セヴァストーポリ
セヴァストーポリとは黒海北岸に突き出すクリミア半島の南西部に位置する港町の名前であり、1853年から56年まで、ロシアと英仏その他の連合軍とのあいだに戦われた「クリミア戦争」の主戦場となった大要塞都市である。
交戦諸国はこの要塞とその周囲に最大時30万をこす大軍を投入し、その戦いは世界戦史上でも稀に見る淒惨なものとなったが、単に戦闘の激しさのみならず、後のロシア帝国の進路に与えた影響という点においても大きな意義と記憶を残すことになった。
そもそもの発端は聖地エルサレムの管理問題にあった。この地域は1516年以降オスマン・トルコ帝国の支配下におかれていたが、支配者のイスラム教徒以外にも、ユダヤ教徒や東方正教徒、さらにカトリック教徒の各勢力が混在し、中でもフランスを後ろ楯とするカトリックが優位を保っていた。しかし、18世紀末のフランス革命の混乱の最中にその管理権は東方正教徒の側へと移り、以後しばらく彼等の優位が続くことになった。
それから数十年、1852年にフランスの帝位についたナポレオン3世は、国内のカトリック勢力(フランス人の大半をしめる)の支持を取り付ける材料として聖地の管理権回復を思い立ち、この年に末にはオスマン帝国の同意を引き出すことに成功した。
面白くないのがロシアのニコライ1世である。彼はすべての東方正教徒(ロシア人の大半をしめる)の保護者を自認しており、その聖地エルサレムでカトリックがのさばるのを黙って見ている訳にはいかないだろう。
さらに、それとは別の思惑もある。ロシアの対外政策の基本は海への膨張にあり、そのひとつが地中海への南下策である。ロシアは17世紀の昔から、地中海への通路たる黒海とバルカン半島をおさえるオスマン帝国と、既に8回にも渡って激しい戦いを交えてきた。次の戦争の舞台となるクリミア半島も、やはりロシアがオスマン帝国の下から力でもぎ取った地域である。今回の聖地管理権問題はよい口実、東方正教の利害を損なうオスマン帝国に無理難題を押し付け、ここでさらなる南下をはかるべきである。この時代のオスマン帝国はロシアに何度も敗戦した上に国内諸民族(セルビア人やブルガリア人)は独立運動を激化させ改革はうまく行かずといった具合に衰えきっており、ロシア皇帝に「瀕死の病人」と呼ばれ嘲られていた。
開戦
1853年3月、ロシアは海軍中将メンシコフ公をイスタンブール(オスマン帝国の首都)に送り、東方正教徒による聖地管理権の復活と、さらにオスマン領内の東方正教徒全部の保護権をロシアに譲るべきことを要求した。これを認めれば、オスマン帝国が危なくなった時にロシアが助けてやる、とも。
オスマン帝国は聖地管理権に関する要求は認めたものの、後者の方は婉曲にことわった。当然である。そんなことを許せば、キリスト教徒が9割を占めるオスマン領バルカン半島の全てがロシアの手に落ちてしまう。
7月、ロシア軍8万が対オスマン国境をこえ、当時オスマン・トルコ帝国内で自治を認められていたモルダヴィア・ヴァラキア両公国(註1)に進駐した。オスマン帝国が要求をいれれば撤退する。
註1 この2国に当時オーストリア領だったトランシルヴァニアを加えたのが現在のルーマニア。
もはや戦争しかない。南下を目指すロシアにとっては望むところだが、オスマン帝国の方にも勝算はある。英仏が助けてくれるだろう。
すでに6月には英仏の地中海艦隊がダーダーネルス海峡(地中海と黒海をつなぐふたつの海峡のひとつ)の入口にあらわれ、ロシアの南下を牽制する動きを見せていた。英仏両国それぞれに思惑がある。フランス皇帝ナポレオン3世は伯父ナポレオン1世以来の宿敵ロシアへの復讐と、そのためのイギリスとの友好を望んでおり、イギリスはヨーロッパの勢力均衡の維持を求め、なにより自国の植民地インドへの通商路(東地中海)をロシアの南下に脅かされるのを嫌っていた。英仏両国の利害は一致したが、とりあえずは戦争を回避しようと外交努力を行った。しかし10月29日、まずオスマン帝国がロシアに対し宣戦を布告、翌月4日にはヴァラキア方面にて戦闘が始まってしまった。
英仏参戦
11月30日、提督ナキモフ率いるロシア黒海艦隊が黒海南岸シノペ港を襲い、港内のオスマン艦隊の大半を焼き払った。ロシア艦隊による黒海制圧の報を受けたイギリスの世論は対ロシア戦争へと大きく傾き、翌54年1月にはダーダネルス沖の英仏艦隊が黒海に入ってロシア艦隊と対峙した。ロシアの方も英仏の動向が心配でなかった訳ではないのだが……フランスについてはフランス革命・ナポレオン戦争で受けた打撃からまだ立ち直っていない、イギリスについてはこれからオスマン帝国から分捕る予定の領土を少し譲れば文句は言わない、と思い込んでいた。だが、これは完全に見込み違いとなってしまうのである。
2月、英仏両国はロシアに対し最後通牒を発した。ロシアはただちにモルダヴィア・ヴァラキア両公国から撤退すべし。ロシアはこの要求を無視し、翌月28日には英仏対ロシアの宣戦が布告されるに至った。
この前日までのバルカンや黒海の戦闘は、17世紀以来幾度となく繰り返されてきたロシア・オスマン戦争の一局面にすぎず、そのままの情勢ならばロシアの勝利は確実だった。しかし今回のロシアの新たな敵、ヨーロッパの列強として世界を動かす英仏の力はオスマン帝国のそれとは比較にならない。以後のロシア帝国はこれまで経験したこともない近代的かつ淒惨な戦いに臨むことになるのである。
作戦計画
ロシアは英仏との開戦に際し、敵遠征軍のきたるべき地点をバルト海方面と予測してこの方面に20万の大軍を集中し、さらにモルダヴィア・ヴァラキア両公国の対オスマン戦線には18万の軍勢をおいて戦備を固めた 。(その中間のポーランドにさらに14万)
たしかにイギリスは最初はロシアの首都ペテルブルグの表玄関を守るクロンシュタット軍港の奪取をはかり、ネイピア提督指揮下の艦隊をバルト海へと投入してきた。しかしクロンシュタットの守りはイギリス側の予測をこえて堅く、それ以降この方面の戦闘は英仏艦隊とバルト海沿岸のロシア側諸要塞との砲戦に終始することになった。(英仏艦隊の一部はさらに極東まで出向いてカムチャッカ半島を攻撃している。ちなみにこの頃プチャーチン提督のロシア極東艦隊が鎖国日本の門戸を開くべく長崎に来航して交渉していたが、クリミア戦争勃発の報を受け、太平洋にいる英仏艦隊の攻撃を避けるために交渉を中断して一旦引き揚げた。しかしそのすぐ後にペリー提督のアメリカ艦隊が日本と条約を結んでしまう。驚いたプチャーチンは危険をおかして再び日本に来航し、今度こそ条約を結ぶことに成功した)
4月末、バルカンでのロシア軍南下を阻止するため、イギリス・フランス連合軍8万がダーダネルス海峡に集結、まず2個師団が海路黒海をヴァルナ(黒海西岸の港町・現在はブルガリア領)へと向かい、残りの部隊は陸路バルカン半島を北進することにした。この時イギリス軍を率いたラグラン卿は40年前のワーテルローの戦い(註2)において片腕を失ったという老将であり、フランス軍司令官サン・タルノー将軍はナポレオン3世の政権掌握クーデター(51年12月)の際に活躍した、まさに皇帝の片腕ともいうべき人物であった。ちなみに、ナポレオン戦争の終結から第一次世界大戦勃発までのちょうど99年の間にイギリス陸軍が大挙ヨーロッパ大陸に上陸して戦争したのは実はこの時だけである。
註2 ナポレオン1世の最後の戦い。当サイト内の「ワーテルロー」を参照のこと。
バルカン方面のオスマン軍は意外と強く、ムッサ・パシャの指揮下にあってシストリア要塞に籠りロシア軍の攻撃を退けていた。ロシア側にはギリシアが加担しようとした(註3)が英仏に脅されてひっこんだ。
註3 ギリシアはオスマン帝国領に強い野心を持っていた。この国はロシアと同じ宗教(東方正教)なので仲がいいという理由もある。詳しくは当サイト内の「ギリシア近現代史」を参照のこと。
6月、シストリア要塞包囲中のロシア軍は英仏軍きたるの報をうけて同要塞の攻略を断念、北方へと退却することにした。
7月、ヴァルナにて合流した英仏各軍は協議の結果さらなる北上を開始した。しかし彼等は折からの炎天とコレラの流行に苦しみ、何もしないうちに2000の兵を失った。英仏軍はいったんヴァルナに引き上げ、しばらくはオスマン帝国の経費を潰して漫然と時を過ごしたが、自身も病気に罹ったフランス軍司令官サン・タルノーは、ここから黒海を渡ってロシア黒海艦隊の拠点クリミア半島に上陸、その要衝セヴァストーポリを攻略して、ロシア軍に致命の一撃を与えるべきことを提案した。
ここで重要なのがオーストリアの動向である。オーストリアは48年におこった反乱をロシアの手を借りて鎮めていたが、これは反乱軍の大攻勢にあってのやむを得ない措置であり、ロシアに恩ぎせがましくたかられてはかなわないとの思いが強かった。それにオーストリアにもバルカンへの野心はある。2月の時点でロシア国境に大軍を集結させ、その行き過ぎた南下を牽制していた。8月、オーストリアの参戦を恐れるロシアはその要求に従い、モルダヴィア・ヴァラキア両公国から軍勢を引きあげた。これで戦争は終わり……とはならなかった。イギリスの世論はロシア黒海艦隊の撃破とその根拠地セヴァストーポリ港の奪取を主張し、フランス皇帝ナポレオン3世は人気取りの戦勝を求めていた。これ以降の主戦場はバルカン半島からクリミア半島へと移ることになる。そんな訳でこの戦争は「クリミア戦争」と呼ばれている。
クリミア上陸
9月1日、ヴァルナ港の英仏軍は輸送船団への乗船を始め、同月8日にはドナウ河口近くから東航を開始した。帆船主体のロシア黒海艦隊は、蒸気船主体の英仏艦隊に対し何の手も打てなかった。英仏軍は14日朝から丸4日かけてクリミア半島西岸のユーパトリアに上陸した。セヴァストーポリはここから南20マイルである。この時の上陸軍の戦力は、フランス軍が3万2000、イギリス軍2万6000、さらにオスマン軍が7000を数え、対するロシア側のクリミア防衛軍は約5万人であった。
19日、セヴァストーポリに向け進撃を始めた英仏オスマン連合軍6万は、翌20日にはアルマ河畔にてロシア軍3万を撃破、さらなる南下をはかったが、セヴァストーポリ港北側の防御きわめて堅固なるを見て、ここは性急な攻撃を避け、いったん港の東側を迂回してその南側に拠点を築き、その上での準備万端整えての総攻撃をはかることにした。
9月25日、連合軍はセヴァストーポリの南に位置するバラクラバを攻めてこれを落し、イギリス軍はそのバラクラバに、フランス軍はさらに西のカミーシュに布陣して恒久的な陣地を建設した。しかし連合軍にとっては幸先悪くというべきか、同月26日フランス軍司令サン・タルノーが重病のためその職をカンロベル中将に譲り、3日後に亡くなってしまった。
クリミア半島の西岸、内陸に向かって深く切り込むセヴァストーポリの湾は、南北350〜500メートル、東西(湾の入口から一番奥まで)4マイルの広さをもち、その南岸に港町とロシア軍の各施設が集中して、対オスマン政策の尖兵をつとめるロシア黒海艦隊の一大拠点となっていた。本来その港の防御は北面湾岸に対するもののみであったが、港内のロシア軍将兵と市民老若男女は工兵中佐トートレーベンの指揮下にあって昼夜兼行の築城工事を続け、連合軍が慎重を期してもたついている間に港町南側の防御を固めるに至った。また、ロシア黒海艦隊司令コルニーロフは湾の入口に7隻の艦船を沈めて敵艦隊の侵入を防ぎ、さらに水兵と艦砲を陸にあげて要塞守備軍の補助とした。しかも、要塞全部が完全な包囲下にあった訳ではなかったので、城内のロシア軍は主に要塞の北東に駆けつけてくる味方野戦軍からの連絡と補充を保つことが出来たのだった。
10月17日、戦備を整えた連合軍はセヴァストーポリ要塞南面への一斉砲撃を開始した。この時は1週間もあれば落とせるとの楽観論であった。しかし、連合軍の大砲120門と海上の艦隊艦載砲多数の砲撃はトートレーベン設計の砲台にさしたる損害を与えるをえず、かえって城内の大砲130門の反撃にあって甚大な被害を受けたため、連合軍は砲戦4時間の末に戦闘を中止した。セヴァストーポリ攻城戦は連合軍首脳部の予測をこえる長期戦の様相を呈しだした。いや、この時点でのどこの誰が349日にも渡る激戦を予測出来たであろうか?
ロシア軍出撃
10月25日、新たに1万の増援を得たロシア軍が逆襲に出た。ロシア軍はまずイギリス軍本営バラクラバの前面にあるオスマン軍の小陣地を攻め落とし、続いて騎兵をイギリス軍陣地に突進せしめた。対するイギリス軍も重騎兵旅団を出してこれを防ぎ、砲兵との連係作戦によってロシア軍の攻撃を退けた。
これとは別の騎兵団を率いる英将カーディガン伯爵は、司令ラグラン卿からの進撃命令をうけ、味方歩兵の援護がないままロシア軍砲兵陣への大突撃を敢行した。騎兵単独での攻撃は常識的に無謀な事とされる。後に詩人テニソンが、「一里半なり一里半、並びて進む六百騎」とうたったカーディガン騎兵団の突撃はロシア軍歩・砲・騎兵の三方からの猛撃の前に多量の屍をかさね、味方歩・砲兵の来援によって窮地を脱した時には、その数670騎のうち実に472騎を失うという大打撃を被っていた。(カーディガン伯爵は、負傷兵の服の着脱を容易にするための前ボタン式セーター、つまりカーディガンを考案したことで有名である)
11月、セヴァストーポリ要塞北東にあるロシア野戦軍に相当数の援軍が到着し、総戦力において連合軍を上回る態勢となった。
11月5日、5万の兵力を擁するロシア野戦軍は3方面に別れてイギリス軍陣地東側面に向け総攻撃を開始した。早朝でしかも雨天下の不意打ちを喰らったイギリス軍は大混乱に陥った。泥沼と潅木のしげみが各隊の連係を妨げ、防御力を欠く砲陣は次々と敵の手に落ちた。この戦争におけるイギリス軍は味方フランス軍よりも数が少ないうえに(この時点では)ロシア野戦軍の比較的近くに布陣しており、しばしばロシア軍に苦杯をなめさせられることになった。この時壊滅の危機に瀕したイギリス軍を救ったのはカンロベル率いるフランス軍6000の来援だった。急を聞いたフランス軍はイギリス軍右翼に駆け付けて激戦を展開し、その日の午後にはどうにかロシア軍を追い払うことが出来た。このわずか1日の戦闘における連合軍の死傷者約4200、ロシア側の死傷は8800を数えていた。
その後しばらくの間、両軍は冬の到来による自然休戦を過すことになった。連合軍は越冬の準備をしておらず、それどころか11月の14日には補給物資を満載してクリミアに向かっていた輸送船多数が暴風雨のため沈んでしまい、以降の連合軍は冬の寒気と降雨、さらに劣悪な住環境からくる疫病に苦しむことになった。ちなみにイギリス軍の司令官ラグラン卿は天幕用の布を使った冬用外套を作らせ、楽に着られ縫い上げもやさしい袖付け法を考えた。つまり「ラグラン袖」である。文化史的なネタをもう1つあげると、イギリス人はそれまで煙草と言えば葉巻かパイプだったのが、オスマン兵が紙巻きを使っているのを見てこれを真似するようになったのである。
連合軍の攻勢
1855年1月、北西イタリアの雄邦サルディニア王国が英仏両国と攻守同盟を結び、将軍ラ・マルモラに1万7000の軍勢を預けてクリミアの戦場へと参陣せしめた。サルディニアは53年以降名宰相カヴールの治下にあって、産業・軍事・教育等各部門における強力な改革を押し進めていたが、そのサルディニアと伝統的な対立関係にあって北イタリアに居座るオーストリアとの戦い(註4)に必要な外交カードを得るため、本来自国の利害と無関係なクリミアに派兵することによって英仏両大国の歓心を買おうとしたのである。また英仏両国としても、ロシア国境に軍勢を集めてはいるが特に英仏に協力するでもないオーストリアを牽制する目的でサルディニアを引き込もうとした。(果たしてオーストリアは英仏と同盟を結んだ。結局最後まで参戦はしなかったが)
註4 この当時のイタリアは中小諸国が分立しており、北東イタリアに至ってはオーストリアの支配を受けていた。サルディニアはこれに対抗しイタリア統一を目指して活発に動いていたのである。
3月2日、ロシア皇帝ニコライ1世が亡くなった。死因はインフルエンザと心労によるものであった(自殺という説もある)。跡を継いだアレクサンドル2世はオーストリアの仲介による和平交渉をすすめたが、ウィーンで開かれた国際会議はあえなく決裂し、春の到来による再度の決戦は避けられない情勢となった。新皇帝はクリミア総督メンシコフを解任してその後任に強硬派のゴルチャコフ公をあて、この戦争にかける決意をあらたにした。
4月9日、本国からの増援をうけてその数17万に膨れ上がった連合軍は要塞にむけ第2回目の一斉砲撃を開始した。連合軍の大砲ちょうど444門、ロシア軍の大砲466門、あわせて910の砲門がクリミアの大地に轟き、以後2週間におよぶ砲撃戦により両軍の死傷者総数約1万にも達した。連合軍の作戦は、まず苛烈の砲撃によって敵陣に打撃をあたえ、続く歩兵突撃によって一気に要塞の占領をはかる、というものであった。しかし城中のロシア軍は名築城家トートレーベンの必死の修復作業もあってなかなか付け入る隙をみせず、被害ばかり増す連合軍は22日になって予定の歩兵突撃を中止せざるを得なくなった。
この頃城中にあった26歳の砲兵少尉トルストイは軍務のあいまをぬって短編小説「1854年12月のセヴァストーポリ」を書き上げた。作中ではトルストイ自身の見聞にもとづき、市内の苦痛に満ちた野戦病院、前線の泥濘に浸った掩蔽壕を描きつつも、単純で粘り強いロシア兵たちの戦いぶり、攻城戦下における、祖国愛に裏打ちされた、セヴァストーポリ全ての軍民の平然たる日々の営みがなんの誇張もなく、それでいて詩的にスケッチされている。この作品は同年6月には雑誌『現代人』に掲載されたが、これを一読して感歎した新皇帝アレクサンドル2世が、ただちにそのフランス語訳を計画し、この作者を危険圏外にまわせと命じたというエピソードが知られている。(岩波文庫・中村白葉の解説を参考)
5月、長引く戦闘にいらつくフランス本国では司令カンロベルの更迭を決定し、かわってアルジェリア植民地戦争の英雄ペリシールをその任にあてた。
6月6日、連合軍首脳部は新司令ペリシールの積極策をいれ、ついに要塞正面からの総攻撃を開始した。敵要塞南面に向かい、西からフランス軍、中央にイギリス軍、その東にフランス・サルディニア軍が展開する。イギリス軍は敵「大レダン砲台」前面の塹壕を奪い、右翼のフランス軍もまた死体の山を築きながらも敵「マメロン砲台」を落としてその守将チモフエフを倒したが、続く要害「マラコフ砲台」への突撃は失敗におわり、トートレーベンの設計によるその鉄壁ぶりをみせつけられたのだった。
近代の戦争
6月28日、イギリス軍司令ラグラン卿が病死した。陣中にはコレラが蔓延し、病兵の数は戦闘による死傷者の30倍にも達していたという。
このクリミア戦争では、史上初めて民間の従軍記者による戦地からの報道が行われたが、『タイムズ』の記者ラッセル等の送るニュースは、慣れない気候と疫病に苦しむイギリス軍傷病兵の惨状を伝えるものであり、有名なナイティンゲールを団長とする女性看護団を派遣するきっかけとなった。ナイティンゲールは54年末にスクタリの野戦病院に到着し、自分の上流階級出身という育ちと人脈、さらに豊かな財産をフル活用してイギリス軍の医療体制を立て直した。彼女は後に「白衣の天使」「ランプを手にしたレディ」と称えられたが、実際の性格は天使というほどつつましくなかった様である。民間人の話を続ければ、ダイナマイトの発明者ノーベルの父やトロイの遺跡発掘で有名なシュリーマンがこの戦争で「死の商人」として儲けている。
8月16日、要塞北東のロシア野戦軍7万が要塞(から南に向って)左翼前面に布陣するフランス・サルディニア軍に総攻撃をかけてきた。勇将リブランジに率いられたロシア軍は濃霧に紛れて突進したが、すぐに態勢を整え直した連合軍の反撃にあい、1万2000にのぼる死傷者を残して敗走した。連合軍の死傷者は約3000であった。このあたりからロシア軍の志気がさがりだす。
クリミア戦争における両軍の装備の差は大きかった。例えばイギリス軍の兵士はその全てが旋条式の新型銃(註5)を装備していたが、ロシア軍では同じタイプの銃を1大隊あたり24人の狙撃兵しか持っていなかった。また、当時のロシアの帆船を主力とする艦隊では蒸気船主力の英仏艦隊の相手になれず、さらにイギリス軍に至っては、クリミアでの本営バラクラバからセヴァストーポリの前線まで自前の鉄道を敷いて物資の輸送にあてる程だった。ロシアの官営の兵器工場ではいまだに水力・畜力を主動力としており、それを前線まで荷馬車や牛車で運んでいた。産業革命の先頭を進む英仏に対し、古臭い農奴(註6)制の上に立つロシア帝国の遅れた工業、輸送網の不備といった弱点がモロに出てしまったのである。
註5 銃身の内側に螺旋状の溝を彫った銃。こうすると弾が回転しながら飛び出し、遠くまでまっすぐ飛んでいくという仕掛け。
註6 地主貴族の領地で働く農民で、職業選択や移動の自由を持たない階層。収穫の多くを年貢にとられ、強制労働させられたりする。彼等が自由になり都市部の工場に働きに来ないことには産業革命は起こりえない。ただロシアの場合、農奴は出稼ぎという形で余所に出かけることが多く、20世紀のロシア革命の時にも都市の労働者には季節工のような人が多かった。ロシアにおける産業革命は19世紀の第4四半期頃に本格化するが、これは……本稿の最後で述べる「大改革」の結果であると同時に……クリミア戦争に負けた後のロシアがかわりに中央アジア征服に力を入れて綿の産地と市場を手に入れたおかげでまず軽工業が伸びたこと、次いで外国資本の流入で重工業が延びたことによる。その「外国」とはフランスのことだが、本稿で交戦中のロシアとフランスが何故仲良くなるのかは本稿の述べるところではない(自分で調べてみましょう)。
問題はそれだけではない。当時のロシアにおける兵役は服務期間25年という一種の刑罰であって、地主の言うことを聞かない農奴等がこれにあてられ、その教育も無いに等しかった。それでも兵士の数だけは多く、54年の時点で100万をこす大軍を揃えていたものの、その内数十万は国内における農奴制維持のための警備軍や少数民族の反乱を防ぐために割く必要があり、さらに対オーストリア(連合国よりの中立であり、ロシアの隙を狙っている)方面にも大兵力を展開していたことから、苦戦するクリミアに対し思いきった大軍を投入することが出来なかった。それに、近代的な軍隊というものは兵営で生活する「現役」の兵員と、その現役を退いて一般社会で生活するが有事には武器をとる「予備役」の兵員からなっている(註7)が、当時のロシアには予備役というものは存在せず、あわてて新規の徴兵をしようにも訓練する時間がなく、志願兵を募集しようとしたら農奴たちが志願イコール農奴身分からの解放と誤解して当局と衝突するという有り様である。
註7 予備役は訓練済みなのですぐに実戦に投入出来る。近代国家の軍隊というのは、平時だと例えば10万の兵力しかもたなかったとしても、それは実は現役だけの数字であり、有事の際には予備役を召集してその数倍の兵力を用意することが出来たりする。大規模な有事なんてそんなに頻繁にあるものではないので、兵員を現役と予備役をわけることで人件費等を節約するという仕組みなのである。
マラコフ砲台
連合軍のクリミア上陸以来11ヶ月がすぎている。ロシア軍は地上では将軍チモフエフ・提督ナキモフといった幹部連を失い、海上では敵連合艦隊の活動のため、(クリミア半島の外から要塞への)軍需物資の補給にも困難をきたしかけていた。それ以前に、当時のロシアの工業では戦闘で大量に消費される弾薬をまかないきれず、前線では連合軍が撃ち込む砲弾8〜10発につき1発程度しか撃ち返せないようになっていた。セヴァストーポリを包囲する連合軍はその塹壕をじわじわと掘り進め、イギリス軍は敵陣より200メートル、フランス軍は40メートルの地点にまで接近した。
8月19日、連合軍の大砲840門が射撃を始め、3日間で5000の城兵を殺した。連合軍の大砲は昨年9月のクリミア上陸時の120門からその7倍にも増えていた。ロシア軍も時には夜襲に出たが、この猛烈な砲撃の前には有効な反撃になり得なかった。そして9月8日、連合軍が最後の総攻撃を開始した。要塞南面「大レダン砲台」にはイギリス軍2万、「小レダン砲台」にはサルディニア軍1万、そして6月の総攻撃の際に煮え湯を飲まされた「マラコフ砲台」には猛将マクマオン率いるフランス軍3万3000が取り付いた。不意打ちだった。ここしばらくの間、連合軍は間断ない激しい砲撃を続けながらも、なぜか正午頃だけは静かに休んでいた。この日も正午前には砲撃がやんだため、ロシア兵たちもほっとして昼食をとろうとしていた、そのタイミングをよんでの総攻撃だった。とはいえロシア軍も大急ぎで反撃する。フランス兵の新式ミニエー銃、ロシア兵の旧式マスケット銃、無数の銃口から白煙があがった。「マラコフ砲台」は短時間でフランス軍の手に落ち、サルディニア軍もまた「小レダン砲台」を攻め落した。ロシア軍は「マラコフ砲台」に爆薬をしかけてフランス軍ごと吹き飛ばそうとしたが、すぐにこれを察知したフランス軍の処置によって事なきを得た。要塞南面右翼の別の砲台に突撃したフランスの別軍もまたロシア軍を圧倒した。連合軍の大勝利だった。しかし、勝とうが負けようが、歩兵突撃は常に多量の血を流す。この日の死傷者は、フランス軍だけで約7000、さらにイギリス軍も2000余の兵士を失っていた。
セヴァストーポリ要塞はもともと南面左翼の防御が甘く、問題の「マラコフ砲台」とは、早くにその弱点を見抜いたトートレーベンが築いた防衛陣であり、要塞防御の要であった。この総攻撃が開始された時点ではロシア軍にもまだ戦意があって、要塞中央「大レダン砲台」に突撃してきたイギリス軍の方は撃退していたが、一番大事な「マラコフ砲台」をなくした今となっては反撃のしようもない。ロシア軍司令ゴルチャコフ公はついに撤収を決意した。開城を告げる急使が首都ペテルブルグへ飛ぶ。トルストイもそのなかの1人だった。籠城349日、ロシア軍の死傷者11万、対する連合軍の死傷者6万人、ヨーロッパの諸国にとっては、ナポレオン戦争の終結以来数十年ぶりに経験した大戦争であった。どうにか生き延びたセヴァストーポリのロシア兵たちは、港内の艦船を沈め、残った砲台を爆破して、1855年9月11日をもって北方へと退却したのである。
終章
城内へと乗り込んだとはいえ、激戦で疲れ切った連合軍にはロシア軍を追撃するだけの力が残っていなかった。クリミア以外の戦線ではまだ戦いが続いており、11月28日にはロシア軍が黒海東岸のオスマン領カルスを落としてセヴァストーポリの仇をとった。
12月、それまで中立を保っていたオーストリアがロシアに対し最後通牒をつきつけ、さらにスウェーデンまで動きだした。オスマン帝国・イギリス・フランス・サルディニア・オーストリア・スウェーデン……。これだけ多くの国と戦う力は今のロシアにはない。翌56年2月、パリにてオーストリア・プロイセンの仲介による講和交渉が始まった。こうして3月30日には各国の大使が「パリ講和条約」に調印し、3年に渡ったクリミア戦争が終結したのである。
連合国はセヴァストーポリをロシアに返し、ロシアはカルスをオスマン帝国に返還する。ロシア・オスマン両国は黒海を中立化し、その入口ダーダネルス・ボスフォラス両海峡は全ての国の軍艦に対して閉鎖する。オスマン帝国は国内の全住民の信教の自由を保証する(つまりオスマン領内のキリスト教徒の地位を向上させる)。等々が定められた。黒海の中立化とは具体的には、艦隊も要塞も設置を禁止するということであり、これはロシア……南への進出がこの国の国策である……にとって厳しい取り決めである(同じことをオスマン帝国も約束させられている訳だが)。
この会議を取り仕切ったナポレオン3世は得意の絶頂だった。彼はこの後も自らの威信の高揚のために外征を繰り返し、やがては普仏戦争(註8)に敗れて破滅するのだ。サルディニア全権のカヴールは(この会議の席上で)、北イタリアを支配して自国を圧迫するオーストリアを厳しく告発(クリミア戦争と関係ないね)し、ヨーロッパ諸国の広い同情を勝ち取った。クリミアで英仏軍に伍して勇敢に戦ったサルディニアの地位と名声は、以後のこの国によるイタリア統一事業のための大きな財産となった。イギリスはオスマン帝国における自国製品の販売市場をさらに拡大した。パリ条約で確認されたオスマン領内のキリスト教徒の地位向上は、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国を半植民地化していく際の強力な足掛かりとなった。オスマン帝国は戦勝国なのに黒海における艦隊・要塞の保有を禁止され、しかも戦費をイギリスの借款でまかなったことから借金まみれになってしまう。パリ会議の調停役となったオーストリアは、戦争には直接参加しなかったとはいえ、そのロシアの背後を窺う行動が(ロシア・オーストリアの)両国間に深刻な亀裂をつくってしまい、このことが後におこる第一次世界大戦の遠因のひとつとなった。また、ヴァラキア・モルダヴィア両公国は57年にオスマン帝国の宗主権下に連合公国をつくり、78年に正式に独立した。
註8 1870〜71年のフランスとプロイセンの戦争。
そしてロシアは、ここ百数十年に渡ってバルカンと黒海に築いてきた各種の権益を大幅に失い、さらにその軍隊の後進性を世界にさらけだしてしまうことになった。これは単なる軍隊の装備の立ち遅れだけの話ではなく、その背後にある貧弱な工業、鉄道や道路網の不備、不完全で残酷な司法といった、ロシア帝国の社会・経済の前近代性にかかわる問題なのであり、クリミア戦争の敗北は、その後のロシア史において「大改革」とよばれる一連の近代化政策を促す直接の契機となった。また、オスマン帝国領に対する領土的野心が一旦やわらぎ、かわりに中国や中央アジアの侵略に力を入れるようになる。
以後十数年、軍制の改革、地方自治の設立、工業へのテコ入れ、教育改革、そして農奴解放。クリミアの敗戦に危機感を抱いた皇帝アレクサンドル2世や一部の革新官僚による上からの改革がめざましくすすんだ。これらの改革で力をつけたロシアは70年代後半には再びバルカンへの南下をはかり、後の第一次世界大戦につながる導火線を敷設することになるのである。(クリミア戦争から60年の後、ロシア革命後の国内戦において、要衝セヴァストーポリは赤軍と白衛軍との間で争奪の的となった。第二次世界大戦においてもドイツ軍の包囲をうけ、数ヵ月の籠城の末に陥落した。44年にはソ連軍が奪回したが、その再建には数年を要した)
おわり
参考文献
『世界戦争史8』 陸軍少将伊達政之助著 原書房
『通俗世界全史14』 坪内逍遥監修 薄田斬雲編述 早稲田大学出版
『歴史読本ワールド7 戦争の世界史』 新人物往来社
『歴史読本ワールド15 世界の名医たち』 新人物往来社
『総解説 世界の戦争・革命・反乱』 自由国民社
『ロシア史』 岩間徹編 山川出版社世界各国史4
『ロシアとソ連邦』 外川継男著 講談社
『世界の歴史12』 井上幸治著 中央公論社
『セワ゛ズトーポリ』 トルストイ著 岩波書店
『ロシア史2』 和田春樹他篇 山川出版社世界歴史大系
『ロシア史』 和田春樹編 山川出版社新版世界各国史22
その他