モロッコの歴史 前編その2

   イドリース朝   目次に戻る

 789年、モロッコ地域でも独自の王朝「イドリース朝」が建国された。これはモロッコ史上初のイスラム系独立国家であり、予言者ムハンマドの娘婿アリーの4代目の子孫イドリース・ブン・アブド・アッラーフが興したものである。彼は最初はアラビア半島のメディナでアッバース朝に反乱を起こして敗れ、各地を転々とした後、ラシードという解放奴隷を連れてモロッコのベルベル人のもとに逃れてきたのであった。つまり彼は、本人がどの程度イスラム神学を理解していたのかはともかく、少なくとも血統と経歴からすればシーア派ということになる。しかしモロッコ地域のベルベル人は既に述べた通りハワーリジュ派を奉じていたのだが、何故かイドリースを担いでアッバース朝からの独立を宣言してしまったのであった。この国の勢力圏は最初はモロッコ北端のセウタ付近に限られていたが、やがて現アルジェリア地域の西部にまで勢力を拡大した。

 ところがイドリースは即位後数年でアッバース朝の放った刺客に殺されてしまう。男子がいなくていきなり断絶の危機であるが、イドリースと一緒にモロッコにやってきた忠臣ラシードが主君の子を懐妊中だったベルベル女性を守り立てて王朝を存続させた。そして生まれた男の子がイドリース2世である。やがて成人した彼は500人のアラブ人からなる親衛隊(註1)を組織することによって亡父が世話になったベルベル人があまり大きな顔をしないよう牽制し、さらに新首都フェズを建設しつつ領土を拡大した。

註1 この時代のモロッコに定住していたアラブ人はさほどの数ではなかったと思われるが、イベリア半島の後ウマイヤ朝内部の政争に敗れて逃れてきたアラブ人集団がいたりして、徐々に増えてきていた。また、ベルベル人がイスラムに入信するにはアラブ人に身元引受人になってもらう必要があり、そのことからアラブ人は数が少なくても精神的にベルベル人より優位に立つことが出来た。


 イドリース2世の統治下において、モロッコの各地にはたくさんの町が建設され、商業が発達して貨幣経済が浸透した。特に栄えたのは南方との塩や金を扱う交易で、ちょうどこの頃モロッコとサハラ砂漠の南の黒人帝国ガーナとの交易ルートが開けてきていた(サハラの北と南を結ぶ交易路は以前はもっと東を通っていた)。イドリース朝の首都フェズから南に進めばサハラ交易路、東に進めばアルジェリア方面に出ることが出来る。宗教的には、イドリース朝としては非常に寛大だった(ハワーリジュ派はスンナ派にもシーア派にも敵対していたが、しかし自分の信仰を外部に押し付けない主義だった)のだが、それまでいくらか存在していたキリスト教の勢力は衰退していった。

 ところでマグリブにおけるハワーリジュ派の政権はイドリース朝だけではなく、モロッコの南方に「ミドラール朝」、東方に「ルスタム朝」といった中小の政権が出来ていた。さらにイドリース2世が成人する頃には(以下に述べる諸国はハワーリジュ派ではありません)アッバース朝のイフリーキヤ(チュニジア)総督が本国から独立、「アグラブ朝」を建国している。とはいってもその頃のアッバース朝はまだまだ強力で、その首都バグダッドは大いに繁栄して「世界にならぶもののない都市」と称され、現在のトルコ共和国の東部にまで版図を拡大していたが、821年にはイラン東部で「ターヒル朝」が、867年に同じくイラン東部に「サッファール朝」が誕生、868年にエジプトで「トゥールーン朝」が成立した。これらの諸国の中にはアッバース朝に貢納金を払っていた国もあったが、アッバース家のカリフの支配が直接的に及ぶ地域はすっかり縮小されてしまった。そして、909年にはチュニジアにてシーア派を奉じる「ファーティマ朝」が成立、アグラブ朝とルスタム朝を滅ぼした。

   後ウマイヤ朝とレコンキスタ   目次に戻る

 イベリア半島の後ウマイヤ朝は10世紀中頃には全盛期に到達した。アジア・アフリカから持ち込まれた色々な農作物と優れた灌漑技術が合わさって農業生産が急激に拡大、さらにモロッコ〜ガーナの交易と連結することで商業が盛んになり、やがて50万の人口を抱えるに至る首都コルドバでは神学・医学・数学・天文学・文学といった各種の学芸が熱心に行われた。当時の西地中海はイスラム諸国の海軍が絶対優勢で、西欧のキリスト教諸国は板子一枚浮かべることが出来ないというほどの有様であった。ただ、絢爛豪華な後ウマイヤ朝も北方からじわじわと浸食してくるこうるさい敵には悩まされた。

 イベリア半島のキリスト教徒がイスラムへの反攻を開始したのはまだ後ウマイヤ朝が成立する以前、718年頃であったとされている。つまり、ウマイヤ朝(元祖)が西ゴート王国を滅ぼした直後である。伝説によれば、ペラーヨという西ゴート貴族がイスラム教徒の支配をあくまで潔しとせずに40人の男女を率いてイベリア半島北西部のアストゥリアス地方の深山の洞窟に隠れ、最初は岩間に棲む蜂の蜜を飲んでどうにか生き延びる有様であったが、やがて近在のバスク系アストゥリアス人(註2)と結合して「アストゥリアス王国」を建国、722年の「コバドンガの戦い」で初めてイスラム軍に勝利したという。これがキリスト教徒によるイスラムへの抵抗、いわゆる「レコンキスタ」の始まりである。アストゥリアス王国はさらに東隣のバスク系カンタブリア人とも合わさって勢力を拡大した。

註2 「バスク」とは現在のスペイン北部からフランス南西部にかけて居住する少数民族である。


 ただ、アストゥリアス王国は辺境に位置したことから実は(王国首脳部の旧西ゴート貴族層は別として)キリスト教すらあまり普及していなかったのだが、9世紀以降には領域の拡大とともにキリスト教化も進展した。10世紀にレオンというところに遷都したことから「レオン王国」に名称変更され、後ウマイヤ軍との戦闘が最も頻繁に行われた東部地方には多くの「カスティーリョ(城塞)」が建設された。その城塞地帯は「カスティーリア」と呼ばれてやがてはレオンから独立する。

 イベリア半島の北東部では、現在のフランス・ドイツ・北イタリアを支配するキリスト教徒の大国「フランク王国」の勢力が伸びてきた。フランク軍は9世紀初頭に地中海沿岸の要地バルセローナを占領、「バルセローナ伯領」を初めとする5つの伯領(註3)を設置した。これを「バルセローナ諸伯領」と呼ぶ。フランク本国は9世紀末には衰えたため、バルセローナ諸伯領はそれぞれ実質的に独立国となった。

註3 「伯」とはフランク王国の地方長官のこと。


 それから、バルセローナ諸伯領とレオン・カスティーリアの間の地域では9世紀の前半にバスク系の「ナバーラ王国」が建国された。この国は人口が多い割に耕地が少ないのが悩みの種だったのだが、10世紀前半にはレオンと共同してレコンキスタを推進することで領土(耕地)を拡大、経済的な躍進を遂げて、11世紀前半の国王サンチョ3世の代に至ってレオンとカスティーリアを(婚姻を通じて)乗っ取った。彼はさらにバルセローナ諸伯領のうち2つを併合、残りの伯領にも頭を下げさせる。

 1035年にサンチョ3世が亡くなると、その支配地域は息子たちによって分割された。長男のガルシアはナバーラを、次男のフェルナンドはカスティーリアとレオンを、庶子のラミロはアラゴン地方(ナバーラの東部)を相続し、3人ともそれぞれの国王を称することになった。つまり「ナバーラ王国」「カスティーリア・レオン王国」「アラゴン王国」の3王国が出来たという訳である。バルセローナ諸伯領は後にアラゴンと連合して「カタルーニャ・アラゴン連合王国」を組織するが、本稿ではこの国を単に「アラゴン」と呼ぶことにする。

 ……話が逸れすぎたようなので、この辺で話の舞台をモロッコに戻す。829年にイドリース2世が死ぬと、その王国は9人の息子によって分割された。フェズを相続した長男が弟たちを名目的に統治する体制である(弟たちの支配する「君侯国」は独自の貨幣まで鋳造した)。このような相続法はベルベル的なものであったが、9国の中心地であるフェズは次第にアラブ色が強くなり、それが面白くないベルベル人による反乱が起こったりした。何にしても相続の度に分割が繰り返されるこの方式は王朝全体の力を弱め、920年にはチュニジアのファーティマ朝の軍勢にフェズが占領されるに至る。分家の諸国はファーティマ朝と後ウマイヤ朝によって次々と飲み込まれ、10世紀の末には残らず消滅してしまうのであった(モロッコの南にあったミドラール朝もその頃に崩壊)。まぁもっとも、このような政治的混乱が経済を損なうことは別になく、各地の町では相変わらず盛んな交易が行われて、旅人は安全に行き来することが出来たという。

   ムラービト朝   目次に戻る

 969年、ファーティマ朝の本拠地がチュニジアからエジプトに移り、遠国であるモロッコの経営にはあまり力を注がなくなった。かわって後ウマイヤ朝の触手が太くなるが、そちらは11世紀に入る頃から内紛で弱体化してきた。そんな訳で、その後しばらくのモロッコはベルベル系の諸部族があちこちに割拠するようになる。宗教模様は、ハワーリジュ派やシーア派(ファーティマ朝が布教したと思われる)、新たに起こったベルルアータ派といった勢力が混在していた。

 イスラム世界全体ではここしばらくシーア派が優勢で、エジプトのファーティマ朝だけでなくイラン方面でも去る932年にシーア派を奉じる「ブワイフ朝」が建国され、これが945年にイラクのバグダッドに入城、そこに君臨していたアッバース朝のカリフを傀儡化した。ところが11世紀に入ると次第にスンナ派の巻き返しが始まり、まずイラン方面のスンナ派が中央アジアからやってきたトルコ系(註4)遊牧国家「セルジューク朝」と結びついて勢力を拡大した。セルジューク朝は1055年にアッバース朝のカリフの招きに応じてバグダッドに入城、カリフから「スルタン」という称号を与えられた(註5)。これと同じようなスンナ派の攻勢がモロッコでも起こるのである。

註4 たいていの人は「トルコ」といえばアジアの西の端に位置する「トルコ共和国」を思い浮かべるが、トルコ人というのはもともと中央アジアで遊牧生活を営んでいた人々であって、これが長い時間をかけて西へ西へと広がっていったのである。

註5 スルタンとはアラビア語で「権力」「権威」を意味する。セルジューク朝の君主は以前からこの称号を名乗っていたが、それがカリフによって正式に承認されたのである。


 1036年、モロッコの南西の現「西サハラ」地域(註6)に住むベルベル系遊牧民「サンハージャ族」の族長の1人ヤヒヤー・ブン・イブラヒームがイスラムの聖地メッカに巡礼し、その帰途に立ち寄ったカイラワーンという町でスンナ派……正確にはその一派の「マーリク派」……の神学者アブー・イムラーン・ル・ファーシーに出会った。その教えに感激したヤヒヤー・ブン・イブラヒームはアブー・イムラーンに同行を願ったが体力を理由に断られ、かわりにその孫弟子のブン・ヤーシーンを連れて帰ることにした。

註6 現在の「西サハラ」はモロッコに属するか独立するかで係争中。詳しくは後述。


 ところがヤヒヤー・ブン・イブラヒームの故郷の人々(西サハラのサンハージャ族)はブン・ヤーシーンの厳格な教えに馴染まず、やむなく数十名のみがはるか南のセネガル河口の小島(現在はモーリタニア領)に移って独自の信仰共同体を建設した。彼等は「リバト(城塞)」で生活していたことから「ムラービトゥーン(リバトに拠る人)」、訛って「ムラービト」と呼ばれることになる。この集団は次第にその数を増し、以前は彼等に理解を示さなかったサンハージャ族から1000人ほどの帰依者を得た。

 やがて彼等はスンナ派の名のもとに「ジハード(イスラムの聖戦)」を開始、1053〜4年にはサハラ交易ルートの要地シジルマッサを占領した。ちなみにサンハージャ族はもともとは大西洋に近いアウリル塩床を支配して潤っていたのだが、去る1030年頃に内陸部の「ザナータ族(これもベルベル系だがハワーリジュ派を奉じていた)」が開発したタガーザー塩床との競争に敗れていた。今回占領したシジルマッサはそのタガーザーと西サハラ、さらにモロッコをつなぐ重要拠点であり、やはりザナータ族によって支配されていたのである。その後ヤヒヤー・ブン・イブラヒームとブン・ヤーシーンは暗殺されるが、前者の一族のアブー・バクル・ブン・ウマルが全てを引き継ぎ、北方へと進撃してモロッコ南部を制圧した。

 しかしアブー・バクルはモロッコ方面の経営を従兄弟のユースフ・ブン・ターシュフィンにまかせ、自分はサハラの南の黒人帝国ガーナの征服に旅立った。これは先のザナータ族との戦いにも関連する動きである。ザナータ族はガーナとモロッコをつなぐ交易路を長らく支配していたのだが、彼らはガーナに対し積極的にイスラム教を広めようとしなかった(ザナータ族の奉じるハワーリジュ派は他人に信仰を押し付けない主義)ことがムラービトを怒らせていた。

 そういう訳で、今回の遠征はサハラ以南にイスラムの教えを広めるという名分が掲げられた。ムラービト軍は15年に及んだ戦いの末にガーナの首都クンビ・サレを占領した(1076年頃)が、大将のアブー・バクルは88年に亡くなり、するとたちまちガーナ帝国が反撃に出てムラービト軍を追い出した。しかしこの一連の動きは当初の狙い通りサハラ以南にイスラム教が広まるという結果をもたらし、さらにモロッコとサハラ以南の経済的な結びつきが強化されるに至った。たとえば、以前のイドリース朝では通貨といえば銀貨か銅貨だったのが、ムラービト統治下のモロッコにおいてはガーナからもたらされる金貨が流通するようになるのである。正確にはガーナから輸入される金は粒・粉もしくは薄片・塊で、シジルマッサの町で金貨に鋳造された。

 それはともかくとして……、モロッコ方面に残っていたユースフの方は1069年には旧イドリース朝の首都フェズを占領、続いて新都マラケシュを建設し、やがてモロッコの全域のみならずアルジェリアの西部に至る地域を制圧した。彼の家系が「ムラービト朝」である。本稿ではずっと上の方から「モロッコ」という地名を使っているが、これはムラービト朝の首都「マラケシュ」が訛ったものであるという。もっとも、この王朝の重点は次第に北に偏るようになり、ムラービトの発祥の地である西サハラ方面については放置状態になっていくのだが……。

   アンダルスへの進出   目次に戻る

 その頃、地中海の北のイベリア半島に君臨する後ウマイヤ朝は内紛で四分五裂となっていた。実に30ほどの小国(ターイファ)が並び立つ有り様である。これに乗じてキリスト教諸国が活発に動く。特に勢いがあったのはカスティーリア・レオン王国のアルフォンソ6世で、ナバーラ王国やアラゴン王国と競合しながら勢力を拡大、1085年にはかつての西ゴート王国の首都トレードを占領した。イスラム側のターイファ諸国はこの状況に焦り、モロッコのムラービト朝に支援を要請した。実のところターイファ諸国は西サハラの田舎から興ったムラービトを無知で専制的な野蛮人とみなして蔑んでいたのだが、「カスティーリアのブタ飼いにされるよりは、サハラ砂漠のラクダ追いになった方がよほどまし」と考えたのである。

 そして1086年、ユースフの率いるムラービト軍は海を渡り、「サラカの戦い」にてアルフォンソ6世軍を破った。以下はこの戦いを描いた年代記の記述(那谷敏郎著『紀行モロッコ史』からの孫引。( )内は当サイト管理人による補足)。「ユースフは、彼の太鼓鼓手と共に戦場に到着した。太鼓の音は忽ち戦場の空気を引き裂く。アルフォンソはユースフ出陣と見て、慌てて麾下の精鋭を手許に引き寄せる。ユースフ時を移さず、部下と共に、この精兵の壁に突入する。支えきれずにアルフォンソ側は最初の布陣の位置に後退。このため、今まで圧迫されていたイスラームの同盟諸侯(ターイファ諸国)軍も軍をたて直す。意気を揃えたイスラーム軍は敵陣へ雪崩れ込む。大地は今や馬蹄に震え、キリスト教軍もよく戦ったが、次第にアルフォンソは軍を返し始める。王の逃げ腰はキリスト教軍を混乱に陥しいれ、ついに全軍が崩壊、イスラーム側は敵首を積みあげ、死体の山を築き、懇ろに神に祈りを捧げる。アルフォンソは幾度も戦場を振り返りながら屈辱の退路を急ぐ……」。

 勝利者のユースフは「アミール・アル・ムスリミーン・ワ・ナーシルッ・ディーン(イスラム教徒と信仰の守護指揮者)」と名乗った。ムラービト軍はそれで撤収する(アルフォンソを破ったらすぐ撤収するという約束での出兵だった)が、88年にはまた請われて出兵した。この辺でユースフも、助っ人に徹するより自分がこの地を治めたいという欲が湧いてくる。それにターイファ諸国の方もユースフを本心では信用せず、キリスト教諸国とムラービトを噛み合わせることで漁父の利を得ようとした。そんな訳で90年に3たび海を渡ったムラービト軍は今度はターイファ諸国に戦いを仕掛けてこれを次々に撃破、1110年頃には半島の南半を制圧した。

 しかしキリスト教徒の抵抗は頑強であった。サラカの戦いに敗れたアルフォンソ6世に代わってムラービト軍との戦いに活躍したのがハリウッド映画で有名なエル・シド(ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール)である。彼は最初はカスティーリア・レオン王国に仕えていたがやがてアルフォンソ6世と喧嘩になって追放されてしまい、その後はターイファ諸国のひとつサラゴーサに仕えてバレンシアの領主となった(註7)が、やがてアルフォンソ6世に呼び戻されたのである。その後のエル・シドは対ムラービトの最前線となったバレンシアでムラービトの大軍を相手によく持ちこたえ、1099年に戦死した。死んだまま愛馬バビエカに跨がってムラービト軍に突撃したというのは映画にも描かれた有名な伝説である。その後は妻のヒメーナ(アルフォンソ6世の従姉妹)がバレンシアを守ったが、数年後には北方へと撤収した。「エル・シド」というのは実は彼の武勇に感心したイスラム側がつけた通称で、「貴顕の士」という意味である。エル・シドの活躍を讃えた叙事詩が『わがシドの歌』である。

註7 この頃のエル・シドのように、イスラム教徒に仕えるキリスト教徒の騎士は少なくなかった。いわゆる「レコンキスタ」も、純粋に宗教的情熱のみで推進していた訳ではなく、単に領地を増やしたいという世俗的欲求の方が大きかったとされている。


 ちなみにイベリア半島のうちのイスラム支配地域を「アンダルス」と呼ぶ。この地域は後ウマイヤ朝以来の伝統として学芸が盛んであり、歌舞音曲などの豊かな文化は11世紀頃にはイスラム圏でも随一のものとなっていた。また、後ウマイヤ朝の衰退はかえって地方都市を活気づけたようである。ムラービト朝はアンダルスにおいては一般のイスラム教徒をキリスト教徒の攻撃(レコンキスタ)から守る立場であったし、税金を最小限しか徴収しなかったおかげで民衆の支持を得た。

   ムワッヒド朝   目次に戻る

 1107年、ユースフが亡くなった。あとつぎのアリはアンダルスの華やかな文化の中で育ち、草創期のムラービトのエネルギーの源であった西サハラの遊牧民が持つ荒々しさを失っていた。それに……、既に述べた通りムラービトはかなり早い段階で王朝創業の地である西サハラを放ったらかしにしていたため、軍事の主柱であったベルベル遊牧民との関係が時間の経過とともに薄れる一方となっていた。そこでムラービト軍は色々な人種からなる傭兵を使うようになるが、その給料がかさんだ(増税せざるを得なくなった)うえに軍隊内の結束が弱まるようになる。そんな訳でムラービト朝は1118年にはキリスト教諸国のひとつアラゴンの軍勢に要地サラゴザを奪われ、33年にはカスティーリア・レオン軍がアンダルス南部にまで攻め込んできた。アリは現実政治への関心を失い、宗教と学問に耽って引き蘢るようになった。

 ちょうどその頃モロッコの南部から、イブン・トゥーマルトという人物(ベルベル系マスムーダ族の支族ハルガ族の出身)が現れた。彼はシャリーフ(予言者ムハンマドの子孫)を名乗り、各地を巡礼して独自の神学を磨いて、コーラン(イスラムの根本聖典)の文字通りの適用や「タウヒード(神の唯一性)」を説くようになった。彼の教えに従いタウヒードを信じる人々を「ムワッヒド」と呼ぶ。飲酒も音楽も禁止、男女の厳密な区分を説く厳格な教団であった。トゥーマルトはムラービト朝の公認神学マーリク派と激しく対立し、1121年から「マフディー(救世主)」を名乗って反ムラービト武力闘争を開始した。

 1122年、「キクの戦い」で最初の勝利、ただちにムラービト朝の首都マラケシュの包囲にかかるがこれは失敗した。さらに28年の「アル・ブハイラの戦い」でムラービト軍に惨敗する。トゥーマルトは1130年に亡くなり、その弟子のアブド・アル・ムーミンがあとを継いだ。「ムワッヒド朝」は彼の血筋である。彼は先の「アル・ブハイラの戦い」において、平地でムラービトの騎兵隊に蹴散らされたことの反省から、とりあえずは山岳地帯の制圧にかかることにした。そこには鉱物資源があり、モロッコ北部とサハラをつなぐ交易路も通っている。そして、山岳部で10年ほどかけて力を蓄えたムワッヒド軍は47年、再びマラケシュを攻撃して今度はうまく占領した。ムラービト朝はここに滅び、その一族は皆殺しとなった。

 アンダルスでは46年にムラービト朝に対する反乱が起こり、その後は各地の小領主(ターイファ)たちがバラバラに動いていた。後ウマイヤ朝の末期と同じ状態が再現された訳であるが、やがてターイファの大半はムワッヒド朝になびいてきた。ただしターイファの一部にはムワッヒドに反発する者もいたし、キリスト教諸国の南下が著しくなっていた(後述)のだが、ムワッヒドはまずはアルジェリア方面を押さえにかかることにした。

 ……ここで時間を遡って説明する。アルジェリアやチュニジアは本来ファーティマ朝の領域であったのだが、しかしこの国は10世紀半ば以降エジプト方面の経営に忙しくなり、やがてアルジェリアには「ハンマード朝」、チュニジアには「ズィール朝」という地方政権(どちらもベルベル系)が成立してファーティマ朝に歯向かうに至った。そこでファーティマ朝はエジプトにいたアラブ系遊牧民(ヒラール族とスライム族)を使って2国を攻撃した。現在のアルジェリアはアラブ人8割にベルベル人2割、チュニジアに至ってはアラブ人が98パーセントを占めるが、これらの諸国におけるアラブの優位が確定したのがこの頃なのである。それから、チュニジアの経済はもともとはサハラの南との交易で潤っていたのだが、これはモロッコとガーナを結ぶルートとの競争に敗れてしまい、困窮していたことがこのような政治的混乱を呼び込んでしまったようである。

 話を戻して……ムワッヒド軍は52年、アンダルスに渡るとみせかけて急遽アルジェリア方面へと進発した。目標とする地域はアラブ系遊牧民のみならず、北欧からやってきた「ノルマン人」の攻撃をも受けていた。いわゆる「ヴァイキング」がこんなところにまで攻めて来ていたのである。

 ムワッヒド軍はまずアラブ系遊牧民を撃破し、その上で59年、チュニジアに本拠を置くノルマン人の勢力を追い払った。ムワッヒド軍のこの方面への進出は異教徒(ノルマン人)へのジハード(イスラムの聖戦)という名目で宗教的に正当化出来たし、相手のノルマン人はその頃は北アフリカよりもシチリア島の経営に力を入れていたことから、思ったより楽な戦いとなった。ムワッヒド軍はついでにズィール朝・ハンマード朝(先のアラブ系遊牧民の侵攻ですっかり弱体化していてた)も滅ぼした。

 アンダルスでは……、既に説明したようにターイファの大半はムワッヒド朝に忠誠を誓っていたが、セビーリャの領主イブン・マルダニッシュのみはこれに逆らい、独自に勢力を拡大していた。キリスト教諸国の方は、去る1143年にカスティーリア・レオン王国の南西部が分離独立して「ポルトガル王国」を建国した。このポルトガルも他のキリスト教諸国にならってレコンキスタを押し進め、47年には現在のポルトガル共和国の首都であるリスボンを占領した。アラゴン王国も南への膨張を続ける。その一方で1157年にはカスティーリアとレオンが分離した。これらの諸国の中で最も勢いがあったのがカスティーリアで、レコンキスタを推進しつつナバーラからも多くの領地を奪った。

 セビーリャとキリスト教諸国の攻勢に耐えられなくなったターイファたちはムワッヒド軍に出馬を要請した。これに応えたムワッヒド朝は北アフリカ平定が一段落ついた61年に海を渡り、まずマルダニッシュの討伐にとりかかった。アブド・アル・ムーミンは63年に病気で亡くなるが、しかし彼の後継者たちは80年までかけて旧ムラービト朝の領域を回復した。さらに1195年の「アラルコスの戦い」でカスティーリア軍を大破した。この頃がムワッヒドの最盛期である。文化面では、アリストテレスの注釈で有名なイブン・ルシュドがムワッヒド朝の宮廷に侍医として仕えている。

 ところが、「アラルコスの戦い」でムワッヒド軍が勝利したことは、かえって西欧のキリスト教諸国を結束させるという効果を生んだ。イベリア半島のキリスト教諸国のみならずフランスやイタリアの騎士たちまでもがローマ教皇インノケンティウス3世に「十字軍」の看板を貰って結集してきたのである。ムワッヒド軍は1212年の「ラス・ナバス・デ・トロサの戦い」で十字軍を迎え撃ったが、壊滅的な大敗北を喫してしまった。戦死者6万とも10万ともいう。かつてのムラービトがそうだったように、ムワッヒドもまたアンダルスの香しい文化に触れたことで軟弱化してしまったのである。ともあれムワッヒド朝はこの一戦のあと急激に衰え、広がり過ぎた領土のあちこちに亀裂が入るようになる。

 まずモロッコ東部にいたベルベル系遊牧民のマリーン族が反乱を起こした。これにつられたのかアラブ系遊牧民も反乱を開始する。マリーン族は最初は単なる略奪目的でリーフ山地を制圧し、次いで平野部に繰り出してきた。そこで一旦はムワッヒド軍の討伐を受けて南方に追いやられるが、逃げた先でサハラの交易路を制圧した。

 ムワッヒド朝の支配階級の内部でも、アブド・アル・ムーミン以来の王家の一族と、ムワッヒドのそもそもの創始者であるイブン・トゥーマルトの出身母体マスムーダ族とが激しく対立するようになった。前者は30年、マスムーダ族との抗争の一環として、ムワッヒド創建以来のイデオロギーであるタウヒードを廃止してしまった。マスムーダ側の反対をカスティリア王国から借りた騎馬隊で潰したというのだからもう末期的症状である。その前後にはチュニジア総督のハフス家が独立を宣言したが、このハフス家はイブン・トゥーマルトの高弟の子孫であり、王家によるタウヒード廃止に抗議するという名目を掲げていた。

 36年にはアルジェリア総督が独立して「ザイヤーン朝」を創設、37年にはアンダルスで「ナスル朝」が建国された。48年になるとそれまで内陸部にいたマリーン族が大西洋沿岸部に押し出してきた。ムワッヒド軍からマリーン族に寝返る者が続出する。そして1269年、ムワッヒド朝の首都マラケシュはマリーン族によって攻め落とされ、王朝の幕を降ろしたのであった。

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