ロシア革命 第1部その2

   

   ロシア社会民主労働党   目次に戻る

 ロシアにおける「マルクス主義」は、『資本論』のロシア語訳が刊行された1872年から始まった。マルクス主義に立つ政治結社は1883年にプレハーノフ等によって結成された「労働解放団」を先駆とするが、これはわずか5人の組織であり、以後ロシア各地にバラバラと生まれ出したマルクス主義のサークルを統合する組織としての最初の党は、1898年に結成された「ロシア社会民主労働党」をおいて他にない。ではそのマルクス主義とは何か?

 マルクス主義においては、人類社会は封建制社会(註1)→(ブルジョア民主主義革命(註2))→資本主義社会(註3)→(プロレタリア社会主義革命)→社会主義社会という段階をたどって発展すると考えられている。イギリスやフランスはすでに資本主義社会に到達しており、ここではブルジョアジー(ブルジョア階級。生産手段(註4)の所有者にして、賃金労働者の雇用者)とプロレタリアート(プロレタリア階級。自分自身の生産手段を持たないので、生きるために自分の労働力を売ることを強いられる、賃金労働者)という2つの階級の闘争が不断に行なわれている。プロレタリアの提供する労働力に対して支払われる賃金は、その労働によって生まれる価値よりも常に少ない、つまりプロレタリアはブルジョアに搾取され、それどころか、本来人間が生産したものにすぎない生産手段に支配されるプロレタリアートは、尊い自己実現であるはずの労働を苦役としか感じられなくなっており、つまり人間性を喪失してしまっている。とはいえプロレタリアートはかような資本主義社会の発展によって生み出される(ブルジョアジーがなければそれに雇われるプロレタリアートも出てこない)ものであり、かような矛盾が限界に達した時に「プロレタリア革命」という大変革がおこるのである。

 註1 主要な生産手段(後述)である土地を国王・貴族が所有し、土地の付属物たる農奴がそれを耕作する社会。

 註2 封建制社会において手工業から発展したブルジョアジー(土地にかわる新しい主要生産手段〈詳しくは後述するが、例えば綿と綿繰り機〉の所有者)は、土地と権力を持つ国王・貴族からの(私有財産と自由な経済活動を得るための)解放を求めることになる。また、ブルジョアジーは自分の生産手段(例えば工場)で働かせる労働力として、それまで土地に縛り付けられていた農奴に注目し、彼等を貴族から解放して自由に雇用出来るようにしようとする。この変革が「ブルジョア革命」である。また、主要な生産手段が、土地(農地)から工場へと移っていく過程「社会革命」は大抵の場合漸次的に進展するが、ブルジョアジーが国王・貴族から権力を奪い取る「政治革命」は短期間に急激に行われるものである。

 註3 いうまでもなくブルジョアジーの支配する社会である。ブルジョアジーに雇われるのがプロレタリアートである。

 註4 「生産手段」とは正確には「労働対象(例えば鉄鉱石)」と「労働手段(例えば工場)」をあわせたものである。これを私的に所有出来るのは社会のごく一部の富裕な人々のみである。

 資本主義社会においては、プロレタリアートを搾取することによって利潤を得るブルジョアジーが政治を支配するが、プロレタリアートもまたこれに対抗して政界に進出し、自分たちが持たずブルジョアジーが独占しているもの、つまり生産手段、の私有制を廃止し、社会化(労働者による共有)しようとする。これが「社会主義」であり、それは究極的には「プロレタリア革命」によって完成され、いずれは階級も搾取もない(註5)理想的社会が実現する、というものである。こんな考えはブルジョアジーにとっては大変な危険思想であり、ロシアのブルジョアが賃金労働者(プロレタリア)主体による革命(それは当然社会主義を指向することになる。少なくともマルクス主義者がその方向にもっていこうとする)を極度に恐れた理由もこれでおわかりいただけたと思う。

 註5 「階級」の違いとは、生産手段を所有しているか否かの違いである。プロレタリア革命によって生産手段の私有を廃止すれば、おのずと階級も搾取も消滅する、ことになる、とマルクス主義者は考えるのである。ホントにそうなるかどうかは筆者の関知するところではない。

 19世紀後半以降、ドイツ等ではかような社会主義を議会や組合の合法的な活動によって実現しようとする「修正主義」が主流となる(註6)が、ロシアではどうだったのだろうか? そもそも20世紀初頭のロシアでは、ブルジョアジーが皇帝や貴族を押し退けて政治を支配する「ブルジョア革命」すら通過していないのである。(つまりロシアは、西欧の資本主義社会よりも遅れた「封建制」の段階にあるのである。第一革命では「ブルジョア革命」としても全くの敗北であった)

 註6 ところで、「社会民主主義」の定義は明確ではない。第一次世界大戦前はマルクス主義者全体を「社会民主主義者」と呼んでいたが、大戦後は修正主義を指すようになる。

   

   党の分裂   目次に戻る

 1903年、ロシア社会民主労働党の第2回党大会が開かれた。この大会において、党は路線をめぐって2派に分裂した。ここで問題になったのは党の組織論である。当時のロシアのマルクス主義者の主流は、プロレタリアートの中から、自然発生的に社会主義思想が生まれるのを待つべきであり、党の構成も、民衆にとって入り易い「大衆の党」であるべきと考えていた。

 これに対抗したのがレーニンである。レーニンは、少数の職業的革命家がプロレタリアートに対して上から社会主義思想へと導かなければならないと考えた。ロシアの民衆は西欧のルネサンスのような人間中心の思想の伝統が欠如(猪木ロシア革命史)したまま(モンゴルの侵入のような)異民族の支配に対抗するための専制を甘受し、気候的要因からくる低い生産力のもとでぎりぎりの生活を送っていた(ソ連現代史)彼等の文盲率は70%にも達していた。ブルジョアジーの搾取を受けるプロレタリアートは本来的に社会主義への意識を内在しているが、現在の(少なくともロシアの)プロレタリアートはそれを表に現す術を持たない。かような「隠れている意識を呼び起こす」のが党の任務である(ロシア革命の考察)。さらに、現在のロシアの帝政が強力かつ非情な警察機構を有している(註1)以上、帝政のスパイが入り込む余地のない、「帝政に対して断固たる戦争を布告する戦闘的な中央集権的組織」としての党が必要である。そして、革命とは、家族持ちの労働者が仕事の余暇に実現出来るものではない。革命とは、しっかりとした理論を持ち、革命のために一身を捧げる職業革命家によってこそなし得るものである。現在の社会主義の基礎を築いたマルクスもエンゲルスもブルジョア出身の知識人であり、ロシアでも、社会主義の理論は、プロレタリアートの成長とは無関係に、教養ある知識人によって形作られてきたのである(註2)。そもそも「マルクスは、プロレタリアートの生成と発展という現実から発展して、プロレタリアートの解放のために革命理論を構築したのではなく、社会主義による人間の解放という理想を、現実に生成したプロレタリアートの階級意識と階級闘争とを媒介として実現しようとしたのであった(猪木ロシア革命史)」本来のマルクス主義はただ単に人間社会の進化の過程を説明する経済理論ではなく、「現実に、早急に必要な大変革のための」革命理論なのである(前掲書)。マルクスにとっては「あくまで革命が先で、プロレタリアートは後であった(前掲書)」すなわち「自然発生的な社会主義思想の発展を黙って待つ」のではなく、「プロレタリアートに社会主義思想を吹き込むことにより、主体的に、直ちに革命を実行する」のである。かような考えは、プロレタリアートや農民がブルジョアジー・皇帝・地主貴族に徹底的に搾取され、早急な革命の待望されていた当時のロシアにぴったり合致するものであった。(このような理想はロシアにおいては軍隊的な中央集権政党によってこそなしとげられうる、という発想が、結局は後のソ連を一部の人間によって動かされる独裁国家へと変質せしめてしいくこととなる。また、「職業的な革命家」を食べさせるために役所からの略奪といった非合法活動も行っていた)

 註1  実はそうでもない。確かに強圧的ではあるが、捕まっても比較的脱走が楽である。例えばスターリンは帝政に6度逮捕されているが、そのうち5度は脱走して党務に復帰している。

 註2  誤解を生みそうな表現であるが、言葉をかえれば、プロレタリアートの側が知識人の理論を利用して自らを高めれば良いということである。レーニンはプロレタリア出身の党幹部を多く養成・登用した。

 結局、党大会における組織にかんする論争「大衆の党か、少数精鋭の職業革命家の党か」は、28票対22票でレーニン派の敗北に終った。しかし党機関誌『イスクラ』の編集委員及び党中央委員会の選出では多数派の方が分裂をきたしたため、レーニン派の方が「ボリシェヴィキ(ロシア語で「多数派」)」を名乗り、マルトフ等の反対派を「メンシェヴィキ(少数派)」と呼ぶに至るのである。ところが翌年夏にはメンシェヴィキが党中央委員会の多数を占め、1905年の第3回党大会は、ボリシェヴィキとメンシェヴィキが、それぞれ別個の大会を開くことになってしまった。

   

   ボリシェヴィキとメンシェヴィキ   目次に戻る

 ここで、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの理論の違いをもう少し詳しくみてみよう。まずメンシェヴィキは、「封建制社会→(ブルジョア民主主義革命)→資本主義社会→(プロレタリア社会主義革命)→社会主義社会」というマルクスの発展段階論に忠実に従って、現在のロシアは封建制であるから来るべき革命はブルジョアジーが主体となる「ブルジョア革命」であると考える。プロレタリアートはブルジョアジーの支配する資本主義社会においてこそ大規模に発展するのであり、現在の封建制においてはまだまだ弱体なプロレタリアートはまず封建制を倒すためにブルジョアと協力して「ブルジョア革命」を行なう(その主体はあくまでブルジョアであり、プロレタリアートは横から助けるだけである)が、やがてはブルジョアを倒すための「プロレタリア革命」を行なうのであるからプロレタリアートはブルジョア革命後の革命政府には参加せず、しばらくはブルジョア政府の外から圧力を加えつつ(ブルジョアジーの支配する資本主義社会において)プロレタリアートの成長を待つ、という気の長い理論である。ブルジョア主体の「ブルジョア革命」と、プロレタリア主体の「プロレタリア革命」との間にかなり長い一時代を想定する、「非連続的2段階革命論」と呼ばれる理論である。

 次にボリシェヴィキの理論をみてみよう。きたるべきロシア革命はブルジョア革命であると定義する点ではメンシェヴィキと同じである。しかし、ロシアのブルジョアにはその力も意志もなく、帝政と妥協することしか考えていない(それは1905年の第一革命で証明された)。そこで、ブルジョアではなくプロレタリアートがブルジョア革命の主体とならなければならない(ここが重要)が、後進国ロシアにおいてはプロレタリアートもまた弱体であり、ここで必須となるのが農民(ロシア国民の大多数をしめる)との同盟である。(すべての)農民の求める土地は、帝政においてはその多くが地主貴族の支配下にあり、土地の解放をもたらすブルジョア革命においては農民(すべての農民)は充分にプロレタリアートの同盟者たりうる。したがってブルジョア革命の後に革命政府を樹立するのはプロレタリアートと農民なのである。また、そうやって出来る革命政府は、反革命勢力の反抗を抑えるための、「独裁(註1)」でなければならない。そして当面の革命がプロレタリアートと農民の提携による「ブルジョア民主主義革命」である以上、革命政府は「プロレタリアートと農民による革命的民主主義独裁(労農民主独裁政権)」となる。そして、後進国ロシアにおいてはプロレタリア革命(社会主義の建設)は当面の課題ではありえず(くどいようだがその点はメンシェヴィキと一致する。これについてはさらに後述)、まず必要なのは労農民主独裁政権によるブルジョア革命の徹底的な完遂である。徹底的完遂とは具体的には帝政の廃止・8時間労働・農地解放といったところ(註2)であり、これらの改革(ブルジョア革命)をプロレタリアート(と農民)が主体的に遂行することにより、来るべき社会主義の建設(具体的には生産手段の私有制の廃止)のための地固めとするのである。

 註1 ここでいう「独裁」とは、「個人の恣意的政権」という意味ではなく、政権を主導する階級の権利を守るための政権という意味である。つまりある特定の階級のみが政治権力を独占して他階級を除外するということであり、具体的には……1924に成立する「ソヴィエト社会主義共和国連邦」における最高国家権力機関としての「ソ連邦ソヴィェト大会」においては、営利目的で労働者を雇用する者、利子等の不労所得で生計をたてている者、個人商人、聖職者、革命前の警察・憲兵隊・秘密警察の職員とその手先、旧ロシア皇族には選挙権及び被選挙権が認められていなかった。36年に制定された「スターリン憲法」では、もはや搾取階級は消滅した、という訳で上の様な選挙制限は撤廃されたのだが……その選挙とは、単一政党たる共産党が選んだ候補者(1選挙区につき1人!)に対する信任投票であった。それはともかく、高度に発達した資本主義社会(例えば西欧)では普通選挙による民主政治が行われているが、現実にはそれはブルジョアジーの主導による「ブルジョア独裁」であり、プロレタリアートによるストやデモはすぐに弾圧されてしまうのである。また、ブルジョア独裁はごく少数のブルジョアジーによる圧倒的多数のプロレタリアートへの支配という形態をとるが、「プロレタリアート(ロシアの場合はそれプラス農民)独裁」は、圧倒的多数の人民の権利を守るための政治機構となる。←あくまでレーニンの理屈。ちなみに、「人民」とは、革命を完遂する能力を持つ諸階級のことである。レーニン理論によればロシア革命で人民に相当するのはプロレタリアートと農民である。

 註2 何度も書くようだが、メンシェヴィキは、かような改革(ブルジョア革命)を行うのはあくまでブルジョアジーであるとする。プロレタリアートがそれをやるのは「社会主義の放棄」につながるか、政権の分裂を招くかのいずれかであると考えるのである。

 しかし、そうするとその「来るべき社会主義建設」への移行がいったいいつ頃になるのかという問題が生じてくる(註3)。筆者はさっき、メンシェヴィキの理論を「気の長い」と評したが、実はレーニン理論の方も長い時間を必要とする。レーニン本人からして「我々の最後の目標〜社会主義社会の建設〜の達成は、3つの全世代、我々自身、我々の子供、我々の孫に残される」と語っていた。マルクスの段階発展説、つまり封建社会→資本主義社会→社会主義社会、に従えば、社会主義社会に到達するためにはまず資本主義社会の成熟が必須である。ブルジョアジーが発展しなければそれに雇われるプロレタリアートもごく少数でしかなく、社会主義社会建設の土台そのものがなりたたないことになる。従って、レーニンの唱える「労農民主独裁政権」はあくまでブルジョアジーの勢力を温存し、その経済的搾取に甘んじなければならない(註4)こととなるのである。そんなことがはたして可能であろうか? 問題はもうひとつある。「ブルジョア革命」においてプロレタリアートと連合する農民は、地主貴族に対抗するためにそのすべてが結束するのは間違いない(後述するトロツキーは「それは無理」と考える)が、ブルジョア革命が成った後にはその中の富裕な部分は保守化してブルジョアとの連合に走って来るべき社会主義の建設を妨害するのではなかろうか? 社会主義社会においては農地私有は廃止となり、農民はプロレタリアートに融合されてしまう訳であるが、たしかにこれは富裕な農民は絶対反対であろう。 それらの難問については、物語の進展と共においおい語っていくこととする。

 註3 ブルジョア革命の完遂がなされていない状況でいきなり社会主義につきすすもうとするのを「左翼日和見主義」、逆にブルジョア革命が「社会主義建設のための準備」であることを忘れ、その積極的準備を怠ることを「右翼日和見主義」と呼ぶ。←共産党用語

 註4 マルクス理論によれば、「搾取」とは個々人にその責任がある偶発的な問題ではなく、資本主義体制が続くかぎり根絶することの出来ない資本主義体制の本質的特徴なのである。(ロシア革命の考察)

   

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 今度はメンシェヴィキ・ボリシェヴィキ以外の政党を見てみよう。

 マルクス主義に対抗する「ブルジョアの党」も当然ながら存在する。まず1905年の第一革命の際の「十月宣言」を受けて成立した「オクチャブリースト(10月17日同盟)」地主や大資本家を主体とし、ロシア帝国の「一体性と不可分性」や「強固な君主権力」を主張する親帝政の保守政党である。中心メンバーにはモスクワの大実業家グチーコフや近衛騎兵出身のロジャンコ等がいた。

 次に「カデット(立憲民主党。後に自由国民党と改称)」。これもブルジョアを主体とし、西欧的な立憲君主制を標榜する。若干の土地改革を容認する等、前述のオクチャブリーストよりは左に立つが、ロシアン・ブルジョアジーの帝政への依存(後進国ロシアにおいて、自然発生ではなく帝政の富国強兵策によって産み出され、帝政からの補助金と発注によって生活する)を反映し、帝政と断固対決するほどの気概は持ち合わせていない(猪木ロシア革命史)が、大戦の最中において、戦争に勝つために、立憲君主制に基づく「人民の信頼を得る政府」の創設を主張して帝政の君主独裁政治を激しく批判する。中心となるのは歴史学者のミリューコフその他。「十月宣言」後に開催された「第一議会」の第1党(註1)となり、最も有力な「ブルジョア政党」として二月革命後に活躍する。

 註1 ボリシェヴィキ・メンシェヴィキは棄権した。しかし12年の第四議会ではあわせて13議席を獲得、うちボリシェヴィキは6議席であった。

 それから、メンシェヴィキ・ボリシェヴィキ以外にも「労働者の側に立つ党」がいくつか存在する。

 まず「トルドヴィキ(労働派)」。第一議会では第2党。マルクス主義のような特別の理論を持たず、ただ単に勤労者の利益を擁護することを標榜する党派である。代表はケレンスキー。彼はマルクス主義者ではないから、メンシェヴィキの「プロレタリアートはブルジョア政府の外で行動すべき」にも、ボリシェヴィキの「プロレタリアート(と農民)のみの独裁」にも賛同せず、「労働派」を名乗りながらも二月革命後の臨時政府においてカデット等ブルジョア政党と連立することになる。二月革命の際に後述するエス・エルに合流するが、(ケレンスキーは)特定の政党の代表というよりも、様々な党派を糾合する強力な「挙国政府」を実現するための「国家的仲裁者」として振る舞おうとする。(註2)

 註2 ケレンスキーは1881年生まれ、二月革命勃発の時でもまだ30代半ばである。レーニンは1870年生まれの47歳、トロツキーは1879年生まれの38歳、スターリンはトロツキーと同い年である。

 次に「エス・エル(社会革命党)」。彼等は19世紀に発生した全くロシア独自の社会主義者「ナロードニキ」をその母体とする。ナロードニキは「人民による、人民のための政府」を企図するが、西欧のマルクス主義がプロレタリアートに過大な期待をかけるのに対し、こちらは農民を社会主義社会達成への主要な原動力とみなす。ロシアの農村に特徴的なものとして、「農村共同体(ミール)」というものがあげられる。ここでは部落が一定の範囲の土地を共有し、この土地を部落の成員に等分して、定期的に土地の割り替えをする。人頭税等の賦課に対しては成員全員が連体責任を持ち、土地の所有権自体は地主たる貴族が握っている(農奴解放後は多少変化した)が、部落内の問題は家長会議によって決められる。ナロードニキにおいては、かように土地私有制を欠く共同体と、生産手段の私有を否定する社会主義とが結び付けられていた(ソ連現代史)のである。正義感豊かな青年貴族を主体として発生したナロードニキは過激な行動力を持ち、「農民のために」皇帝アレクサンドル2世やその重臣多数を暗殺する等のテロを繰り返していた。彼等はロシアの資本主義化を極力排撃しようとし、原始的な「農村共同体」を主体としての「社会主義」への跳躍(つまり資本主義の段階を飛ばそうとしたのである)を考えていた。つまり彼等はロシアのブルジョアジーが成長・権力掌握を行なう(ロシアが西欧的な資本主義の害毒におかされる)前に革命をおこそうとした(ソ連現代史)のであり、農村共同体自体も1920年代にスターリンによって解体されるまで残存していた。「エス・エル(社会革命党)」は1901年に結成され、1905年のロシア第一革命において活躍するが、その後帝政の弾圧にあって逼塞を余儀なくされた。しかし後述する「二月革命」の際に無原則的な入党を認めたことから水膨れし、路線をめぐって左右両派に分裂、右派はトルドヴィキから乗り換えてきたケレンスキーに引きずられてブルジョアと妥協(昔のナロードニキには考えられなかったことである)し、左派はその後ボリシェヴィキと協調することになる。一応の主張として普通選挙権・8時間労働・無償普通教育・常備軍廃止、そして土地の社会化(地主貴族からの土地の収用・農民への公平な分配)等を掲げており、総体として農民の大きな支持を受けていた。

 最後に、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの中間に立つ党として、トロツキーの率いる「地区連合派(統一社会民主主義者地区連合派)」がいるが、トロツキーの理論については後述するとして、メンシェヴィキ、ボリシェヴィキ、カデット、エス・エルといった主な政党の紹介を終った今のところで話を戻し、いよいよ「ロシア革命」の物語に足を踏み入れることにしよう。

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