ヘンリ・モーガン伝

 ヘンリ・モーガンは1635年頃にウェールズの首府カーディフに近いペンカーンの自作農の子として生まれた。20歳頃に3年契約の奉公人もしくは軍隊の旗手としてカリブ海のバルバドス島に渡り、やがてジャマイカに渡って「私掠船」に乗組んだ。私掠船とは戦時もしくはそれに近い状況下において敵国船舶に対する攻撃を許可するという「私掠免許状」を国家から交付された民間の武装船である。カリブ海の島々が1492年にコロンブスによって「発見」されたこと、その後スペインの植民地となったことは誰でも知っている話だが、スペイン人たちはエスパニョーラ島やプエルト・リコ島、小アンティル諸島、キューバ等々を徹底的に収奪するだけすると大陸部のメキシコやぺルーの征服を目指して旅立っていき、16世紀の後半にはエスパニョーラ島で1000人、キューバで240人程度のスペイン人しか残らなくなった。島々ではヨーロッパから持ち込まれた家畜が野生化して大繁殖した。

 17世紀に入る頃にはスペイン本国も衰え、かわってイギリスの勢力が伸びてきた。イギリスはまず1624年1月にリーワード諸島のセント・キッツ島に、27年2月にバルバドス島にそれぞれ植民地を建設、スペインと争いつつ煙草やトウモロコシ、サトウキビの農園を経営した。特にバルバドスはヘンリ・モーガンが来訪した頃にはカリブ海随一のサトウキビの産地となっている。労働力は黒人奴隷か、年期契約の白人奉公人であった。フランスやオランダの植民地も建設された。

 さらに、いつ頃から現れたのかは不明だが、エスパニョーラ島北西部の無人地域を根城とする海賊が跋扈するようになる。彼等……国籍は英仏蘭等様々……の出自は農園のキツい労働から逃げ出した奉公人や難破船の乗組員、脱獄囚、何らかの事情で故国を逐われた難民等々で、最初は野生化した牛を薫製にしてカリブ海を行き交う船舶に売るのを生業にしており、「ブカン」という木製の薫製用具を用いたことから「バッカニア」と呼ばれたが、薫製だけでなく海賊稼業にも手を染めるようになったのである。35年1月にスペイン軍の討伐を受けて大打撃を被るが、生き残った連中が新たな仲間を集めて強大化、片っ端からスペイン船や植民地を襲ってまわるに至った。バッカニアの船長は同時に私掠船の船長であることが多く、ヘンリ・モーガンもその仲間になったという訳なのである。この時代のヨーロッパでは各国間の戦争が繰り返されていたことからカリブ海においても島々の争奪戦が展開され、正規の海軍以外にもバッカニアの私掠船が重宝されていた。

 イギリスが1655年に新たにジャマイカ島を植民地化すると、同島のポート・ロイヤルがバッカニアの巣窟となった。モーガンがジャマイカで私掠船に乗組んだのは既に述べた通りである。バッカニアの船は主に20〜50トンクラスの快速船で、あらゆる港に情報提供者を抱えており、あらかじめ積荷や武装を調べておいた船や、悪天候で仲間からはぐれた船に味方を装う旗を掲げて接近、懐に飛び込んで斬り込み攻撃を仕掛けるのが常であった。大抵の場合は相手船の方が重武装だったため、難破しかけの船を装って救援を求めたり、相手国の海軍の制服を着用して接近したりと様々な工夫がなされた。主兵器は銃身の長い火縄銃とピストル、斧、ナイフ等で、相手船が大人しく降参すればそう手荒なことはしなかったというが、戦闘になれば情け容赦ない虐殺を行った。捕虜に与えられる選択肢は、バッカニアの仲間になるか、その辺の島に置き去りかのどちらかである。

 港湾を襲うことも多いが、住民が財産を抱えて内陸に逃げてもしつこく追撃し、捕虜をとらえれば残虐な拷問をくわえて財産の在処を聞き出した。火であぶったり、舌を抜いたり、手足の指を縛って吊るしたり、生きたまま腸を引き出して釘で木に打ち付けその木の回りを(腸を引きずりながら)歩かせたりしたという。

 バッカニアは「沿岸の同胞たち」と呼ばれる共同体を営んで暮らしていたが、その結束は鉄のように堅く、海賊仕事で得た略奪品は一ヶ所に集めてから分配するのが常であった。その際には負傷者を優先し、戦闘で右手を失った者は8レアル銀貨600枚か奴隷6人、左腕または右脚を失った者は500枚か5人、左脚を失った者は400枚か4人、片目失明もしくは指1本失った者は100枚か1人といった具合である。残り分は他の者で山分けするが、船長は他の者の5〜6倍をいただいた。

 溜まり場のポート・ロイヤルは「世界でもっとも富みかつみだらな都市」と呼ばれ、盗品市場や倉庫、宿屋、船の修理施設、そして遊び場が何でも揃っており、ひと仕事を終えて分配金を貰ったバッカニアが馬鹿騒ぎするのが常であった。一晩で8レアル銀貨を2〜3000枚も使う男も珍しくなかったとか、売春婦を公衆の面前で脱がせるためだけに4000レアルやったとかいう無茶苦茶な話が伝わっている。また、海賊仕事よりも盗品を買い取る闇商人との交渉ごとの方が面倒だったといい、借金をするバッカニアもいた。家賃はロンドンの高級住宅地と変わらないほど高く、様々な宗派の教会が並んでいたがそれは「神をないがしろにするどうしようもない連中がなんとか宗教の体面をつくろう」ためのものであった。

 モーガンは20代後半には船長になっており、63〜65年にスペイン領の各地を荒し回った私掠船団に参加している。この時はメキシコのカンペチェ、タバスコからホンジュラスのトルヒリョを攻撃、サン・ホワン川をカヌーで遡って内陸のグラナダにまで攻め入っている(註1)。その後のモーガンはジャマイカ総督トマス・モディファド卿から私掠免許状を付与され、まずキューバのプエルト・プリンシペを攻撃して8レアル金貨5万枚を奪取、続いてパナマのポルトベロを襲撃した。ポルトベロはペルー方面から運ばれてくる金銀の積出港であったが、2つの堅固な砦に守られていたことから恐れをなした部下多数が船から降りてしまった。しかしモーガンは残った部下を「少なければ少ないだけ団結は固くなるし、分け前も多くなる」と励まし、まずひとつ目の砦を奇襲で奪取、2つ目の砦を攻める時には緒戦で捕えた修道士や修道女を弾避けにして攻め落とした。8レアル銀貨10万枚とも25万枚ともいう戦利品はバッカニアの規則に従って分配され、ジャマイカのモディファド卿もおこぼれにあずかった。モディファド卿はモーガンに船舶に対する攻撃を許可する免許状は与えていたが陸地を叩いていいとは言っていなかったので困惑したが、だからと言ってモーガンを処罰するようなことは出来なかった。

註1 以下に述べるモーガンが攻撃した地域は全てスペイン領である。


 69年にはハリーという船長の呼びかけで多数のバッカニアが参集し、コロンビアのカルタヘナを攻撃する計画が立てられた。作戦会議をしているうちにハリーの乗船「オックスファド」で酒盛りとなるのだが、宴が最高潮になったところで酔った男がぶっ放した銃の火花が火薬樽に引火、大爆発が起こって350人のバッカニアが死んだ。これでカルタヘナ攻撃作戦は頓挫したが、モーガンは軽傷で済んだという。

 次の標的はベネズエラのマラカイボ港である。モーガンたちがマラカイボの砦に乱入してみるとそこは無人で爆薬が仕掛けられており、爆発まであと少しというところで導火線の火を踏み消すという危ない局面もあったが、またしても8レアル銀貨25万枚相当という莫大なお宝を手に入れた。しかし、勝利の酒盛りを終えたモーガンの船隊がマラカイボ湖の奥から外海に出ようとするとそこには強力な武装を持つスペイン艦3隻が待ち構えていた(註2)。モーガンは火薬を満載した船に導火線をつけてスペイン艦へと放ち、封鎖を突破した。しかし今回はモディファド卿のみならずイギリス本国政府もモーガンのやりすぎに腹を立てており、私掠免許状の一時停止と、ポート・ロイヤルへの出入り禁止という処罰がくだされた。既に充分な金持ちになっていたモーガンは大人しく引き下がった。

註2 マラカイボ湖は外海(カリブ海)と細い水路で繋がった塩湖である。


 ところが70年になるとスペインの方からイギリス領に攻撃を仕掛けてきた。マヌエル・リベラ・ファルダルというスペイン船長などはモーガンを名指しで「スペイン人の勇気を見せてやるからここまでやって来て私を捜してみろ」と挑発した。同年6月29日、モディファド卿はモーガンを「当港(ポート・ロイヤル)に属するすべての戦闘用船舶の提督・総司令官」に任命、スペインの艦船のみならず陸地での行動の自由を付与した。モーガンが標的に選んだのはパナマである。

 パナマ地峡の太平洋側に面するパナマ市は1521年にスペイン国王から紋章を授けられた王都であり、スペイン領の重要拠点において司法・行政を司る「アウディエンシア」も設置されていた。南米のペルー方面で産出する金銀は一旦船で太平洋に運び出してパナマに運搬、そこから地峡を横断してポルトベロ港からスペイン本国に送り出すという手順が踏まれており、かような交通の要衝にして中米スペイン植民地の政治の中心地であるパナマ市は70年頃には警備兵が常置する200の石造倉庫と7000の家屋(うち2000が商家)、7つの修道院と1つの女子修道院が立ち並ぶ人口3万の都市として栄えていた。

 36隻の船隊を揃えたモーガンは12月にまずプロヴィデンス島を占領、そこから400名の兵員を送り出してパナマ地峡のカリブ海側に面するチャグレ河口のサンロレンソ要塞を制圧した。パナマのスペイン当局は騎兵200と歩兵2000からなる軍勢を集めてパナマ市外でモーガン軍を迎え撃つ態勢を整えた。モーガンは1500の部下を率いてティグレ河を遡り、灼熱の太陽、スコール、害虫、密林、インディオの襲撃と戦いつつ9日かけてパナマ近郊に到達した。食糧は現地調達するつもりだったのにスペイン人が根こそぎ片付けてしまっていたため餓えに苦しみ、やむなく革袋を焼いて喰うという苦難の行軍であった。

 決戦はパナマ市の手前の平地で行われた。アウディエンシア議長ペレス・デ・グスマンの率いるスペイン軍は数と装備で優っていたが、モーガン軍は戦術で優っていた。やがてスペイン軍はモーガン軍目掛けて2000頭の牛を突進させるという奇策に出た。しかし、もともと野性の牛を扱って生計を立てていたバッカニアは特に慌てることなく牛の群の中に効果的に銃弾を撃ち込んだ。驚いた牛たちは見当違いの方向へと逃げ出し、スペイン軍の方を混乱に陥れた。戦闘は数時間後にモーガン軍の勝利のうちに終結、ほぼ同時にパナマ市内で原因不明の火災が発生した。

 市内に突入したモーガン軍は倉庫にうなっているであろう金銀を探しまわったが、それらは既に修道女と一緒に海上に運び出されており、市民も財産を抱えて逃げ出した後であった。その後20日間に渡ってパナマにとどまりお宝を探しまわったモーガン軍が手に入れた戦利品は8レアル銀貨12万枚相当とも75万枚相当ともいうがどちらにしても期待した程ではなく、腹いせに市街を徹底的に破壊した。やがてモーガン軍が撤収した後にパナマに戻ってきたスペイン人たちは町の修復を諦め、10キロ離れた地に新しい町を造り直すことにした。これが現在のパナマ市であり、モーガン軍に破壊された「旧パナマ」は遺跡化して観光の名所となっている。モーガンは部下たちに戦利品を山分けしたが、各種の支払いを済ませると1人あたり8レアル銀貨200枚にしかならず、モーガンが着服しているのではないかという噂が流れた。真相は定かでない。

 ポート・ロイヤルに帰港したモーガン軍は大歓迎を受けたが、実は彼等がパナマを占領する半年前の70年7月、ヨーロッパでイギリスとスペインの間に「マドリード条約」が締結されていた。お互いに攻撃を停止し、バッカニアに与えた私掠免許状を停止するという約束である。むろん電信などない時代でヨーロッパからカリブ海までニュースが届くのに時間がかかるためこの条約の発効には1年の猶予期間が設定されてはいたのだが、スペインはパナマ破壊に猛然と抗議、イギリス国王チャールズ2世もさすがにやり過ぎと感じたためモーガンとモディファド卿を本国に召喚することにした。しかしモディファド卿は免職のうえロンドン塔に幽閉とはなったが安楽な生活を保証され、ほとぼりがさめたところで裁判所長の職をいただいた。モーガンの方は「忠節、分別、勇気およびジャマイカ植民地における長い経験にふかい信頼をよせる」というチャールズ2世の言葉を賜り、ジャマイカ副総督の職とナイトの位を贈られた。彼にバッカニア……戦時にはイギリスの強力な味方となるが平時には単なる犯罪者……の取り締まりをさせるためである。つまり「毒をもって毒を制する」という訳である。モーガンの方からチャールズ2世とその側近たちに豪華なプレゼントをしていたともいう。

 その後のモーガンは昔の同業者の取り締まりにあたったが、裏では私掠免許状を発行してその礼金を貰っていたともいい、そのせいかどうか82年には副総督の任を解かれた。亡くなったのは88年8月25日、享年53歳であった。晩年はジャマイカの大農園を経営していたが、死の直前には酒浸りで太鼓腹、顔は土気色になっていたという。ポート・ロイヤルは1692年6月7日に起こった地震で津波に飲まれ、そのまま復興しなかった。

                                                                                                           おわり


   参考文献

『略奪の海カリブ もうひとつのラテン・アメリカ史』 増田義郎著 岩波新書 1989年
『カリブ海の海賊たち』 クリントン・V・ブラック著 増田義郎著 新潮選書 1990年
『ラテンアメリカ文明の興亡』 高橋均 網野徹哉著 中央公論社世界の歴史18 1997年
『ラテン・アメリカ史1』 増田義郎 山田睦男編 山川出版社新版世界各国史25 1999年
『海賊の歴史』 フィリップ・ジャカン著 増田義郎監修 後藤淳一 及川美枝訳 創元社 2003年
『パナマを知るための55章』 国本伊代 小林志郎 小澤卓也著 明石書店 2004年
『海賊の掟』 山田吉彦著 新潮新書 2006年


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