モロッコの歴史 後編その3

   外人部隊兵脱走事件   目次に戻る

 兄弟戦争が終わったすぐ後の1908年9月25日、カサブランカにいたフランス外人部隊から6名の外人兵が脱走しようとして港のフランス官憲(カサブランカの港湾警備隊)に逮捕されるという事件が発生した。その6名の国籍は、オーストリア・スイス・ロシアが1名づつと、ドイツが3名であった。脱走それ自体は珍しい話ではないのだが、ドイツ領事館員が関与する脱走幇助機関の存在が発覚し、しかも脱走兵とフランス官憲が揉み合いになった際にその場に居合わせたドイツ領事館員が暴行を受けたものだから事件は厄介な国際問題へと発展した。これはドイツのフランスに対する明白な嫌がらせであった。

 ドイツ政府はフランスに対し、暴力をふるった官憲の処罰、逮捕されたドイツ人兵士の引き渡し、暴行を加えられた領事館員に対する賠償を要求した。この理不尽な要求はフランス世論を激昂させ、独仏関係は戦争の一歩手前まで緊迫した。しかし、オーストリア皇帝が穏健な助言をしたおかげで戦争は回避され、とりあえず常設仲裁裁判所(註1)の判断に委ねることになった。

註1 1901年にオランダのハーグに開設された、国際紛争を調停する機関。


 1909年5月にくだされた判決は「フランスが正しいがドイツも悪くはない。両国はお互いに遺憾を表明すべし」という曖昧なものであった。独仏両国は裁判と並行して今後のモロッコの取り扱いに関する交渉を行い、「フランス共和国政府は、モロッコの保全と独立の維持に対し全面的義務を有し、且つ、モロッコにおける経済的平等を擁護し、従って、ドイツの商業上及び工業上の利益を妨害しない」「ドイツ帝国政府は、モロッコにおける経済上の利益のみを目標とし、他方、ドイツ帝国政府はモロッコにおけるフランスの政治上の特別の利益が、モロッコの秩序と国内の安全の強化に、密接に関連するものであることを認め、ここにこれらフランスの利益を妨害しないことを決」する、と明記された「独仏経済協定」を締結した。モロッコにおいてフランスは政治的利益を、ドイツは経済的利益を追求し、お互いに相手の利益と立場を尊重する、と約束したのである。フランス政府はこれでもうドイツがおかしなことをする可能性はなくなった、と、ひと安心した。

   第二次リーフ戦争とブー・ハマラの乱   目次に戻る

 その一方で、スペインがモロッコへの侵略の手を強めつつあった。ここで読者の方々に思い出していただきたいのは、アブドゥル・アズィーズが親政を開始した翌年に反乱を起こしていたブー・ハマラのことである。彼は兄弟戦争の最中にあってもまだモロッコ東北部において勢力を維持しており、(たぶん武器とかを買うために)支配地域における鉱山採掘権をスペインの会社に与えるというようなことをやっていた。スペイン政府は新スルタンのハフィッドにこの権利を確認させようとしたが、ハフィッドからみてもブー・ハマラは単なる謀反人だったのでこんな話は承諾出来る筈もなかった。この件に関する交渉が行われたのが1909年3月である。

 その4ヶ月後、スペインの拠点のひとつメリリャの近くでスペイン人労働者とベルベル系リーフ族との乱闘が起こった。速やかにスペイン軍1万が投入され、「第二次リーフ戦争」に発展する。乱闘云々はスペイン側の工作であったともされている。当初スペイン軍は苦戦の連続で、ある聯隊などは24時間の戦闘で兵員の半数を失い、本国では大規模な反戦デモが起こる有り様であった(軍が戒厳令を布告してデモの鎮圧にかかる程であった)。しかしスペイン軍はやがて4万人に増強されて9月には優勢を確保した。

 ただ、この戦争はあくまでスペインとリーフ族の紛争であって、ハフィッドのモロッコ中央政府がスペインと戦っていた訳ではなかった。ではハフィッドは何をしていたのかというと、ブー・ハマラの討伐に力を注いでいたのである。この年3月に派遣した討伐軍は悪天候のため成果をあげられなかったが、8月に改めて派遣した討伐軍が「ウアルガの戦い」でようやくブー・ハマラ軍を大破した。今回の討伐軍はフランス人の顧問が指導・訓練した近代式の部隊であった。ブー・ハマラは8月22日に至って降伏、160名の部下と共に死刑となった。その処刑方法は手足切断とか生きたままライオンの檻に入れるとかいう残虐なもので、フランス政府からクレームがつくほどであった。

 第二次リーフ戦争は11月にはスペインの勝利によって終結した。翌1910年11月には「スペイン・モロッコ協定」が締結され、ハフィッドの政府は戦争の責任を取らされて6500万ペセタの賠償金を75年賦でスペインに払うこととなった。ハフィッドは賠償金をまかなうために臣民に重税を課した。同年の3月にはフランスがハフィッドに9000万フランの借款を提供しており、これの返済も75年賦に定められていた。1911年3月には新たに7535万フランの借款が行われ、モロッコの国庫収入の大半は借款の担保にされてしまった。

   反乱あいつぐ   目次に戻る

 時間的に前後してしまって申し訳ないが、ブー・ハマラの反乱が鎮圧され第二次リーフ戦争も終結したすぐ後の1909年12月、今度はハフィッドの兄弟(兄なのか弟なのかは分からない)のムーラーイ・エル・ケビールが反乱を起こした。

 ハフィッドはブー・ハマラを倒すまでは軍の近代化をフランス人に託していたのだが、倒した後は急にフランスに冷たくなり、新しくオスマン帝国から軍事顧問を雇い入れていた(註2)。ところがこれがあまり使えない連中だったらしく、エル・ケビール軍の討伐に向かった部隊は途中の村々を略奪するばかりで何の役にも立たなかった。やむなくハフィッドはオスマン顧問を解職し、改めてフランスに軍の再編を頼むことにした。

註2 オスマン帝国では1908年に「青年トルコ党革命」という革命が発生して政権が変わっていた。これに目をつけたハフィッドは、オスマン帝国の旧体制に与していたせいで解職された軍人をモロッコ軍の顧問として雇い入れたのである。青年トルコ党革命に関する詳しい話は当サイト内の「エンヴェル・パシャとケマル・パシャ」を参照のこと。


 フランス顧問はエル・ケビールの討伐に向かっていた部隊を呼び戻して武装解除したが、討伐軍の総勢1万4000名のうち7000名は脱走しており、備品の馬400頭・ラバ120頭・小銃1500梃・被服3000着が消えていたという。フランス顧問マンジャン中佐は兵士のうち規律の正しい者3000名を選抜して歩兵5個大隊・騎兵3個大隊・砲兵2個大隊・工兵1個大隊に再編、これに訓練中隊とスルタンの身辺を守る黒人部隊をあわせた4000名を新生モロッコ軍の中核とした。

 1911年2月、シェラルダ族が反乱を起こした。この部族は代々のモロッコ王家(アラウィー朝)に最も忠実で、日本でいうなら徳川の旗本のような存在であったのだが、ハフィッドが兄弟戦争を開始する時に宣言したフランスに対するジハードがいつまで経っても実施されない(それどころかハフィッドはフランス顧問を使っている)ことや、カサブランカ事件や第二次リーフ戦争の賠償金を支払うために税率がアップされたことへの不満が爆発したのである。

 それと前後してベルベル系のゲルーアン族も反乱に立ち上がった。この反乱の指導者となったアッカ・エル・ブイドマーニという人物はハフィッドの忠臣であったのだが、どういう理由でか不明だがハフィッドの政府に逮捕されて釈放のために身代金を払わされたため、憤怒のあまり反乱を決意したのである。以後、この反乱軍を「アッカ軍」と表記する。

 ハフィッドはフランス顧問マンジャン中佐に2600名の部隊(新生モロッコ軍)を与えて反乱軍の討伐に向かわせ、とりあえずシェラルダ族を片付けた。しかしアッカ軍があちこちの部族を糾合しつつ首都フェズに向かって来たため、ハフィッドはマンジャン中佐を呼び戻してフェズの防備を固めることにした。スルタンの旗本であったシェラルダ族ですら反乱を起こしたのだから、一般の部族はとうにハフィッドに愛想を尽かしていた。

 4月に入るとフェズはアッカ軍の包囲下に落ちた。ハフィッド軍はマンジャン中佐の指導のもとに奮戦したが、戦いが長引くにつれてどんどんアッカ軍の規模が膨らんできた(各地の部族がどんどん駆けつけて来た)ため、困り果てたハフィッドはカサブランカに駐留するフランス軍に救援を要請した。

 今現在モロッコ軍に勤務しているマンジャン中佐のような個人は別として、フランスの政府は他国の目が気になるのでそれまでモロッコの内紛に介入しようとはしなかったのだが、ここに来てハフィッドを助けることを決意した。ただし、「アルヘシラス議定書」で約束された「モロッコの領土保全」を破る気は一切無い(本音では植民地化の意思満々だが)ということを他国に納得させるため、アッカ軍を片付けたらただちに撤収する。

 という訳でカサブランカ駐留のフランス軍が動き出すのだが、これがフェズに到着するより前の5月22日、アッカ軍は突然フェズ攻撃をやめて各自の故郷に帰ってしまった。麦の収穫期が近づいてきたからである。フランス軍はアッカ軍を追撃し、7月1日までかけて鎮圧を完了した。(エル・ケビールの反乱軍がどうなったのかについては資料なし)

   アガディール事件   目次に戻る

 フランス軍がアッカ軍の鎮定を終えたのと同じ日(1911年7月1日)、ドイツ砲艦「パンター」がモロッコ南部のアガディール港に姿を現した。その目的は現地にいるドイツ人居留民の保護にあると説明されたが、実際に何らかの事件が起こった訳ではなかった。これが「アガディール事件」であり、6年前の「タンジール事件」とあわせて「モロッコ事件」と呼ぶ。アガディールには1894年からドイツ商社が進出しており、表向きは雑貨を、裏では武器の密輸をしていた。その「マンネスマン兄弟商会」は兄弟戦争の際にハフィッド軍に軍資金を貸している。

 しかし、1908年の外人部隊兵脱走事件の時に締結された独仏経済協定では「ドイツ帝国政府は、モロッコにおける経済上の利益のみを目標とし、他方、ドイツ帝国政府はモロッコにおけるフランスの政治上の特別の利益が、モロッコの秩序と国内の安全の強化に、密接に関連するものであることを認め、ここにこれらフランスの利益を妨害しないことを決」すると言っていたのに、ここに来て突然(その必要も無いのに)軍艦を派遣したということは、協定に定められた「経済上の利益」以上の獲物を狙うことに決めたということである。

 ドイツ政府としては、フランスがアッカ軍鎮圧に介入したことについては独仏経済協定で認めた範囲内の行動とみなしていたらしい。しかしアッカの反乱の最中の6月にモロッコ北部のエル・クサールという地方で騒動が起こったのだが、これを鎮圧するためにスペイン軍が出動して町2つを占領してしまったことがドイツを刺激したようである(南村隆夫著『モロッコ近代外交史』)。フランスはともかくスペインまでもがモロッコに地歩を固めるのは面白くない、ドイツも「モロッコ菓子」の分け前に与りたい、と。アガディールは海軍基地として有望であり、後背地には鉱物資源が見込まれていた。(註3)

註3 フランスとスペインが将来モロッコを分割する約束を交わしていることをドイツは知らなかった。


 しかし実はフランス政府は、ドイツがアッカ反乱におけるフランスの行動にケチをつけてくるであろうことを事前に予測しており(実際にはそういう形にはならなかった訳だが)、ドイツに対して何らかの餌を与えてその口を封じるのが望ましいと考えていた(前掲書)。その「餌」というのはフランス領コンゴ(註4)の一部である。フランスとしては内心では「何でドイツなんかにそんなことをせにゃならんのか」というところであるが、当時のドイツの軍事力はフランスより優っていたし、ロシアがどう動くかいまいちよく分からなかった(註5)ため、この程度の譲歩は必要と思ったのである。

註4 非常に紛らわしい話だがコンゴにはベルギー領コンゴとフランス領コンゴがある。前者が現在の「コンゴ民主共和国(旧ザイール)」、後者が「コンゴ共和国」である。

註5 フランスとロシアは1894年以来同盟関係なのは既に述べた通りだが、フランスはいまいちこの同盟国を信用していなかった。

 そんな訳で独仏両国政府は今後のモロッコの取り扱いについてとコンゴ譲渡に関する話し合いを開始したのだが、何はともあれドイツがアガディールに軍艦を派遣したことは世界の耳目を集めるのに充分な大事件であるには違いなく、そのどさくさにイタリアがオスマン帝国領のリビアへと派兵する「伊土戦争」(註6)が発生した。ずっと前に述べたがイタリアは1902年の時点でフランスと「イタリアはリビア、フランスはモロッコに影響力を持つ」旨の協定を結んでいた。

註6 これについては当サイト内の「イタリアのアフリカ侵略」を参照のこと。

 独仏の話し合いは難航した。ドイツは一時はフランス領コンゴを全部寄越せとか言って緊張が走ったが、そのことでイギリス世論まで怒らせた。ここで何故イギリスが出てくるのかを時間を遡って説明すると……。

 ドイツとイギリスは、実は1900年頃には同盟を結ぼうという程に接近していた。しかしその頃イギリスと対立していたロシア(註7)との関係をこじらせる可能性を憂慮したドイツ(註8)は結局この英独同盟構想を採用せず、むしろ中東方面に経済進出したり海軍を大増強したりしてイギリスの神経を苛立たせる方策を採用した(註9)。ドイツは自国の力を過大に、イギリスの力を過小に評価しており(註10)、イギリスをビビらせることで英独友好の重要性を認識させようとしたのである(註11)。しかし……、その時点(1900年頃)ではイギリスはどことも同盟を結んでいなかったのだが、1902年にまず日本と同盟(註12)、1904年には既に詳しく解説した「英仏協商」を締結するに至った。とはいってもイギリスにとって英仏協商とはあくまでフランスとの植民地の切り分けに関する協定であってドイツに備えるものではなかったのだが、1905年3月の「タンジール事件」におけるドイツ(中東進出や海軍増強によってイギリスに脅威を与えている国)の活発な外交攻勢を見たイギリス政府はドイツとの戦争という事態も想定するようになり、1905年8月には日英同盟を拡大強化、同年10月には当時の軍艦の常識を凌駕する新鋭戦艦「ドレッドノート」の建造に着手、さらに1907年にはロシアと「英露協商」を締結した(註13)。ドイツの方は1906年に海軍のさらなる増強をぶちあげており、そんな最中に起こった「アガディール事件」はイギリス世論を刺激するのに十分以上であった。ただ、イギリスもフランスもこの事件が起こった時は労働問題で揉めており、ドイツとしてはその機に乗じたつもりだったようだが……。

註7 イギリスはその頃植民地の獲得競争においてアフリカでフランスと、アジアでロシアと対立しており、その負担を軽減するためにドイツと結ぼうとしたのである。

註8 独英同盟が成立した場合、独露関係が悪化する可能性が大である。

註9 イギリスにとって最も重要な植民地はインドだが、中東はイギリス本国とインドの連絡を遮断しうる地域である。また、ドイツが海軍を増強した場合、その脅威を最も強く感じざるを得ないのはドイツと北海を挟んで向かい合うイギリスである。

註10 19世紀後半〜20世紀初頭におけるドイツの経済成長は目を見張るものがあり、1890年代に重工業でイギリスを抜き、20世紀初頭に国民総生産成長率でイギリスの2倍、1913年に世界の工業生産に占める割合でイギリスの1.5倍に達していた。

註11 ただ、ドイツが海軍を増強したのは、海外植民地の獲得に必要だったからでもある。当時のドイツは厄介な国内問題を抱えており(農業の関税問題で揉めていた)、「世界帝国ドイツ」の建設を喧伝することで国民の目を外にそらそうという意図があった。

註12 日本と結んだのはロシアに備えるためである。イギリスは最初はこの役をドイツにやらせるつもりでいたのだが、ドイツが乗ってくれなかったのでかわりに日本と結んだのである。

註13 ロシアは1904〜5年の「日露戦争」で日本軍に敗れたためイギリスにとってさしたる脅威ではなくなっていたし、フランスがイギリスとロシアの関係を取り持とうとしていた。フランスとしては英仏露の3国が揃ってドイツに対抗するのが最も望ましいからである。英仏は敗戦で疲弊したロシアに巨額の借款を提供し、ロシア政府の頭があがらないように工作した。ちなみにドイツもロシアと結びたがっていたが、これはロシア側に拒絶された。ロシアは19世紀の末以来フランス資本の援助で工業化に励んでいたため、ドイツと結んだりしたらフランスが怒ってロシアへの投資を引き上げる可能性があったからである。


 そして1911年11月4日、「独仏協定」が成立した。ドイツは今後「モロッコにおいて、経済的利益のみを考えそれ以外の利益は考えない」「モロッコの健全な政府のために必要な、あらゆる行政上、司法上、経済上、財政上及び軍事上の改革の導入に当たり、これに援助を与えるフランスの行動を妨害しない」「フランスが秩序の維持と商取引の安全につき、必要があると判断するモロッコ領土を軍事的に占領し、しかもモロッコの陸上及び海上において、警察上の行動を行う権利を、ドイツ政府としてはなんら妨害しない」「スルタンが外国におけるモロッコ国民と利益を代表すること及びその保護をフランスの外交官領事官に託する場合、ドイツ政府はこれを妨害しない」「スルタンがモロッコにいるフランスの代表に対し、外国の代表への仲介を依頼してくる場合、ドイツ政府はこれに異議をはさまない」等々の約束が定められた。そのかわり、フランスはコンゴの一部をドイツに譲り、さらに「フランス政府は、モロッコ政府が国によりまたはその国民により、差別的取り扱いをなさしめざるようにし、また例えば度量衡、検印などにつき、特にある国の商品を劣位におくが如き措置は一切とらせないようにする」といったような、ドイツが今後もモロッコで経済活動を続けていくことを保障する措置が講じられた。

   フェズ条約   目次に戻る

 こうして、モロッコに対するフランスの侵略を掣肘する国はひとつもなくなった。モロッコとフランスは翌12年3月30日をもって「フェズ条約」を締結、その後のモロッコはフランスの「保護国」という立場に置かれることとなった。「保護国」というのは植民地制度の一種で、スルタンはその位と権威と政府と軍を保ちつつも外交や軍の指揮権を宗主国(フランス)に委ね、内政についてのみ一定の自治権を行使するというものである。

 フェズ条約の内容は以下のようなものであった。「スルタンは、フランスがモロッコにおいて行政上、司法上、教育上、経済上、財政上及び軍事上の諸改革を行うことに同意する」「フランス政府は、秩序と商取引の安全維持のため、予めモロッコ政府に通報したうえで、モロッコ領土の軍事占領と陸上および海域において、警察上のあらゆる行動を取ることが出来る」「フランス政府は、スルタンの身体あるいはスルタン位を脅かし、あるいは国家の平穏を危うくするすべての危険に対し、スルタンあるいはその後継者に支持を与える」「スルタンのもとに、フランスを代表し条約の実施を監視する統監1名を置く。統監は諸外国との関係では、スルタンの唯一の仲介者である」「スルタンの発するすべての勅令は、フランス政府の名で認可し公布される」「外国にあるモロッコ人の利益の代表と保護は、フランスの外交官と領事官が当たる。スルタンは国際的性格を有する、いかなる文書も締結しない」「スルタンは、直接的あるいは間接的にせよフランスの同意なくして、将来いかなる借款条約も結ばず、また利権も与えない」。ただし、アルヘシラス議定書や独仏協定によって他国に約束されていた利権については今後も尊重しなければならない。

 スペインの権益については同年11月27日に「仏西協定」が結ばれて両国によるモロッコ分割の詳細が定められ、ここに「フランス領モロッコ」と「スペイン領モロッコ」が出来上がった。形式的にはスペイン領にはスルタンの代理者「ハリファ」が派遣されて支配にあたるのだが、実権はスペイン政府が派遣する高等弁務官が握ることになる(ハリファ職もスペイン側の提出する候補者リストからスルタンが選んで任命するというものであった)。フランス領の首都はフェズに、スペイン領の首都はテトワーンに定められた。

 シブラルタル海峡に面する貿易港タンジールとその周辺地域373平方キロメートルのみはフランス領にもスペイン領にも含まず、国際管理下に置くことになった。ここの行政を具体的にどんな形にするかの話し合いは1914年に勃発した「第一次世界大戦」のせいで遅れたが、22年の「ロンドン国際会議」においてスルタンの主権のもとにおいて非武装・永世中立地域とすることが決定、フランス・スペインが各4名、イギリス・イタリアが各3名、アメリカ・オランダ・ベルギー・ポルトガルが各1名、それからアラブ・ベルベルあわせて6名とユダヤ人3名からなる「国際立法議会」が施政を担当することとなった。

               

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