タラワの戦い

 「タラワ環礁」。日本ではあまり知られていないが、アメリカでは有名な太平洋戦争の激戦地である。タラワはハワイから南西約4000km、大戦中の日本軍の重要拠点だったトラック島から南東2000kmの所にあるギルバード諸島の巨大な三角形の珊瑚礁(三角形の辺の部分だけが陸地で、内側は海。こういうのを環礁という)で、海上に頭を出した珊瑚礁は38の小島を形成し、その西端に位置するベティオ島はギルバード諸島中唯一の飛行場を有し、北方と西方には日本軍の押さえるマーシャル諸島とカロリン諸島、南東と東方にはアメリカ軍の押さえる島々がひろがる戦略重要拠点である。

 1943年当時、連合国の戦略はヨーロッパにおけるドイツ軍の打倒を第一義としており、アジア・太平洋におけるアメリカ軍の戦力・物資はかなりの程度制限を受けることとなっていた。そこでこの方面のアメリカ軍は、日本軍の他の航空基地から遠く離れ、防御設備も(他とくらべて)弱体と思われる拠点としてのタラワ環礁に着目するに至ったのである。

 タラワ環礁への上陸部隊として、ジュリアン・C・スミス少将の率いる第2海兵師団が選ばれた。ガダルカナル島でも戦った同師団はニュージーランドで充分な休養と、今回のタラワ環礁を中心とするギルバード諸島攻略「ガルパニック」作戦のための訓練を消化し、さらに敵前上陸に必要な上陸用装軌艇「LVT」の調達に努力した。タラワ環礁の中で最大の攻撃目標となるベティオ島は東西約4km、南北は海岸から島の中央部まで最大で300mという小島で、数千の日本軍が防備を固めており、しかも、もし作戦開始後3日以内にこの小島を占領出来なければ、43年の時点ではまだそれなりに強力な日本の航空隊・潜水艦が増援に駆け付けてくる、と考えられていた。「ガルパニック」作戦は、敵の砲台や機銃座が守りを固める狭小な海岸への真正面からの上陸作戦であり、これはアメリカ海兵隊が経験する初の試練といえるものであった。

 まず必要なのは情報の収集である。9月から航空機と潜水艦による写真撮影が続けられ、情報部による判読作業が行なわれたが、中でも波打ち際に造られたトイレを撮影した写真が大いに役立った。情報部は1つのトイレを何人で使うかを計算し、実際の日本軍の人数に極めて近い数を割り出した。これこそは「第二次大戦中に撮影された最上の写真」であった。

 一方ではギルバード諸島近郊の島々に新たな飛行場が建設され、基地や空母から飛び立った航空機によってタラワ周辺の日本軍航空戦力に大打撃を与えた。日本軍の消耗は著しく、救援の望みを絶たれたタラワは文字どおりの孤島と化した。11月13日、第2海兵師団を載せた第52任務部隊がエファテ島を出港した。途中日本軍機の散発的な攻撃を受けたが難無く撃退し、20日夜明け前にはタラワ環礁の沖合10kmに到着した。いよいよDディ(攻撃開始日)である。

 1943年11月20日早朝、日本側の砲台が射撃を開始し、アメリカ側の戦艦「メリーランド」も40センチの砲門をひらいた。空母を飛び立った航空機も日本軍陣地への爆撃を行った。続いて戦艦3隻を主力とする艦隊が実に3000トンもの砲弾を撃ち込んだ。しかし、日本軍の籠る各陣地は弾力のあるヤシの丸太と珊瑚礁の砂で造られており、砲爆撃の衝撃をほとんど吸収してしまった。

 87両の上陸用装軌艇「LVT」が三波に分れて前進を開始した。9時22分にはLVTの第一波が海岸に到達した。何両かが日本軍の砲撃で破損し、生き残った海兵たちは胸まで海水に浸かって海岸を目指した。平均38.1kgの装備を背負う海兵は日本軍の射撃の的だった。日本軍の各陣地はそれぞれがトンネルでつながっており、銃座をよく考えて配置してあるので死角が存在しなかった。

 上陸してからも日本軍の射撃は衰えず、無線機の多くは海水と被弾のために壊れてしまった。伝令は日本狙撃兵の的にしかならなかった。第四派の上陸部隊は死傷率35%にも達していた。海中に飛び下りた海兵の掩蔽物は海水しかなかったが、海岸近くに迫るとそれすらなくなった。増援部隊となったラッド大隊は、(キャタピラのあるLVT装軌艇ではなく)上陸用舟艇で前進するつもりでいたが、それでは珊瑚礁に阻まれて海岸に到達出来ず、かといって全員が利用出来るだけのLVTを急には準備出来なかったため、数百人の海兵達が日本軍の銃弾に狙われながら、海中を600mも歩いて進むハメになった。海上にいた師団司令部はさらに増援を投入しようとしたが、海岸に上陸した部隊との連絡がとれず、折角の増援をどこに送ったらいいかも分からなかった。後続のシャーマン戦車6両は味方の死傷者の転がっていない上陸地点を探す必要があり、砂浜の手前をうろうろしているうちに珊瑚礁の裂け目に落ちて立ち往生する戦車が4両も出た。上陸した海兵達は海岸を取り囲む護岸堤防の影に滑り込んだが、そこから内陸にすすむのは極めて困難であった。

 そこで再び艦砲射撃の開始である。上陸前の砲撃は島の様子がよくわからないまま砲弾の雨を降らせるだけなので効果が薄かったのだが、今回は上陸した部隊となんとか連絡をとって精密に日本側陣地を狙い撃ちする方法である。日本側陣地は至近弾くらいならともかく直撃弾を何発もうけると耐えられるものではない。

 そのうちに日が暮れた。上陸を果たした海兵は砂浜に眠りこけ、無茶苦茶に陸揚げされた物資が山をなしていた。この有様を見た海兵隊の指揮官達は日本軍による夜襲を恐れたが、何故か日本軍は何もしなかった。上陸作戦に先立つ砲爆撃によって、日本軍の電話通信網が切断されたためと判断された。

 翌21日朝、さらに新手の海兵が上陸を開始した。前日上陸していた海兵たちは護岸堤防の影に隠れ、味方の上陸部隊がいまだ衰えない日本軍の砲撃に晒されるのを振り返って見ていた。島から少し離れたところに座礁していた輸送船「斉田丸」にいつのまにか日本兵が潜り込んでおり、機関銃を乱射して海兵に大損害を与えた。海兵はどうにか「斉田丸」にとりついて爆薬をしかけ、船ごと破壊してこれを沈黙させた。

 上陸した海兵たちは猛烈な援護射撃のもとで火炎放射器と爆薬を用いる「溶接バーナーとコルクせんぬき」戦法で日本軍陣地をひとつひとつ潰していった。午後2時から上陸を開始した第6連隊第1大隊はほとんど無傷で上陸出来た。海上からの艦砲射撃と空からの援護が大きな力となった。日本軍の飛行機も(どこから飛んできたのか資料がないが)たまには海兵に攻撃をかけてきたが、22日未明に日本軍爆撃機が投下した爆弾8個のうち半分は海兵の陣地に、半分は日本軍の陣地に落下し、かような「公平な爆撃」を笑いものにされてしまったのだった。

 22日朝、戦車を先頭に押し立てた海兵隊の攻勢が始まった。海兵は海岸に強力な拠点を築きつつあり、大砲や戦車が続々と陸揚げされてきた。日本軍の抵抗が弱まってきた。夜間には約300人の日本兵が突撃してきたが、艦砲の援護を受けた海兵の反撃によって追い散らされた。日本軍の残存兵力約500人は島の東端に追いつめられた。

 23日、最後まで粘っていた日本軍陣地が沈黙した。前日の突撃失敗のためか、日本軍は効果的な抵抗が出来なくなっていた。海兵が占領した陣地に転がる日本兵の死体の多くには自決した痕跡が残っていた。正午、第2海兵師団師団長スミス少将が島の確保を宣言した。翌24日には星条旗が掲揚された。28日にはタラワ環礁の他の島も占領された。そちらでは日本兵の数も少なく、比較的容易に海兵隊の手に落ちた。

 第2海兵師団1万6692人と海軍将兵1396人が一連の戦闘に投入され、そのうち934人が戦死、93人が戦傷死、2292人が負傷、行方不明者は88人であった。死傷率は18.8%、特に敵前上陸を行った661人は半数近い323人が死傷していた。以上、タラワ環礁におけるたった1週間の戦闘(ベティオ島での戦闘は実質76時間)で死傷したアメリカ兵の数は、これに先立つガダルカナル島での半年間の戦闘で支払われた死傷者よりもいくらか少ない程度であった。この報告を受けた全米の世論は大変な衝撃を受けた。とはいえ、それも日本軍の犠牲者と較べればずっとマシだった。日本軍は第3特別根拠地隊1122人・佐世保第7海軍特別陸戦隊1497人・第4艦隊設営分遣隊970人・第111設営隊1241人あわせて4830人をもって海兵隊を迎え撃ったが、そのうち実に4684人が戦死していた。米軍の捕虜となった146人のほとんどは朝鮮人の労務者であり、日本人捕虜は全員意識不明のままアメリカ軍に捕らえられていた。タラワ環礁の日本軍と他地域との連絡は22日午後1時に途絶しており、日本の大本営ではアメリカ側の放送を傍受して、タラワ守備隊は25日に玉砕したと判断されたのであった。

            

おわり   

   参考文献

 『大東亜戦争全史』 服部卓四郎著 原書房 1965年

 『タラワ〜米海兵隊と地獄の島〜』 ヘンリー・I・ショー著 宇都宮直賢訳 サンケイ出版 1971年

 『アメリカ海兵隊〜非営利型組織の自己革新〜』 野中郁次郎著 中央公論社 1995年

 『玉砕の島』 佐藤和正著 光人社NF文庫 2000年

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