アミン小伝

 ウガンダ地域は17世紀頃から「ブガンダ王国」という部族国家が栄えていた(註1)。この国はインド洋沿岸地域との交易で富を蓄えていたが19世紀の末にはヨーロッパの支配下へと組み込まれていく。まず1886年ドイツとの協定を結ぶが、90年には英独の協定によって(ブガンダ王国の意思とは関係なく)イギリスの勢力圏内に組み入れられた(註2)。その時点では地図の上での話であったが、現ケニア地域の植民地を進めていた「帝国イギリス東アフリカ協会」が直接ブガンダ王と交渉して条約を締結し、94年にはこの王国をイギリスの保護領とした。ウガンダ地域の他の王国もこれと同じことになる。1900年、ブガンダ王国はイギリスが宗主権を持つ「ウガンダ保護領」の一州として独自の王制と一定の自治権を持つとの形式をとることとなり、隣国のトロ王国やアンコーレ王国も同種の協定を結ばされてウガンダ保護領に組み込まれた。保護領というのはある程度の自治が許される植民地のことであり、独自の政府も持っている。ブガンダは肥沃で美しい土地にめぐまれ、イギリス本国の首相に「アフリカの真珠」と呼ばれたりした。

註1 物凄い紛らわしいが、ウガンダとブガンダはイコールではない。現在のウガンダ共和国地域にはブガンダ王国以外にも複数の部族王国が存在していた。イギリスがこれらをまとめて「ウガンダ保護領」として植民地支配し(その内部では各部族王国に一定の自治を許した)ていたのだが、62年にイギリスから独立する際に部族王国ごとに独立するか「ウガンダ」全体が一国として独立するかで議論になった結果、後者が採用されて現在に至るのである。詳しくは本文でおいおい述べていく。

註2 この辺の話は当サイト内の「ドイツの植民地」を参照のこと。


 この地にイギリスからの独立運動が盛り上がってくるのは第二次世界大戦の終わる1945年以降のことである。52年、ウガンダの隣のイギリス植民地であるケニアにて独立運動「マウマウの反乱」が勃発し、ブガンダ王国政府もイギリスに対し独立を要求した。驚いたイギリスは53年ブガンダ国王ムテサ2世の逮捕に踏み切るが、このことはブガンダのみならずウガンダ保護領全体の反イギリス闘争を高める結果を生んだ。

 ウガンダにおける独立運動の活動家の間には、独立のやり方として、ブガンダのような部族王国ごとに細かく分かれて独立するか、ウガンダ全体で1つの国として独立するか、という議論が存在した。後者の場合は強力な中央政府が部族の違いをあまり顧慮せずに統治を行うということになるし、両者の折衷案としてゆるやかな連邦制をとるということも考えられる。どっちにせよ、高まる一方の独立運動の前にイギリスも態度を変え、独立容認へと進むようになる(別に心を入れ替えたとかではなく、経費のかかる政治的支配をやめて独立だけ与え、後は経済面のみ支配しようとの魂胆であった)。

 55年、ムテサ2世が釈放された。ブガンダにはそれまでイギリスの宗主権下において国王に対して責任を持つ政府が存在していたが、これが議会に対して責任を持つ近代的な政府に改編された。しかし国王の影響力は強く残り、王党派がその後の政局を大きく左右することになる。

 次に、さっきも触れたが、ブガンダ単独で独立するか、ウガンダ全体でまとまって独立するかの問題である。ブガンダとしては単独独立がしたかったのだが、財政が貧弱であったため、とりあえずウガンダ全体をゆるやかに包括した連邦制によるイギリスからの独立が決められた。

 そして記念すべき独立達成は62年10月である。政体は上記の通り連邦制であるが、総選挙では中央集権的単一国家を唱える「UPC(ウガンダ人民会議)」が勝利し、その党首であるオボテが連邦首相となった。しかしその政府は第二党でブガンダの王党派「KY(王のみ、の意)」との連立政権である。ブガンダその他の部族王国の君主たちは引き続き王号を保持することとなった。63年には大統領制を導入して初代大統領にブガンダ国王ムテサ2世をすえた。

 64年、連邦内のブガンダ州とブニョロ州との間で境界に関する住民投票が行われ、後者が勝利したのだが、このことが大統領と首相の対立へと発展した。当然UPCとKYの仲も悪くなる。さらに同時期には社会主義的政策導入の是非(首相オボテが積極派)をめぐってのUPC内部の対立が発生した。66年2月、KY書記長のオチェンが、首相を含む閣僚3人が隣国コンゴから金と象牙を密輸しているとの暴露を行った(註3)。そのリーダーはウガンダ軍副総司令官アミン大佐であるという。

註3 この頃コンゴで行われていた内乱「コンゴ動乱」の第二期「シンバの反乱」の反乱軍は実はその金や象牙と引き換えにウガンダ・ルートで武器を入手していたのである。コンゴ動乱については当サイト内の「コンゴ動乱」を参照のこと。


 この暴露で窮地に陥ったオボテ首相は閣内の反対派5人を逮捕、さらに連邦制を廃止して中央集権的体制を導入する新憲法を制定して自分が新大統領に就任した。ブガンダ州がこれに反対し、思い切ってウガンダからの独立を宣言した。しかし5月24日にはウガンダ軍副総司令官アミンの部隊がブガンダ国王の宮殿を攻撃してこれを制圧、国王はイギリスに亡命して3年後にそちらで亡くなった。宮殿での戦闘による死者は政府側の公式発表では47人、国王側の主張では2000人であった。

 それ以外の部族王国の君主たちもみな王号を失った。オボテは社会主義化をはかって主要外国籍企業の国有化を進めようとしたが、実のところオボテ政権は大衆の支持に乏しく、国有化に伴う補償をどうするかですぐに行き詰まってしまう。その一方で反オボテの政治家や知識人たちを……後にアミンのせいにされてしまうのだが……次々に粛清していく。

 そして71年1月25日、シンガポールに出かけたオボテの隙を狙い、このとき軍の総司令官となっていたアミン少将がクーデターを決行した。アミンは前々からオボテを倒したいと考え、軍内部に自分で集めた傭兵を配置してその勢力を拡大していた。その傭兵は主に隣国のスーダンで集めていたのだが、クーデターの少し前、傭兵あつめに関わっていた白人傭兵ロルフ・シュタイナーがオボテ大統領に逮捕されてアミンの計画がばれそうになったこと(註4)、オボテがシンガポールに旅立つ当日にアミンの公金横領疑惑(それはスーダンでの傭兵集めに使われていた)を面と向かって指摘し(返答まで2週間の猶予を与えた)たことがこのクーデターの直接の引き金となった。アミンの背後にはイスラエルとイギリスがいた(註5)。オボテはタンザニアに亡命した。

註4 アミンがスーダンで傭兵を集めていることはオボテも薄々気付いており、シュタイナーを逮捕してそちらから証拠を掴もうとしたのである。結局シュタイナーは口を割らなかったが。ついでながらシュタイナーはドイツ出身の元フランス外人部隊軍曹で、1967年にナイジェリアで起こった内戦「ビアフラ戦争」にて、ナイジェリアからの分離独立を唱える「ビアフラ共和国」側の傭兵として活躍したという経歴を持つ。ビアフラについては当サイト内の「ビアフラ戦争」を参照のこと。

註5 当時スーダンではアラブ系と非アラブ系の内戦が行われており、アミンは後者に好意を示してその戦力を傭兵としていた。その点で、反アラブが国策であるイスラエルにとっては使える駒のように思えたのである。イギリスはオボテの社会主義政策を嫌っていた。


 イディ・ダダ・アミンは1928年(25年との説も)の元旦、ウガンダ北西端に居住する少数部族カクワ族の子として生まれた。生家は貧しく教育は小学校だけだが46年に炊事兵としてイギリス植民地軍に入ってからは主にスポーツ競技で頭角を現し、59年にアフリカ人として最高位の曹長、61年には中尉に昇進した(註6)。ウガンダの隣のイギリス植民地ケニアで独立運動「マウマウの反乱」が起こった際にはこれを鎮圧する部隊の一員として出動している(註7)。スポーツ界ではボクシングのヘビー級ウガンダ・チャンピオン、ラグビーの白人チームで唯一のアフリカ人選手として活躍した。ウガンダ独立後はイギリスのウィルトシャー歩兵学校に留学して指揮官コースに学び、帰国後どんどん出世してウガンダ軍の総司令官に就任していた。とはいえオボテ大統領にはそれほど信頼されておらず、軍における指導力はオボテ派の他の幹部に奪われつつあった。そこでアミンもスーダンで傭兵を集めてこれに対抗しようとしていたという訳である。

註6 このとき銀行の口座を持ったのだが、小切手を使って無茶苦茶な買い物をしたという逸話がある。(口座開設の手助けをした上官が慌てて取り消してまわったという)

註7 ここで拷問の技術を学んだという。


 さてアミンのクーデターにより、オボテ大統領はタンザニアに亡命した。当初諸外国はクーデターを歓迎し、アミンを「心優しき巨人(彼は身長196センチだった)」とほめたたえた。アミンは亡命先のイギリスで客死していた元ブガンダ国王ムテサ2世の亡骸を取り寄せ国葬にふすことでブガンダ族の支持を確保し、その一方でオボテ派の要人を相当数虐殺した。この時の殺戮があまりに凄まじかったため、ウガンダを流れるナイル川が赤く染まってしまったといわれている。

 アミンは国会を解散して政党活動を禁止、終身大統領及び元帥に就任してあらゆる権力を一身に集め、軍隊の主力は自分の出身部族(カクワ族)とブガンダ族、さらに外人傭兵で固めた。

 アミンの政権掌握にはイギリスとイスラエルが加担していたことは既に述べたとおりである(註8)。しかし、やがて考えを変えたアミンはイスラエルからの支援を切ってパレスチナ人を登用した。これは直接的にはアミンの過大な軍事援助要求が「そちらの経済力と防衛力増強の必要性を上回っている」として断られたことによる。旧式ジェット戦闘機を操った経験のあるパイロットを2人しか持たない国が、いきなり新鋭戦闘機やヘリコプターを要求したのである。

註8 イスラエルはアラブと対抗する必要上(アラブの南に位置する)黒人の諸国に熱心に援助しており、ウガンダでも軍や教育や建設での援助を惜しまなかった。


 ともあれこのことでイスラエルとは72年3月をもって断交となった(註9)。アミンは各国に見境なしに援助を要請したが、アメリカやソ連は余計な火種を抱え込むことを嫌い、中国は前ウガンダ大統領オボテを匿うタンザニアの方に肩入れしており、エジプトは政権が変わった直後で国内問題に忙しい……という具合で、なかなかいい返事を貰えなかったのだが、そこにリビアのカダフィー大佐が手を差し伸べてきた。ただ……カダフィーはアミンが頼んできた援助要請を受けはしたのだが個人的にはアミンの人格を疑っていたともいわれている。そして、今度はイギリスの援助が切れる。

註9 その背景のひとつとしてその頃。黒人全般の対イスラエル感情が悪化していたという。1967年の「第三次中東戦争」でイスラエル軍がシナイ半島やゴラン高原を占領したこと等により。黒人たちはイスラエルを「むかし自分たちを植民地支配した白人と同類ではないか」疑いだしたのである。


 ブガンダの商工業は植民地時代からイギリス国籍のインド人によって支配されていた。長らくイギリスの植民地だったインドの人々はアフリカのイギリス植民地でも商工業者や役人として大活躍しており、ウガンダ独立後も大勢がイギリス国籍のままこの国に留まっていた。もちろん面白くないアミンは72年8月「アッラーのお告げ」があったと称して外国籍アジア人(大部分はイギリス籍インド人)の国外退去を命令し、結局ウガンダ国籍を有する人まで含めて約5万人が退去したのである。イギリスは報復として経済・技術援助を停止し、アミンもウガンダ内のイギリス系企業の接収という形でこれに答えた。当然ウガンダの経済は大打撃を受けた。

 だが、別のところから援助が来た。その年9月、ドイツで開催された「ミュンヘン・オリンピック」に際してパレスチナ・ゲリラがイスラエル選手団を襲うという事件が発生したが、アミンはこのテロを讃える声明を国連事務総長に向け発送した。アラブ諸国はこれを喜び、サウジアラビア等がウガンダを支援することにしたのである。サウジはアラブ保守派として、急進派のリビアからアミンを引き離したがっていたという。まぁそれでも、インド人追放のせいで打撃を受けたウガンダ経済が完全に復調することはなかったのだが……。

 この72年の8〜9月は実に色々なことがあった。隣国タンザニアに匿われているオボテ前大統領の支持者約1000人がタンザニアからウガンダへの侵攻を企てて失敗、このことから両国の正規軍による国境紛争が勃発したのである。この時はソマリア大統領の調停によってなんとか停戦することが出来た。

 76年7月、パレスチナ・ゲリラにハイジャックされたフランスの旅客機がウガンダのエンテベ空港に着陸した(註10)。アミンは犯人グループを支持したが、そこにイスラエルの特殊部隊が突入してきて人質を救出した(エンテベ空港事件)。もちろんアミンとイスラエルの関係はますます悪化、イスラエル特殊部隊の作戦に便宜をはかっていたケニアとの仲も悪くした。

註10 この時ハイジャックされた旅客機にはイスラエル国民が多数乗っており、犯人グループはイスラエル政府に対し収監中のパレスチナ・ゲリラ数十人と、日本赤軍の岡本公三の釈放を要求した。岡本は72年にイスラエルのテルアビブのロッド空港で銃を乱射する「テルアビブ空港乱射事件」を起こし逮捕・収監されていた。


 巷間に伝えられているアミンの言動には、はたして本気なのか悪質な冗談なのか分からないものがたくさんある。日本の昭和天皇に「日本の勇気ある神風特攻隊員をわが国に招待したい」とのメッセージを送ってみたり、石油危機に苦しむイギリスに義援金を送ろうとしたり、イギリス女王に「本物の男が見たいなら、俺の国に来てみるがいい」と言ってみたり、スコットランド国王を名乗ってみたり、ヒトラーの記念碑を立てようとしてソ連を怒らせたり、国連事務総長ワルトハイム(若い頃ナチス党員だった)に「ヒトラーを支持する」と言ってみたり、第4次中東戦争の時にイスラエルに降伏を命じてみたり(註11)、ウガンダ皇帝を名乗ってみたり(註12)、ローマ法皇に謁見する時にまがい物の勲章をつけていこうとして周囲に止められたりと様々なことをやっている。先のインド人退去でウガンダ経済が急降下した際にこんな流言が流れたという。「アミンはただのバカではない。彼はバカなことも出来るんだ」。

註11 この戦争に際しては、実際に戦場(ゴラン高原)に出向いている。

註12 これは、「中央アフリカ皇帝ボカサ1世」の真似である。ボカサについては当サイト内の「中央アフリカの皇帝」を参照のこと。


 それぐらいならともかく、アミンの行動の中でよく知られているのが国内における反対派の粛清である。「夢のお告げ」と称して気に入らなくなった側近を公開で処刑し、閣僚クラス(アミンの親族を含む)の粛清は自動車事故を装い、死刑宣告を受けた2人の罪人に互いに金槌で殴り合わせ、あるいは鮮血が目立つよう白い服を着せた犠牲者の斬首刑をテレビで放映するようなことを行った。強制収容所では高さ1メートル弱、長さ20メートル、床に釘を立てた廊下を囚人に(靴を脱がせて)歩かせ、食事には死んだ囚人の肉を食べさせた。アミンは自らも人肉を喰ったと公言し、それについて「塩気が多すぎる」とコメントしたことから付いたあだなが「人喰い大統領」。殺した数は30万人といわれている(アムネスティ・インターナショナルの調査による)。(註13)

註13 日本人ジャーナリスト木村太郎のインタビューでこのことを聞かれたアミンは、追放されたインド人がアフリカのマスコミを握っており、そちらから悪い噂を流したのだと説明している。木村はアミン統治下のウガンダをひとまわりしたが、アミンは確かに国民に慕われていた、と述べている。


 78年8月、アドリシ前副大統領によるアミン暗殺計画が発覚し、さすがに支持率低下を自覚したアミンは人気回復を狙って隣国タンザニアへの侵攻を計画した。タンザニア軍による国境侵犯というデマを根拠としてウガンダ軍が越境したのが10月31日、ヘビー級のボクサーでもあったアミンはこのときタンザニア大統領ニエレレに「ボクシングで決着をつけよう」「俺は片腕を背中にくくりつけて相手をしてやる」と言って挑発したという。ちなみにこのすぐ後、アミンは日本の人気プロレスラーであるアントニオ猪木との異種格闘技戦の話に応じている(レフリーはモハメッド・アリ)がけっきょく実現しなかった。タンザニア軍が反撃に転じ、それに呼応してウガンダ国民による反アミン組織「ウガンダ民族解放戦線」が立ち上がったからである。ウガンダ軍は財政難による給料不払いや幹部の粛清でガタガタになっていた。アミンはリビアのカダフィー大佐が送ってくれた2000の援軍に望みを託したが敵軍の攻撃を防ぎきれず、4月11日には首都カンパラが陥落、アミン自身はリビアに逃げ込んだ。(進撃するタンザニア軍も敗走するウガンダ軍も相当に行儀が悪くて略奪を繰り返したようである)

 だがカダフィー大佐は内心ではあまりこの人物を歓迎していなかったと思われ、しばらく後にサウジアラビア政府がアミンを預かることとなった。サウジはアミンに対し、何かあれば頼りにするよう言っていた。72年の11月にウガンダを訪れたサウジ国王ファイサルは「あなた様は、イスラム教徒の教祖様です」とアミンに讃えられている。アミンはここからウガンダへの反攻を企てたともいうが定かでない。2003年8月16日に亡くなった。亡命先での周囲の人々の受けはかなり良かったという。

                                 おわり

   参考文献


『アミン大統領』 エーリッヒ・ヴィーデマン著 芳仲和夫訳 朝日イブニングニュース 1977年
『アフリカ現代史2』 吉田昌夫著 山川出版社 1978年
「アミン」 林晃史著 『世界伝記大辞典1』 ほるぷ出版 1980年
『苦悶するアフリカ』 篠田豊著 岩波新書 1985年
『アフリカ傭兵作戦』 片山正人著 朝日ソノラマ 1991年
『万国奇人博覧館』 G・ブクテル J・C・カリエール著 守能信次訳 筑摩書房 1996年
『独裁者の言い分 トーク・オブ・ザ・デビル』 R・オリツィオ著 松田和也訳 柏書房 2003年
『現代アフリカ・クーデター全史』 片山正人著 叢文社 2005年
「ニュースキャスターを斬る! 木村太郎」http://www.fujitv.co.jp/jp/kumorepo/caster2/interview.html
「ジョナサン作戦」http://www.geocities.com/inazuma_jp/jonathan.html

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