。アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムにはカルケドン公会議以降もカルケドン派の総主教座と教会組織が存続し、ローマとコンスタンティノポリスの後押しを受けた。

 そのうちに、今度はローマとコンスタンティノポリスの仲が悪くなってきた。前者が「ローマ・カトリック教会」、後者が「東方正教会」として完全に決別するのは1054年のことである。従って中東のカルケドン派も、カトリック派の「東方典礼カトリック教会」と、東方正教会に属する「ビザンティン典礼オーソドックス教会」の2派に別れることになる。

 次の、16世紀以降のカトリック世界で起こる「宗教改革」は中東にはほとんど無関係であった。19世紀初頭になってやっとプロテスタント諸派が中東に進出してくるが、教育や医療のような福祉事業面はともかくとして、宣教という点ではあまり上手く行かなかった。(現在の中東にいるプロテスタントは約50万人)。

 しかし19世紀から20世紀にかけて、中東のキリスト教諸派は西欧の帝国主義諸国の「被護民」として扱われたため、何か事が起こればすぐにイスラム教徒の攻撃を受けた。東方アッシリア教会の運命については既に述べたが、アルメニア使徒教会やシリア・オーソドックスの信徒も第一次世界大戦時にオスマン帝国軍による大虐殺に曝された(註10)

註10 アルメニア人虐殺については当サイト内の「エンヴェル・パシャとケマル・パシャ」を参照のこと。シリア・オーソドックスの信徒は25万人が殺され、信徒の多くはレバノン、パレスチナ、イラク、そしてアメリカへと脱出した。


 エジプトのコプト・オーソドックスの道のりはそこまで過酷なものではなかったが、やはりイスラム教徒との対立は避けられなかった。18世紀の末にフランスの将軍ナポレオン・ボナパルトがエジプトに遠征してきた時、イスラム教徒が激しく抵抗したのに対してコプトはフランス軍を歓迎し、イスラム教徒を手ひどく扱うこともあった。時代が進んで19世紀の末にイギリスがエジプトを植民地化すると、コプトはイスラム教徒と共に独立運動を戦い、独立後の政府にも常にコプトが参閣しているのだが、両者のわだかまりは解決しておらず、イスラム原理主義者によるコプトへのテロといった事件も起こっている。

   東方正教会とカトリック

 中東には東方正教会の権威を受け入れた「ビザンティン典礼オーソドックス」という人々が存在することは既に述べた通りである。彼等は今でもアレクサンドリア、エルサレム、アンティオキアの3つの総主教管区を維持し、全部で52万ほどの信徒を有している(註11)。ということは、つまり例えばアンティオキアの総主教はビザンティン典礼オーソドックスとシリア・オーソドックスが並立している訳であり、それぞれが古代からの正統を主張して現在に至っているということである。

註11 それとは別枠で、旧ソ連のグルジア人もまた古くからの東方正教徒である。グルジア人の教会は一時期は隣国の(オリエンタル・オーソドックスの)アルメニア教会に同調していたが、その後東方正教会に帰属したものである。そのせいか否か、グルジアとアルメニアは現在でも仲が悪い。


 アレクサンドリア総主教管区の信徒の大半はギリシア人である。かつてエジプトには大勢のギリシア人が住んでいたのだが、20世紀後半には離散してしまい、現在では数千人にまで落ち込んでいる。が、管轄の上ではアフリカ各地の信徒をまとめているため、それらを全部あわせると10万人くらいにはなる。エルサレム総主教管区に属する信徒は主にアラブ人(註12)で約12万、礼拝もアラビア語で行うが、教会組織の枢要はギリシア人によって占められている。この2つに対して、約40万の信徒を持つアンティオキア総主教管区は明確なアラブ化を示しており、総主教を含めた聖職者は全てアラブ人である。

註12 キリスト教を信じるアラブ人というのはちょっと驚きだが、アラブというのはあくまで「アラビア語を母語としアラブの歴史や文化に帰属意識を持つ人々」であって、必ずしもイスラム教徒とは限らないのである。ただ、エジプトのコプトは現在ではアラビア語を話しているが、自分たちはアラブではないと思っているようである。


 それから、コンスタンティノポリス総主教なのだが……、この教会は長らく東ローマ帝国の精神的主柱であったのだが、東ローマは1453年にオスマン帝国によって滅ぼされてしまった(コンスタンティノポリスはオスマン帝国の首都となった)。総主教はその後も存続を認められるのだが、19世紀前半になるとオスマン帝国からギリシアが独立し、そのギリシア国に住む東方正教会の信徒はコンスタンティノポリスとは別の総主教管区を持つことになった。そんな訳で、現在のコンスタンティノポリス総主教の管轄はトルコ、エーゲ海の島、アトス山(註13)に限られている(註14)。このうちトルコに住んでいた信徒は第一次世界大戦の際にオスマン帝国とギリシアが敵対したために前者の迫害を受け、さらに大戦後のギリシア・トルコ戦争の際に大半が追放されてしまった(註15)。コンスタンティノポリス(トルコ名はイスタンブール)に住む信徒は在住を認められているものの、その数はごく少数に落ち込んでいる。

註13 「アトス山」は現在のギリシア共和国の北部に位置する東方正教会の聖山(聖母マリアが訪れて奇跡を行ったという伝説がある)で、ギリシア政府の権限が及ばない自治領という扱いを受けている。

註14 それ以外の国にも特に望んでコンスタンティノポリスの管轄下に入っている教会が存在する。それから、東方正教会の総主教座は最初はコンスタンティノポリス、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアの4つだけだったのだが、時代が進むにつれてギリシアのように独自の総主教座を持つ地域が増え、現在ではロシア、セルビア、ブルガリア、グルジア等に総主教がいる。それらの中で最高の権威を持つのはコンスタンティノポリス総主教であり、彼は「世界総主教」とも呼ばれるが、他の総主教に対して命令をくだすような権限はない。

註15 このあたりの事情については当サイト内の「ギリシア近現代史」を参照のこと。


 最後に、カトリック派の「東方典礼カトリック教会」の指導者たちはバチカンの東方教会聖省を通じてカトリック教会内の高位の枢機卿という地位を持っている。信徒は全部で約125万、ローマ式「西方ラテン典礼」をそのまま奉じるグループもあれば、独自の典礼を保持した上でローマ教皇に従うグループも存在する。このうち、レバノンの山岳地帯に居住する「マロン派」はもともとシリア・オーソドックスの一員であったが11世紀にレバノンに攻めてきた十字軍の影響でカトリックに改宗したものである。その後はオスマン帝国の支配下に置かれるが、第一次世界大戦の後はフランスの統治下において一応の自治を獲得することに成功した。マロン派の人種的起源は古代の海洋民族「フェニキア人(註16)」であると自称されている(註17)。中東のカトリックには他にも、東方アッシリア教会から分裂・改宗してイラクのバグダッドに大主教座を創設した「カルデア・カトリック教会」、オリエンタル・オーソドックスの各教会から分裂・改宗して各々のカトリック総主教座を創設した人々が存在する。

註16 紀元前15世紀〜8世紀にかけて、現在のレバノンを根拠地として地中海全域の海上交易に活躍した人々。

註17 日産自動車のカルロス・ゴーンの家はレバノンからブラジルに移住したマロン派だったそうです。
                                                                                                おわり


   参考文献

『ギリシャ正教』 高橋保行著 講談社学術文庫 1980年
『悲劇のアルメニア』 藤野幸雄著 新潮選書 1991年
『中東キリスト教の歴史』 中東教会協議会編 村山盛忠・小田原緑訳 日本基督教団出版局 1993年
『砂の楽園 コプトの僧院』 三宅理一・平剛著 TOTO出版 1996年
『エチオピアを知るための50章』 岡倉登志編著 明石書店 2007年
http://www.sojp.net/index.html『シリア正教 キリスト教の隠れた真珠』
http://www.h2.dion.ne.jp/~coptic/index.htm『Coptic Circle』
http://plaza15.mbn.or.jp/~fnagaya/index.html『東方正教会』
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai_b04/tzb0406.html『インド・ケーララ州のキリスト教』


                                                                                   その他


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