ハプスブルク家とスイス盟約者団 中編その1

   ブルゴーニュ戦争の勃発   目次に戻る

 ジークムントはひどく困窮し、やむなくいくつかの領地を抵当にしてブルゴーニュ公国のシャルル突進公から金を借りることにした。「ブルゴーニュ公国」というのはフランス国王の分家なのだが15世紀に入ってからは領内の毛織物産業によって富裕な財力を蓄え、華やかな宮廷文化や強大な軍事力を誇るようになっていた。この公国はシャルル突進公が公位を継いだ1467年の時点で現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク及びフランス・ドイツ国境のあたりを領有していたが、野心満々の突進公は北海と地中海をつなぐ大所領の建設を夢見て近在の帝国諸侯や主君フランス国王を圧迫し、さらにはローマ王に選出されたい(皇帝になりたい)とまで考えた。彼はそのための根回しとして、1人娘のマリを現職の皇帝であるフリードリヒ3世の息子マクシミリアンと婚約させようとしたが、とりあえずは話がまとまらなかった。

 ジークムントからシャルル突進公に抵当に出された領地のうちエルザス地方の4都市は、シャルル突進公(領地の経営方針が厳しかった)の支配下に落ちることを嫌って自力で抵当を解除することにし、さらに、フランス国王と盟約者団を連合させてシャルルと噛み合わせることにした。盟約者団としては自分たちの北西に位置するエルザス地方がブルゴーニュのような強国のものになってしまうのは問題であったし、フランス国王ルイ11世(古チューリヒ戦争の時にフランス軍を率いて盟約者団と戦った人物)としても、分家のくせにでかい顔をしているシャルル突進公は是非とも叩いておきたい存在であった。エルザス4都市はこの連合にハプスブルク家も引っぱり込もうとした。ハプスブルク家と盟約者団は長年の宿敵であったからこの構想の実現は不可能と思われたが、エルザス4都市・フランス国王の仲介によってどうにか話がまとまった。

 という訳で1474年、盟約者団とフリードリヒ3世及びジークムントは「永久講和」を締結、ジークムントは先の抵当の話を撤回した。この3者に加えてエルザス4都市、ブルゴーニュの野心に脅かされていた帝国諸侯、フランス国王も連合し、ここに反ブルゴーニュの大同盟が成立する。同年7月、ブルゴーニュ軍が動き、ハプスブルク家および帝国諸侯に脅しをかけた。同年10月、盟約者団はブルゴーニュへと宣戦を布告、翌月の「エリクールの戦い」にてブルゴーニュ軍を破ってエルザス方面の安全を確保した。盟約者団の大方の邦はそれで満足したのだが、ベルンの軍勢はさらに進撃を続けようとした。他の邦はベルンの動きを喜ばなかったのだが、本格的に怒り出したブルゴーニュ軍が反撃に出てくると結束してベルンを助けた。フランス軍はブルゴーニュ領の西部を脅かしたが、シャルル突進公との妥協が成立したため撤収した(註1)。フリードリヒ3世は(どういう理由でかは筆者は知らないが)積極的には動かなかった。反ブルゴーニュ大同盟の残りのメンツでシャルル突進公と正面きって戦う力があるのは盟約者団のみである。

註1 フランスはその頃地中海方面において領土拡大をはかっており、そちらでアラゴン王国と争っていた。アラゴンはブルゴーニュの同盟国だったのだが、シャルル突進公はフランスによるアラゴン領浸食を黙認してやるという条件でブルゴーニュ方面におけるフランス軍の行動をストップしてもらったのである。(「アラゴン王国」とはイベリア半島の北東部にあった国である。そこの国王フェルナンドは1479年に西隣の「カスティーリア王国」の女王イザベラと結婚し、両国が合わさって「スペイン王国」となった)


 この時代の盟約者団は総勢約5万4000名の兵員を動員することが可能であった。兵員には18〜30歳の未婚男子によって構成される精兵集団「アウスツーク(最年少層兵役者)」、いざという時に比較的年長の者によって組織される「ラントヴェーア(後備兵)」、緊急非常事態に限って動員される「ラントシュトゥルム(予備兵・兵役経験者)」という3つのランクがあり、各自の武器や防具は自費で用意したが、壊れた時の修繕は各々の所属する邦が責任を持つということになっていた。

 それから……、本稿では繰り返し「スイス」という地名表記を用いているが、この語が登場したのは実は15世紀の中頃になってから、ハプスブルク家が盟約者団を呼ぶのに用いた他称から起こったといい、その語源は原初3邦のシュヴィーツが訛ったものであったという。そして盟約者団の側でも、その頃から『ヴィルヘルム・テル(ウィリアム・テル)』に代表される建国神話を盟約者団全体の歴史として認識するようになり、5年ごとに「盟約式典」を開催して全邦の団結を誓い合ったりすることで、「ルツェルン人」とか「ツーク人」とかいう邦民意識を越えた「スイス人」という意識を抱くようになっていった。本稿もこれ以降、盟約者団のことを「スイス」、そこの住民を「スイス人」と表記する。

   グランソンの戦い   目次に戻る

 76年2月末、ブルゴーニュ軍はベルンと他の邦の連絡を遮断すべく、グランソン(ベルンとフルブールの共同支配地)を占領、そこを守っていたスイス兵を捕虜にして殺害した。続いて3月2日、グランソンの北東7.5キロの地点で両軍の主力部隊が偶然接触した。スイス軍の指揮官たちは一旦停止を命じたが、シュヴィーツ隊の一部(小銃隊)が勝手に前進してブルゴーニュ軍を攻撃した。ブルゴーニュ軍は歩兵隊に前進を命じたが、やがて停止位置に戻ったシュヴィーツ隊によって撃退された。ちなみにこの時代の小銃(ハンドキャノン)というのは1分間に1発撃てるかどうかというシロモノであった。

 同日午前11時、スイス軍の指揮官たちは方陣を組んでの前進を下令した。これをみたブルゴーニュ軍はまず砲撃を開始、続いてシャルル突進公を先頭に押し立てての騎兵突撃を敢行した、のだが、スイス軍の密集陣を破ることは出来なかった。これはパイク兵が騎兵を相手にして十分にその効果を発揮した初めての戦闘であった(註2)。また、スイス軍は戦闘開始に先立って(ブルゴーニュ軍の見ている前で)膝をついてお祈りをしたのだが、これを挑発(嘲り)と解釈したシャルル突進公は冷静な判断力を失っていたという。

註2 小銃はまだまだ性能に不安があったし、装填や隊形変更の際にパイク隊に援護してもらう必要が絶対にあったため、このあとしばらくの間はパイクが戦場の王者となった。


 続いてブルゴーニュ騎兵隊の第2陣がスイス軍の背後に回り込もうとした。この攻撃はスイス軍に相当の損害を与えたが、(ブルゴーニュ軍は)地形の制約で機動的な動きが出来ず、指揮官シャトー・ギュイヨン以下多数の戦死者を出しつつ撃退された。そこでシャルル突進公は部隊の配置を変えた上であらためてスイス軍の側面・後方へと突進しようとしたが、ブルゴーニュ軍がもぞもぞと配置変えにかかったその時になってスイス側に新手が到着した。ブルゴーニュ軍は大混乱に陥り、武器を投げ出して逃走した。この「グランソンの戦い」におけるブルゴーニュ軍の戦死者は約300名、スイス軍の戦死者は200名であった。スイス軍はブルゴーニュ軍が捨てていった大砲を捕獲し、後々の戦いに役立てることになる。

   ムルテンの戦い   目次に戻る

 同年6月10日、グランソン戦の痛手から立ち直ったブルゴーニュ軍がムルテン市にいたスイス軍(ベルン隊)を包囲した。スイス軍は先の戦いで捕獲した大砲を城壁に並べて防戦し、対してブルゴーニュ軍は重砲を用いて城壁の一部を破壊した。と、そのうちにスイス側の増援が接近してきた。この時のスイス軍(帝国諸侯からの援軍を含む)の兵力は2万5000名、対してブルゴーニュ軍は2万3000名、後者は数で劣るも騎兵と砲兵で優っていた。ところがシャルル突進公はスイス軍の兵力を過小に見積もっており、事前に築いていた土塁に小銃兵・弓兵2000と騎兵1200だけを置いて残りの部隊(本隊)を後方にさげてしまった。シャルルは「突進」公というより「軽卒」公といった方が似つかわしい男であった。

 22日、土塁の防備が薄いことに気付いたスイス軍が総攻撃を開始した。スイス軍は前衛・中央・後衛の3集団にわかれており、その先頭に立って進み出した前衛第1波(その主力はベルン隊)はブルゴーニュ軍の放つ銃弾や矢の洪水の前に甚大な被害を出したものの、続く前衛第2波(シュヴィーツ隊)が敵の側面をひきつけ、やがて大砲の援護のもとにパイク兵が突進して土塁を突破、これを蹂躙した。そのままブルゴーニュ軍の本隊へと突進である。スイス軍前衛は土塁を突破した時点で隊列を乱してしまっていたのだが、ブルゴーニュ軍本隊が態勢を整える前にこれを蹴散らし、しばし遅れて進出してきた中央・後衛とで一方的な殺戮を展開した。この「ムルテンの戦い」におけるスイス軍の戦死者410名(その大半はベルン兵)に対し、ブルゴーニュ軍のそれは1万2000名にも達したという。

   ナンシーの戦い   目次に戻る

 ムルテンの戦いはシャルル突進公の名声を大いに傷つけた。ブルゴーニュ公国の内部で反乱が発生し、10月にはスイスと同盟していた帝国諸侯ロートリンゲン公の軍勢がブルゴーニュ側の要地ナンシーを占領した。シャルル突進公は大急ぎで集めた1万2000の軍勢を率いて出陣、ナンシーにいるロートリンゲン軍を包囲した。スイスは何故か直接的にロートリンゲン公を助けようとはしなかったが、ロートリンゲン公のエージェントがスイスで傭兵を募集することについては許可し、これに応じたスイス人8400名がナンシーへと急行した。エルザス4都市からも援軍が派遣され、年があけて1477年1月4日には総勢2万ほどの同盟軍が出揃った。

 ブルゴーニュ軍はナンシーの南にあった渓谷の狭まった部分で同盟軍を迎え撃つという作戦を立てた。その渓谷の両サイドは棘のある薮が並んでおり、同盟軍に側面を突かれる心配はないと思われた。ただし背後は湿地帯で、いわゆる背水の陣ということになる。ところが、同盟軍は全軍を前衛・中央・後衛の3隊に分ち、前衛がブルゴーニュ軍の正面を牽制、中央が薮を突破してブルゴーニュ軍の側面を突くという作戦を立てた。後衛は予備隊である。

 そして1月5日正午、同盟軍中央が困難な前進を開始、2時間かけてブルゴーニュ軍を右側面から見下ろすポイントに到達した。渓谷はその時まで雪と靄に覆われていたが、偶然にも顔を出した太陽に照らし出されたブルゴーニュ軍を目掛けて斜面を駆け下りる。シャルル突進公は大砲で反撃しようとしたが、角度が悪くて効果があがらない。さらに同盟軍前衛が猛攻をかけたものだからブルゴーニュ軍は7000もの戦死者を出して総崩れに陥った。何とか戦場から離脱した兵士たちは、そこで味方の裏切りにあって捕縛された。この「ナンシーの戦い」の数日後、シャルル突進公の無惨な遺体が池の泥水の中から発見された。突進公は身ぐるみはがれたうえに顔を砕かれていたという。

   シュタンス協定   目次に戻る

 シャルルには男子がなく、一人娘のマリが跡を継ぐことになったのだが、まず主君のフランス国王に領地の南半分をとりあげられた。領地の北半分であるネーデルランド……つまり現在のオランダとベルギー……の諸州はここぞとばかりにマリに自治だなんだを要求、マリはこれを認めるのと引き換えに以前結婚話の出ていたハプスブルク家のマクシミリアン(皇帝フリードリヒ3世の息子)と今こそ結婚したいと言い出し、諸州の承認を得た。つまりマリはハプスブルク家に助けを求めた訳だが、その頃フランスがネーデルランドに対しても露骨な野心を示していた(フランス国王ルイ11世は自分の息子シャルルをマリと結婚させたがっていた)ため、諸州の側としてもハプスブルク家を引き入れてフランスと噛み合わせるのは悪くない(あるいは仕方ない)戦術だと思えた。しかしまぁ、これで実質的にネーデルランドはハプスブルク家の領国となってしまった訳である。ネーデルランド入りしたマクシミリアンは78〜79年にフランス軍と交戦、これに勝利した。以降のハプスブルク家とフランスは犬猿の仲となる(註3)

註3 マリは一男一女を産むが82年に事故死した。その後のネーデルランド諸州は今度はフランスと組んでハプスブルク家に反旗を翻したが、マクシミリアンによって鎮圧された。


 そしてスイスは……、ブルゴーニュと戦端を開く際の最強硬派であったベルン(盟約者団の正式メンバー8邦の中で最もブルゴーニュに近く、ムルテンの戦いでは多大の損害を出した)がブルゴーニュ領をふんだくろうとしたが、ベルンだけが強大化することを恐れた他の邦が反対したため、ちょっぴりしか領地を増やせなかった(とはいっても戦利品はかなりのものであったらしいし、ロートリンゲン公に貸した傭兵の代金もあったので、それらで満足した)。それから、この戦争で功績を示した従属邦「フリブール」と「ゾーロトゥルン」が盟約者団の正式メンバーに昇格することになったのだが、これが新たな波乱を生むことになる。

 というのは……、盟約者団においてはもともと原初3邦に代表される農村邦が軍事の中核を担っていたのだが、ブルゴーニュ戦争で最も活躍したベルンは都市邦であったし、さらにフリブールとゾーロトゥルンも都市だったため、それらの正式メンバー昇格による相対的な地位低下を恐れた農村5邦が不満の声をあげたのである。都市邦は「都市同盟」を結んで立場の強化をはかり、農村邦は都市邦支配下の農村部を煽動して独立の邦に仕立てようとしたため、盟約者団は古チューリヒ戦争の時のような内乱寸前の状態となった。

 しかしこの対立は、1481年12月にウンターヴァルデン出身の隠修士ニコラウス・フォン・フリューエの仲裁によって成立した「シュタンス協定」によって奇跡的に解決された。「盟約者団間の武力攻撃の禁止」「他邦の臣従民を煽動することの禁止」「臣従民の暴動に際しては他邦が仲裁し、場合によっては共同で鎮圧」等々。都市同盟は解散となり、それと引き換えにフリブールとゾーロトゥルンの正式メンバー昇格が農村邦にも承認された。ただ、この2邦は古参の8邦と比べると待遇が悪かったし、盟約者団全体を統括する中央政府のようなものは相変わらず設置されないままとなった。

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