中央アフリカの皇帝

 ジャン・ベデル・ボカサは1921年2月22日、当時フランス領であった中央アフリカ……当時はウバンギ・シャリといった……のムバカ族の首長の子供として生まれた。この部族はフランスによる植民地支配に積極的に協力することで相応の待遇を得ており、ボカサも幼時に父母を失いながらも遠隔地の学校に遊学することが可能であった。ボカサ本人によると彼の父はフランスに反抗して殺され、母はそのショックで自殺したというのだが……。

 時代を遡って説明すると、アフリカの中央部に位置するウバンギ・シャリ地域にフランス人が入ってきたのは1883年のことであり、94年には正式にフランス植民地に編入された。原住民に対しては政庁への上納義務を持つ特許会社によって強制労働といった収奪が行われ、労働のノルマを守らせるために原住民男性(労働力)の妻子を人質にとるようなことがされたという。産品は天然ゴムや象牙であった。

 フランス植民地でも西アフリカのセネガルでは原住民に西洋式の教育を与え、その程度に相応しい権利も付与する「同化政策」が行われたが、ウバンギ・シャリを含む「フランス領赤道アフリカ(註1)」ではこれはあまり進展せず、第一次世界大戦に際して「権利イコール義務」でセネガルから大勢の原住民が徴兵されたのに対して赤道アフリカからは小規模の徴兵しか行われなかった。大戦後にはウバンギ・シャリの産品は天然ゴムから綿花やダイヤモンドにシフトし、1920〜30年代になると開発の効率と人道上の見地から特許会社が廃止されるが収奪の激しさはあまり変わらず、特に20年代は「地獄の10年」と呼ばれて人口が減少するほどであった。

註1 1910年に発足。現在の中央アフリカ・ガボン・チャド・コンゴ共和国を含む地域。コンゴはコンゴでも現コンゴ民主共和国は旧ベルギー領なので誤解しないこと。


 39年、第二次世界大戦が始まり、フランス本国政府はドイツ軍に敗れて休戦を飲まされた。フランスの海外植民地は本国に成立した親独政権「ヴィシー政府」に従う派と、対独徹底抗戦を唱えてイギリスに逃れ「自由フランス」を組織したド・ゴール准将にしたがう派に分裂、ウバンギ・シャリは後者につくことにした。(註2)

註2 この辺の詳しい話は当サイト内の「ド・ゴール伝」を参照のこと。

 さて本稿の主人公であるボカサは第二次世界大戦勃発の直前にフランス軍に入り、自由フランス軍に参加、41年には軍曹に昇進して各地に転戦、大戦終結後はインドシナ戦争にも従軍した(負傷もした)。このことで、後にフランス大統領となるド・ゴールから「古参兵」と呼ばれることになる。22年間フランス軍に勤務して最終階級は大尉……61年の時点ではこれがフランス軍におけるアフリカ人の最高位であった……貰った勲章は15個前後といわれている。

 故郷のウバンギ・シャリでは大戦終結後の1946年にボカサの叔父にあたるバルテルミ・ボガンダが黒アフリカ社会進歩運動(MESAN)を組織して宗主国フランスに対抗しようとしていた。ウバンギ・シャリが大戦中に自由フランスのために戦ったことはその立場を強化した。フランスは46年に強制労働を廃止、植民地に地域議会を設置し本国議会にも代表を送れるようにした。58年、フランス本国の大統領に就任したド・ゴールは制限付きとはいえウバンギ・シャリの自治を認め、その前年に地域議会で第一党となっていたMESANのボガンダが「自治共和国政府」を組織して国名をウバンギ・シャリから「中央アフリカ」に改称した。そして60年8月15日にはフランスとの協力関係を保持した上での完全独立を達成するが、これまで中央アフリカの民族運動を指揮してきたボガンダは、その直前の飛行機事故により既にこの世にはいなかった。

 ボガンダの組織MESANを引き継いだのは甥のダビッド・ダッコであった。中央アフリカ共和国大統領に就任したダッコは対立組織を非合法化して権力の強化をはかり、親フランス路線をすすめつつ……ダッコの政権獲得の裏にはフランスの意向が働いていたといわれている。ボガンダはフランスに殺されたとの噂もある……従兄弟のボカサを故郷に呼び戻して軍隊の組織に協力させた。しかしダッコの経済政策は失敗し、政界には汚職が蔓延しで、65年の末には当時参謀総長の職にあったボカサ大佐のグーデターにより失脚へと追い込まれてしまった。もっともダッコとボカサはその後も個人的には仲がよく、ダッコ本人は在職中に反対勢力に狙われていた自分の身柄をボカサがクーデターという形で保護してくれたのだと語っていたとの話もある(そう語るようボカサに強要されたのかもしれないが)。クーデターに際してはダッコの警護隊や憲兵隊の司令官が逮捕・拷問で死亡し、計8人の死者が出た。

 さてボカサ大統領の政策はまず基本的に親フランスである。70年11月に亡くなったド・ゴールの追悼ミサには若い頃の自由フランス軍の制服を着込んで出席した。その後は何度もフランスにたてつくような素振りを見せては仲直りするの繰り返しである。さらに近隣諸国と友好関係を保ちつつ、その一方でアフリカ諸国と対立する南アフリカ(註3)からも経済援助を引き出したと言われている。後にはソ連を訪れたり、リビアのカダフィー大佐から援助を引き出すためにカトリックからイスラム教に改宗したりもしているが、特別なイデオロギーやビジョンは持たなかったとされている。

註3 南アフリカ共和国は人口の1割弱しかいない白人が大多数の黒人を差別的に支配する「人種隔離政策(アパルトヘイト)」を1990年代まで続けていた。そのことで黒人の諸国と激しく対立していたである。


 国内では首相を含む様々なポストを兼任(一時は16の大臣のうち14を兼任)し、69年には保健相バンザ大佐のクーデター計画を、73年には別のクーデター計画を摘発したが、それらの陰謀が本当にあったかどうかは不明である。前者のバンザ大佐(死刑)はボカサがダッコ政権を打倒したクーデターの第一の功労者、後者の首謀者ムボンゴ労働相(獄死)もそれに次ぐ存在であった。それら以外にも広範な粛清がたびたび行われ、次第に人材が枯渇していくことになる。ボカサ自身、刑務所の囚人を殴り殺したり収監された小中学生を杖でぶったりしたという。

 ボカサは72年に「終身大統領」に就任、74年に軍元帥、76年にはなんと帝政をしいて「サラー・アディン・アーメッド・ボカサ1世」を呼称した。これにあわせて「帝国憲法」や「皇室儀式典範」なるものも制定している。ちなみにこの時点で「エンペラー」と呼ばれていた人物はイランのムハンマド・レザー・シャー(註4)と、日本の昭和天皇だけであった。ボカサはこの2人の「エンペラー」を戴冠式に呼びたがったが、丁重に断られてしまった。

註4 この人物は日本では「パーレビ国王」と呼ばれていたが、公式には「シャーハンシャー」、直訳すれば「王たちの王」と称していた。外国人には「エンペラー」と呼ばれたが、本人がそう呼ばせたことはないらしい(誤訳というほどのことはないと思う)。79年のイラン革命で失脚・亡命。


 正式の戴冠式は77年12月4日に行った。国民の年間の平均所得が155ドルしかない国で、その年の国家予算の2倍にもあたる2500万ドルという大金を注ぎ込み、フランスのナポレオン1世の戴冠式を真似たスタイルであった。贅沢に着飾った200人の騎兵隊と数百台の高級自動車・バイク隊に護衛された8頭立ての豪勢な馬車、ダイヤモンドを嵌め込んだ2mの大錫杖と剣を手にし、78万5000個の真珠と130万個の水晶で飾った礼服(重そう)の上に白い貂の毛皮の外套をまとい、冠には82カラットのダイヤモンドをはじめとする2000個(6000とも)の宝石、黄金の翼をもつ「ナポレオン鷲」をもした重さ3トンの大玉座、フランスから取り寄せた豪華な酒と料理……。本当はバチカンの大聖堂でローマ教皇に戴冠してもらいたかったのだが、断られたので自国の首都に建設した「ボカサ・スタジアム」で行った。(○○個の宝石云々というのは『万国奇人博物館』によった。ちょっと大袈裟すぎる気がする)

 当然ながら、テレビ放映もされたこの愚行は国際的な批難というより嘲笑を招いてしまい、アメリカなどは即座に経済援助を停止してしまった。ただ、旧宗主国のフランスはそのまま援助を継続した。既に中央アフリカ国内のウラン鉱山に投資をしてしまっていたからである。もちろんボカサもフランスに気を使い、大統領ジスカール・デスタンを狩猟に招待したりダイヤモンドをプレゼントしたりしている。ジスカール・デスタンはボカサを「親愛なる同胞」と呼んだ(註5)。そして、フランスは戴冠式の費用も貸していた。……しかしまあ、フランス外務省は公式文書でボカサを「皇帝」と記すべしとの要求を退けたのだが……。

註5 ジスカール・デスタンがボカサにタイヤモンドを貰ったことは週刊誌にすっぱ抜かれてかなり話題になったそうです。


 即位の時点で、彼の帝国はかなり傾いていた。粛清による人材不足からくる行政の機能不全と腐敗、そのための勤労意欲の低下による主要産品(綿花やダイヤモンド)の減産、頼みはフランスの援助のみであった。ボカサは奢侈にふけり、外遊の際に目を付けた女を連れ帰ってそれぞれ別の屋敷に住わせ100人以上の子供をつくっていた。政治面では閣僚会議の上に「宮廷顧問会議」を置き、30歳未満の国民全員を帝国唯一の合法政党MESANに組み込んだ。大学では憲法学・政治学・社会学の講義が禁止となった。即位の翌年には皇太子のジョルジュが追放された。

 79年1月、首都バンギで学生デモが行われた。ボカサは首都の小中学生に(自分のデザインした)制服着用を義務化しようとしたのだが、この制服は皇帝一族の所有する工場や店の製品を買わせるもので極めて高く、日頃の不満とあわせて小学生まで含む大規模なデモ・暴動へと発展したのであった。結果は100人の小学生を含む400人の死者である。この時ボカサがデモ隊鎮圧に投入したのは皇室親衛隊と、極秘に派遣してもらった隣国ザイール(現コンゴ民主共和国)の軍隊200〜300人であり、自国の軍隊ではなかった(註6)。ボカサは自国の軍隊すら信用出来なくなっていたのである。この事件を受けたフランスは中央アフリカへの軍事支援を停止した。……実はフランスはその後もまだ多額の融資を提供していたともいうが、4月にはフランス側の調査によってボカサによる子供の殺害が確認され、とうとうすべての援助が停止されるに至る。

註6 デモ鎮圧に投入された皇室親衛隊は自分の出身部族のムバカ族と、外国人の傭兵であった。


 以前ボカサに追放されてフランスに亡命していたボカサの長男ジョルジュが新聞を通じて父を批判し、駐フランス大使等が反政府組織を結成した。ボカサはリビアのカダフィー大佐に援助を求めようとした。さすがに愛想の尽きたフランスは実力をもってのボカサの排除と前大統領ダッコの復職を決めた。

 ボカサがリビアを訪れている最中……リビアからの軍事顧問団の派遣や経済援助を約束するところまでいった……の79年9月20日夜、700人のフランス軍(海兵落下傘聯隊)が帝国の首都バンギに降り立ってクーデター「バラクーダ作戦」を決行、全く無血でこれを成功させた。新大統領は予定通りダッコ……彼自身はかなり躊躇ったという……である。ちなみにクーデターの際にボカサの邸宅に踏み込んだフランス兵たちは、冷蔵庫の中やプールの底から人間の死体を発見したと公表した(つまりボカサは食人をしたという噂を立てた)。ボカサはカダフィー大佐に貰った金をもってフランスに亡命しようとした(そのフランスがクーデターを行ったことを知らなかったのだろうか?)が、たどり着いた空軍基地で50時間もまたされたあげくに拒絶された。

 こうして、中央アフリカ皇帝ボカサ1世は在位2年たらずで失脚したのである。ボカサはコート・ディヴォアールに亡命、その後フランスに移ってそちらの監視下におかれる(註7)が、86年に監視の目を盗んで中央アフリカに帰国(その理由は不明)、裁判の末死刑を宣告された。後に減刑・釈放され、96年に亡くなった。晩年は元フランス軍人に支給される年金で生活していたという。

註7 先にボカサの受け入れを拒絶したフランスが何故考えを変えたかはわかりませんでした。

                                おわり

   参考文献

「ボカサ」 小田英郎著 『世界伝記大辞典10』 ほるぷ出版 1981年
『苦悶するアフリカ』 篠田豊著 岩波新書 1985年
『アフリカ現代史3』 小田英郎著 山川出版社 1986年
『万国奇人博物館』 G・ブクテル J・C・カリエール著 守能信次訳 筑摩書房 1996年
『独裁者の言い分 トーク・オブ・ザ・デビル』 R・オリツィオ著 松田和也訳 柏書房 2003年
『現代アフリカ・クーデター全史』 片山正人著 叢文社 2005年

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