太平洋戦争

 「太平洋戦争」といっても大東亜戦争のことではなく、1879年から83年まで南米のチリとペルー・ボリビアの間に行われた、別名「硝石戦争」のことである(註1)

註1 「太平洋戦争」とはスペイン語の「ゲラ・デル・パシフィコ」の訳である。


 この3国が国境を接する「アタカマ砂漠」には無尽蔵の鉱物資源が埋蔵されており、チリ・ボリビア間の国境線を南緯23度に定めた1866年の協定では「国境をまたぐ南緯22〜24度の地域の資源を両国で折半する」旨が取り決められていた。ところが67年に硝石の鉱脈が発見されるとチリの企業が大量にボリビア領へと進出し、特にアントファガスタ市は(ボリビア領なのに)人口の9割をチリ人が占めるに至った。チリ企業はさらにペルー領にも進出したため、不愉快を感じたペルーとボリビアはチリに対抗するための秘密攻守同盟を締結した。

 ペルーはその当時、最大の輸出品目だったグアノ(註2)が枯渇してきた上に不況に苦しんでおり、ボリビアも財源を欲しがっていた。まずぺルーが75年に自国内で活動するチリ系企業を有償で接収し、ボリビアも78年に自国内のチリ系企業に対する課税額を引き上げた。チリがこの処置に抗議するとボリビアはさらに硝石の禁輸、経営者の逮捕という実力行使をもって返答にかえた。

註2 別名「鳥糞石」。海鳥の糞が堆積して出来たもので、極めて質の良い肥料となる。


 79年2月14日、硝石業者の訴えを受けたチリ政府は5000名の兵力を動かしてアントファガスタ市を占領(戦闘はなかった)した。硝石というのは火薬の原料なのだが、それをめぐって戦争しようとは洒落にならん話である(註3)。アントファガスタ市を含むボリビア領の硝石地帯(太平洋沿岸地域(註4))はアタカマ砂漠によってボリビア領の他の地域と隔絶されていた(交通手段は騾馬だけ)ため、チリ軍によるアントファガスタ占領の報をボリビア政府(内陸部のスクレ市に所在)が受け取ったのは10日以上も経ってからであった。

註3 ただし火薬の材料としての硝石の需要が伸びるのは1880年代からのことで、この当時はもっぱら肥料として用いられていた。

註4 現在のボリビアは内陸国だが、当時は海に面していた。


 ボリビア政府は3月1日に至ってようやくチリに宣戦を布告した。ペルーは政治・経済ともに不安定だったことからとりあえずは中立を宣言し、ボリビアとチリを仲裁しようとした。しかし交渉の過程でボリビアとチリが妥協してペルー領を分割するのではないかという気配がみえ、それを防ぐためにはチリと戦う以外にないとの考えが固まった。チリの方も、硝石地帯を完全に制圧するためにはペルー領のイキケ港を押さえておく必要があると考えていた。そんな訳で4月6日、チリはペルーに対し宣戦を布告した。その頃にはチリ軍はボリビアの太平洋沿岸部を完全に制圧してしまっていた。

 チリはこの時のために数年前から陸海軍の戦備を整えていた。当時の南米で大砲の国産化に成功していたのはチリだけであったという。3国の国境地帯は交通困難な砂漠で鉄道も通っていないことから戦争は海軍を主力とするものとなる。「太平洋戦争」と呼ばれる所以である。
   
 ちなみに、チリ海軍の主力は装甲艦2隻、ペルー海軍の主力も同じく装甲艦2隻であった。前者の方がやや新型である。ボリビアの海軍力は問題にならなかった。

   イキケの海戦

 さて開戦後、チリ海軍はひとまずペルー領のイキケ港を木造の旧式艦「エスメラルダ」「ゴバドンガ」の2隻に封鎖させ、他の艦でイキケの北のカヤオ港を攻撃しようとした。そこにペルー海軍の主力がいると聞いていたからである。しかしペルー海軍はチリ艦隊の動きをキャッチするやカヤオから装甲艦「ワスカル」「インディペンデンシヤ」を出撃させ、まずイキケ港の封鎖にあたっている旧式艦を叩く作戦に出た。こうして5月21日に起こるのが「イキケの海戦」である。ペルー海軍の装甲艦は、鉄の装甲に守られた甲板の中央にひとつだけ回転砲塔がついていて船体のほとんどが水面下に没しているという「モニター艦」であった。

 イキケ沖の戦闘はペルー艦隊の砲撃から始まった。しかし双方あわせて4隻の艦が800〜2000メートルの距離で30分ほど撃ち合っても勝敗がつかない。新兵器の魚雷(註5)で攻撃されるのを恐れてそれ以上近寄らなかったし、搭載されている砲の性能も砲術も近代的とは言い難かったからである。しかしやがてペルー艦「ワスカル」の放った一弾がチリ艦「エスメラルダ」に命中、「ワスカル」はそのまま「エスメラルダ」に体当たりをかけて撃沈しようとした。「体当たり」といっても自爆ではなく、軍艦の艦首部の特別頑丈につくられた「衝角」を敵艦の横っ腹にぶっつけて大穴をあけるという、この時代の海戦ではよくあった(?)戦術なのである。

註5 「魚雷」はこの戦争の13年前の1866年にイギリス人ロバート・ホワイトヘッドが開発した。


 「ワスカル」の突撃は3度に渡って行われ、3度目に「エスメラルダ」の右舷にぶちあてることに成功した。しかしそこで「エスメラルダ」艦長プラットが「ワスカル」への斬り込みを決意し、副官とともに相手艦に飛び移った。衝角戦とか斬り込みとか、さすがは19世紀の海戦である。ロマンがあります。とはいってもプラットとその副官はたちまち「ワスカル」の水兵に撃ち倒され、彼らに続いて「ワスカル」の甲板に飛び乗ったチリ兵たちもペルー側の反撃によって圧倒された。「ワスカル」はその状況のまま「エスメラルダ」目掛けて大砲を撃ちまくり、やがてこれを転覆せしめた。

 もう一隻のペルー艦「インディペンデンシヤ」も、チリ艦「ゴバドンガ」を相手に優勢な戦いを進めていたが、「ゴバドンガ」は逃走すると見せかけて敵艦を暗礁の上に誘い込み、見事これを座礁せしめた。「インディペンデンシヤ」は既に説明したようなモニター艦なので喫水が深く、木造で喫水の浅い 「ゴバドンガ」なら楽にすり抜けられるような暗礁に艦底を乗り上げさせてしまったのである。

 ペルー海軍の装甲艦は「エスメラルダ」と「ワスカル」の2隻だけしかなかったのに、最初の海戦でそのうち1隻をなくしたのは大打撃であった。ここしばらく財政困難にあったペルーは開戦の少し前にイギリスから購入予定だった装甲艦2隻をキャンセルするという失敗をおかしていた。開戦後ペルー政府は八方手を尽くして装甲艦を入手しようとしたが、高価かつ国防の要ともなる装甲艦がそう簡単に手に入る訳もなく、既に手遅れとなってしまっていた。

   アンガモス岬の海戦

 その後のぺルー海軍は正面切っての海戦を避け、ゲリラ戦に徹することにした。7月9日夜にはイキケ港付近にいたチリ輸送船を砲撃、7月23日には軍事物資を満載して航行していたチリ輸送船「リマク」を拿捕した。この事態を受けたチリでは艦隊司令官が交替し、ペルー艦隊撃滅のための厳重な警戒網が布かれることとなった。

 8月18日、ペルー艦隊は今度はアントファガスタ港を襲撃した。ここでまた今日では想像もつかない事件が起こった。ペルー艦「ワスカル」がチリ艦に向けて発射した魚雷が途中で故障・反転して「ワスカル」に向ってきたのである。この時は「ワスカル」乗組みの一中尉が海に飛び込んで魚雷の針路を変え、ことなきをえたというのだが、この時代の魚雷というのはよっぽど遅いものだったんですね。

 ぺルー艦隊はその後も商船拿捕や港湾砲撃を続けたが、10月8日未明に至って遂にチリ艦隊に捕捉された。この時のぺルー艦隊の戦力は装甲艦「ワスカル」と木造艦「ウニオン」の2隻、チリ艦隊は装甲艦「コクラン」「ブランコ・エンカラダ」と木造艦1隻である。先に砲撃を始めたペルー艦「ワスカル」はチリ艦「コクラン」に命中弾を喰らわせたが厨房を破壊するにとどまり、逆に「コクラン」から放たれた砲弾が「ワスカル」の砲塔の回転装置を破壊した。別のペルー艦「ブランコ・エンカラダ」も「ワスカル」に砲撃を浴びせる。「ワスカル」は衝角戦を挑もうとしたが速力が足りず、再び直撃弾を受けて今度は指令塔が破壊された。これでぺルー艦隊司令官のグラウ提督が戦死し、指揮を引き継いだ士官たちも次々と死傷した。観念した「ワスカル」は自沈をはかったが、すんでのところで乗り移ってきたチリ水兵に拿捕された。

 ペルー海軍は「ワスカル」の拿捕で実質的に壊滅した。この「ワスカル」は現在もチリ領のタルカウアノ港に繋留・展示されているのだそうだ。 それから、この海戦に参加していたもう1隻のペルー艦「ウニオン」は本格的な戦闘が始まる直前にグラウ提督の判断で待避させられていた。この艦の艦長ガルシアは全権公使として日本に来たことがある。

   タラパカの戦い

 11月1日、制海権を掌握したチリ艦隊の援護射撃のもと、エスカラ将軍率いる1万のチリ陸軍がぺルー領のピサグワ港に上陸、これを占領した。ペルー・ボリビア軍はもっと南の地域を固めていたのだが、もはや制海権を掌握してしまっているチリ軍はどこにでも上陸して相手の虚を突くことが可能であった。ただ、チリ軍が占領したのはピサグワの港湾地帯のみで、その周囲はブエンディア将軍の率いるペルー・ボリビア軍によって取り巻かれてしまった。さらにボリビア内陸部のラバスから、同国の大統領イラリオン・ダーサが自ら6000の軍を率い出陣、ブエンディア軍に合流しようとした。しかしダーサ軍は砂漠地帯を歩いていくしかなかったために水と食糧の補給に苦しみ、11月16日には引き返さざるを得なくなった。ブエンディア軍は19日に独力でチリ軍を攻撃するも敗退した。チリ軍は数では劣っていたが、「クルップ砲」という新式の大砲を持っていた。

 27日には追撃に移ったチリ軍がタラパカ村のペルー軍へと襲いかかった。この「タラバカの戦い」に際してチリ軍は「ペルー・ボリビア軍は既に全面退却に移っている」と予測し、歩兵2000・騎兵300にクルップ砲を持たせて投入しただけであったが、実際にはペルー・ボリビア軍はタラパカ村に5000の兵を集めていた。この日の午前の戦闘ではチリ軍が優勢だったが午後になるとぺルー・ボリビア軍が攻勢に移り、そのまま勝利をものにした。特に活躍したのはペルー軍のインディオ部隊で、チリ軍から砲を奪い、その砲門をチリ軍にむけて撃ち込んだという。チリ軍の戦死者687名という。もっともペルー・ボリビア軍には騎兵がいなかったため、退却するチリ軍を追撃することは出来なかった。

 しかも、ペルー・ボリビア軍の方も大きな損害を出しており、砂漠地帯で食糧も少ないことからそのまま後方に引き下がることを余儀なくされた。ボリビア大統領ダーサはブエンディア軍を助けられなかった責任を問われて失脚、かわってナルシソ・カンペーロが新大統領に就任した。
   
   タクナ・アリカの戦い

 翌年(1880年)3月17日、チリ艦隊4隻が封鎖していたアリカ港に、ペルー海軍の生き残りの木造艦「ウニオン」が突入してきた。チリ軍の包囲を受けるアリカ守備隊への補給物資を満載する「ウニオン」は、封鎖艦隊の監視をかいくぐって物資揚陸を完了し、そのまま無傷で外海へと離脱した。

 5月、チリ軍1万4000がイロ港に上陸、これを占領した。チリ軍は増強を受けつつ砂漠を進んで要衝タクナにてボリビア軍と交戦した。チリ軍の戦力は2万2000、新大統領カンペーロが率いるボリビア軍の戦力は1万である。ボリビア軍はアリカ港を守るペルー軍との合流をはかっていたが、チリ軍はその時間を与えず、優勢な砲兵と反復突撃によってボリビア軍を打ち負かした。ボリビア軍の死傷者3150名、チリ軍の死傷者2128名という。ボリビア軍はこれでほぼ戦闘能力を失った。勢いに乗るチリ軍は今度はアリカ港への総攻撃を準備した。「ウニオン」の決死の補給を受けたとはいえ、アリカのペルー軍守備隊はわずかに1800名と木造艦「マンコカパック」にすぎなかった。

 6月6日、チリ軍が海陸からアリカ港への総攻撃を開始した。ペルー側の砲台の放った砲弾がチリ艦「コクラン」の砲門に命中して大爆発を起こしたが、「コクラン」以外の艦からの艦砲射撃はやまず、翌7日早朝にはチリ陸軍が市街地に突入してこれを占領した。

   リマ陥落

 カヤオ港でも戦闘が続いていた。カヤオ港はペルーの首都リマの外港にあたる要地で、ぺルー軍守備隊は約2000名、港湾を封鎖するチリ艦隊に対しては無人の爆薬船をもって抵抗していた。これでチリ艦「ゴバドンガ」の撃沈に成功したが、11月19日に至って兵員2万6000名に大砲100門の大兵力を揃えたチリ陸軍が上陸してくるともはや防ぎようがない。硝石地帯は完全にチリ軍の占領下に落ち、さらにペルー北部(穀倉地帯)に上陸したチリ軍3000が各地の農園を蹂躙した。アメリカ合衆国が講和を斡旋しようとしたが、チリが過大に広大な領土を要求したために破談となった。

 この大事な時にペルーの政界は結束を欠いていた。プラード大統領が戦費調達のために欧州に出向くと反対派がこれを「敵前逃亡」と見なして解任するという騒ぎが起こったのである。あわせて500万の人口を持つペルー・ボリビア同盟が、その半分以下の230万の人口しか持たないチリに勝てなかった原因のひとつは、同盟側の政界がもともと不安定だったことにある。特にペルーでは常日頃からクーデターが繰り返され、町に住むクリオーリョ(白人とインディオの混血)と地方のインディオの利害が一致せず、ボリビアでは田舎のインディオは古代そのままの生活を送っていた。まぁ当時の南米諸国はどこも似たりよったりだったのだが、チリのみは例外的に人口の大半が白人であって国家としての統制がとれており、政治的に安定していたのである。

 翌81年、チリ軍2万5000名がペルー首都のリマ市に接近した。1月13〜15日に行われた決戦に敗れたペルー軍は遂に首都を放棄した。チリ軍によるリマ占領はこの後2年に渡って続き、かなり大規模な略奪が行われた。ペルーといえば「インカ帝国」の故地だが、この時のチリ軍の横暴のせいでインカ関係の資料が少なからず失われたという。

 ペルー大統領のピエロラは高原地帯に退いて抗戦を続けたが、ピエロラの政敵でリマ市に留まっていたカルデロンが独自に大統領を名乗ってチリとの和平交渉を行おうとした。しかしカルデロンはチリ軍に連行され、その一方でピエロラ大統領の支配地域でも反乱が起こるという有り様である。

 82年末、北ペルーの有力者イグレシアス将軍がなんとか事態の収拾に成功し、翌年10月23日に至ってようやくチリとの講和「アンコン条約」を締結した。これにより、チリはぺルー南端のタラパカ県を獲得し、さらにその北のタクナ・アリカ両県を10年間占領する権利を認められた。タクナ・アリカは10年後に住民投票を行って帰属を決定するとされたが、しかしこの約束は守られず、1929年になってやっと、アメリカ合衆国の仲裁で(住民投票なしで)ペルーがタクナを、チリがアリカをそれぞれ領有し、チリがペルーに(アリカ領有の代償として)600万ドルを払うということで決着がついた。

 ボリビアとチリの講和は84年の「バルパライーソ条約」によって決着し、前者はアントファガスタ県を失った。それまで太平洋に面していたボリビアが現在のような海なし国になったのはこの時からで、チリに対し35パーセントの輸出税を支払ってアリカ港の使用を認めてもらうことになった。しかしボリビアには今でも「海軍」が存在し、チチカカ湖に軍艦を浮かべて、いつか太平洋に出る時のための訓練を続けているという有名な話がある。チリは将来ボリビアに対して海港をひとつ返還すると約束しており、その交渉は21世紀の現在も続けられているという。ともあれ、この戦争の戦死者はチリ軍5000、ペルー軍9000、ボリビア軍2000、民間人の死者は3〜4万であったという。

   その後

 ただ、敗戦したペルー・ボリビアもそれほど極端な打撃を受けた訳ではなかった。ペルーは全土が戦場になった上に経済面でもしばらく停滞を続けたが1890年代になるとボリビアともども非鉄金属鉱山の開発によって復調した。ボリビアには錫があり、ペルーには金属以外にも砂糖や綿花があった。

 一方のチリは戦争がもたらしたインフレに苦しみ、さらに86年に大統領となったバルマセダが進歩的な改革の財源確保のためにと硝石産業や鉄道を国有化しようとしたことから議会と激しく対立した。91年には大統領派の陸軍と議会派の海軍による内戦が発生、両院議長を中心とする議会派は北部の硝石地帯に「執政評議会」を設立し、自派の艦隊をもって大統領派支配地域を経済封鎖した。大統領バルマセダは太平洋戦争後のインフレに関係して起こったストライキを弾圧したりしたことから大衆に人気がなく、議会派艦隊に沿岸封鎖されたことから外国に助けを求めることも出来なくなった。

 しかしバルマセダも一方的に敗れた訳ではない。彼に味方した海軍部隊は水雷艇「リンチ」「コンデル」の2隻のみであったが、これが4月23日の早朝に議会派艦隊の停泊するカルデラ湾に侵入し、チリ海軍最大の装甲艦「ブランコ・エンカラダ」を40メートルの至近距離から雷撃、見事に撃沈した。しかしこの快挙も戦局全体の逆転には繋がらなかった。8月に入ると議会派部隊が海陸から大攻勢に出て、まず21日アコンガクワ河口のコンコンにて、続いて28日プラシリャにて大統領派部隊に勝利した。大統領バルマセダは9月19日に至ってピストル自殺を遂げた。チリはその後、豊富な鉱物資源のおかげでアルゼンチン・ブラジルと並ぶ南米の富強国「ABC」のひとつに数えられるに至る(註6)が、この内戦で大統領の権威が失墜した後遺症として、数十年のあいだ議会における政党の離合集散が繰り返されることとなる。

註6 もっとも硝石に関しては1913年に「空中窒素固定法」の工場が出来て硝石によらない火薬の製造が可能となり、価値がなくなった。チリは現在も鉱物の輸出国だが、主産品は銅となっている(日本にも輸出されている)。

                                          おわり
   

   参考文献

『世界戦争史10』 陸軍少将伊東政之助著 1940年
『ラテン・アメリカ史』 中屋健一著 中公新書 1964年
『ラテンアメリカ近現代史2』 中川文雄他著 山川出版社世界現代史34 1985年
『アメリカ大陸の明暗』 今津晃著 河出書房新社世界の歴史17 1990年
『ラテン・アメリカと海一近世対日関係外史』 前田正裕著 近代文藝社 1995年
『ペルー 太平洋とアンデスの国』 増田義郎・柳田利夫著 中央公論新社 1999年
『ラテン・アメリカ史2』 増田義雄編 山川出版社新版世界各国史26 2000年
『ペルーを知るための62章』 細谷広美編著 明石書店 2004年
『ボリビアを知るための68章』 真鍋周三編著 明石書店 2006年
「太平洋の戦争」 http://ww1.m78.com/topix-2/war%20of%20the%20pacific.html

    (世界戦争史は1985年原書房復刻のもの)

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