ネルソン提督伝 第4部 アブキール

   エジプト遠征   目次に戻る

 ここで話をフランス視点に切り替える。オーストリアを打ち負かしたあと新たにイギリス方面軍の総司令官に任じられたナポレオンは、まずエジプトを征服し、そこを足場にしてイギリスの最重要植民地インドを奪うという壮大な計画を考案した。さらにスエズ地峡に運河を開削し、その「スエズ運河」をフランスが独占してしまえば、喜望峰ルートで東洋に向かうしかないイギリスの通商は甚大な打撃を受けることになる。それにナポレオンは、自分がエジプト征服という大事業を成し遂げることによって古代マケドニアのアレクサンドロス大王のような歴史的栄誉をその手に掴みたいという個人的な野心を抱いていた。フランス政府としてはそういうナポレオンの鼻息の荒さに警戒心を抱かないでもなかったため、むしろ彼をエジプトに行かせることでていのいい厄介払いになるかもしれないと考え、この構想を認可することにした。

 と、そんな訳で編成された「エジプト遠征軍」の根拠地となったツーロン港には戦列艦13隻、フリゲート艦7隻、その他小型艦艇79隻、さらに陸軍部隊3万5000名と馬匹1300頭と大砲171門と火薬4万5000トンと食糧2ヶ月分を詰め込んだ輸送船約280隻からなる大船団が集結……総人員数5万1000名……し、護衛艦隊の司令長官にはフランソワ・ブリューイ提督があてられた。戦列艦の内訳は124門搭載の「オリアン」、80門搭載の「トナン」「フランクラン」「ギヨームテル」、74門搭載の「ププルスヴラン」「ウルー」「スパルティアト」「アキロン」「ゲリエ」「メルキュール」「ティモレオン」「ジェネルー」「コンケラン」である。しかしこの艦隊の目的地はごく一部の幹部(40名)以外には知らされておらず、むろんイギリス側の知るところともなっていなかった。イギリスはツーロンに大艦隊がいることは探知していたが、それがどこを目指すかについては、フランス側が偽情報を流したこともあって全く掴めないでいたのである。

 ちなみにフランス海軍の士官はほとんどが貴族階級の出身だったことから革命の勃発とともにその大半が外国に亡命してしまっていたが、そんな中にあってブリューイは……貴族出身であったにも関わらず……例外的に母国に踏みとどまって海軍の維持に尽力し、ナポレオンのイタリア遠征を海上から援護したりしていた。しかし彼からすれば今回のエジプト遠征作戦は準備が不足しており、どの艦も余計なものを積みすぎて重量オーバー、乗組員は訓練不足で、「(航海中に)敵と遭遇したらどんな結果になるか責任が持てない」と明言していた。特に旗艦「オリアン」には輸送船に入りきらない陸兵に加えてナポレオンとその幕僚たちが乗組んできたことから定員を倍もオーバーし、にもかかわらず砲術要員が不足していて陸兵に手伝ってもらわねばならなかった。ナポレオン……実は少年時代には海軍士官を志望したこともあったが……は船のことなんか何も知らないのにブリューイの仕事にあれやこれやと口出しした。

 4月末、カディス沖に到着したネルソンはただちにツーロン偵察を命じられた。イギリスにとっての最大の問題はフランス艦隊の動向であり、それを知るためにはスペイン艦隊に対する封鎖が多少おろそかになるのも仕方がない。ちなみにこの重大任務をネルソンに任せるというのは本国の海軍本部委員会第1委員ジョージ・スペンサーの意向……彼はサンヴィセンテ岬の海戦の時からネルソンに注目していた……でもあり、彼からジャーヴィス提督にその旨を薦める書状が送付されていが、ジャーヴィスの方はその書状が届く前にネルソンにツーロン行きを命じていた。本国ではスペンサー以外にも元コルシカ総督のエリオットがネルソンを推薦していた。

 という訳で、ネルソン率いる戦列艦「ヴァンガード」「オリオン」「アレグザンダー」とフリゲート艦4隻からなる小艦隊は久しぶりにジブラルタルをこえ、5月17日にはツーロン沖に到達した。ところが、19日に入ると北西から強風が吹きつのってきたため、ネルソンはやむなく艦隊を退避させることにしたが、フランス艦隊はまさにその北西の風にのって出帆していってしまった。

 ネルソンにとって不幸だったのは、彼らが退避したところでさらに大暴風雨に遭遇し、旗艦「ヴァンガード」がマストを折られるという大損害を被ってしまったということである。やむなくネルソンは中立国サルディニアの港に無許可で乗り込んで損傷艦を修理することにしたが、指揮下の艦のうちフリゲート艦3隻はサルディニアではなくジブラルタルに行くものと勘違いしてそちらに行ってしまい、そのまま帰ってこなかった。中立国なうえに大した港湾設備もないサルディニアよりも味方の一大拠点で設備もそこそこ整っているジブラルタルを選ぶと思うのが普通であるが、ネルソンはサルディニアでの応急の処置だけで「ヴァンガード」を完全に修理してしまった。しかし、ネルソンが31日にツーロン沖に戻った時には港内はもぬけのからとなっていたのであった。

   追撃開始   目次に戻る

 話はかわるが、イギリス本国政府は、もう一度オーストリアを味方に引き込むために、地中海艦隊を大増強してその主力を再びジブラルタルの東へと送り込む決定を下していた。こうして増援を受けたカディス沖の地中海艦隊は、すでに地中海に入っているネルソンに対し10隻の戦列艦を送り出した。これは6月7日にはツーロン沖に到着、ネルソンは戦列艦13隻という堂々たる艦隊をもって、ようやく本格的なフランス艦隊追撃を開始することが出来るようになった。新着の艦は「カローデン」「ゴライアス」「ミノトー」「ディフェンス」「バレラフォン」「マジェスティック」「ゼラス」「スウィフトシュア」「シーシウス」「オデイシャス」、全て74門搭載で、やや遅れて50門搭載の小型戦列艦「リアンダー」が合流してきた。敵フランス艦隊は大規模な輸送船団を連れていることから足が遅く、とにかく捉まえさえすればこちらのものである。

 戦列艦の艦長たちはネルソンとほぼ同年代でお互いのことをよく見知っており、ネルソンは後に彼らのことをシェークスピアの戯曲『ヘンリ5世』の台詞にあやかって「兄弟の一団」と呼んだ。何人か名前をあげてみれば、お馴染みのトルーブリッジ艦長や、サンヴィセンテ岬の海戦やテネリフェ島攻略に参加したサミュエル・フッド艦長、これもテネリフェ島で戦ったトマス・トンプソン艦長、それから、元「アガメムノン」艦長で、ネルソンが右腕の治療をしていた時期にもずっと「シーシウス」の艦長をつとめていたラルフ・ミラーといったメンツである。また、最初に地中海に入った時からネルソンの指揮下にいた戦列艦「アレグザンダー」のアレグザンダー・ボール艦長(艦と同じ名前なのは偶然です)もこのグループの切っても切れない一員となった。彼の「アレグザンダー」は「ヴァンガード」が大暴風雨でマストを失った時に危険を顧みずこれを曳航した……一時は極めて危険な情況となったためネルソンに曳航索を切るよう命令されたが拒絶した……ことにより、ネルソンに強く感謝された。実はそれまでネルソンはボールのことを「お高くとまった洒落男」と見なしてあまり好感を持っていなかったのだが、暴風雨を境にして急速に打ち解けたのであった。(ただし、「オリオン」のジェイムズ・ソーマレズ艦長はネルソンとは全く打ち解けなかった。彼はサンヴィセンテ岬の海戦にも参加しており、その時のネルソンのスタンドプレー的な戦いぶりを苦々しく感じたといわれている)

 それから、普通は10隻を越える艦隊ともなると司令官(ここではネルソンのこと)の下に副司令官とかの格下の提督が1人か2人は配属され、例えば分遣隊を出す時には彼らに指揮を任せることになるのだが、当時の地中海艦隊にはネルソンよりも若い(後任の)提督が1人もいなかった(先任の提督は何人もいた)ため、ネルソン艦隊はネルソン以外に提督がいないという奇異な組織になってしまった。不便と言えば不便だが、ネルソン1人だけの考えで思う存分腕を振るえるということでもある。地中海艦隊の組織でネルソンよりも先任の提督たちは自分たちを差し置いてネルソンなどという若造にかような重要任務が与えられたことに不満を示したが、ジャーヴィスとスペンサーがあくまでネルソンを庇ってくれた。(本稿では以降、ネルソン艦隊のことを単に「イギリス艦隊」と表記する)

 しかし、フリゲート艦3隻と離ればなれになってしまったことは大きく響いた。艦隊の目ともいえるフリゲート艦が1隻しかいない状態のまま、イギリス艦隊はコルシカ島からナポリにかけての海域をくまなく捜索するが、何も見い出すことが出来ないまま時間ばかりが過ぎていく。ネルソンの焦燥は気も狂わんばかりである。

   東地中海一周   目次に戻る

 フランス艦隊は6月9日にマルタ島を占領し、9日間同地に留まった(700万フラン相当の品物と真水、薪、野菜と羊400頭を奪った)後さらに東へと動いていた。マルタ島というのはヨーロッパ人による聖地(エルサレム)巡礼のルートを守るために1113年に創設された「聖ヨハネ騎士団」が支配するれっきとした独立国で、16世紀にはイスラム海軍の大規模な攻撃を受けるも相手に大損害を与えて撃退したという輝かしい歴史を有していたが、この頃にはすっかり衰えて騎士団の老齢化が進んでおり、突如現れたフランス艦隊の前にあっさり敗北したのであった。

 ネルソンは22日になってやっとフランス艦隊によるマルタ島占領の情報を入手、さらに「フランス艦隊は16日にマルタ島を出帆した」という通報を受けた。ネルソンはフランス軍が東地中海最大の要地であるエジプトを狙う可能性についてはとっくに思い至っていたが、しかしシチリア島を攻撃する可能性も考えられ、なかなか判断がつかなかった。シチリアはナポリ王国の領土であり、そのナポリはこの頃は中立を宣言していたものの、フランスに一方的に攻撃される可能性なきにしもあらずだったのである。しかしやがて「フランス艦隊はシチリアを素通りして東に向かった」との情報が入ったことによってネルソンは敵艦隊の目的地はエジプトであると断定、一路エジプトの外港アレクサンドリアへと直進することにした。

 確かにフランス艦隊はエジプトに向かっていたが、そのマルタ島出帆は16日ではなく18日であった。しかも、フランス艦隊はネルソンの追撃をかわすために、大きく北に迂回してクレタ島の南をかすめる航路をとっており、そのせいで、追撃をいそいで東へと直進するイギリス艦隊は、フランス艦隊よりも先にアレクサンドリアの沖に着いてしまった。これが6月29日であり、フランス艦隊の行き先を断定してから6日間で700マイルの距離を駆け抜けてきた勘定である。

 しかし当然アレクサンドリア港は(地元の軍艦と商船が何隻かいたのをのぞけば)空っぽである。ネルソンは敵艦隊の目的地はエジプトではなくシリアであると考え直し、さらに東へと進んでいった。フランス艦隊はそのわずか2日後(7月1日)にアレクサンドリアに到着、まさにタッチの差でイギリス艦隊の追撃をかわすことが出来たのであった。実は両艦隊は6月22日の夜にニアミスになっており、その時イギリス艦隊の方は霧のせいで全く気付かなかったが、フランス艦隊は相手の(霧の中で迷子艦が出ないようにするための)号砲を耳にしていた。

 当時のエジプトは「マムルーク」と呼ばれるイスラム系の騎士集団によって支配されていた。アレクサンドリアで3日かけて上陸したフランス軍は7月13日の「シブラキットの戦い」と同月21日の「ピラミッドの戦い」においてマムルーク軍を大破、エジプト首都カイロを制圧した。ナポレオンの有名な台詞「兵士諸君、ピラミッドの頂上から4000年の歴史が諸君らを見下ろしているぞ!」はピラミッドの戦いの時に吐かれたものである。

 イギリス艦隊の方はその後もシリアからアナトリア(トルコ)の沿岸までフランス艦隊の影を追い求め、7月24日には東地中海を一周する形でシチリア島まで戻ってきた。ナポリ王国政府はあくまで中立であったが、(イギリス艦隊は)どうにか必要な物資全てをシチリアの港シラクサにて調達出来た。ネルソンが本国の海軍本部にあてた手紙に述べて曰く、「たとえ敵が地球の裏側に行こうとも、必ずやこれを捕捉して見せましょう」。しかし、この時点でわかっていたのは、フランス艦隊は少なくともイタリアより西にはいないという恐ろしく漠然としたことだけであった。

 7月25日、イギリス艦隊はシラクサ港を出帆し、今度はキプロス島に向かった。その途中の同月28日、トルーブリッジ艦長の戦列艦「カローデン」が情報収集のためにギリシア南部のペロポネソス半島のコロニ港に立寄り、そこでようやく現地の役人から「フランス軍エジプト上陸」の確報を得た。イギリス艦隊は再びアレクサンドリアへと進路を取り、今度こそフランス艦隊を捕捉・殲滅せんとの決意をかためたのであった。それからついでに、「カローデン」はコロニ港でフランス商船を1隻拿捕しており、積荷のワインを艦隊みんなで賞味した。

   フランス艦隊の布陣   目次に戻る

 さて一方フランス艦隊は、陸軍を上陸させた後もアレクサンドリアの沖合に留まっていた。水深の浅いアレクサンドリア港では戦列艦のような大型艦の停泊に適さなかったためであるが、艦隊司令長官ブリューイとしては外海に出ておいた方がよいと考えた。そうすれば、イギリス艦隊がアレクサンドリアに再び来航した場合、その背後をとることが可能となる。しかし、手許に大艦隊を置いておきたいナポレオンは艦隊の出帆を許さず、結局小型艦と輸送船団はアレクサンドリア港に、戦列艦とフリゲート艦からなる主力艦隊はその東北24キロにあるアブキール湾にそれぞれ停泊することになった。(以後、後者のことを単に「フランス艦隊」と表記する)

 海のことに関してはナポレオンよりもブリューイの方が数段詳しかったのだが、ブリューイという人物はナポレオンのことを誠実に崇拝しており、その命令はほとんどなんでも黙って実行する性質であった。せいぜい、ナポレオンが戦列艦もアレクサンドリアに入港させろと主張したのに対して、それは不可能ではないが、波のない順風の時に1日に1隻か2隻づつの割合で入港させねばならず、それは出港する時も同じなので、イギリス艦が1隻でも現れたら封鎖されて身動きがとれなくなると言って反対した程度であった。

 ナイル河口の西、北に向かって開くアブキール湾の内部には広大な浅瀬(座礁の危険がある)があり、フランス艦隊はその北側、浅瀬と深海の境界に沿って戦列艦13隻からなる単縦陣を布いた。こうして浅瀬を背にすればそちら側から攻撃されることはあり得ない。とくに先頭(北西端)の戦列艦「ゲリエ」と最後尾(南東端)の「ジェネルー」は可能な限り浅瀬に接近し、全体としては弓なりの陣形を構える。艦と艦の間は約200ヤード、戦列全体の長さは約2マイルであった。1778年のアメリカ独立戦争の時にセントルシア島にいたイギリス艦隊がこれとほぼ同じ陣形で3倍の戦力を持つフランス艦隊を迎え撃って見事に撃退したという前例があったため、アブキール湾のフランス艦隊としては最良の陣形を選んだつもりであった。

 しかしフランス艦隊は食糧と真水の不足に苦しめられた。ナポレオンが海軍よりも陸軍への給食を優先し、予算も分けてくれなかったからである。水兵たちは千人単位で陸地にあがり、そこらで食糧と水を漁り回った。彼らは風土病か何かで下痢に苦しんでいたという。また、フランス艦隊にはフリゲート艦が何隻か附属しており、普通ならそれらは湾外に出して付近を哨戒させるべきなのだが、ブリューイはそうせずに戦列艦のそばにとどめておいた。その意図は不明だが、使い物になる人員が足りなかったからではないかと思われる。特に艦隊の砲手のうちの経験豊かな人員は陸軍の砲兵隊に引き抜かれてしまっていた。

   イギリス艦隊到着   目次に戻る

 8月1日朝、アレクサンドリアの沖に到着したイギリス艦隊の先行艦2隻が港内にひしめく輸送船団を視認、そこにフランス国旗が翻っているのを見て乗組員一同欣喜雀躍した。続いて別の2隻が午時2時45分頃にアブキール湾に停泊する艦隊を発見する。その時点ではフランス戦列艦の数は13隻にも16隻にも見えた。フランス艦隊がツーロンから消えてから70日も経っていたが、その後の長い長い追跡行は決して無駄になっていなかった。ネルソンは部下たちに日々の猛訓練を課しつつ各艦の艦長を繰り返し旗艦に呼んでミーティングを行い、いざ戦闘突入の際の攻撃方法といったことを練り上げていた。

 イギリス艦隊接近に気付いたフランス側も大急ぎで陸上にいる水兵を呼び戻し、戦闘準備にとりかかった。しかしブリューイ提督は、エジプトに到着したばかりで地理不案内なイギリス艦隊がそんなに急いで攻撃してくる訳でもあるまいと考えた。戦闘はたぶん明日の朝になるだろう、と。ネルソンの方は、フランス艦隊を発見した時点では偵察のためにバラバラになっていた艦隊を急遽呼び集め、それが済むと旗艦の士官たちと共に腹一杯食事した。「明日のこの時間までには、私は貴族の称号を手に入れているか、ウェストミンスター寺院に逝くかのいずれかだ」。イギリス艦隊は午後4時少し前にはフランス艦隊の5キロ手前にまで到達、5時半には旗艦「ヴァンガード」のマストに「各艦もっとも適切なる戦闘配置につけ」という信号旗が掲げられた。そして、そのまま全艦隊でアブキール湾への進入開始である。ブリューイの予測を裏切って、今日(8月1日)中に海戦を挑もうというのである。単縦陣をしいて前進するイギリス艦隊の先頭に立つのは戦列艦「ゴライアス」であった。

 ところで船の錨というのは艦首から降ろすのが普通であるが、場合によっては艦尾からも降ろすことが出来、波や風で艦が振れ回らないようにすることが可能である。フランス艦隊の北西端から180メートルほどのところまで進んできた「ゴライアス」のフォウリー艦長は、フランス艦が艦首からしか錨を降ろしていないことに気がついた。後方にいる「ヴァンガード」上のネルソンもほぼ同時に同じことに気付いた。しかも、アブキール湾(広大な浅瀬がある)のような危険地帯では短めの錨索を用いるべきなのに、フランス艦は通常の220メートルの錨索を用いているではないか。

 ということはつまり、フランス艦が波風によって振れ回っても座礁しないだけの余地が戦列と浅瀬の隙間にあるということである。ここでもしイギリス艦隊がフランス艦隊の北西端に突入して浅瀬と戦列の隙間に入り込めばどうだろうか。敵艦隊のそちら側(左舷側)の防備は手薄な筈(フランス艦隊の全神経は右舷側に集中している筈)である。そこを叩けば勝利は間違いない。しかもこの時の風はまことに絶妙なことに北西(フランス艦隊の先頭)から南東(フランス艦隊の後尾)へと吹いていた。帆船時代の海戦は風上から仕掛ける方が絶対有利である。フランス艦隊と浅瀬の間に突っ込むべし!

 この時のイギリス艦隊の戦力は74門搭載の戦列艦13隻と50門搭載の小型戦列艦1隻、大砲の総数938門、将兵8068名であった。対してフランス艦隊は戦列艦13隻とフリゲート艦4隻、大砲の総数1026門、将兵11230名であった。(フランス側の)戦列艦の内訳は120門搭載が1隻、80門搭載が2隻、74門搭載が10隻。数においてはフランス艦隊優勢、しかし乗組員の技倆においてはイギリス艦隊とのひらきは圧倒的であった。
 
   アブキール湾の海戦   目次に戻る

 アブキール湾の西岸には小さな砲台があって20門の大砲が据えられており、これがイギリス艦隊に対し砲撃を開始したものの、戦列艦に多大の損害をあたえ得るだけの火力は持たず、そのうちに敵味方の艦隊が接近戦に入ったために狙いがつけられなくなってしまった。「ゴライアス」は敵艦砲の猛撃をうけつつもフランス艦隊北西端に位置する「ゲリエ」の艦首と浅瀬の間を突破、目論み通り敵戦列と浅瀬の隙間に突入した。ここから「ゲリエ」に砲撃をくわえつつもう少し前進して敵2番艦「コンケラン」の左舷側(浅瀬側)に錨を降ろし、じっくりと狙いを定めてこれを砲撃、大打撃をあたえた。ネルソンはこの狭い空間では敵艦の横に錨を降ろしてじっくりと戦う方が有利と考え、配下の各艦に対して「隙間に入ったら錨を降ろせ」と命じていた。「ゴライアス」に続いてイギリス側2番艦「ゼラス」も隙間に入り、「ゲリエ」に砲撃を加えてそのマストを全部吹き飛ばした。さらにイギリス側3番艦「オリオン」もまた「ゲリエ」を砲撃しつつ隙間に入る。各艦水深を測りつつの慎重な航行であり、しかももう日が暮れかかっていた。

 入ってみれば隙間は思ったより広く、(その隙間に)フランス側のフリゲート艦が4隻も停泊していた。フランス艦隊としてはもっともっと浅瀬寄りに錨を降ろしたかったのだが、大型艦が多いのである程度の余裕を持たせねばならなかったのである。フランス側フリゲート艦の1隻「セリューズ」が「オリオン」に立ち向かってきたが、「オリオン」のジェイムズ・ソマーレズ艦長は「子童を沈めろ」と一喝して「セリューズ」に斉射を浴びせてこれを撃沈、さらに風にのって南東に進み、フランス側戦列の5番艦と6番艦の横に錨を降ろした。戦列艦というものは普通は(戦力的に違いすぎる)フリゲート艦を攻撃しないというのがこの時代のお約束であったが、「セリューズ」は自分からその約束を破ったためにこういう結果となったのである。

 続いてイギリス側の「オデイシャス」と「シーシウス」が隙間に入る。その後ろに続いていた「ヴァンガード」の甲板に立つネルソンは隙間が味方艦で混雑してきたのを見て取り、「ヴァンガード」とその後続の艦は外海側からフランス艦隊を叩くことにした。つまり挟み撃ちである。しかしここでイギリス側にひとつミスがあり、外海組の戦列艦「カローデン」のトルーブリッジ艦長が早く戦闘に参加したいと焦りすぎたせいで操艦を誤って座礁、以降の戦闘に全く参加出来なくなった。

 フランス艦隊は、敵艦隊がまさか浅瀬と戦列の隙間に入り込んでくるとは想像も出来ず、そのために浅瀬側、つまり左舷の砲列の準備が間に合わず、イギリス艦隊の自由な行動を許すことになった。また、イギリス艦隊の攻撃にさらされたのはフランス艦隊の前半分だけであったが、後半分の艦艇は風上側から入り込んできたイギリス艦隊をうまく攻撃することが出来なかった。それに、フランス艦隊最後尾にいた「ティモレオン」「ジェネルー」「ギヨームテル」を指揮していたピエール・シャルル・ド・ヴィルヌーヴ提督は、こういう場合にどうすべきかの指示をブリューイから貰っておらず、従ってひたすら何もしなかった。しかも、イギリス艦は艦首錨と艦尾錨をたくみに操作して適時艦の向きを変えられるように工夫していたのに対し、フランス艦は通常の艦首投錨だったので艦の向きが風任せになって一定しなかった。

 ただしイギリス艦隊も何から何まで順調だった訳では決してない。「カローデン」が座礁したのは既に述べた通りだし、外海側から攻めていた「マジェスティック」がフランス艦「ウルー」に衝突して大損害を出した。しかも「マジェスティック」側は砲を撃てない位置になってしまったのに、「ウルー」の方は至近距離からバンバン撃ってくる。これで「マジェスティック」のジョージ・ウェスコット艦長が戦死である。何とか回頭して「ウルー」から離れた後は今度は「トナン」に叩かれた。やがて日が沈み、各艦の砲が放つ閃光以外には何も見えなくなった。

 フランス艦隊北西端から7番目に位置するブリューイ提督の旗艦「オリアン」に最初に挑みかかったイギリス艦はヘンリ・ダービー艦長の「バレラフォン」である。敵艦は120門搭載、自艦は74門搭載、しかもフランス艦にとっては戦備充分たる外海側からの攻撃である。「バレラフォン」はたちまちマスト2本を折られて火災を起こし、約200名の死傷者を出した。これに続いた「マジェスティック」の攻撃も失敗におわり、戦況はフランス側有利に傾くかと思われた。しかし、落伍していく「バレラフォン」の位置は僚艦「スウィフトシュア」が引き継ぎ、さらに「アレグザンダー」が「オリアン」の艦尾の後ろを横切って浅瀬側に入り、「スウィフトシュア」とで「オリアン」を挟み撃ちにする態勢をとった。50門搭載の小型戦列艦「リアンダー」も「オリアン」攻撃に参加する。

 話が前後するが、イギリス艦隊1番艦「ゴライアス」が敵戦列北西端と浅瀬の隙間に突入してフランス艦隊への砲撃を開始したのは午後6時半頃であった。フランス側2番艦「コンケラン」は老朽艦であったことから早々と降伏し、1番艦「ゲリエ」は袋叩きにされながらも戦闘を続けたものの、3番艦「スパルティアト」、4番艦「アキロン」、5番艦「ププルスヴラン」は両舷(浅瀬側と外海側)からの猛攻に耐えきれずに8時半頃には降伏した。「コンケラン」は戦闘が始まってから数分の間に乗組員400名のうち120名が戦死、80〜95名が負傷していた。同艦の規定の乗組員数は700名であった。「スパルティアト」はマスト2本を失ったうえに右舷に49、左舷に27もの穴を開けられ、200名以上の死傷者を出していた。

 イギリス側の損害も大きく、旗艦「ヴァンガード」の甲板前部の6門の砲などは砲員が全員死傷しては補充の人員と交替するのを3度も繰り返した。ネルソンも8時を少し過ぎた頃に「スパルティアト」の放ったラングリッジ弾に擦って負傷、軍医のところに担ぎ込まれた。「ラングリッジ弾」というのはフランス海軍が好んで用いた砲弾で、敵艦の帆を引き裂くために釘やボルトや鎖などを円筒形に束ねており、ネルソンは額の右側に長さ3インチほどの裂傷をこしらえた。まぁ見た目ほどには重傷ではなかったのだが、それでも頭骨が1インチに渡って露出し、剥がれた皮膚が見える方の目にぺろりと垂れ下がっていたという。あまりの激痛と鮮血で今度こそ死ぬと思ったネルソンは旗艦艦長ベリーの腕によろめきかかり、「もうだめだ。妻によろしく」と語ったといわれている。軍医に手当てしてもらった1時間後には報告書の口述が出来るほどに回復したのだが……。

 ついでだからこの時代の海戦で使われていた砲弾について説明しておく。ラングリッジ弾以外にも、広範囲の人員を殺傷するためにカンバス製の袋の中に小さな鉄球をたくさん詰めた「ぶどう弾」や、缶に小銃弾を詰め込んだ「ボール弾」といった種類があった。船体を破壊するための単なる鉄球も用いられる。砲弾が人体を直撃すればそいつはほぼ間違いなく死ぬし、命中しなくても軽くこするだけで大火傷、全くこすらなくても、すぐ近くを砲弾が飛んでいくだけで圧力波の衝撃で即死する可能性もあった。

 話を戻して、8時半頃までにフランス艦隊の前半分をほぼ片付けたイギリス艦隊が次に攻撃を集中するのは、ブリューイ提督の旗艦「オリアン」とその前後を固める「フランクリン」「トナン」である。イギリス艦3隻による包囲攻撃を受けた「オリアン」の甲板は死傷者で覆われ、後甲板(艦長や提督の定位置)で指揮をとっていたブリューイも頭部と腕に負傷した。しかしブリューイは軍医のところに行くことを拒絶し、自分のハンカチで傷を縛って止血した。両脚を吹っ飛ばされたにもかかわらず椅子に座って指揮を続けたという説もある。そして次に、イギリス艦「スウィフシュア」の放った砲弾をまともに喰らって身体がほとんどまっぷたつに切断された。ブリューイはそれでも軍医のところに運ばれるのを拒否し、「フランスの提督は後甲板で死なねばならないのだ」と言い残して息絶えた。「オリアン」艦長のビアンカも重傷を負い、傍らにいた息子に逃げるよう命じたが、息子は踏みとどまった。

 9時頃には粘りに粘っていた「ゲリエ」が遂に降伏した。イギリス側は「ゲリエ」に対して20回も降伏を呼びかけていたが、「ゲリエ」側は仮に降伏したいと思っても信号旗を翻すべきマストを全て失い、艦長も戦死していた。そして、いいかげん殺傷に飽きたイギリス側「ゼラス」のフッド艦長がボートで降伏勧告の使者を派遣し、抵抗を止めさせたのであった。

   「オリアン」爆沈   目次に戻る

 10時頃、「オリアン」に火災が発生した。甲板に置いてあるペンキやオイルの缶を事前に片付けていなかったせいといわれている。これを見たイギリス艦「スウィフトシュア」のベンジャミン・ハロウェル艦長は「オリアン」の甲板で動いているものは何でも狙撃せよと命令した。消化作業を妨害するためである。この効果はてきめんで、たちまち猛火に包まれた「オリアン」の周囲にいた艦艇……イギリス艦もフランス艦も……は大急ぎで錨索を切断、「オリアン」から離れた。「オリアン」の火薬庫には何トンもの火薬が満載されており、そんなのが爆発して巻き添えを喰ったりしたら大惨事だからである。しかし「スウィフトシュア」だけは「オリアン」から離れなかった。「スウィフトシュア」は自分よりずっと大型の「オリアン」の艦首の下のところに食い付いており、下手に逃げるよりもそこにじっとちぢこまっている方が安全と判断したのである。ハロウェル艦長は水兵たちが恐怖にかられて勝手に錨索を切ったりしないよう歩哨を立て、バケツと濡れモップを手配して、乗組員に対し何かを被って待機するよう命令した。フランス側では、「オリアン」から離れようとした「ウルー」と「メルキュール」が慌てすぎたのか浅瀬に座礁してしまった。火災の炎熱に耐えられなくなった「オリアン」乗組員が次々と海に飛び込み、イギリス艦が出したボートに拾い上げられた。その頃「ヴァンガード」の艦内で報告書を書いていたネルソンは、「オリアン」が燃えていると聞いて居ても立ってもいられなくなり、上の甲板まで様子を見に行った。

 そして10時15分、「オリアン」は大爆発をおこし、艦内に取り残されていた数百人の乗組員を巻き添えにして沈没した。この時の爆音は10マイル離れたロゼッタに駐留していた(フランスの)陸軍部隊にも聞こえたという。「オリアン」の残骸は近年になって発見されており、水中考古学の研究成果によれば、爆発は2度に渡って起こり、まず主火薬庫が爆発して艦尾を吹き飛ばし、次いで前部の火薬庫が爆発して付近の海に残骸の雨を降らせたという。その爆発がいかに凄まじいものであったかというと、重さ2トンの大砲が艦体から400ヤードも離れたところ(海中)で発見されているぐらいである。

 「スウィフトシュア」は何とか無事であった。イギリス艦「アレグザンダー」のマストに「オリアン」の破片が直撃して火災が発生したが、ボール艦長の迅速な指示で消し止めた。それでも大爆発の後しばらくの間……3分とも1時間ともいう……は敵も味方も撃つのを止めて自然休戦となったが、やがてまた激しい戦闘となる。最初に砲撃を再開したのはフランス艦「フランクラン」で、イギリス艦「ディフェンス」と「スウィフトシュア」に命中弾を浴びせたものの、やがて艦長を含む乗組員の3分の2が死傷、降伏した。

 しかし「フランクラン」の勇戦に元気づけられ、座礁したままの「ウルー」と「メルキュール」や、先刻まで「オリアン」の後ろにいた「トナン」、それからフランス艦隊の後尾にいたためそれまで戦闘に参加していなかった「ティモレオン」がイギリス艦に対する砲撃を開始した。が、日付が変わって午前3時頃には、どちらの艦隊も乗組員が疲弊しつくした(持ち場についたまま眠りこける兵が大勢出たという)ため、再び自然休戦のような情況となっていった。その間、フランス艦隊最後尾を指揮するヴィルヌーヴ提督は、ひたすら何もしなかった(「ティモレオン」も彼の指揮下の艦であったが、勝手に動いたようである)。ヴィルヌーヴは戦死したブリューイ提督に「動け」とは言われていなかったので、軍隊の規律と義務を遵守して持ち場を死守しているつもりであった。イギリス艦隊も、ヴィルヌーヴ隊を放置していた。

 そして8月2日の夜明け、再び戦闘が激化し、「ウルー」と「メルキュール」が降伏した。「ティモレオン」と「トナン」だけはまだ戦い続けていたが、ヴィルヌーヴ提督は悩みに悩んだ末に後日の再戦を期しての遁走を決意した。マストを失いつつも奮戦している「ティモレオン」のトリュレ艦長に信号を発して意見を聞いてみたところ、「可能な限り砲撃を続け、最後には艦に火を放つ」という返事がきた。ヴィルヌーヴは「素晴らしい!」と叫んだ後、手許に残っていた戦列艦「ギヨームテル」「ジェネルー」とフリゲート艦「ディアンヌ」「ジュスティス」の錨索を切断、アブキール湾を脱出して北東へと逃げ去った。これに気付いたネルソンは「ゼラス」を追撃に差し向けた。しかし、「ゼラス」のフッド艦長はやる気満々であったが、艦の方は昨夜の戦闘で激しく痛んでいるということに思い至ったネルソンはすぐに追撃命令を取り消した。ヴィルヌーヴというのは後のトラファルガーの海戦においてフランス・スペイン連合艦隊の司令長官をつとめる人物である。

 「ティモレオン」と「トナン」はその日1日ずっと粘り続けた。イギリス艦隊はこの勇猛ではあるが廃墟同様となった2隻にとどめを刺すよりも、何とか降伏させて拿捕賞金に変えた方がいいと考えた。翌3日、もはや完全に見込みのなくなった「トナン」はイギリス側の説得に応じて降伏した。「ティモレオン」のトリュレ艦長はあくまで初志を貫徹し、乗組員を避難させたうえで艦に火を放った。

 以上、「アブキール湾の海戦」におけるイギリス艦隊の損害は戦死者218名と負傷者677名、どの艦も手ひどい損傷を被ったものの沈んだ艦は1隻もなしであった。フランス艦隊の損害は死傷者と捕虜あわせて3705名、戦列艦2隻とフリゲート艦2隻が沈没もしくは焼却、さらに戦列艦9隻とフリゲート艦1隻がイギリス側に拿捕された(うち3隻は損傷が酷すぎるので焼却)。フランス艦隊は戦列艦13隻のうち11隻を失った訳で、つまりイギリス艦隊の完勝であった。帆走軍艦の時代に行われた海戦でこれほど一方的な勝利は空前絶後であったとされている。ネルソンは部下たちの勇戦を讃え、「艦長、士官、水兵、海兵の全員に、衷心よりお祝い申し上げる。この輝かしい海戦に際しての諸君のあっぱれな行動への、本職からの赤心の感謝を受け止められんことを願う」「固く結ばれた仲間たちを指揮することができて、私は本当に幸福であった。彼等は私の戦術を積極的に理解し行動してくれた」と語った。

 ちなみにイギリス側の負傷者リストにはネルソンはカウントされていない(本人が報告書に記載しなかった)。「スウィフトシュア」のハロウェル艦長は「オリアン」のメインマストの残骸を海面から拾い上げ、それを材料にした棺をこしらえてネルソンに寄贈した。「閣下がこの世での軍歴を閉じられたとき、戦勝の記念の品のなかにおやすみになって頂けるように、との気持ちでございます。とはいえ、かかる最期のときがはるか遠からんこと、切にお祈り申し上げます」。ネルソンはこの贈り物を素直に喜んだ。ハロウェル艦長は94年のコルシカ島での作戦でネルソンと共に戦いサンヴィセンテ岬の海戦の際にはジャーヴィス提督の旗艦に乗組んでいた。

 イギリス艦隊はこの後アレクサンドリア港を封鎖、ナポレオンのエジプト遠征軍はフランス本国との連絡を断たれ、完全に孤立することになった。もしイギリス艦隊に多数のフリゲート艦があったなら、大型艦では入り込めないアレクサンドリア港に突入して港内の輸送船団を焼き払うところであった。

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