ハプスブルク家とスイス盟約者団 後編その3

   対抗宗教改革とユグノー戦争   目次に戻る

 さてスイスのカトリック諸邦は、1555年に共同支配地「ロカルノ」から改革派を追放、続いて60年には中立派のグラールス(盟約者団正式メンバー)をカトリックに染めようとしたがこれは失敗した(以後のグラールスは両派共存となった)。また、ロカルノから追い出された改革派は絹織物の技術を持っていたため、彼らを受け入れたチューリヒの経済が向上するという効果を生んでしまった。カトリック派は農村邦を主体としていたことから都市邦を中心とする改革派よりも経済力で劣り、しかも人口も少なかった(ただし邦の数ではカトリック派が優っていたため、全体的には両派の力は拮抗していた)。しかし60年にはカトリック派とサヴォア家の同盟が成立、彼らの力によって、以前にベルンがサヴォア家から奪っていた領地の一部が返還された。

 その地域は当然カトリックに戻ることになったため、危機感を抱いた改革派は66年、改革派の全ての邦と従属邦が署名する『スイス信仰告白』をまとめて団結を強化した。ただし、ここで連合したのはツヴィングリ派とカルヴァン派だけであって再洗礼派はその後も迫害され続けたし、ドイツ方面のルター派とはすっかり疎遠になった。何故ならば、本稿の上の方で説明したドイツの改革派諸侯と皇帝との和約「アウグスブルクの宗教和議」でルター派は認められたのにツヴィングリ派とカルヴァン派は認められなかったからである。

 それから、これも上の方でちらりと述べたきりのカトリック教会の首脳会議「トリエント公会議」だが……、これはカール5世とザクセン公モーリッツの争いに巻き込まれるのを避けるために中断、10年も経った62年に至ってようやく再開された。こんなに間が開いたのは、教皇とカール5世の主導権争いが絡んでいたからなのだが、とにかく公会議は63年に終了、改革派が唱えている「万人司祭説」「聖書のみ」「信仰のみ」といった教説を明確に否定することによってカトリックの教義を再確認し、そのうえで教会内の各種の悪弊を刷新すべきことが決議された。スイスのカトリック派はこの公会議に積極的に参加しており、イエズス会(註1)やカプチン会(註2)と協力して「対抗宗教改革」を押し進めることになる。

註1 1534年にイグナチウス・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエル等によって創設されたカトリックの修道会。教皇に絶対の服従を誓う伝道団体で、改革派に奪われた地域の奪回(その地域に学校をつくってカトリックの教えを普及したりした)や海外布教に活躍した。戦国時代の日本にキリスト教を伝えたのがこの会であることはあまりにも有名。

註2 1528年に創設されたカトリックの修道会。


 フランスにおいては1562年にカトリックと改革派の内乱「ユグノー戦争(註3)」が勃発したが、どちらの陣営もスイス傭兵を使用した。特に活躍したのはルツェルン出身のカトリック派傭兵隊長ルートヴィヒ・プファイファーという人物で、フランス国王シャルル9世が改革派騎兵隊の襲撃を受けた際にこれを救うという殊勲をたて、帰国後はルツェルン市長にまでのぼりつめた。プファイファーは北イタリアのミラノ大司教カルロ・ポロメーオ(スイスに利害を持っていた)と協力してスイスにおけるカトリックの勢力伸長に努力し、77年にはルツェルンにイエズス会士を招聘して上層市民の教育を担当してもらった(ルツェルンは費用として毎年2000グルデンを支出した)。下層の人々の教育はカプチン会の修道士が担当し、さらにルツェルンの町にはローマ教皇の大使が常駐することになった。このようなカトリックの対抗宗教改革に危機感を抱いたジュネーヴは84年、スイス盟約者団に加盟させてもらった。ただし、ジュネーヴは14番目の正式メンバーになることを望んだのだがそれは認められず、従属邦ということになってしまったが。

註3 「ユグノー」というのはフランスのカルヴァン派のこと。


 86年になるとカトリック7邦は「黄金同盟」を結成、そのうち5邦は翌87年スペイン・ハプスブルク家と同盟し、スペイン軍に4000〜1万3000名の傭兵を提供する契約を結んだ。その頃フランスではユグノー戦争が最終局面に入り、改革派のアンリ・ド・ナヴァール、カトリック派のギース公アンリ、それからカトリックでありながらも改革派に妥協的であった国王アンリ3世という3人のアンリが相争う「3アンリの戦い」となっていた。スイスのうち改革派諸邦はアンリ・ド・ナヴァールに、カトリック7邦のうち5邦はギース公に、フリブールとゾーロトゥルンはアンリ3世にそれぞれ傭兵を提供した(あくまで傭兵を送っただけであって参戦した訳ではない)。88年にはアンリ3世がギース公を暗殺、しかし翌89年には今度はアンリ3世が狂信的カトリックの修道士によって暗殺された。これでフランス王家(ヴァロア家)は断絶し、王位は(フランスの王位相続法に基づいて)遠戚にあたるアンリ・ド・ナヴァールが継承することになった(「国王アンリ4世」を号す)のだが、これを認める訳にはいかないカトリック派は故ギース公の弟マイエンヌ公シャルルの指導(とスイスのカトリック派の派遣する傭兵およびスペイン・ハプスブルク家の支援)のもとに戦いを継続した。

 90年には「イヴリーの戦い」でアンリ4世軍がマイエンヌ軍を破った。前者には改革派のスイス傭兵が1万ほど従軍しており、後者には前にも登場したカトリック派傭兵隊長プファイファーがいた。ここでプファイファーが負けたことや、スペイン・ハプスブルク家が去る88年にイギリス(改革派)と戦って敗れた(註4)ことにより、スイスにおけるカトリック派の勢いは後退を余儀なくされた。ユグノー戦争はその後も続いたが、アンリ4世がカトリックに改宗したうえで改革派の権利を保障するという「ナントの勅令」を発した(98年)ことにより、36年の長きに渡った戦いはようやく終止符をうった。

註4 イギリスのエリザベス女王が改革派を採用していたことは既に説明した通りである。スペイン・ハプスブルク家はイギリス国内のカトリック派を助けてエリザベスを打倒しようとしたがうまくいかなかったため、1588年に艦隊を送ってイギリスを叩こうとしたが、イギリス艦隊の反撃と嵐のせいで失敗に終わった。詳しくは当サイト内の「北米イギリス植民地帝国史」を参照のこと。


   アペンツェルの分割   目次に戻る

 スイスでは1602年12月、サヴォア軍がジュネーヴに対し「梯子作戦」と称する奇襲攻撃をかけたが、ジュネーヴ側の警戒が厳重だったため失敗に終わった。翌年には「サン・ジュリアンの和約」が成立し、サヴォア家はジュネーヴに対する野心を完全に放棄した。梯子作戦を撃退した12月11日はジュネーヴの「解放記念日」となっている。

 それと同じ頃、宗教改革に対して中立だった(両派が共存していた)アペンツェル(盟約者団正式メンバー)にカトリック派のカプチン会の修道院が進出し、両派の対立が激化した。その結果、1597年をもって邦を2つに分割することになり、改革派の「アペンツェル・アウサーローデン」とカトリック派の「アペンツェル・インナーローデン」が誕生した。ただしこれで盟約者団の正式メンバーが14に増えたのかというとそうではなく、邦の権利も2つに割るという変則的な措置がとられた。こういう形式は今回が初めてという訳ではなく、実は原初3邦のウンターヴァルデンも、正確には東半分の「ニートヴァルデン」と西半分の「オプヴァルデン」に分かれている。現在のスイス連邦には26の「カントン(邦)」があるが、そのうち6つは「半カントン」と呼ばれ(註5)、全州院(註6)において普通のカントンの半分の議席しか持っていない。

註5 1833年にバーゼルが「都市バーゼル」と「農村バーゼル」に分裂、それぞれ半カントンとなった。

註6 スイス連邦の「連邦議会」は、各カントンから人口比例に基づいて議員を選出する「国民院」と、カントン2名・半カントン1名づつの代表を選出する「全州院」の2院からなっている。前者は200議席(大きいカントンなら単独で30議席ぐらい選出する)、後者は46議席である。


 と、こんな具合にスイスのカトリック派と改革派は激しい対立を続けたが、スイス内部で宗教戦争を起こすような最悪の事態だけは回避し続けた(1656年と1712年に「フィルメルゲン戦争」という内乱が起こるが、これは本稿の扱う時代ではない)。人々の間には宗派の違いを越えた「スイス人」という意識が保たれ続けたのである。また、諸外国としても、傭兵の供給源が内戦になったら困る(傭兵の募集が出来なくなる)ため、スイスで揉め事が起こりそうになる度に外交官を使って調停したりした。

   グラウビュンデンの内乱と三十年戦争   目次に戻る

 ただし、盟約者団の正式メンバーではないグラウビュンデン自由国においては悲劇が発生した。この国は既に述べたような52の「裁判区」に分かれていたが、そのうち3分の2はツヴィングリ派を奉じ、残りは両派共存ということになっていた。52の裁判区が3つの「同盟」を組織し、その同盟が集まって「自由国」を運営していたことも既に説明した通りだが、実はこの国にもスイス(盟約者団)と同じような「共同支配地」が3つ存在した。スイスの場合は複数の邦が代官を出し合って支配するのだが、グラウビュンデンの場合は複数の同盟で共同支配を行うのである。で、厄介なことに、3同盟が改革派優勢であったのに対して、共同支配地の住民(臣従民)の大半はカトリックにとどまっていたのである。

 同盟側は共同支配地に宗教改革を押し付けようとした。臣従民たちはスペイン・ハプスブルク家(グラウビュンデンにほど近いミラノ公国を支配していた)に助けを求めたため、怒った同盟側は共同支配地に対する制裁を決議した。これに対して1620年、共同支配地のひとつ「ヴァルテリーナ」の臣従民たちが同地に住んでいた改革派500名を虐殺する「聖なる流血」事件を引き起こした。ヴァルテリーナはそのままスペイン・ハプスブルク家の支援のもとにグラウビュンデンからの独立を宣言した。同時にオーストリア・ハプスブルク家もグラウビュンデンへと派兵してきた。

 この2年前の1618年、ドイツ方面において改革派諸侯と皇帝(オーストリア・ハプスブルク家)との大規模な戦乱「三十年戦争」が勃発しており、グラウビュンデン紛争はその一局面という性格を帯びることになった。三十年戦争に関する詳しい解説は別稿に譲るとして、とりあえずハプスブルク家としてはミラノとオーストリアの連絡路にあたるグラウビュンデンは是非とも押さえておきたい戦略的要衝であった。24年になるとフランスが改革派に加担(註7)してグラウビュンデンへと派兵してきたが、ハプスブルク軍に撃退された。フランスはこの後しばらくのあいだ中立となった。

註7 フランス王家はカトリックなのだが、永年の宿敵であるハプスブルク家を叩くために「敵の敵は味方」ということで改革派を応援したのである。


 スイスも(グラウビュンデンは別として)三十年戦争に対して中立であった(註8)が、1630年夏にスウェーデン国王グスタフ・アドルフがドイツの改革派諸侯を助けるために参戦し、ついでにスイスに同盟を求めてきた。この頃(どういう理屈でかは知らないが)スイスのシュヴィーツの住民とスウェーデン人は共通の祖先を持つという説が流れていたため、グスタフ・アドルフとしてはそのツテ(?)を利用出来ると思ったようだが、スイス側の盟約者団会議によって拒絶された。そこでグスタフ・アドルフは「敵方の軍勢にアルプスの峠を通行させない」よう要求し、さもなくばスイスが戦場になるであろうと脅迫してきた。これについてはスイス側も承諾した。スウェーデン軍には5〜6000名のスイス人が傭兵として勤務していたため、グスタフ・アドルフとしてはスイスが中立を守ってくれればそれで満足(同盟出来ればそれにこしたことはないが)であった。ちなみにフランスは中立を保ちつつスウェーデンを資金援助することによって間接的にハプスブルク家を圧迫していたが、グスタフ・アドルフは32年11月の「リュッツェンの戦い」で戦死(ただし戦いそのものはスウェーデン軍の勝ち)、残されたスウェーデン軍も34年の「ネルトリンゲンの戦い」でハプスブルク軍に大敗したことにより、フランス御大も直々に参戦しなければならなくなった。

註8 チューリヒとベルンがグラウビュンデンの改革派を助けるために派兵したことがあるらしいのだが、詳しいことは手許の資料にない。


 そんな訳でフランスは35年に再度のグラウビュンデン派兵を行い、現地の改革派代表ユルク・イェナチェ等と協力してハプスブルク軍を(グラウビュンデンから)追い出した。しかしフランスはそのまま自分がこの地の支配者になろうとしたため、イェナチェはカトリックに改宗したうえでハプスブルク側に寝返りをうつことによってフランス軍を追い出した。この時のイェナチェとハプスブルク家の協定により、ヴァルテリーナはカトリック信仰を認められたうえでグラウビュンデン自由国の支配下に復帰(自由国本体はその後は両宗派共存となった)、さらに自由国領内の要地ビュンドナー峠におけるハプスブルク軍の自由な通行が許可された。

 しかしドイツ方面ではフランス軍が優勢であった。スイスは例によってフランス軍に大量の傭兵を提供し、その総数は5万4000名にも達した。39年には皇帝(オーストリア・ハプスブルク家)がスイスに対して同盟を求めてきたが、スイス側は「これまでの戦争に関与しようとも、介入しようとも思ってこなかったし、今後も中立にとどまるつもりである。さもなければ、祖国はこのうえない危機に陥ることになるであろう」と述べて拒絶した。スイスは富裕な亡命者に高い価格で土地家屋や食糧を売ることで潤った。

 ただ、スイスは「中立」を標榜しつつも現実問題として何度も外国軍隊の侵犯を受けた(例えばフランス軍によるグラウビュンデン派兵はスイス領を通過して行われた)ため、40年の盟約者団会議で国境防衛組織の創設を決定した。そして47年、ヴィールで開催された盟約者団会議で「ヴィール防衛軍事協定」が採択され、3万6000名の兵員を持つ連邦軍と、その指揮をとる参謀会議が発足した。他国と国境を接する邦だけに負担をかけないように全ての邦・従属邦・共同支配地が揃って兵力を出し合うというものであり、現在に続くスイスの国是「武装中立」はここから始ったとされている。

   ウェストファリア条約   目次に戻る

 三十年戦争を収拾するための講和交渉は44年から始っていた。オスナブリュックとミュンスターの2ヶ所で行われた会議には戦争に直接関係のない国まで含めて66ヶ国(その多くは帝国諸侯だが)の代表が参集、スイスからはバーゼル市長のヴェットシュタインが参加しており、彼は従属邦ヌシャテル伯領の君主の助言を受けていた。ヌシャテル伯領のもともとの君主は1395年に断絶していてその後は外国の貴族が伯位を兼ねるということになっており、この時はフランスの大貴族オルレアン公がヌシャテルの持ち主となっていた。

 スイスは1499年の「シュヴァーベン戦争」の後始末をつけた「バーゼルの和約」によって帝国最高法院の規則と無関係であること等が認められていた、つまりその時点で帝国からの事実上の独立を果たしていた訳である(法的にはあくまで帝国の一部)が、その時点で盟約者団に加盟していなかった邦や従属邦はこの和約の適用外であり、たとえばバーゼルの商人はその後も帝国最高法院に訴えられたりして不利益をこうむっていた。そこでこの会議を利用して帝国による拘束から脱したいという声があがっており、オルレアン公はこの訴えに好意を持っていた。まぁこれはバーゼルを利用して皇帝に打撃を与えたいというフランス政府の意向が働いていたのであろうが……、しかし、スイスが(グラウビュンデンは別として)30年に及んだ大戦争の全期間を通じて中立を維持した事実については各国も評価しており、この機会にバーゼルのみならず盟約者団全体を完全に帝国から独立させようということとなった。

 そして1648年10月24日、三十年戦争の決着をつける「ウェストファリア(ヴェストファーレン)条約」が締結された。戦争の終盤に優勢を確保していたフランスとスウェーデンがドイツ方面に領地を拡大、この2国の後ろ盾によって帝国諸侯の皇帝に対する自立性が著しく高められた。まぁ帝国諸侯はもともと(この戦争が始まるよりずっと前から)それぞれに独立国のように振る舞っていた訳だが、この条約によって明確に立法・外交・課税権を認められることとなった。このことによりウェストファリア条約は「古い帝国の死亡証明書」と呼ばれている。ただし、ドイツの人口が半減したといわれるこの戦争の惨禍はオーストリア・ハプスブルク家の本領であるオーストリアには殆ど及んでおらず、しかもこの家はその後むしろ皇帝としての責務から解放された(その後も皇帝に選ばれ続けはした)ことによって所領の経営に専念出来るようになった(註9)

註9 オーストリア・ハプスブルク家は83年、ウィーンを包囲したオスマン帝国・ハンガリーの連合軍を撃退、退却する敵軍を追撃してハンガリーを征服し、さらにクロアチアやスロベニアを支配下に置くことによって中欧・東欧にまたがる大帝国へと成長した。スペイン・ハプスブルク家の方は三十年戦争に際して莫大な戦費を消耗したうえに、その後さらに59年までフランスと戦い続けて敗れたためにすっかり落ちぶれた(1700年に断絶。その後のスペイン王位はフランス王家の分家が継承した)。


 そして、スイスの完全独立が決められたのがウェストファリア条約の第63条である。以下はその条文全文。「そして、本(講和)会議に派遣された全権の前でのバーゼル市ならびにスイス全体の名において、皇室政府から同市および他のスイス地方の連合諸州に対して発せられる処置や執行令状に関して行われた申し立てに基づき、またそれらの市民と臣民が帝国諸邦およびその評議会の助言を求めたことから、皇帝陛下は、前記バーゼル市ならびに他のスイス諸州は完全な自由と帝国からの除外を有していることを宣言した。よって、それらはいかなる形においても帝国の司法権や審判を受けることはない。そしてそのことをこの講和条約に挿入し、確認し、それによりいかなる形であれこの件についてなされたあらゆる処置や拘束を無効とし、破棄することが適当と考えられた」のであった。


                                          おわり

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