アメリカ合衆国大統領列伝 前編

   

   初代  ワシントン

 1732年ヴァージニア植民地うまれ。実家は富裕な農園であったが最初は測量士を目指し、ついで民兵隊の将校として頭角を現す。フレンチ・インディアン戦争に参加するも敗れ、以後政治家として対英闘争に関わる。75年、大陸会議により植民地軍総司令官に任命され、翌年にはボストンからイギリス軍を駆逐する。その後は物量に優る敵軍に苦戦を強いられるが、フランスの参戦によって最終的な勝ちを制する。87年フィラデルフィアの憲法起草会議に参加、誠実な人柄と優れた統率力を買われて議長に選出される。この時つくられた憲法案が各州の承認を得てアメリカ合衆国が成立すると、全選挙人69人の支持を受けて初代大統領に選ばれるが、この頃にはすでに連邦派と共和派の対立が始まっており、その関係調整や蒸留酒に対する消費税に反発する西部の農民達との総論、フランス革命への対応に苦慮することになった。ワシントンは97年に3選出馬を辞退して政界から退いたが、このことは大統領は2期までだけという慣行をつくるきっかけとなった。

   

   第2代 J・アダムズ

 1735年マサチューセッツ植民地うまれ。大学は神学部であったが卒業後は弁護士となり、印紙条例反対闘争などで活躍する。独立前後は外交官として駐イギリス大使等を歴任した。ワシントン時代には中央集権を主張して反対派のジェファーソンと対立するが、97年にはジェファーソンを破って大統領に就任する。アダムズは有能な人物ではあったが政治的手腕は不足ぎみであり、おなじ連邦派に属するハミルトンとも対立する始末であった。外交面では、当時ヨーロッパで革命を進行中のフランスが保守的な連邦派にとって大きな脅威と考えられていたのを、フランス外相タレイランが米仏戦争回避の交渉開始の条件として莫大な賄賂を要求してきたことから両国の関係が一挙に悪化した。しかしこの時点での戦争回避を望むアダムズは周囲の反対を押し切って、対フランス関係の修復に成功した。が、フランス流の急進派を取り締まるために制定した帰化法や治安法が大変な悪評をよび、1800年の大統領選挙にて政敵ジェファーソンに僅差で敗れたのであった。

   

   第3代 ジェファーソン

 1743年ヴァージニア植民地うまれ。33歳の時大陸会議に参加して独立宣言を起草する。その後も駐フランス大使・ヴァージニア州知事等を歴任し、連邦政府発足後には国務長官・副大統領をつとめて1800年には大統領に就任する。しかし彼の名声の第一は独立宣言起草によるものである。その原形となったのはロックの自然権「生命・自由・財産」のうちの財産を「幸福の追及」に修正し、人々はそれらの権利を追及するために政府を設立し、そうした本来の目的を破る政府を廃止するのは国民の義務である、と表明し、君主制を完全に否定して共和国の建設を宣言するというものであった。また、彼は建築家としてもその才能を発揮し、自ら創設したヴァージニア大学の講堂、ヴァージニア州議会議事堂の設計等を手がけた。さらに自分の農園に百数十種の植物を栽培し、インディアンのための聖書の編纂まで行なった。政治家としては、1803年のルイジアナ買収、軍備の縮小、連邦公務員の徹底削減等でその辣腕を振るった。ただし本人は奴隷主であった。

   

   第4代 マディソン

 1751年ヴァージニア植民地うまれ。29歳で大陸会議の代議員となり、87年の合衆国憲法制定会議にて主要な役割を果たし「合衆国憲法の父」とよばれる。また、ハミルトンと共同であらわした「ザ・フェデラリスト」は、合衆国憲法の最良の注解書とよばれている。ジェファーソン政権下では国務長官をつとめ、1809年には大統領に就任した。しかし彼はナポレオン全盛期の英仏両大国への対応に苦慮し、12年にはイギリスに宣戦を布告するに至った。この戦争は反対派から「マディソン氏の戦争」と揶揄され、少数のイギリス軍を相手に各地で苦戦してホワイトハウスが焼き討ちされるという事態までおこった。しかし戦争自体はナポレオンの没落によって終結し、その講和締結の報が届く直前にジャクソン将軍がニューオルリンズの戦いにて大勝したことにより独立国としての名誉を保つことが出来た。米英両国はこれ以後銃火を交えることはなくなった。またこの戦争の間ヨーロッパとの通商が抑えられたことは、国内の製造業が発達する要因となった。

   

   第5代 モンロー

 1758年ヴァージニア植民地うまれ。独立戦争に参加して肩を負傷。マディソン政権にて国務長官をつとめ、16年の大統領選挙に当選する。当時産業革命に入りつつあったアメリカでは北部の工業育成のための保護関税導入を求める声が高まっていたが、南部出身であるモンローはこれになかなか同調できず、19年のミズーリ州の連邦加盟問題等の南北大陸に直面することとなった。外交面では、17年の対インディアン戦争を契機として19年にフロリダをスペインから獲得、その前年にはカナダとの国境を確定し、24年に北西太平洋沿岸地方からスペイン・ロシアの勢力を除外して英米のみの共同管理地とした。そして23年大統領教書の一部として発表した「モンロー宣言」は、その後の合衆国の外交政策の基本原則として重要な位置を占めることとなる。これは、南北アメリカ大陸へのヨーロッパ諸国の干渉を排除し、アメリカもヨーロッパへ干渉しないことを宣言したうえで、合衆国の南米やアジア・太平洋における権益の確保を狙う、というものである。

   

   第6代 J・Q・アダムズ

 1767年マサチューセッツ植民地うまれ。第2代大統領J・アダムズの息子。父と同じく有能な人物であったが性格は頑固で人付合いが悪かった。少年時代は外交官の父とヨーロッパの各地を転々とする。成人後はやはり外交官としてオランダ・プロイセン・ロシアに赴き、さらにモンローの国務長官となって外交上の諸問題や対インディアン関係に取組む。1824年の大統領選挙にて対立候補のジャクソンに敗れるが、2人とも過半数に達しなかったために下院での決戦投票に持ち込まれ、候補の1人ヘンリー・クレイの支持を受けてなんとか当選を決めた。28年、北部の産業資本の要求する高率の保護関税を導入しようとした際、自由貿易によって立つ南部のプランター達の猛反対をうけた。彼は他にも、農・工・商業の振興、気象台や国立大学の創設、度量衡の統一、運河の建設等を計画したが、議会の反対等でうまくいかず、外交官時代ほどの名声を得ることが出来なかった。28年の大統領選挙で再びジャクソンと争うが大敗し、17年間の余生をすごした。

   

   第7代 A・ジャクソン

 1767年南北カロライナの境界近くの開拓地にうまれ、88年テネシーに移る。96年テネシーの連邦加入の際連邦下院に当選、その後長く不遇であったが1812年の対英戦争の際に復活。イギリス軍に味方するクリーク族を壊滅させ、15年のニューオルリンズの戦いでイギリス軍を破る。28年大統領選挙に勝利、初の西部出身大統領となる。彼はいわゆる「ジャクソン・デモクラシー」を押し進め、生産に携わる農民・プランター・職人・商人等を「真の人民」と呼び、対して働かず生産もしない「金権貴族」、農耕もせずに土地を保有するインディアンを攻撃した。まず30年のインディアン強制移住法によって先住民をミシシッピ以西に逐い、ついで一部有力者の私有物となっていた国立銀行を攻撃するが結果的には不況を招いてしまう。懸案の保護関税に関しては33年に妥協関税を成立させて連邦の分裂を回避し、さらに36年にメキシコから独立した奴隷州テキサスの連邦加入を先送りして北部自由州との対立を回避した。ただし彼本人は奴隷主である。

   

   第8代 ヴァン=ビューレン

 1782年ニューヨーク州うまれ。弁護士を振出しに州上院議員・州検事総長・連邦上院議員をへてジャクソン政権の国務長官に就任。陸軍長官イートンの夫人の出自をめぐる閣僚夫人間の対立の際、イートンと共に辞職して政権を分裂の危機から救い、ジャクソンの深い信頼を得る。32年副大統領に当選、36年に州権主義を唱える民主党から立候補し、こちらは連邦主義のホイッグ党のおすH・ハリソンを破って大統領となるが、就任2ヵ月後に始まった合衆国史上初の大恐慌の責任を追及され、さらにジャクソンの始めたインディアン強制移住法に反対するセミノール族との戦争に苦心するはめになった。また、この戦争の結果フロリダに奴隷制が拡大されるのを恐れる奴隷制廃止論者、それとは逆に奴隷制をしくテキサス共和国の併合を主張する奴隷制擁護論者の双方から批判され、己の立場を鮮明にすることが出来なかった。40年の大統領選挙にも出馬するが、宣伝に巧みな対立候補ハリソンに4倍近い大差で敗れ、48年にもう一度出馬してやはり敗北した。

   

   第9代 H・ハリソン

 1773年ヴァージニア植民地うまれ。1811年ショーニー族の本拠ティペカヌーを焼き払ったことから対インディアン戦争の英雄とよばれ、36年と40年の大統領選挙の際、政策よりも人気によってホイッグ党の候補となる。民主党系の新聞がハリソンの高齢なのをからかって、「彼の余生に必要なのは年金と丸太小屋とリンゴ酒だけだ」と書くと、逆に「丸太小屋とリンゴ酒を愛する」庶民イメージをつくり、丸太小屋とリンゴ酒をつんだワゴンを従え各地をパレード。自分の主義主張には一切触れず、対立候補ヴァン・ビューレンに恐慌の責任を押し付けて大勝する。就任時の年齢68歳、第40代レーガンまでの歴代中最高齢であった。彼はビューレンを、ホワイトハウスで「コルセットと絹の靴下をつけて」優雅な生活をおくる貴族だと宣伝し、自らの庶民性をアピールしたが、実は農民兼居酒屋の子であるビューレンよりも、ヴァージニアの名門出身のハリソンの方が貴族的であった。しかし就任後わずか30日で死去。最も在任期間の短い大統領となった。

       

   第10代 タイラー

 1790年ヴァージニア州うまれ。1816年連邦下院議員に当選、以後ヴァージニア州知事、連邦上院議員をつとめる。民主党に属して連邦権力の強化に反対するが、32年の保護関税問題の際ジャクソンと対立して民主党を脱退、40年の大統領選挙にて、本来主張の異なるホイッグ党から副大統領候補に指名される。翌年のハリソン大統領の急死により大統領に昇格する。しかし、与党の保護関税法案を南部人として拒否し、与党の支持を失ってしまった。とはいっても決して無能だった訳ではなく、41年には開拓民の土地購入に有利な土地先買法を制定、つづいてメイン州とカナダとの国境線を確定し、44年に阿片戦争後の中国と条約を結んで東アジア進出の足掛かりを築いた。同年の大統領選挙でテキサス併合を唱える民主党のポークが勝利すると、それまで北部自由州の反対で棚上げされていた奴隷制テキサス共和国の連邦加入を認め、その2日後にはフロリダ州の連邦加入法案にも署名して大統領としての職務を終了した。南北戦争に際しては南部を支持。

   

   第11代 ポーク

 1795年ノースカロライナ州うまれ。大学卒業後ジャクソンと出会い、民主党員としてジャクソンを助ける。44年の大統領候補を指名する民主党大会の際、テキサスとオレゴンの即時併合を主張して党の指名を勝ち取る。選挙戦本番においては、「北緯54度30分を国境に、さもなくば戦争を」との激烈なスローガンを唱え、対立候補グレイを僅差で破る。45年末にテキサス共和国の併合を正式に承認し、翌46年にはオレゴン・カナダの国境を49度とすることで同地方の併合に成功した。メキシコは旧領たるテキサスの併合を認めず、さらに国境線の確定をめぐって紛争がおこったが、ポークはテーラー将軍を派遣してリオ・グランテ川までの線までの領土確保をはかった。メキシコ軍が川を渡河してテーラー軍と交戦すると、「メキシコ軍がわが領土に侵入した」と戦争熱を煽り、一方的にメキシコ領に侵攻して各地で勝利し、48年の講和条約でカリフォルニア等を獲得した。「明白な運命」を体現し、「咆哮する40年代」の象徴ともいえる大統領である。

   

   第12代 テーラー

 1784年ヴァージニア州うまれ。24歳の時陸軍に入隊し、以後40年間を職業軍人としてすごす。1812年の対イギリス戦争、32年・37年のインディアン戦争等にて指揮官としての名声を確立する。46年、ポーク大統領の指示により、宣戦布告前にもかかわらず4000の兵を率いてリオ・グランテ川まで進撃してメキシコ軍と衝突。宣戦後47年2月にプエナ・ビスタの戦いにて4倍のメキシコ軍を破る。ポーク引退後の48年の大統領選挙の際にホイッグ党から擁立されて、政治経験皆無のまま当選した。そして対メキシコ戦争終結の直前に砂金が発見されたカリフォルニアでは空前のゴールドラッシュがおこって人口が激増したが、奴隷の少ないこの地域の連邦加入をめぐっての南北対立が誘発されることになった。テーラー本人は300人の奴隷を所有する南部の大プランターであったが、政治家として、南部が連邦脱退をほのめかすならただちに軍服に着替えると断言した。しかしテーラーはこの問題が解決をみる前の50年7月に急死してしまった。

   

   第13代 フィルモア

 1800年ニューヨーク州うまれ。開拓農民の子として独学しつつ弁護士となり、33年に連邦下院議員に選出される。ホイッグ党に所属し、48年の大統領選挙の際、職業軍人テーラーを政治面で補佐するための副大統領として擁立される。50年、テーラーの急死により大統領に昇格したが、彼は「丸太小屋からホワイトハウスへ」アメリカン・ドリームを体現した数少ない大統領である。前任者の残したカリフォルニアの連邦加入問題に関し、その自由州としての加入を認めるかわりに、ニューメキシコ、ユタ等を准州としてそれらの進路は住民の意志に任せるものとし、更に、コロンビア地区における奴隷売買を禁止すねかわりに厳格な逃亡奴隷取締法を制定する「1850年の妥協」を成立させて連邦分裂を回避した。しかし、奴隷制に反対するホイッグ党北部派の信望を失って、52年の大統領選挙における同党の指名を受けることが出来なかった。52年にペリー提督を東インド艦隊司令長官に任命し、鎖国日本の門戸を破らせた大統領としても知られている。

   

   第14代 ピアス

 1804年ニューハンプシャー州うまれ。52年の民主党大会において、ほとんど無名ながらも「1850年の妥協」を強く支持して大統領候補の指名を勝ち取る。この後の大統領選挙にも勝利するが、就任早々難問題に遭遇する。1820年のいわゆる「ミズーリ協定」によって36度30分以北は自由州に、以南は奴隷州とするとされていたが、協定線の北に位置するネブラスカ准州の創設は当然南部の猛反発を受けたため、ある民主党議員がこの地域をカンザスとネブラスカの2准州に分割し、奴隷制の可否は各々住民投票にて決するものとする法案を提出してきた。ピアスはこの法案を支持、54年に「カンザス・ネブラスカ法」として成立させた。その結果、とくにカンザスには投票を有利に運ぶための武装した移民が南部・北部双方から殺到して、両者が各地で衝突して「流血のカンザス」とよばれる事態が起こるに至った。この混乱の最中、ホイッグ党が分裂してその一部を含む反奴隷制の共和党が結成され、民主・共和の2大政党の時代が始まったのである。

   

   第15代 ブキャナン

 1791年ペンシルヴァニア州うまれ。ポーク政権の国務長官として活躍する。56年、民主党から大統領候補に擁立され、選挙には奴隷制度には触れず、連邦の存続と国家分裂の回避を訴えて当選を果たす。ブキャナンは個人的には奴隷制に反対であったが、それよりも連邦の分裂を恐れ、カンザスの奴隷制擁護論者の制定した州憲法の承認を議会に求めて却下されたりした結果北部自由州や議会との対立関係を招いてしまう。危機深まる60年の大統領選挙の結果民主党は南北に分裂し、大統領には共和党のリンカーンが当選した。反奴隷制の共和党政権の誕生に奴隷州サウスカロライナが連邦脱退を宣言、つづいて南部6州とともに「アメリカ連合国」を結成する。連邦の存続にこだわるブキャナンは、サウスカロライナ州内に孤立する合衆国軍サムター要塞が南軍によって包囲され、そこに派遣された救援船が追い払われても和解の可能性を捨てなかったが、3月には大統領の任期がきれ、リンカーンに政権を引き渡した。戦争の間は一貫してリンカーンを支持した。

   

   第16代 リンカーン

 1809年ケンタッキー州うまれ。37歳で連邦下院に当選するが対メキシコ戦争に反対して帰郷、以後54年に共和党に入党するまで弁護士として生活した。58年の上院選で破れるがその時の対立候補ダグラスとの論争で名声を獲得、60年の大統領選挙にて当選を果たす。翌年4月、就任してすぐサムター要塞が陥落、リンカーンも統一連邦の回復を旗印に義勇軍を招集して、ここに「南北戦争」が勃発する。戦争は当初苦戦の連続であったが62年、西部の開拓農民に土地を与えるホームステッド法によって彼等の圧倒的支持を得、つづく63年元旦に奴隷解放宣言を発布、自由のための戦いとの戦争目的を全世界にしらしめた。さらに保護関税よって北部産業の育成をはかり、外国移民を積極的に受け入れて北部の絶対的優位を確立、65年リー将軍の降伏により最後の勝利を得た。戦後は寛大な南部再建策を用意していたが、4月14日のフォード劇場にて暗殺者の凶弾に倒れた。歴代大統領中最高の評価を受けており、「キリスト以来最大の偉人」と称される。

   

   第17代 A・ジョンソン

 1808年ノースカロライナ州うまれ。貧困のうまれであったがわずか22歳でグリーンビルの市長となり、以後下院議員・テネシー州知事等をつとめる。南部プランターの貴族性を嫌い、自作農の創設をはかる自作農場法を議会に提出するも残念ながら却下される。南北戦争勃発に際し、南部人でしかも民主党員でありながら北軍を強く支持、最前線のテネシー州知事兼義勇軍准将に任命される。64年の共和党・民主党北部派の統一党大会にてリンカーンの副大統領に指名されるが、その時再選したリンカーンの就任演説の際、酒に酔った状態であらわれたとの逸話が残っている。翌年リンカーンの死により大統領に昇格する。南部再建には寛大な政策を打ち出すが議会の共和党急進派の反発により挫折し、68年その急進派に属する陸軍長官スタントンを罷免したことから議会の弾劾裁判にかけられることになった。裁判の結果わずか1票差で無罪となったものの、以後大統領としての政治力を失い、以降の南部再建は共和党急進派の手によって行われることとなった。

     

   第18代 グラント

 1822年オハイオ州うまれ。17歳で士官学校に入学、卒業時の成績は39人中21番であった。対メキシコ戦争に活躍するが酒に溺れ、32歳で退役する。以後の十数年は様々な事業に手を出しては失敗していたが、南北戦争にて連隊長に復帰、ミシシッピー河流域の西部戦線で大活躍、ヴィクスバーグ、チャタヌーガ、コールド等に南軍を連破、64年3月には北軍の司令官に任命される。翌年4月9日アポマトックスにて敵将リーの降伏をうけ、南軍の下士官・兵の武装は解除したが士官の武装はとかず、南軍の善戦を讃えた。69年に共和党に擁立されて大統領になる。戦争により急成長した北東部では続々と大企業が成立していたが、2期8年続いたグラント共和党政権はこれら大企業の利益を重視するあまり酷い汚職政治を現出し、各省庁は公然と賄賂を受け取る有り様となった。とくにユニオン・パシフィック鉄道の建設に関するクレディ・モビリエ事件は悪名高く、後世の史家に「将軍としては一流、大統領としては歴代中最低」という評価をうけている。

   

   第19代 ヘイズ

 1822年オハイオ州うまれ。南北戦争では少将として活躍し、戦後オハイオ州から連邦下院に当選、その後オハイオ州知事を3期つとめ、好評判を得て、76年に共和党から大統領候補に指名される。当時の共和党政権は汚職つづきで信用を失っていたうえに南部は共和党の軍政に反発して民主党支持に結束しており、大統領選でも相当の苦戦が予測された。結果は民主党有利と思われたが、西部オレゴンと南部3州の選挙人投票に疑惑がもたれたために紛糾が起こり、結局ヘイズが4州すべての支持を得て大統領の地位を獲得した。実はこの時の選挙には明らかな不正があったのだが、共和・民主の両党間で秘密の会合がもたれ、共和党のヘイズの当選を認めるかわりに、南部に対する軍政を最終的に終了し、黒人の公民権を認める憲法修正14条を南部が守らなくても深く追及しないとの合衆国史上最悪の裏取り引きによって決着をつけたのである。ヘイズはこの後政治の浄化を目指すが議会や党幹部と対立し、やる気をなくして次期大統領選出馬を拒否したのだった。

   

   第20代 ガーフィールド

 1831年オハイオ州うまれ。早くに父をなくし、苦学してウィリアムズ・カレッジを卒業、南北戦争直前に州下院議員に当選するが、南軍との戦いに活躍し、わずか31歳という最速記録で志願兵部隊の准将となる。戦争の最中、故郷のオハイオ州では本人不在のままガーフィールドを連邦下院議員に選出し、このため退役して中央の政界に入ることになる。80年連邦上院に当選、同年の共和党大会にて大統領候補に指名される。当時の政界では、優秀な頭脳が発達途上で魅力的な実業界に流れたことから強力な指導者に不足し、ガーフィールドの指名も、規定の票数を獲得する候補が登場するまでに実に36回も投票が繰り返された結果のことであった。つづく11月の大統領選挙に僅差で勝利したガーフィールドの最初の仕事は、選挙での功労者に重要なポストを割り振ることであったが、党幹部や議会との調整がつかないまま時間がすぎ、就任4ヵ月後の81年7月、選挙協力の見返りとして期待していた官職を得られなかった男に狙撃され、2ヵ月後に死亡した。

後編

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