古代のアルメニア
「アルメニア高原」はアルメニア共和国からトルコの北東部、イランの北西部を占め、北は小コーカサス山脈、南はコルドゥク及びマシオン山系、東はウルミア湖とカラダフ山脈、西はアンチタウロス山脈によって外界から遮断された陸の孤島である。標高5137メートルのアララト山をはじめとする1500メートル級の山地が連なっており、地殻が不安定で地震が多く、地形が複雑で気候が多様、土地は肥沃である。この地を源流とするティグリス及びユーフラテス川が下流へと押し流す養分を含んだ土砂は古代のイラクの地にて「メソポタミア文明」を育み、アルメニアもまた古くから文明を持っていた。『旧約聖書』に登場する「エデンの園」はアルメニアにあったといい、「ノアの方舟」が流れ着いたのはアルメニア高地の中央に位置するアララト山であったという。実際に人類が住み着いたのは50〜100万年前とされる。
「アルメニア」というのは実は他称で、アルメニア人自身は自分たちのことを「ハイク」、自国のことを「ハイヤスタン」と呼ぶ。伝説によれば彼らの祖は旧約聖書のノアの息子ハイークの子孫、もしくはノアの孫ゴメルの子孫であるという。しかし現在のアルメニア人の直接の先祖がアルメニア高原に住み着いたのは紀元前7〜5世紀頃であったとされ、それ以前の彼等に関係ありそうな記録としては、紀元前17〜12世紀頃にアナトリア(トルコ)にあった「ヒッタイト」という国が紀元前14世紀頃にユーフラテス川上流の辺りにいた「ハイヤサ」という群小王国群と交戦したことが知られている。この「ハイヤサ」がつまり「ハイク」の先祖であるらしい。「アルメニア」という他称の語源については1世紀頃のギリシアの地理学者ストラボンが著した『地理誌』に「(ギリシアの)テッサリアのアルメニオンという都市にいた住民アルメノスをもととする」という説が紹介されており、「太陽」を意味するアルメニア語「アーレヴ」からきているという説もある。
さてアルメニア高原では紀元前1300年頃から群小の王国が登場する。同時期のメソポタミア北部に所在した王国「アッシリア」の軍勢が「ナイリ(川向こう)」と呼ばれたこの地方に頻繁に侵攻していたという記録が残っており、当時のナイリには60の部族と数百の町があったという。
アッシリアは紀元前10世紀の末頃から躍進し、南方や西方へと領域を拡大したが、ナイリの人々もまた紀元前9世紀頃、アラムという人物の指導下に統一王国「ウラルトゥ王国」を建設した。この「ウラルトゥ」がなまって「アララト」になり、やがて同国の領域の最高峰を「アララト山」と呼ぶようになったという説もあれば、逆にウラルトゥという国名の由来がアララト山であるという説もある。
紀元前810年に即位したウラルトゥ王メヌアはヴァン湖畔の首都トゥシュパを整備しつつ各地に石壁で守られた城塞を建設、灌漑設備を整えて農業を振興し、イラン高原北西部の都市ハサンルやユーフラテス川沿いにあるミリドの町まで勢力を拡大した。ウラルトゥは建築技術に秀でた国で、現在のアルメニア共和国の首都エレヴァンは紀元前782年にメヌアの息子アルギシティ1世が城塞都市として建設したものであるし、ウラルトゥ時代に造られた運河の中には今でも使用可能なものがあるという。紀元前740年前後にはアッシリアが数次に渡って遠征軍を派遣してきたが、ウラルトゥ側はこれをよく防いだ。この頃がウラルトゥ王国の最盛期である。
しかしアッシリアは諦めなかった。ウラルトゥ王国はメソポタミアと地中海を繋ぐ交易メートを扼する要地に位置するからである。紀元前714年、ルサ1世の率いるウラルトゥ軍はウルミア湖の南西でサルゴン2世の率いるアッシリア軍と戦って大敗、首都をトゥシュパからトプラフ・カラに移さざるをえなくなった。とはいってもそれほど極端な打撃を受けた訳ではなかったともいわれ、以後100年間のウラルトゥ・アッシリア関係は平和なものとなったという。
紀元前7世紀には葡萄酒の生産が盛んになり、例えばカルミル・ブルルの要塞には葡萄酒1000リットルを貯蔵出来る「カラス」という大瓶が1室に60〜70本も並んでいたという。旧約聖書に「方舟を出たノアは農夫となって葡萄畑をつくり、葡萄酒を飲んだ」というエピソードがあるが、ウラルトゥ王国時代のアルメニアは当時の世界で最大の葡萄酒産地であったという。そして、現在の「アルメニア人」の直接の祖先にあたる人々がアルメニア高原に入り込んできたのがこの頃であったとされる。その原郷や移動経路ははっきりしないが、もともと黒海の北にいたのがバルカン半島を経てアナトリアに移ってヒッタイト時代の「ハイヤサ」となり、その後しだいにウラルトゥ王国の領域に流入してきたのではないかと考えられる。ウラルトゥ王国で話されていた「ウラルトゥ語」の系統ははっきりしないが、アルメニア人の言語はインド・ヨーロッパ語族に属している。後に形成されたアルメニアの神話伝説にはウラルトゥ王国の初代国王アラムが「アルメニア人の初代国王」として登場しており、「ウラルトゥ」という国名にゆかりのあるアララト山が現在のアルメニア人にとっても民族の象徴とみなされていること等、両者の神話や事績が時を経てごっちゃになってしまったことがうかがわれる。
さらに黒海沿岸方面から「スキタイ人」「キンメリア人」という遊牧民が登場し、それらの攻撃を受けたウラルトゥ王国は次第に衰えていった。
アッシリアのサルゴン2世の方は紀元前721年にパレスチナの「イスラエル王国」を滅ぼし、紀元前709年にバビロニア(メソポタミア南部)を征服した。アッシリアは紀元前668年に即位したアッシュールバニパル王の代に最盛期に到達し、メソポタミアやシリアからさらにエジプトに至る広大な地域を支配して「最初の世界帝国」と呼ばれるほどの隆盛を誇るに至る。しかしアッシュールバニパルが亡くなる紀元前627年頃には急激に衰え、まず紀元前663年にエジプトで興った「サイス朝」がアッシリアの支配から離脱、紀元前626年にはバビロニアにて新たに「新バビロニア」が成立し、さらにイラン方面で「メディア」の勢いが伸びてきた。アッシリアは紀元前612年に新バビロニア・メディア連合軍の攻撃を受けて滅亡した。
ウラルトゥ王国はその後もしばらく存続したが往時の勢いはなく、紀元前590年にスキタイと思われる敵の攻撃を受け滅亡、その故地はメディアの支配下に組み込まれた。しかしメディアは紀元前550年に属国の「アケメネス朝ペルシア」に滅ぼされる。アケメネス朝は紀元前546年にアナトリア西部にあった「リディア」を、紀元前538年に新バビロニアを、紀元前512年にエジプトのサイス朝を滅ぼし、アッシリア以上の大帝国となった。
アルメニア高原……本稿では以降、単に「アルメニア」と表記する……はアケメネス朝にとっては広大な領土の中央部の北側に位置するという戦略・交通の要衝であり、王家の一族オロンティド家が地方長官として赴任してきた。この家はアルメニアを世襲で統治したため、「オロンティド朝」とも呼ばれている。産業としては家畜の飼育と葡萄の栽培が盛んであり、体格は小ぶりだが元気のいい馬を産出した。山岳地帯の家は地下に造られていて井戸のような穴から梯子で出入りし、内部では山羊、羊、牛が人間と一緒に暮らしていたという。アケメネス朝の中央政府は銀600タラントン、馬、奴隷、武器を年貢として取り立てたが、内政についてはあまり関与しなかった。
紀元前334年、マケドニアのアレクサンドロス大王がアケメネス朝に攻め込んできた。アルメニアはマケドニア軍を迎撃するために歩兵4万と騎兵7000の兵力を提供し、決戦となった「ガウガメラの戦い」ではアケメネス軍の右翼を担当した。しかしこの戦いに敗れたアケメネス朝は紀元前330年に滅亡、オロンティド朝の当主オロンテス2世も戦死した。アレクサンドロスはオロンテス2世の子ミトラネス……少し前にマケドニア軍に帰順していた……にアルメニアを統治させることにした。その後のアルメニアにはギリシア風の町が建設され、ギリシア文化とオリエント文化が融合した「ヘレニズム」の建築や彫刻が広まった。西はエジプト、東はインドの北部にまで遠征したアレクサンドロスの帝国は東西4500キロにも及び、交通の結節点となったアルメニアには諸外国の商人が押し寄せてきた。
紀元前323年にアレクサンドロスが死ぬと彼の帝国は内乱に陥り、やがて「アンティゴノス朝マケドニア」「セレウコス朝シリア」「プトレマイオス朝エジプト」の3つに分裂、アルメニアのオロンティド朝はセレウコス朝の属国となった。オロンティド朝は当主が替わるごとに新都を造営し、30回以上も遷都したことが知られているが、現在まで残っている都市はほとんどなく、紀元前200年に起こった反乱で滅亡した。
この反乱はオロンティド朝の国力が充実してきたことを危惧したセレウコス朝に使嗾されて発生したもので、その後のアルメニアはセレウコス朝の統治下で複数の州に分割された。しかしセレウコス朝は紀元前190年に西方から攻め込んできた「ローマ共和国」と戦って敗れ、アルメニアはローマ軍の承認のもとに「アルタクシアド朝」と「ソフィーネ」という2つの国に分かれて独立することになった。前者はやがて現在のグルジアやアゼルバイジャンにまで勢力を広げ、ソフィーネをも併呑して「大アルメニア」と呼ばれる強国に成長する。本稿では以降この国を単に「アルメニア」と表記する。
その頃アルメニアの東方には「アルサケス朝パルティア」が、北西には「ポントス王国」が勃興していた。前者は紀元前123年に即位したミトラダテス2世の指導下に国力を増強、紀元前105年にアルメニアへと兵を進めてきた。これを迎え撃ったアルメニア王アルタバステス1世はあえなく敗退、息子のティグラネスを人質として差し出す羽目となった。紀元前95年にアルタバステス1世が死ぬとティグラネスは70の肥沃な谷をパルティアに割譲するという条件でアルメニアに帰国、「ティグラネス2世」として即位した。ちょうどその頃ポントス王国がローマと対決しようとしており、前者の国王ミトラダテス6世の娘と結婚するという形で同盟を結んだティグラネス2世はローマと戦うべくアルメニア南西のカッパドキア地方へと兵を進めたが、スッラ将軍の率いるローマ軍に大敗を喫して退却した。続いてローマとポントスの戦いが始るとティグラネス2世はこれを静観、両軍が疲れるのを待ったうえで東のアルサケス朝……ミトラダテス2世が死んだところで勢力が落ちていた……を攻撃した。アルメニア軍は先に失った70の谷を奪回、続いて紀元前83年にはセレウコス朝を叩いてシリアを制圧した。ローマとポントスの戦いの方は、紀元前88〜84年の「第一次ミトラダテス戦争」と紀元前83〜81年の「第二次ミトラダテス戦争」の2度に渡って行われ、第一次はローマ側の勝利で講和、第二次は大した戦いにならなかった。
話をアルメニアに戻して……、相次ぐ勝利により「王の王」とか「神聖王」とか称されたティグラネス2世は紀元前77年、ティグリス川上流に広壮なる新都ティグラナケルトを建設した。その城壁は内部に厩を造れるほど分厚く、建物はギリシア風、城外にある王宮の周囲は狩猟のための森や野、釣りのための池が掘られていた。町づくりには征服地から連行してきた6万の庶民を動員したという。しかしティグラネス2世は歳をとるにつれてひどく気難しくなり、2人の息子に謀反の嫌疑をかけて処刑したりした。
紀元前74年、ローマとポントス王国が「第三次ミトラダテス戦争」を起こした。ポントス軍はルクルス将軍指揮下のローマ軍の前に敗退、国王ミトラダテス6世は娘婿のティグラネス2世のもとに逃げ込んできた。しかしアルメニア軍もまた紀元前69年にローマ軍と戦って敗退、新都ティグラナケルトを喪失したが、ローマ軍はアルメニアの厳しい冬に耐えられなくなって撤収、ルクルス将軍も更迭となった。北方に逃れていたティグラネス2世もどうにか一息ついた、と思ったところの紀元前65年に今度はポンペイウス将軍の率いる新手のローマ軍が押し寄せてきた。さらにアルサケス朝がローマと組んでアルメニアの背後を突こうとする。進退窮まったティグラネス2世はローマ軍に降伏、領土を大幅に削られ賠償金をとられたうえで「ローマの友」として国の存続を許された。
ティグラネス2世は紀元前55年に亡くなった。「大帝」とまで呼ばれた彼も晩年にはすっかり惚けてしまったという。跡継ぎのアルタバズト2世は文学の素養があり、ギリシア語で詩や劇作をしたというが、政治運には恵まれていなかった。紀元前53年にローマの将軍クラッススがアルサケス朝に遠征して大敗、戦死するとアルタバズト2世はパルティア側に乗り換え、以後しばらくは平穏に過ごすことが出来たが、紀元前36年に今度はアントニウス将軍の指揮するローマ軍の攻撃を受けた。捕虜となったアルタバズト2世はアントニウスの愛人であるエジプト(プトレマイオス朝)女王クレオパトラのところに「勝利の証」として送られ死刑となった。処刑前日のアルタバズト2世のところにクレオパトラの使いが現れ、「女王のスカートの裾に接吻すれば死刑を免れる」と伝えたが、アルタバズト2世は「無事に免れて己を貶める代わりに、私はアルメニア人の誇り、尊厳を、我らが後継者に残したい」と語ったという。
ローマ的にはアルメニアよりアルサケス朝の方が問題であった。ローマはアルサケス朝と何度交戦しても決定的な勝利を得られなかったため、アルメニアを両国の緩衝地帯として扱うことにした。両国はそれぞれ自分の傀儡になりそうな者をアルメニアの王位につけるべく暗闘を繰り返したが、西暦2年以降はローマ派のアルメニア王が即位することになる。しかしその頃のローマ……紀元前27年に共和制から帝制に移行……はアルメニアの北の「グルジア王国」と結んでアルサケス朝に対抗しようとしていたのだが、そのグルジアがアルメニアを併呑しようとする動きを見せた。そこでアルメニアは西暦53年をもってアルサケス側に寝返りを打ち、アルサケス朝の王族に連なるアルサシド家のティリダテスを国王として戴くことになった。これが「アルサシド朝」である。ローマが討伐軍を差し向けてきたが、アルメニアの険しい山岳と冬の寒さに妨げられて効果があがらず、63年の「ランイア条約」によって「アルメニアの王位はアルサシド家が継承するが、アルメニアの領土そのものはローマの属州とする」という妥協がなされた。アルサシド朝アルメニア王国の政体は50〜70人ほどの地方豪族のゆるやかな連合というもので、文化面ではアルサケス朝で流行っていた「ゾロアスター教」と、1世紀になって新たに発生した「キリスト教」が伝来してきた。
伝説によればアルメニアにキリスト教が伝わったのはこの宗教が興ってすぐのことで、使徒(イエス・キリストの高弟)のバルトロマイとタダイが出向いてきたといい、3世紀に入る頃には相当数のキリスト教徒が存在したという。続いて238年頃、アルメニア国王ホスロフ1世が暗殺されるという事件があり、犯人アナクの家族の大半が捕縛・処刑されたのだが、アナクの息子のグレゴリウスだけが落ち延び、父の罪を償うべくキリスト教の司祭となった。ところが彼はホスロフ1世の息子ティリダテス3世によって捕えられ、「十二の拷問」にかけられたうえに地下牢に投げ込まれた。
グレゴリウスは前国王の妃の慈悲のおかげで食糧を与えられ、地下牢で15年間も生きながらえたが、その間にティリダテス3世の方がおかしくなった。ローマ人キリスト教徒のリプシメという娘を思い通りにしようとして出来なかったので殺してしまい、その良心の呵責か天罰かで精神に失調をきたしたのだという。ティリダテス3世は自分は狼であると思い込み、山中や森を彷徨い歩いた。その時、たまたまキリスト教に帰依していた王妹が夢で天使に会い、「グレゴリウスを自由にしてやれば兄王は健康と理性を回復する」という神のお告げを聞いた。彼女の話を聞いてグレゴリウスを釈放したティリダテス3世の容態は回復、グレゴリウスは大主教に任命され、キリスト教は302年頃にはアルメニアの国教となった。実はアルメニアこそがキリスト教を国教化した世界初の国である。
キリスト教会は病院や孤児院の設立といった社会事業に取り組み、徐々に信徒を増やして行ったが、ティリダテス3世の方は330年に政敵に暗殺され、以降のアルメニアは次第に傾いていった。王家と地方豪族の対立が激しく、政情は不安定であった。国際情勢に目を転じれば、東方のアルサケス朝は226年に滅亡、かわって「ササン朝ペルシア」が登場した。ゾロアスター教を奉じるササン朝はアルメニアに改宗を迫り、363年にはローマ軍と戦って勝利、364〜367年にかけてアルメニアの8都市を劫略して拝火壇(ゾロアスター教の礼拝施設)を設置し、369年にはアルメニア人4万世帯を拉致した。その多くが職人や商人であったことはアルメニア経済にとって大打撃であった。その後のササン朝は内紛で弱体化したが、383年に即位したシャープール3世は387年にローマ皇帝テオドシウス1世と結んだ条約において、アルメニアを分割することに取り決めたのであった。
つづく
参考文献
『アルメニア』 ジャン・ピエール・アレム著 藤野幸雄訳 白水社文庫クセジュ 1986年
『人類の再生と滅亡の地 新アルメニア史』 佐藤信夫著 泰流社 1989年
『悲劇のアルメニア』 藤野幸雄著 新潮選書 1991年
『西アジア史2』 永田雄三編 山川出版社新版世界各国史9 2002年
『アルメニア人ジェノサイド 民族4000年の歴史と文化』 中島偉晴著 明石書店 2007年
その他