ハプスブルク家とスイス盟約者団 後編その2

   ジュネーヴ   目次に戻る   

 チューリヒがカトリック派にやっつけられている間、改革派のもうひとつの雄であるベルンの目は西方の「ジュネーヴ市」に向いていた。ここで本稿に初めて登場するジュネーヴ市というのは……、もともと「ジュネーヴ司教」の支配下に置かれていたが、1387年に司教から自由特許状を貰い、大幅な自治を享受していた都市である(司教から完全独立した訳ではありません)。ところが15世紀に入るとイタリア北西部の帝国諸侯サヴォア家がジュネーヴ司教を乗っ取り(司教職にサヴォア家の縁者を就任させた)、ジュネーヴ市に圧迫を加えるようになった。

 1532年、ベルンは改革派の神学者ギヨーム・ファレルをジュネーヴに送り込み、そちらの市参事会が34年と35年の2度に渡って開催した討論会を通じて宗教改革を決定させた。ジュネーヴ市は宗教改革を通じてベルンと結ぶことによってジュネーヴ司教およびサヴォア家に対抗しようとしたのである。ところが、ジュネーヴ市民の少なからぬ部分はその後も改革を嫌ったため、ファレルの改革は苦心の連続となった。また、ジュネーヴは去る26年(ベルンが宗教改革に踏み切る前)にサヴォア家に対抗するためにベルンおよびフリブールと同盟を結んでいたのだが、フリブールはカトリック派であったことから、ジュネーヴに対し宗教改革をやめなければ同盟を破棄すると脅迫してきた。結局フリブールは同盟を破棄してしまうのだが、この措置は結果的にはベルンの(ジュネーヴに対する)影響力を増大させることとなった。

 しかし、ということは、ベルンは単独でジュネーヴを守ってやらねばならないということになる。35年、サヴォア家はジュネーヴへの圧迫を強化、その締め付けが厳しかったせいで餓死者まで出したジュネーヴはベルンに助けを求めたが、カトリック派であったサヴォア家と正面きって対決したりしたら盟約者団のカトリック諸邦を怒らせるのではないかと考えたベルンはジュネーヴを助けることが出来なかった。

 ところが36年、フランスが7年前にカール5世と結んでいた「カンブレー条約」を破棄して北イタリアのミラノ公国を侵略した。前年11月にミラノの君主フランチェスコ・スフォルツァ2世が死んだため、その遺領を狙ったのである。そして、フランス軍はミラノへの通り道にあたるサヴォア家の領地を侵犯した。ジュネーヴはこの機に乗じて司教からの完全独立を宣言、ベルンも軍勢を動かしてサヴォア領のヴォー地方を占領、統治下に組み込んでその地域の宗教改革を実施した。現在のスイス連邦においてフランス語を話す地域の大部分はこの時からスイスの一部となったのである(註1)。第2次カペル戦争におけるチューリヒの敗退によって改革派不利に傾いていたスイスの宗教模様は、ベルンのヴォー征服によってほぼ両派の均衡がとれるようになった。ベルンはヴォーの一部をフリブールに分けてやったため、(盟約者団の)カトリック諸邦との関係がこじれるようなことにはならなかった。ただし、ジュネーヴ(ちなみにこの都市もヴォーと同じくフランス語圏)はこの時点では盟約者団には加盟せず、あくまで一個の独立国となった。

註1 ベルン領にはそれ以前からフランス語地域があった。それから……本稿の最初の方でも説明したが……スイス東部のグラウビュンデン自由国の住民の一部は「ロマンシュ語」という独自の言語を用いており、現在のスイス連邦においてはドイツ語・フランス語・イタリア語・ロマンシュ語の計4つが公用語となっている(ただしロマンシュ語を話す人はグラウビュンデンでも少数かつ老齢者に限られ、絶滅が危惧されている)。


   カルヴァンの登場   目次に戻る
  
 フランス軍に対しては例によってハプスブルク家が対抗し、一進一退の戦いとなったが、ローマ教皇パウルス3世が調停に入ったことによって38年には講和が成立した。……そんな最中の1536年、ジュネーヴ市に、フランスの改革派神学者ジャン・カルヴァンが来訪した。

 カルヴァンは1509年に北フランスのピカルディー州ノワイオンに生まれ、パリ大学で神学を、オルレアン大学で法学を学んだ人物である。フランスの改革派は1520年代頃に登場しており、国王フランソワ1世は最初は特にそのことについて問題視したりはしなかった(むしろ彼は新しいもの好きだったし、国内のカトリック教会を統制するために改革派を利用出来るとも思っていた)のだが、34年に改革派の過激分子がカトリック糺弾の檄文をあちこちに貼りまくる「檄文事件」が発生、自分の寝室の扉にまで檄文のビラを貼付けられたことに激怒したフランソワ1世は改革派に対する弾圧を開始した。これにより、33年頃に「突然の回心」によって改革派となっていたカルヴァンもスイスのバーゼル(改革派)への亡命を余儀なくされた。しかし彼はバーゼルで『キリスト教綱要』を執筆して改革派神学者としての名声を確立、その後フランソワ1世が6ヶ月だけの帰国を許してくれたので、フランスに残していた弟妹を呼びにいく途中にジュネーヴに立ち寄ったのである。

 ジュネーヴの宗教改革を苦心しつつ押し進めていたファレルは高名なカルヴァンの来訪を聞き及び、彼の泊まっていた宿屋に押しかけて協力を要請した。しかしカルヴァンはたまたまジュネーヴに一泊しただけであったし、現実政治に関わるよりも神学の研究に没頭するつもりでいたので一旦はこの誘いを断った。が、ファレルの「あなたがわれわれの苦しみを見過ごしていくならば、神はあなたの平安に呪いをあたえ給うであろう」という脅迫じみた懇願に負け、協力要請を受諾した。以下はカルヴァンの回想。「わたくしがジュネーヴにつなぎとめられたのは、たんなる説得や勧めによってではなく、ファレルの恐ろしい呪文によってであり、それはあたかも、神が天空から強い力でその御手をわたくしの上においたかのようであった」。

 しかし、カルヴァンの改革はあまりにも性急にすぎ、2年後の38年4月にはファレルともどもジュネーヴから追い出されてしまった。2人ともジュネーヴ市民にとっては外国人であったので、それに対する反発も作用していた。ファレルはスイスの従属邦のひとつヌシャテル伯領に亡命してそちらの宗教改革に尽力、カルヴァンはドイツの改革派帝国都市シュトラースブルクに亡命してそちらで自分の思い通りの教会(フランソワ1世の弾圧を避けてドイツに亡命していた改革派フランス人の教会)を組織した。

   シュマルカルデン戦争とアウグスブルクの宗教和議   目次に戻る

 ドイツの改革派(ルター派)諸侯および都市はヘッセン方伯やザクセン公の指導下に1531年「シュマルカルデン同盟」を結成して皇帝カール5世(カトリック派)に対抗していた。その頃カール5世はオスマン帝国軍と戦っていた(ハプスブルク家の領地であるオーストリアのウィーン市がオスマン帝国軍に包囲された)ため、改革派諸侯の信仰を黙認せざるを得なかった(かわりに対オスマン戦を援助してもらう)が、33年にはオスマン軍との講和が成立した(註2)。42年にはまたまたフランスがカール5世に対し戦いを挑んできたが、カール5世はこれを撃破、44年の「クレピー条約」でハプスブルク側に有利な講和を締結した。これでカールはシュマルカルデン同盟対策に専念出来るようになった。

註2 オスマン帝国軍によるウィーン包囲は長雨に祟られたうえに補給が続かなくて撤収、戦いはその後も続いたが、オスマン帝国は手薄となっていた東部国境をサファヴィー朝ペルシアに荒らされ、カールの方は軍資金がもたなくなりそうだったので講和したのである。


 46年2月18日、同盟の心の支えであるルターが死去した。これで求心力を失った同盟に対してカール5世は同年6月から戦争をしかけ、翌47年4月に行われた決戦「ミュールベルクの戦い」で大勝した。勝因は同盟の指導者ザクセン公ヨハン・フリードリヒの従兄弟にしてヘッセン方伯の娘婿でもあったモーリッツが同盟を裏切ってカール5世軍に与したからであった。この「シュマルカルデン戦争」においては両陣営ともにスイスに応援を求めてきたが、スイス側は46年8月の盟約者団会議で「不偏不党」を宣言した。そのうえで傭兵を提供していた訳ではあるが。

 カール5世は戦勝の勢いを駆って「アウグスブルク帝国議会」を召集、カールの軍勢が取り囲む議場において、カトリックを全帝国内に再建するが、改革派に対してもいくらかの譲歩を認めるという旨の「仮協定」を作成、諸侯・帝国都市に署名を強要した。カール5世としては、改革派をカトリック教会に復帰させたうえで(改革派が糺弾しているような)カトリック教会内の諸々の悪弊を取り除くのが望ましいと考えていた。「仮」というのは……、その頃イタリア北部のトリエントでカトリック教会の首脳陣が一堂に会する「トリエント公会議」が開催されており、カトリック教会がいかにして改革派に対抗するかが話し合われていたのだが、これがたまたま疫病が出たりしたことから中断してしまい、業を煮やしたカール5世が仮の協定を作成してしまったという訳なのである。カール5世の勢いにのまれた諸侯・帝国都市は次々に仮協定に署名したが、マルデブルク市のみは拒絶した。そこでカール5世は新ザクセン公のモーリッツに大軍を与えてマルデブルク市を包囲させた。ところが、モーリッツはマルデブルク市と裏取引して形だけ降伏してもらうや軍を反転、アウグスブルクで丸腰同然だったカール5世を急襲した。

 モーリッツはフランスと結んでいた。フランスは先の「クレピー条約」を破棄してドイツ・イタリア両面から攻勢に出てきた。フランスでは去る47年に国王フランソワ1世が亡くなっていたが、その息子のアンリ2世は父王の積極策をそのまま引き継いでいた。こういう場面でカール5世を支援すべきカトリック派の諸侯は、皇帝の権威が(皇帝の軍勢が取り囲む議場で仮協定を作成するようなやり方で)強大になりすぎるのも問題だと思っていたので、誰もカール5世を助けようとしなかった。しかも、カール5世の弟でローマ王のフェルディナントも、相続問題で不仲になっていた兄を積極的に助けようとはしなかった。そして52年8月「パッサウ条約」が成立、カール5世は仮協定を破棄し、両宗派は今後たがいに平和的に共存すべきことが約束された。これ以降のカール5世は引退状態となり、皇帝名代となったフェルディナントが55年をもって改革派との間に「アウグスブルクの宗教和議」を締結した。諸侯および帝国都市は改革派とカトリックのどちらを選択してもよい、ただし、領民は主君の選択に従うべき、というものである。スイスで第2次カペル戦争後に結ばれたのと基本的に同じ約束が20年遅れで帝国全体にも適応されたという訳であるが、この和議でいう「改革派」というのはルター派だけであって、ツヴィングリ派やカルヴァン派については認められなかった。

 1556年10月25日、カール5世は退位を表明し、皇帝位は弟フェルディナントが継承した。ハプスブルク家の領地のうちフェルディナントが既に貰っていた地域(オーストリア・シュタイアーマルク・ティロル等)以外はカール5世の長男のフィリップが相続することになった。フィリップが貰った領地のうちで最も重要なのはスペインで、本人も少年時代からスペインで暮らしていた(しかも1544年以降はスペインにおけるカール5世の名代となっていた)ため、彼はこれ以降は「スペイン国王フェリペ2世」と呼ばれることになる。「フェリペ」とはフィリップのスペイン語よみである。

 ともあれこれで、ハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系の2つに分裂することとなり、両統が統一されることは2度となくなった。しかし、カール5世(58年に没)とフェルディナントの兄弟は別として彼らの子孫たちの関係はいたって良好なもので、スペイン家はその後の歴代のオーストリア家当主がローマ王の選挙に立候補するのを支援し続けた。これ以降19世紀の初頭に神聖ローマ帝国そのものが消滅してしまうまで、皇帝位はオーストリア・ハプスブルク家によってほぼ独占されることとなる。

 と、それから、忘れるところだったが、モーリッツの謀反の時に動き出したフランス軍との戦いはフェリペ2世が引き継いだ。戦場はネーデルランド(スペイン・ハプスブルク家の領国)方面とイタリア方面で、どちらもハプスブルク軍が優勢となった。フェリペ2世は54年にイギリス女王メアリ1世と結婚しており、そちらからの支援を受けることが出来たのである。そして59年に成立した講和条約「カトー・カンブレジ条約」によってスペイン・ハプスブルク家はミラノ公国その他の領有を認められ、15世紀の末から延々と続いてきたフランスによるイタリア政策はここにきてようやく終了した。それから、メアリ1世が戦争終結前の58年にフェリペ2世の子供を生まないまま死去していた(イギリス王位はメアリの異母妹エリザベスが継承)ため、フェリペ2世はフランス国王アンリ2世の娘エリザベートと結婚することにした(註3)。もっとも、これでハプスブルク家とフランスの抗争が完全に終わった訳では全く全然ないのだが……。

註3 最初はイギリス新女王のエリザベスに求婚したが断られた。故メアリ1世は熱心なカトリックであった(だからフェリペ2世と結婚した)が、エリザベスは改革派を採用したため、その後イギリスとスペイン・ハプスブルク家は対立関係となった。


 59年6月、フェリペ2世とエリザベートの結婚を祝う行事の一環として行われた馬上槍試合に出場したアンリ2世は対戦相手の槍に右目を潰されてしまい、その傷がもとで死亡した。跡継ぎのフランソワ2世はまだ14歳の若年であり、しかもフランスはその3年後の62年から大規模な内乱「ユグノー戦争」に見舞われた(後述)ため、ハプスブルク家との対決はやりたくても出来なくなった。(エリザベートは68年に死去した。彼女が産んだフェリペ2世の子供は女の子が2人だけであった。フェリペ2世はオーストリア・ハプスブルク家のアナ・デ・アウストリアと結婚し、彼女が産んだ男子が次のスペイン国王フェリペ3世となった)

   カルヴァンの宗教改革   目次に戻る

 話の舞台をスイス方面に戻す。1541年9月、ジュネーヴの市参事会で改革派が盛り返し、彼らがカルヴァン(2度とジュネーヴに戻ることはあるまいと思っていた)を呼び戻した。カルヴァンはシュトラースブルクの教会で作成していた礼典・儀式・賛美歌・祈祷文等々をジュネーヴに持ち帰ってそちらの教会を再組織し、信仰や日常の行いの優れた者17名からなる「長老会」を組織して彼らに一般市民の宗教(道徳)生活を統制させることにした。17名の内訳は牧師5名と平信徒12名である。聖職者と世俗の信徒が共同で教会の運営を行う組織のことを「長老制」と呼び、カルヴァン派の教会のひとつの特色となっている。ただ、平信徒は実際には教会よりもジュネーヴ政府(市参事会)の意向を代表しており、長老会の権限は政府当局の権限を侵害してはならないことになっていた。

 カルヴァンは政府当局がつけてくる制約をかわしつつ強力的に改革を遂行していった。市民生活において真の信仰と善き道徳を実践するため、派手な服装や装飾品は禁止、娯楽も料理も制限、子供の名前には「イサク」とか「アダム」とかの聖書ゆかりの名を強制、……等々。カルヴァンは神の絶対的権威を説き、人間は神がその栄光を実現するための手段になりきるべきであると主張した。もしそれらの決まりを破ったら厳しい罰則が待ち構えていることは言うまでもない。例えば……、洗礼式の時に笑った市民に対し3日間の拘留、スケートをした少女に対し罰金と訓戒、朝食にパイを食べた労働者に対し3日間パンと水以外の食事禁止、カルヴァンの教説に公然と反対した人に対し鞭打ちと追放、酒に酔ってカルヴァンを罵った印刷業者に対し灼熱した鉄棒で舌に穴を開けたうえで追放……。死刑になった者もいる。42年から46年までの4年間に76名が追放され、58名が処刑されたという。

 カルヴァンの厳しさを示す有名な事例はミシェル・セルヴェの事件である。セルヴェはスペイン出身だが若い頃にフランスに渡って改革派となり、神学や医学、人文学の研究で有名になった。特に医学においては「血液循環説」を唱えた先駆者として知られているが、神学に関してはキリスト教の中心的教義のひとつである「三位一体説」を否定したことでカトリック・改革派双方と対立するに至った。彼はカルヴァンの著書『キリスト教綱要』の欄外に間違い(と思われる)箇所を指摘する書き込みをしてカルヴァン本人に送りつけたりしたことから激しい憤激を買ってしまった。カルヴァン曰く「もしセルヴェがジュネーヴにやってくるようなことがあれば、私の目の黒い限り、生きてはこの地を去らせませぬ」。

 という訳でセルヴェは1553年、カルヴァンの策謀によってカトリック教会の異端審問官に逮捕されるのだが、うまいこと脱走、しかし、その数ヶ月後に何故かカルヴァンのいるジュネーヴにやってきた。さらに大胆(無謀)にもカルヴァンが説教をしている教会を訪れるが、当然その場で逮捕・投獄となった。審理の結果は火刑で、1553年10月27日をもって著書と一緒に生きたまま焼き殺された。点火してから息絶えるまで半時間もかかり、苦しみ悶えつつ「イエス、神の子よ。われを憐れみたまえ」と叫び続けたという。それまでにも改革派が異端(というレッテルを張った対立教派の信徒)を「暴徒」という名目で処刑したことはしばしばあったが、明白に異端の名において死刑を執行したのはこの事件が最初であったという。カルヴァンはこの処刑は必要かつ正当な行為であったと声明したが、後世のカルヴァン派の信徒たちは「師父の世紀の誤謬」であったと反省し、1903年になってセルヴェが処刑されたシャンペルの丘に贖罪記念碑を建立したのであった。

 カルヴァンが厳しかったのは、ジュネーヴ市民の上層部に「リベルタン」と呼ばれる強力な反カルヴァン派がいて彼らが常にカルヴァンの足元をすくおうとしていたため、そのような政敵に隙を見せないためにはとにかく峻厳きわまりない態度を示す必要を感じていたからでもあった。しかし反カルヴァン派にも言い分はあった。ジュネーヴというのはもともとカトリックのジュネーブ司教から独立することで成立した都市国家なのに、また(今度はカルヴァン派の)教会の支配下に置かれるのは御免こうむりたいからである。リベルタンは55年になって暴動を起こしたがあえなく鎮圧され、その首謀者たちは死刑や追放に処せられた。前述のセルヴェはリベルタンとつるんでカルヴァンを打倒するためにわざわざジュネーヴにやってきたのだという説もある(カルヴァン本人もそう思っていたらしい)が、その確証はないようである。

 1560年には長老の選出にあたっては牧師の同意を必須とするという改革が行われた。それまで政府当局の意向を重視しがちだった平信徒選出の長老職を、なるべく教会の意に沿う人から選べるようにしたという訳である。さらに「旧市民」と「新市民」の差別を撤廃する改革もなされた。後者はつまりカルヴァンの令名を慕って他国からジュネーヴに流れ込んできた人々であったから、彼らと旧市民が同権になるということは要するにカルヴァンの権威権力が著しく強固になるということである。

 カルヴァンが初めて来訪した頃には1万3000ほどの人口を持っていたジュネーヴ市は、いつのまにか各国の改革派が5〜6000人ほども集まっていた。特に多かったのはフランス人であった(カルヴァン自身もフランス人であるし、このあたりはフランス語圏である)。フランス本国政府(カトリック派)の弾圧を避けて亡命してきた彼らの中には商人や職人が多く、ジュネーヴにおいて時計産業が発展する契機となった。「スイス製の時計」というのはこの時代に始ったブランドなのである。ジュネーヴはもともと宝飾細工が盛んな都市だったのだが、カルヴァンが贅沢品を制限したせいで路頭に迷いそうになった金細工師たちがフランスから来た時計職人の教えを受けて時計作りに転身したのであるという。

 カルヴァンは59年に「ジュネーヴ大学」を設立、ここで学んで「神の栄光のために働くべき戦士」となった多国籍の学生たちはやがてそれぞれの母国にカルヴァンの教説を持ち帰っていった。改革派の2大潮流であるルター派とカルヴァン派のうち、前者が広まったのはドイツと北欧諸国だけであったのに対して、後者はフランス、ネーデルランド北部、ドイツの一部、イギリス、そしてアメリカへと伝播していった。ルターが「信仰に対する為政者のいかような圧迫に対してもキリスト者は武力で反抗してはならない」と説いたのに対し、カルヴァンは「長い忍耐と抗議の末であるなら、国民の中の指導者に限り為政者に反抗してもよい」とした。為政者というものは神の地上の代理人であって、信仰の正しい実践を保ち、人民の安全と財産を守り正義を行う存在であるが、そのような神の命令に背いた場合には倒されても仕方ないのである。この時代はスペイン・ハプスブルク家の領国であったネーデルランドの北部、すなわちオランダがやがて独立戦争を起こす時にはカルヴァン派が大きな役割を果たすことになるし、イギリスの「清教徒(ピューリタン)」もカルヴァン派の系譜に属している。またカルヴァンは、人が救済に与れるかどうかは永遠の昔から神の意思によって予定されており、現世でいくら善行を積んだところでその予定をどうこうすることは出来ないが、神のおぼしめしである各人の職業労働(どんな仕事であっても神に定められた天職である)に勤しむことによって「自分は神の救済に選ばれた」と確信することが出来ると唱えた。これは、商人や手工業者、農民にとっては大いに歓迎すべき教説であった。

 カルヴァンは1564年に亡くなるが、その2年後にはカルヴァンの後継者たちとチューリヒのツヴィングリ派との協力関係が成立した。カルヴァンは生前の49年にツヴィングリの後継者ハインリヒ・ブリンガーと会談し、『チューリヒ一致信条』によって両派の教義に関する基本的な一致を確認していたのであった。

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