モロッコの歴史 後編その1

   イスリー戦役   目次に戻る

 1830年、フランスがアルジェリアを征服した。アルジェリアはオスマン帝国の領域であったが本国から遠いために半独立の状態となっており、そこをフランスに狙われたのである。しかしフランス軍が押さえたのは沿岸部のみで、内陸のアラブ人・ベルベル人はアブドゥル・カーディルという人物に率いられて抵抗を続け、これがモロッコに支援を求めてきた。モロッコはこれに応えて武器弾薬や軍資金を援助した。その頃のモロッコにはイギリス資本が盛んに入り込んでいてモロッコ・イギリスの政府関係も良好だったため、フランスは(イギリスの動向が気になるので)モロッコに対し迂闊な手出しが出来なかった。アブドゥル・カーディル軍はフランス軍に叩かれるとモロッコ領内に逃げ込み、態勢を立て直してはまたフランス軍に戦いを挑みに出て行った(註1)

註1 詳しくは当サイト内の「アルジェリア征服」を参照のこと。


 44年、フランスの弱腰に自信を持ったモロッコは、アルジェリア国境の向こうへと自国軍隊を侵犯させた。国境近くにいたフランス軍は衝突を避けて後退したが、モロッコ軍はこれを追いかけて5月30日には戦闘に突入した。しかしその結果はモロッコ軍の敗退である。不味いことに数年前にイギリスで政変があってフランスに融和的なアバディーン卿が外相となっており、そちらからの援護が見込めなくなっていた。ところが、フランス側は穏健に話し合いで決着をつけようと言ってきたのだが、モロッコ側はあくまで強硬な態度を保持し、それどころか交渉が決裂して会談場から引き上げるフランス軍を襲撃したりした。

 6月22日、本格的に怒り出したフランス軍が越境してモロッコ領の町ウジェタを占領、8月6日にはフランス艦隊28隻がタンジール港(当時のモロッコの最大の貿易港)に現れ、港の防御施設を砲撃した。さらに8月13日の夜、アルジェリア国境付近のイスリー川両岸に布陣していたモロッコ軍4万がビュゴー将軍の率いるフランス軍わずか8000人の夜襲を受けて大混乱を起こし、翌日には潰走状態となった。モロッコ軍は数は多かったが、装備や編成が時代遅れとなっていたのである。この戦争を「イスリー戦役」と呼ぶ。

 フランスは他国の介入を恐れてそれ以上深入りせず、9月10日には講和条約「タンジール条約」が成立した。要件はモロッコがアブドゥル・カーディルを助けるのを止めることと、それまで適当だったモロッコとアルジェリアの国境線の画定を約束しただけであった(註2)。これに基づいて45年には地中海から内陸140キロまでの国境が画定された。そこから南は山岳と砂漠地帯なのでとりあえず後回しである、と、いいつつ、フランスは未画定地域からモロッコ領内へと徐々に侵入することになる……。それはともかく47年、フランス軍に痛めつけられたアブドゥル・カーディル軍が例によってモロッコ領に逃れてきたが、モロッコは条約に基づいてこれを受け入れなかった。進退きわまったアブドゥル・カーディル軍はフランス軍に投降した。

註2 正確にはこの時の条約で決まったのは国境線の画定だけでアブディル・カーディルとの絶縁は別の話し合いによったらしいのだが、詳しいことは資料がなくて分かりませんでした。


   第一次リーフ戦争   目次に戻る

 次はスペインである。スペインは数百年前からモロッコの北部においてセウタやメリリャといった小さな拠点を保持していたということを思い出していただきたい。1859年、スペインはセウタの城塞の増築にとりかかり、これが付近に住んでいたベルベル系リーフ族を怒らせて武力衝突が発生した。モロッコ政府はたまたまスルタン位の継承問題で揉めていたことから対応が遅れてしまった。「事件処理を故なく遅滞」させられたスペインはモロッコに宣戦を布告、ここに「第一次リーフ戦争」が勃発した。先の「イスリー戦役」は短期間で終わりさほどの大軍が出動した訳でもなかったが、今回の戦争は半年に渡って続きスペイン軍5万が投入された。モロッコはイスリー戦役で敗れた後は軍制を改革してそれまでの騎兵中心の軍隊に歩兵隊を加えるようにしていたのだが、スペイン軍の攻勢を支えきれなかった。結局、スペインの勢力が拡大しすぎるのを嫌ったイギリスが調停に出てきたおかげて翌年2月に「ウェッド・ラス条約」という和睦が成立、モロッコは賠償金1億ペセタの支払いやセウタ居住区の拡大といったことを飲まされた。イギリスはモロッコの苦境を救うふりをして最恵国待遇を獲得した。モロッコは18世紀の末にタンジール港以外への外国船の立ち入りを禁止していた(貿易事業をスルタンが独占するための措置)のだが、そのような鎖国政策は相次ぐ敗戦によって破られ、大勢のヨーロッパ人がモロッコに入り込むようになる。

   メリリャ戦争   目次に戻る

 1873年、新スルタンとしてムーラーイ・エル・ハッサンが即位、前世紀の末から中央政府に従わなくなっていた地方部族を懲罰してまわってそれなりの成果をあげたが、それでもスルタンの政府が租税を徴集出来るのはモロッコ全土の4分の1程度、人口にして半分ぐらいという程度であった。特に、ベルベル人の諸部族がスルタンの言うことを聞かなくなっていた。それに、スルタンによる地方部族への懲罰遠征は「ハルカ」と呼ばれるのだが、これがひどく旧式なもので、スルタン自らが軍隊だけでなく政府の役人のほとんどやハーレムの女たち、下僕下女までぞろぞろ引き連れて行くというものであったことから無駄に国庫を浪費した。

 その頃のアフリカ大陸の他の地域は西欧諸国による植民地化が急激に進んでいた。1870年代までのアフリカ大陸で西欧の植民地と言えばフランス領のアルジェリア以外にはイギリス領の南アフリカ、それとあとモロッコのスペイン領セウタのような小さな拠点があちこちに散らばる程度だったのが、80年代に入る前後にベルギー国王レオポルド2世がコンゴを植民地化した(註3)のを皮切りにイギリスはエジプトを占領、フランスはチュニジアを征服、ドイツはタンザニアを植民地化(註4)といった具合に西欧列強がアフリカへと大挙進出してきたのである。

註3 詳しくは当サイト内の「コンゴ自由国」を参照のこと。

註4 詳しくは当サイト内の「ドイツの植民地」を参照のこと。


 そんな中でモロッコは、ムーラーイ・エル・ハッサンが頑張ったおかげでそれなりの強国であると諸外国に認識されており、どうにか植民地化を免れた。93年にはスペイン領メリリャの総督がリーフ族に殺されたことでスペインが派兵してくる「メリリャ戦争」が発生するが、この時はスペイン側が事態の拡大を望まなかった(前回の戦争の時のようにイギリスが介入してくる可能性を考慮した)ため、モロッコ政府に総督殺害犯の処罰や賠償金2000万ペセタの支払いを命じるということで手打ちとなった。

 ムーラーイ・エル・ハッサンは1894年6月、南部の反抗的部族を懲罰した帰りに肝炎で倒れ、当時13歳だったとも16歳だったともいわれる息子ムーラーイ・アブドゥル・アズィーズを側近バー・アハメッドに託して死亡した。実はアブドゥル・アズィーズより年長の息子が複数いたのだが、一番可愛い子を後継者に指名したのである。バー・アハメッドはこの決定に反発しそうな王族を逮捕・投獄するか地方に遠ざけるかした上で摂政に就任し、アブドゥル・アズィーズが若年なのをいいことに自分が全権を掌握、国内で自分に反対する者に対しては情け容赦なく弾圧し、外国に対しては現状維持政策をとった。政治に関与させてもらえないアブドゥル・アズィーズは、軍事顧問のマックリーンというイギリス人に西洋の玩具を与えられて夢中になり、すっかり浪費癖がついてしまった。マックリーンは後にイギリス政府から「サー」の称号をもらっている。

   アブドゥル・アズィーズの親政   目次に戻る

 1901年、摂政バー・アハメッドが亡くなった。彼は猜疑心が強かったことから信頼出来る弟2人に要職を任せていたが、その2人も兄の後を追うようにして相次いで死去した。という訳で、既に成人に達していたアブドゥル・アズィーズが親政を開始するのだが……、この人物は悪人ではなかったが、それまで甘やかされて育って大した勉強もしていなかったため、何をやっても駄目、駄目、駄目となる。彼は西欧の科学文明に憧れて高価な時計やカメラを買い集め、傾く国を横目に宮殿の奥でオートバイ・レースや花火大会や舞踏会を催して遊んだが、まずこういうことが保守的なイスラム教徒を怒らせる。しかも、モロッコは1902年までは全く負債の無い国だったのが、地方部族の多くが租税を納めていなかったのと、スルタンの浪費のせいで同年3月には借金せざるを得なくなった。その「借金」は最初はイギリスが貸し付けようとしていたが、その情報をキャッチしたフランスが素早く動いて750万フランを貸し付けてきた。そして、借金の額はどんどん増えていく。

 財政について言えば、モロッコの主要な税制は「イスラム法に基づく喜捨」という形式だったために在留外国人(キリスト教徒)から税金がとりにくく、さらに前編の最後の方で説明したように地方官の中間搾取が酷過ぎた。この問題を真面目に憂えたアブドゥル・アズィーズは非イスラム的で中間搾取もない新税制を導入しようとしたが、これがまた保守派を怒らせ地方官の間にも不満がたぎる有り様である。

 1902年夏、ブー・ハマラという人物が本物のスルタンを名乗って反乱を起こした。アブドゥル・アズィーズは叔父に1万5000の軍勢を与えて鎮圧に向かわせたが敗退し、大量の武器弾薬を奪われた。そこで翌年1月に再度の討伐軍を投入して今度は勝利、しかし山岳地帯に逃げ込んだブー・ハマラ軍を追撃しているうちに反撃されたため撤収を余儀なくされた。そこで4月に第三次の討伐軍を投入、これも撃退される。アブドゥル・アズィーズはこの反乱が起こる前に首都フェズからメクネス(註5)まで自動車道路を建設しようとしてイギリス人技師に測量させたのだが、これが付近の庶民の間に「異教徒にモロッコを売り渡そうとしているのではないのか?」という疑念を生んでいた。また、たまたま起こったイギリス人医師殺害事件の犯人がイスラム寺院に逃げ込んだのをアブドゥル・アズィーズの命令で引きずり出して(寺院の前で)射殺するという出来事があったのだが、実はモロッコのイスラム寺院というのは一種の治外法権が認められていてその内部にはスルタンの権力といえども手出し出来ないという慣習があり、それを破ってしまったアブドゥル・アズィーズの評判はがた落ちになっていた。ブー・ハマラの話は後でまた出てくるので憶えておいてください。

註5 アラウィー朝の首都はメクネス・フェズ・ラバト・マラケシュの4つに置かれていたことは既に述べた通りだが、この頃はフェズが本拠地になっていた。


   ライスーリ   目次に戻る

 モロッコの北東部で猛威を振るっていたブー・ハマラの反乱と同時期に、北西部で勢力を蓄えていたのがライスーリという人物である。彼は1870年頃に生まれたシャリーフ(予言者ムハンマドの子孫のこと。自称ではなく本物だったらしい)であったが、若い頃から恐喝や窃盗などの悪事を働き、いつのまにか大規模な盗賊団を率いて城まで構えるようになっていた。

 しかし、単なる盗賊団の親玉(当時のモロッコにはそんな奴が他にもいっぱいいた)なら歴史に名を残すことはなかったのだが、問題なのは彼の縄張りが外国人の多く住んでいた貿易都市タンジールの近くだったということである。

 1904年5月、ライスーリはタンジール郊外に住んでいたアメリカ人とイギリス人それぞれ1名を誘拐するという事件を起こした。これに驚いたアメリカ政府は軍艦6隻を、同じくイギリス政府は1隻をモロッコへと派遣、スルタン(アブドゥル・アズィーズ)の政府に対し事件の速やかな解決を要求した。ライスーリは身代金として7000ポンドと官職を要求した。盗賊団の親玉が自分を政府の役人に任命してくれと言い出した訳であるが、スルタンの政府はこの要求を飲むことにした。そうでもしてさっさと事件を収拾しないと米英艦隊がどう動くか分からないからである。

 1906年にはライスーリの部下がフランス人を殺害するという事件が発生し、今度はスルタンの政府はライスーリの討伐を決意してその本拠地を攻撃した。しかしライスーリは巧みに逃走して盗賊稼業を続け、外国人を誘拐しては身代金と官職を要求した。特に1908年2月には自らタンジールに乗り込んでイギリス人外交官を誘拐し、イギリス政府に身代金2万ポンドを払わせている。同年にはさらにスルタンと交渉してタンジール周辺の6部族を公的に従える身分となった(これについては後述)。最初は単なる追剥ぎにすぎなかったライスーリはそれ以降は悪事を控え、むしろ彼の部下の盗賊たちが治安を守るようになった。一種のアウトローとして好きなように生きた彼は最後までスルタンに処刑されるようなこともなく、モロッコが植民地化された後の1925年に平穏無事に死んだのであった。

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