スコットランド史略

後編その1

   

   スチュアート朝の開幕   目次に戻る

 1371年2月、41年の長きに渡って(一応)スコットランドの王位にあったディヴィッド2世が跡継ぎのないまま崩御した。1ヶ月後、彼の甥で摂政のロバート・スチュアートがスクーンで国王の冠を受け、ロバート2世として即位した。スチュアート王家の誕生である。

 ロバート2世は即位当時すでに55歳、当時としては老人と言ってもよい高齢である。王国の各地には有力貴族が割拠し、南の国境地帯ではイングランド軍との小競り合いが続いている。先王ディヴィッド2世の身代金支払いはエドワード3世の死とともに打ち切ったが、このことはイングランドとの平和の終わりを意味した。1384年にはイングランド軍がエディンバラに攻め込み、スコットランドの方でも同盟国フランスに援軍(千人くらい)を頼んで国境線を固めたりした。(スコットランドも百年戦争中のフランスに軍勢を送り、ジャンヌ・ダルクの下で戦ったりした。フランス王の近衛兵「スコッツ・ガード」も良く知られた存在である)

 1390年、ロバート2世が74歳で亡くなり、息子キャリック伯がロバート3世として即位した。

 1398年、ロバート3世は長男のディヴィッドをロスセ公に、弟のロバートをアルバニ公に封じた。しかしロスセ公はその性悪辣・愚昧のため監禁の憂き目にあい、1402年に亡くなった。

 一方のアルバニ公は兄ロバート3世の王位を頂こうとの野心(それほど露骨なものではなかったらしい)を抱いており、その空気を察した国王ロバート3世は当時12歳の3男ジェイムズ(長男・次男は死亡し、残る嫡子はジェイムズだけだった)をフランス王に預けて弟から守ることにした。(これは結果的には杞憂であった)

 ところが、ジェイムズ王子の船はフランスへの航海途中でイングランド側の海賊に襲われ、そのままイングランド王へンリ4世のもとに抑留されてしまった(1406年)。このニュースを聞いたロバート3世は驚愕のあまりポックリと逝ってしまい、国王不在になったスコットランド王国はアルバニ公が摂政として動かすことになった。(一応国王はイングランドに抑留中のジェイムズであるが、アルバニ公はジェイムズの奪回に積極的に乗り出さず、国王不在の状況がその後18年も続いた)。

 慎重なアルバニ公は(イングランドにいる)ジェイムズの地位を認めてその王位を奪ったりせず、国内の豪族達の支持を得るために王領地を分け与えたりした。このことは王室財政の悪化をもたらしたが、その一方で彼の治世にはスコットランド初の大学セント・アンドリューズが創設される等の文化的向上が見られたのも事実である。

   

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 1423年、スコットランド・イングランド間でロンドン条約が締結され、翌24年に、それまで18年間も抑留されていたジェイムズ1世の帰国が(身代金6万マルクと引き換えに)実現した。イングランドの手に落ちた時わずか12歳の少年だったジェイムズは、ロンドンの宮廷で最高の教育を受け、さらにヘンリ5世に従ってフランスの戦場に渡る等々の様々な経験をつんだ29歳の青年となっていた。

 ジェイムズは帰国早々、国内における法の支配、王に反逆する者への徹底追討等を定める条例を制定し、各地に半独立する豪族たちへの大弾圧に乗り出した。

 国王不在中に王国を守ったアルバニ公ロバートはジェイムズ帰国の4年前に亡くなり、その子マードックが摂政職を引き継いでいたが、ジェイムズはアルバニ公が自分の留守中に勝手に王領地を処分したとの罪状でその一族を逮捕、形式的な裁判の末に当主マードックと2人の子を斬首刑に処した。

 ジェイムズはさらにマーチ伯・ファイフ伯・バハン伯等有力諸侯の領地を没収し、王国北部ハイランド地方の豪族たちを騙し討ちして投獄・殺害するという暴挙に出た。

 その一方で彼は政府組織や税制の改革も強力強引に押し進める。王国政府の要職財務長官のポストには国王に忠実な身分の低い役人をあて、関税や自由都市からの税金徴収経路を再編して中間搾取をなくし、王室の収入を倍増させた。また、王国各地に法律官をおいて平民に対する公平な裁判を実施し、議会の整備にも力を注いだ。

 しかし、あまりにも性急な改革には反発もまた急激なものがある。彼が追放した貴族たちの間に反ジェイムズの陰謀がめぐらされ、議会の運営も思う様にいかない。それ以前にジェイムズには(多分イングランドでおぼえた)浪費家という一面があり、教会のために当時物凄い贅沢品だったオルガンを輸入したり、娘の結婚式の費用を増税でまかなったりした結果庶民の反感を買うようになってしまった。

 1437年2月、かつてジェイムズに逮捕され、その後逃亡・潜伏していた貴族の1人ロバート・グレイアムとその一党がパースのグレイフライアーズ修道院に宿泊中の国王を襲撃し、その暗殺に成功した(しかし下手人はたったの3人であり、王妃ジョアンの奮戦もあってすぐに逮捕され、翌月には処刑となった)のだった。

   

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 国王暗殺の4日後、ただちに息子のジェイムズがジェイムズ2世として即位したが、彼はこの時6歳、たちまち有力貴族による専横が始まり、ダグラス伯ジェイムズとスターリング城の城代アレグザンダー・リヴィングストンとが国政を壟断した。

 しかし、1448年に18歳になったジェイムズ2世が親政を始めると、奸臣リヴィングストンはすぐに粛清され、ダグラス伯にも国王の魔の手がのびる。

 1452年、スターリング城にて国王・ダグラス伯の話し合いがもたれたが、会食中に国王自らダグラス伯の胸に短剣を突き立て、これに怒ったダグラス一族(全部ではない。殺されたのは黒ダグラス家の当主であり、親戚の赤ダグラス家は国王の味方であった)が反ジェイムズ2世の兵を挙げるに到った。しかし反乱軍は国王軍の大砲の前に粉砕され、(黒)ダグラス伯の領地は残らず国王直轄領に編入された。南部スコットランドにおいて勢力を誇ったダグラス家の領地は国王のそれに次ぐ広大なものであったが、それを手に入れた国王の力は倍増、大陸から輸入した大砲の威力と相まって国内の豪族達を圧倒することになった。

 1455年、南のイングランドで薔薇戦争が始まり、ジェイムズ2世のスコットランドはその一方ランカスター家に加勢して北イングランドの攻略を目指すことにした。

 1460年8月、ジェイムズ軍はかつてのスコットランド領ロクスバラの攻城にかかったが、そこで大砲が暴発して国王ジェイムズが死亡するという大事故がおこった。スコットランド軍はその後も攻撃を続けて城を落としたが、次期国王は8歳の王子ジェイムズが引き継ぐことになった。

   

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 再び幼王の即位、そして例によって有力貴族の政権掌握。それでも最初は母后マリーと忠臣ケネディー(セント・アンドリューズ司教)がしっかりと王室を支えたが、2人の死後は大貴族ボイド卿が実権を握り、気の弱い少年王を尻目に勝手な政治を行った。

 1468年、16歳になったジェイムズ3世は、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの王クリスティアン1世の娘マーガレットと婚約したが、ボイド卿が花嫁を迎えにデンマークに出かけている隙を狙ってその領地を没収し、自らスコットランドの統治に乗り出した。

 しかし、彼は父や祖父が示した軍事・政治の天分を全く受け継いでおらず、側近の身分の低い芸術家を寵愛して(高貴で野性的な)貴族たちの不評を買った。しかも猜疑心の強いジェイムズは弟アレグザンダーを疑って逮捕・監禁し、なんとか脱出したアレグザンダーがフランスに亡命するという事件までおこった。

 その王弟アレグザンダーはその後さらにイングランドに渡ってそちらの国王エドワード4世と会見し、スコットランド南部の割譲等を条件にその協力を取り付けた。

 1482年、エドワード4世の弟グロスター公リチャード(後のリチャード3世)等の援軍をともなったアレグザンダーの軍勢が南部スコットランドの要衝ベリクを包囲、戦を好まぬ文弱ジェイムズ3世もやむなく出陣した。

 しかし、この時もジェイムズは側近の芸術家をともなっての出御だったため、いらついた不平貴族たちが国王を監禁し、そのゴタゴタの間に進撃するイングランド・アレグザンダー連合軍がベリクを落としてしまった。

 勢いにのるアレグザンダーはエディンバラに入城するが、ここで彼は国王を監禁した貴族たちに対する庶民の反感が高まっていることに気がついた。ジェイムズ3世は身分の低い者(芸術家等)を優遇していたことから庶民の人気を得ていたのだが、その空気を察したアレグザンダーは「不平貴族から国王を救出する」と称して監禁中のジェイムズ3世を解放し、その副官におさまってしまった。(アレグザンダーに味方するイングランド軍はエディンバラの前面で帰国した。その指揮官だったグロスター公は翌83年にイングランドの王位を簒奪してリチャード3世を名乗った)

 しかし結局アレグザンダーはこの2年後王位纂奪のクーデターに失敗してフランスに逃亡、翌85年パリで客死した。(その息子は後にスコットランドに帰国してジェイムズ5世の摂政をつとめる)

 ジェイムズ3世と貴族たちの相克はその後も続く。1488年、コールディンガム修道院の収入をめぐって国王と南部地方の諸侯との対立が表面化し、ジェイムズ3世対貴族の国内戦勃発は必至の情勢となった。それでも北部の諸侯は国王を支持したが、反国王派はなんと皇太子を篭絡しており(皇太子の真意は不明)、あせったジェイムズ3世は性急な行動をとってしまった。(忠義な家臣はたくさんいたのに、彼等が集まる前に軍事行動をおこしてしまった)

 6月、国王・貴族の両軍はスターリング南方のソーキバーンで激突、気ばかりあせって準備不足の国王軍の完敗に終わり、逃走したジェイムズ3世は賞金目当ての下層民の手にかかって果てたのであった。

   

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 15歳で即位したジェイムズ4世は、これまでのスチュアート家の国王たちになかった寛容と温情の持ち主であり、さらに冷静な政治力と優れた学識を兼ね備えた、まさに理想の君主であった。

 彼は、ソーキバーンの戦いで父ジェイムズ3世に味方して戦死した貴族の息子たちにそれぞれの父親の所領を継がせてやり、前王の撃破で調子にのった有力貴族の1人アンガス伯がおこした反乱を即座に鎮圧、その領地を没収した。と、ここまでは普通だが、ジェイムズ4世はアンガス伯に新しい領地を授けてやり、その2年後にはさらに宰相に取り立てた。異例の温情に感激したアンガス伯はその後二度と叛かなくなった。

 さらにジェイムズは北部ハイランド地方の諸氏族(いわゆるハイランダー。我々がスコットランドと聞いて思い浮かべるあの衣装は彼等のもの)の宣撫に腐心し、西ハイランドの豪族マクドナルド家等の服属を勝ち取ったが、そこには彼等ハイランダーの言葉(ゲール語の方言)を話すジェイムズ4世の学識が大きくものをいった。彼はラテン語・フランス語・ドイツ語・フランドル語・イタリア語・スペイン語をあやつり、音楽や医学にも深い関心を示した。彼の創設によるアバディーン大学はスコットランドで初の医学部をもったが(医学部は当時イングランドの大学にもなかった)、人体に興味津々のジェイムズはある男に金を与えて抜歯の実験を行ったりしたという。

 また彼はその一方での内政・軍事の整備にも怠ることがない。国王自ら王国全土の巡回裁判を実施し、エディンバラにホリルードハウス宮殿を建設してその首都機能を整備、さらに300門の大砲を搭載する軍艦グレイト・マイケル号を建造して海軍力の増強につとめた。

 かようにあらゆる方面での政策に抜群の功績を残し、「高くも低くもないが高貴な感じを与える身の丈で、外観・計姿ともに男として優雅である(スペイン大使アラヤの証言)」と讃えられたジェイムズ4世であるが、小国スコットランドにとっての最大の問題である南の大国イングランドとの関係だけは思う様にいかなかった。

 1494年、フランスのシャルル8世がイタリアのナポリを占領し、その様なフランスのイタリア政策を喜ばぬ教皇ユリウス2世の提唱による対フランス神聖同盟が結成された。この同盟には神聖ローマ皇帝・スペイン王・ヴェネツィア総督、さらにイングランド王へンリ8世等が参加し、フランスの味方は伝統的に親フランスのスコットランドのみとなった。

 1513年、ジェイムズのもとにフランス王ルイ12世からの応援要請が届いた。その年の8月、総勢4万というスコットランドの歴史始まって以来の大軍がイングランド国境を越え、北進するイングランド軍2万6千と正面から激突する。

 そして9月9日、ノーサンバランドのフロドゥン・エッジにおこった戦いはスコットランド軍の壊滅的な敗北に終わった。ジェイムズ4世の出陣には北方ハイランドの諸氏族も多く駆け付けたものの、寄せ集めで統制のないスコットランド軍はよく組織されたイングランド軍の敵ではなかった。

 9名の伯爵、13名の卿、数千の兵士が倒れ、国王ジェイムズ4世自身も壮絶な最期を遂げた。この「フロドゥンの戦い」は以降のスコットランドにおいて、その戦場フロドゥンの名を冠することなく、単に「戦場」とよばれることになったという。

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