モロッコの歴史 前編その1

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 現在のモロッコ王国の人種構成は「アラブ人」と「ベルベル人」が2対1ぐらいとされている。どちらもコーカソイドであるが、このうちのアラブ人は7世紀以降の「イスラム教」の流入とともに東からやってきた人々、ベルベル人はそれ以前からの住民である。もちろんここでいう「アラブ人」には「アラブ化したベルベル人」も相当数含まれると考えられている(註1)。この2つの民族以外の人々がモロッコに入ってきたこともあり、アラブ人はモロッコの歴史の中ではどちらかというと新参組なので、本稿はもっと歴史を遡った時点から記述を開始する。

註1 ベルベルでもアラブと混血を繰り返して3代たてばアラブの一員として認められるという慣習があった。


 ベルベル人というのはどこから現れていつごろモロッコ地域に住み着いたのかはっきりしない。西アジアから地中海沿岸部もしくは東アフリカを経由して新石器時代には北西アフリカ(モロッコ・アルジェリア・チュニジアのあたり)全域に住み着いていたというのが最近の説であるが確定はしていない。今現在のベルベル人は容貌にばらつきがあり、後から入り込んできた様々な種族と混血を繰り返してきたと考えられている。彼ら自身は自分たちのことを「イマジゲン(高貴の出)」と呼んでおり、「ベルベル」とは後にローマ人に「バルバロス(蛮人)」と呼ばれたことに由来するという。本稿では日本での慣例に従って「ベルベル人」と表記する。

 紀元前13世紀頃、東の海から「フェニキア人」が現れた。この種族は西アジアのレバノンを本拠地としており、船を巧みに操って地中海全域に商業網を構築していた。とはいえ彼らはモロッコ地域においては地中海・大西洋の沿岸部に交易拠点……たとえば大西洋沿岸のタンジール……を築くのみで内陸にはあまり入らず、先住のベルベル人とどの程度の接触を持っていたかは史料が乏しくてはっきりしない。しかしやがて、フェニキア本国よりもその植民地のひとつ「カルタゴ(註2)」の勢いが盛んになり、モロッコ地域の少なくとも沿岸部はその支配下に置かれるようになる。

註2 現在のチュニジアを本拠地として西地中海一帯を支配した国。


 カルタゴはベルベル人に対して強圧的で、その一部を奴隷として用いたりした。その一方で当時の先進国であったカルタゴの支配を受けたことでベルベル人の間にも階層分化が進み国家の原型のようなものが出来てくる。カルタゴはやがてイタリア半島に登場した「ローマ共和国」と対立するようになり、紀元前264〜241年の「第一次ポエニ戦争」、同219〜201年の「第二次ポエニ戦争」を引き起こした。どちらもカルタゴの敗北である。ベルベル人はローマ側に加担し、第二次戦争の講和条約でカルタゴからの独立を承認された。こうして誕生したベルベル国家が「ヌミディア王国」である。この国の領域は現在のアルジェリアのあたりであったが、その西のモロッコ地域にも同時期に「マウレタニア王国」という国が自然発生した。これもベルベルの国である。

   マウレタニア王国   目次に戻る

 カルタゴは紀元前149〜146年の「第三次ポエニ戦争」でローマに滅ぼされた。続いて紀元前118年にヌミディア王ミチプサが亡くなり、その実子アデルバレと養子ユグルタ(ミチプサの甥)の間に跡目争いが発生した。不利に陥ったアデルバレはローマに助けを求め、ユグルタはマウレタニアと同盟した(マウレタニア王ボレックスがユグルタの娘と結婚していた)。こうして始るのが「ユグルタ戦争」である。ユグルタ・マウレタニア連合軍は正面切っての会戦ではアデルバレ・ローマ連合軍に勝てなかったが、ゲリラ戦を展開して戦争を長引かせた。

 ところが紀元前105年、マウレタニア軍がローマ側に寝返り、ユグルタを捕縛してローマ軍に突き出した。この功績でマウレタニアは領土を拡大、アデルバレはめでたくヌミディア王となれたが領土を縮小された。ローマでは紀元前64年からカエサル・ポンペイウス・クラッススという3人の実力者が政治を取り仕切る「三頭政治」が始ったが、クラッススは10年後に亡くなり、あとに残ったカエサルとポンペイウスは紀元前49年をもって全面戦争へと突入した。マウレタニアは前者に、ヌミディアは後者に加担した。戦いはカエサルの勝利に終わり、ヌミディア王国は滅亡してローマの属州(註3)とされてしまった(一部はマウレタニア領となった)。

註3 ローマが辺境に置いた直轄地。


 前39年、マウレタニア王ボレックス2世が自分の王国をローマに遺贈すると言い残して死亡した。しかし、その時のローマの実力者オクタウィアヌス(カエサルの養子。初代ローマ皇帝)はマウレタニアを属州とはせずに保護国とし、先に滅んだヌミディアの王族ユバ2世をその国王とした。ユバ2世はヌミディアが潰れた時にローマに連れて行かれ、オクタウィアヌスに庇護されて豊かな学芸を身につけていた。歴史や絵画や言語に関するたくさんの本を書いたというが、残念ながら1冊も現存しておらず、他人が書いた本の中に断片的に引用されている文章が今でも読めるという程度である。奥さんはエジプトの女王クレオパトラの娘である。

 紀元後44年、第4代のローマ皇帝クラウディウスがマウレタニアを東西に分割し、どちらもローマ属州とした。西が「マウレタニア・ティンギタナ」、東が「マウレタニア・カエサリエンシス」であり、前者が現在のモロッコの北部、後者がアルジェリアの北西部である。ただしどちらの州もローマの実効支配が及んだのは海岸に近い地域だけであって、内陸部ではベルベル人の諸部族が各個に独立を保っていたのだが、彼らはローマにうまいこと操られて部族間の抗争を繰り返した。

 ローマ直接支配地域のタンジールやヴォルビリスには立派な都市が建設され、ローマ文化とベルベル文化が融合した「ベルベロ・ロマン文化」が栄えた。大きな耕地は国家が所有し、中規模の耕地はローマ軍の兵士が所有して、それらを小作人のベルベル人が耕した。産品は小麦や果実、ナツメヤシといったところである。宗教では「キリスト教」や「ユダヤ教(註4)」が伝来した。キリスト教の主流派は「アタナシウス派(カトリック)」であったが、異端の「ドナトゥス派」も流れ込んできた。

註4 ユダヤ人は現在のモロッコにも住んでいる。ローマ時代からの住民もいれば、15世紀以降にスペインで迫害されて移り住んできた者もいる。


   ヴァンダル族の支配   目次に戻る

 375年、「ゲルマン民族の大移動」が始まった。それは最初は東ヨーロッパ方面の話であったのだが、その一派「ヴァンダル族」は5世紀に入る頃には現在のドイツ・フランスを劫略しつつスペインにまで押し寄せてきた。そしてこれが429年、族長ガイセリックに率いられてジブラルタル海峡を渡り、現モロッコのタンジール付近に上陸したのである。その総勢は5万とも8万ともいう。

 ベルベル人はこれを歓迎した。今までローマの覇権の下で概ね大人しくしていたとはいえ、やはり不満が溜まっていたのである。宗教的にも、それまで主流派のアタナシウス派に弾圧されていたドナトゥス派がヴァンダル族を歓迎した。ヴァンダル族も異端キリスト教の「アリウス派」という宗派を奉じていたため、ドナトゥス派からみれば「異端仲間」として信頼出来ると思ったのであった。

 ヴァンダル軍は現モロッコ地域からさらに現アルジェリア地域へと進撃した。この時代のアタナシウス派最大の神学者アウグスティヌスが住んでいたヒッポの町を攻略したのはこの時である。430年にはローマと条約を結んで北西アフリカの3つの属州の支配権を賦与されたが、439年には条約を破ってローマの北アフリカ支配の拠点カルタゴを攻撃、これを占領した。その頃になるとベルベル人もドナトゥス派もヴァンダル族に利用されているだけなのに気付いて離反を始めるが、ヴァンダル軍はこれを弾圧するとともに、さらに地中海の島々へと遠征し、455年にはローマ市を攻撃して大略奪を行った。

 この「ヴァンダル王国」の北アフリカ支配は以後約100年に渡って続く。もっとも、ヴァンダル族は数の上ではさほどではなかったため彼らが直接支配する地域は王国首都カルタゴのある現チュニジアやその隣のアルジェリアの地中海沿岸部といったところに限られ、内陸部や、カルタゴから遠いモロッコのあたりはベルベル人の王国(9つあった)の自治にまかされた。

 ところでローマ帝国は去る395年に東西に分裂しており、そのうちの西の帝国は476年にゲルマン系の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた。帝国の跡地には、北アフリカのヴァンダル王国、イベリア半島(現スペイン・ポルトガル)の「西ゴート王国」、ガリア(現フランス)の「フランク王国」といったゲルマン系の諸国が乱立した。しかし東の帝国はその後も健在で、527年に即位したユスティニアヌス帝の代に至って旧西ローマ帝国領への大攻勢を開始する。534年、将軍ベリサリウスに率いられた東ローマ軍3万5000名がカルタゴ付近に上陸、ヴァンダル軍を撃破してこれを滅ぼしたのであった。

   イスラムの侵入   目次に戻る

 そのときベルベル人は要領よくヴァンダルから離れて東ローマ軍に与していたが、それをあまり信用しなかった東ローマ側に族長たちを謀殺されたことから反旗を翻し、15年間戦った後に敗北した。

 7世紀の前半、はるか東のアラビア半島に住むアラブ人の間にて「イスラム教」が成立し、これが同世紀半ばには北アフリカの征服へと乗り出してきた。ベルベル人はその時々によってイスラム軍に味方したり東ローマ軍に寝返ったり傍観を決め込んだりした。ただ、北アフリカにおけるイスラム軍の進撃は647年にチュニジアに到達したあたりで息が切れ、656年には本国で内乱が起こったりしたことから一時的に停滞状態となった。

 この「内乱」というのは、イスラムの最高権威者「カリフ」の4代目(註5)を誰にするかの争いである。少し詳しく書くと、656年6月に3代目のカリフであったウスマーンが死んだ際、次のカリフとして予言者ムハンマド(マホメット)の従兄弟にして娘婿のアリーが選出されたのだが、古参イスラム教徒のタルハという人物や、ムハンマドの未亡人アーイシャが反旗を翻したのである。イスラム史上にいう「第一次内乱」である。

註5 予言者ムハンマド(マホメット)は後継者を指名せずに亡くなった(男子もいなかった)ため、「神の使徒(ムハンマド)の代理人」を選挙で選ぶことになった。これが「カリフ」である。


 少し話がそれるが、モロッコの歴史にも関係があるのでアリーの話を続ける。アリーは「ラクダの戦い」でタルハ・アーイシャ軍を撃破したが、そのあと今度はシリア総督をつとめるウマイヤ家のムアーウィヤが戦いを挑んできた。そして657年に両者がまみえた「スィッフィーンの戦い」は一進一退となったために話し合いで決着をつけることになるのだが、アリー軍の一部はあくまで戦いを続けるべきことを主張してアリーと袂を分かった。これがイスラム史上初の分派とされる「ハワーリジュ派」である。ハワーリジュとは「脱出者」を意味する。

 アリーとムアーウィヤの話し合いは658年と59年の2度に渡って行われ、結局まとまらなかった。アリーはその間にハワーリジュ派を攻撃してその大部分を倒した。しかしアリーは661年にハワーリジュ派の生き残りによって暗殺され、最終的に生き残ったムアーウィヤの天下となった。「第一次内乱」の終結である。それまでカリフは合議で選んでいたのだが、ムアーウィヤ以降は彼の家(ウマイヤ家)が世襲することになった。こうして成立するのが「ウマイヤ朝」である。この動きをよしとせず、カリフはアリーの子孫がつとめるべきと唱えたのが「シーア派」、別にそうでなくてもいい(ウマイヤ家でもいい)と唱えたのが「スンナ派」である。ハワーリジュ派はどちらにも与せず、独自行動を続けることになった。シーア派は680年にムアーウィヤが死んだ際に反乱を起こそうとしたが準備段階で潰された。

 683年、今度はイブン・アッズバイルという人物がウマイヤ朝に対して反乱を起こした。これが「第二次内乱」である。イブン・アッズバイルは初代カリフであったアブー・バクルの孫であり、たちまちのうちにイラク・シリア・エジプトを制圧した。85年にはシーア派も挙兵したが、これはイブン・アッズバイル軍によって鎮圧された。しかしその戦いで消耗してしまったイブン・アッズバイル軍は692年にはウマイヤ軍によって潰され、ここに至ってようやくウマイヤ朝の天下が定まったのであった。

 さて、ウマイヤ朝による北アフリカ征服事業は第二次内乱が始る前から開始されていた。ウクバ・ビン・ナーフィーの率いるウマイヤ軍が大西洋に到達したのは682年である。この時ウクバは大西洋に馬を乗り入れて「アッラーよ、私がこれより先には進もうとしても進めなかったことを御証言くださりますよう!」と叫んだといわれているが、この遠征は偵察目的であったらしく、長居はせずにさっさと撤収、その帰途に東ローマ・ベルベル連合軍に敗れてウクバも戦死するという結果に終わった。しかもそのすぐ後には本国で第二次内乱が起こるのだが、北アフリカのウマイヤ軍はそちらには構わずに態勢を立て直し、688年に再び西方への大攻勢に出た。これでまずベルベル軍を破るが東ローマ軍には負ける。しかし692年には北西アフリカにおける東ローマ軍の拠点カルタゴを占領し、続いて697〜8年にカーヒナという女王に率いられて戦いを挑んできたベルベル軍を大破、さらに710年頃までかけて北西アフリカの地中海沿岸全域を制圧した。ベルベル人は次第にイスラム教を受け入れていき、アラブ人も北アフリカ全域に住み着いていった。

 ウマイヤ軍は711年にはジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入、そこにあった西ゴート王国を征服しているが、その時の軍勢の主力はベルベル人である。ちなみに「ジブラルタル」とは最初に海峡を渡ったウマイヤ軍の司令官タリクが上陸した地点「ジベル・アル・タリク(タリクの峯)」に由来する。さらにちなみに、アラブ人が住み着いた地域のうちエジプト以東を「マシュリク」、リビア以西を「マグリブ」と呼ぶ。

 ウマイヤ朝はイベリア半島の攻略と並行して中央アジアやインド方面への遠征も繰り広げた。現在のウズベキスタン共和国のサマルカンドに到達したのが710年、その2年後にはインダス河口のダイブルにあった仏教寺院を破壊した。と、ここまでは快調だったが、戦争をやりすぎた副作用でカリフの政治は次第に専制的になっていき、征服地の住民に重税を課したりしたことから民衆の不満が高まってきた。しかもこの王朝はアラブ人を偏重して他民族に冷たいという問題があった。イベリア半島やマグリブでは不当に冷遇されたベルベル人とハワーリジュ派が結びつき、ウマイヤ朝への反乱を繰り返した。イベリア半島ではこの反乱は鎮圧されたが、マグリブではハワーリジュ派の勢力がすっかり定着した(註6)

註6 アラブ人は概ねスンナ派であるのだが、ベルベル人としては何から何までアラブ人と一緒なのは面白くない、という対抗意識から少数派の教派(ハワーリジュ派)を受け入れたということらしい。こういう現象は他にもあり、例えばイラン人も似たような理由でシーア派を信奉している。

 
 747年、予言者ムハンマドの叔父の子孫であるアッバース家がイランにて反乱を起こし、3年後にはウマイヤ朝を滅ぼした。「アッバース朝」の始まりである。この王朝は創業に際してはシーア派と結んでいたのだが、天下をとるとたちまち掌を返してシーア派を弾圧した。とはいっても、ウマイヤ朝がアラブ人のみを偏重したことから後世「アラブ帝国」とも呼ばれるのに対し、アッバース朝はスンナ派でありさえすれば何民族であっても特に差別しなかったことから「イスラム帝国」と呼ばれている。この王朝は建国早々の751年に中央アジアで起こった「タラス河畔の戦い」で中国の唐の軍勢を破り、幸先の良いスタートをきった。

 ところでアッバース朝はウマイヤの一族を殺戮したのだが、奇跡的にその難を逃れたアブド・アッラフマーンという若者が母親の実家のあるマグリブに逃れてきた。このあたりにはまだアッバース朝の権威が確立されていなかったのである。アブド・アッラフマーンは755年イベリア半島(その頃は内紛で混乱していた)に上陸して挙兵、現地を制圧して独立政権「後ウマイヤ朝」を建国した。ちなみにアブド・アッラフマーンはスンナ派であったため、在イベリアのベルベル人の間に信仰されていたハワーリジュ派は禁止されてしまった。それに対して、イベリア半島の以前からの住民(旧ウマイヤ朝に征服される以前からの住民)が信仰していたキリスト教やユダヤ教(註7)は、抑圧はされたが禁止はされなかった。

註7 イベリア半島のユダヤ人は紀元1世紀頃から存在している。キリスト教が広まったのも同時期。

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