コンゴ独立
本稿は「ベルギー領コンゴ」の続編です。
1960年6月30日、コンゴは正式に独立した。この日ベルギーから国王ボードワンがやってきてオープンカーでコンゴ首都レオポルドヴィルをめぐったが、群衆の中から飛び出してきた1人の黒人がボードワンの腰からサーベルを抜き取って逃走するという事件が起こった。午前11時、独立式典が始まり、まずボードワンが挨拶を行った。その内容の大半はコンゴ植民地の父たるレオポルド2世への讃辞であり、ベルギーが開発した素晴らしいコンゴの国を黒人たちが立派に引き継いでくれることを願うというものであった。続いて登壇したカサブブは前もって用意した原稿を読み上げただけであった(ただし原稿にあるボードワンへの讃辞の後半を省略した)が、その次に立ったルムンバはボードワンを指差してベルギーの植民地支配を強く糾弾する演説を行い、「我々は、自由の下で仕事をすることを許された場合、黒人にできる成果というものを、全世界に示すだろう。そして我々は、コンゴを全アフリカの輝かしい実例にするだろう」で締めくくった。聴衆の黒人たちはルムンバに拍手喝采を贈り、ボードワンは顔面蒼白となった。ボードワンは優しい人柄で、コンゴの独立にも理解を示しており、その挨拶は本人ではなく私設顧問が書いた文書を読み上げただけであった。(ルムンバはこの日の午後にもう一度、今度はもっと穏健な演説を行うということでボードワンとの一応の和解をした)
独立コンゴの総人口は1400万と意外なほど少ない(註1)が、その内部は大小225といわれる多くの部族にわかれ、総面積は日本の約6倍という大きな国である。国土の自然風景は地方によって全く異なり、共通点といえばほぼ全土が世界第5位の大河コンゴ河(全長4200キロ)とその支流によって潤されているという一点のみである。行政区分はレオポルドヴィル州・赤道州・東部州・カサイ州・キブ州・カタンガ州の6州からなり、産業は、コンゴで唯一海(大西洋)に面したレオポルドヴィル州は商業の中心地、赤道州と東部州とキブ州はゴム・ヤシ油・綿花・コーヒーといった商品作物を産し(特にヤシ油は世界の総産出量の4分の1を占める)、カサイ州とカタンガ州は石炭・鉄・銅・工業用ダイヤモンド・マグネシウム・タングステン・コバルト・ウラン等の鉱物資源を産出する(ただし、カサイもカタンガも鉱物があるのはそれぞれの南部だけである)。木材資源も巨大なものがあり、コンゴ河を活かした大規模な水力発電を見込むことも出来、潜在的には豊かな国である。
註1 同時期のナイジェリア(同年10月にイギリスから独立)はコンゴの3分の1の面積なのに3倍の人口を持っていた。
さて、コンゴの独立があまりにもあっさり決まったために、様々な分野における準備がまるで追いつかなかったことは既に述べたとおりである。上の段落でコンゴのことを「潜在的には豊かな国」と書いたが、農業も鉱業も白人に支配されたままであったし、実はベルギー統治の最後の数年間は教育や公共事業の経費がかさんで(さらに59年の暴動の影響もあって)破産寸前の状態となっていた。そして、特に重大な問題を抱えていたのが軍隊であった。植民地時代の公安軍は、ベルギー人の士官約1100人が黒人の下士官・兵士(註2)約2万4000人を指揮するという形をとっていた(軍医と従軍牧師も全員ベルギー人)が、独立後の新生コンゴ軍は、この公安軍を組織も名称もそのまま引き継ぎ、最高司令官以下の士官はベルギー人に独占されていた。おまけに黒人兵士は出身地以外の任地に勤務することを義務づけられ(註3)、 性質も(自由国時代と変わりなく)悪質である。ルムンバが経験と教育の乏しい黒人をいきなり士官に抜擢するのは非現実的と考えた(註4)からこのような形になってしまった(そのことで黒人兵士にかなり恨まれた)のだが、とりあえずベルギーの士官学校に留学させた黒人のうちの最初の卒業生(2人だけ)が64年に出る予定であった。それから、ベルギーが独立コンゴにおいても2個大隊を駐留させる権利を有しており、これは「ベルギー首都軍」と呼称された。
註2 公安軍の黒人兵士は基本的に志願制で、現役7年、予備役13年であった。黒人でも優秀な者は下士官になれたが士官は本当に1人もおらず、最高位で准尉が数名いただけであった。
註3 その方が駐屯地の反政府運動を躊躇いなく鎮圧出来る。
註4 指揮官が国家全体のことより自分の部族の利害を優先するのではないかという危惧が多分にあった。
ちなみにルムンバは国防相を兼任していたが、これは地方部族が中央政府に反抗してくる可能性に対処するためであった(現代アフリカ・クーデター全史)。特に、コナカ党首チョンベの地元カタンガ州とMNCカロンジ派の地元カサイ州南部の動向が心配であった。この3者の間の駆け引きが独立前から始まっていたのは既に述べた通りである。
とにかく、ベルギーからの独立があまりにも早く実現してしまったため、政体についてじっくりと話し合う時間も、ベルギー人にかわる黒人の官僚や士官を養成する時間も全く足りなかったのである。それから、独立前にいい加減な公約として掲げられていた「独立すれば給料が倍になる」とか「白人の女が買える」とかが(あたりまえの話だが)実際には出来ないことが時間の経過とともに大衆にも理解されてきた。その一方で、コンゴの新しい支配階級となった政府閣僚たちは新品のキャデラックを乗り回していた。すぐに各地でストや暴動が発生し、公安軍が鎮圧に出動して死者が出た。その公安軍の兵士たちは相も変わらずベルギー人の士官に命令され、自分たちの10倍以上の給料を貰う国会議員の警護を担当させられた。
致命的な事態は独立1週間も経たない7月5日にやってきた。黒人兵士の不満が爆発したのである。公安軍最高司令官ジャンセン将軍が命令拒否をした黒人下士官を降等し、黒板に「独立前=独立後」と書いたことが直接の契機であった。この無神経極まりない態度に激怒した黒人兵士たちは抗議集会を開催し、酒保を略奪する等の暴動を開始した。ジャンセンはベルギー首都軍を動かして暴動を鎮圧しようとしたが、ルムンバに拒否された(彼が同意しなければ動かせないことになっていた)。
6日、略奪品の酒に酔った兵士たちは在留白人に危害を加えてまわり、強姦事件も発生した。7日には白人の海外脱出が始まった。ルムンバはベルギー首都軍に頼らずに事態を沈静化するため、とりあえずジャンセン将軍を解任した。8日、ルムンバは黒人のビクトル・ルンドラ准尉を一挙に少将に昇進させて公安軍最高司令官に、同じくジョセフ・モブツ曹長を大佐に昇進させて参謀総長に任命した。9日には地方の部隊でも黒人が指揮官に任命された(高級指揮官は政府が任命。中級以下は兵士の選挙で就任)。とはいっても彼等黒人指揮官の手腕は未知数であり、多くのベルギー人が軍事顧問として留まることとなった。それから、全ての黒人兵士が昇進させられたため、コンゴ公安軍はその全員が士官か下士官で兵卒が1人もいないという世にも稀な軍隊となった。
だが、暴動はなかなか終息しなかった。公安軍の無線を通じて「ベルギー軍が介入して黒人兵士を武装解除する」という噂が首都レオポルドヴィルから全国各地へと広がり、これがますます黒人たちを激昂させた。ホテル「メトロポレ」では多数の白人女性が監禁・強姦された。白人側も武器をとり、白人と黒人との銃撃戦まで発生した。先にちらりと触れたことだが公安軍の黒人たちは植民地時代に最も未開な部族から集められて出身地以外の地域に配属されていたことから一度暴れだすと手がつけられない状態となった(現代アフリカ・クーデター全史)。とはいっても、白人側が落ち着いた対応(公安軍部隊の指揮権を自ら進んで黒人に譲渡する等)を見せた地域では被害は発生しなかった(コンゴ独立史)し、新任の参謀総長モブツ大佐等の黒人有力者が弁論で暴徒から白人を救い出した例もあった。強姦云々は白人側が誇張して言い触らした部分もあると考えられ、正確な被害の実態についてはいまいちはっきりしない。
10日、ベルギー政府が白人の保護を目的としてルムンバの許可のないままベルギー首都軍を動かし、いくつかの軍事拠点と空港を占領した。ルムンバはベルギーの一方的措置に激怒したが、ベルギー本国の世論は9日の時点で(ルムンバの許可があろうがなかろうが)武力介入すべしとの声が高まっていた。保守系の『自由ベルギー』紙は「我々が認めたのはコンゴの独立であって、他のいかなる独立でもないのた。つまり無政府の独立でもなければ、無秩序の独立でもないのだ」と論評した(コンゴ独立史)。コンゴ側ではカタンガ州首相兼コナカ党首チョンベが繰り返しベルギーの武力介入を要請していた(コンゴ側の要人でベルギーの介入を望んだのは彼だけ)。ともあれ、今回の暴動において白人に加えられた危害の実情を知ったルムンバは2ヶ月間だけベルギー軍の行動を認めることにした。そもそも暴徒の怒りの矛先はルムンバにも向いており、暴徒に殺されかけた彼をベルギー軍が救出するという一幕があった。
ところがそこでチョンベが旋風を巻き起こした。11日の夕刻、カタンガ州の分離独立を宣言したのである。かねてからカタンガ独立を策謀していたチョンベにとって、今回の公安軍の暴動は願ってもない好機であった。「現在のコンゴ首相ルムンバは実は共産主義者であって(嘘とされる)、現在の軍の暴動はコンゴからヨーロッパ勢力を追い出すための彼の陰謀(これも嘘とされる)である。カタンガ州はかような中央政府による強権に対抗するのだ」。鉱物資源の豊かなカタンガはコンゴから分離しても充分自活出来る。とりあえずは暴動の責任をルムンバのコンゴ中央政府(註5)に押し付け、カタンガ在住の白人を暴動から守ることによってベルギー・欧米諸国を味方につけるのだ。
註5 本稿では以降、ルムンバの政府のことを「コンゴ中央政府」と表記する。
公安軍の暴動はカタンガでも起こっていたが去る10日にベルギー首都軍の一隊が到着、チョンベはこれを味方につけるとともに、自分に好意的な部族から新規に兵士を募り(註6)、その兵力で早急に州内の暴動を鎮圧することに成功した(他の州ではまだ暴動が続く)。既に述べた通り公安軍ではベルギー人から黒人への指揮権委譲が進められていたが、チョンベの支配するカタンガだけはこの動きを無視し、ベルギー人士官をそのまま留任させるという形で彼等を味方に付けた。こうやって編成された、白人が黒人を指揮するカタンガの軍隊を「カタンガ憲兵隊」と呼ぶ。ルムンバとカサブブ大統領は独立をやめさせようと急遽飛行機でカタンガに飛んだが、飛行場に降りようとしたところでベルギー首都軍に妨げられて引き返した。
註6 既に説明したように公安軍の兵士は原則として出身地以外の地域に勤務しており、カタンガでも例外ではなかったのだが、チョンベはこれを総入れ替えしたのである(もとからいた兵士の8割以上は出身地に送還された)。その過程で戦闘が起こったが、ベルギー軍がチョンベを助けたので大した障害にはならなかった。ベルギー政府はコンゴにいる自国部隊に対し「ベルギー人の生命が脅かされている場合」においての実力行使を命じていたが、カタンガ州にいる部隊についてはそのような条件を付けずにチョンベを支援させていた(コンゴ独立史)。
カタンガ在住の白人(約3万5000人いた)はルムンバのコンゴ中央政府よりもチョンベのカタンガ政府の方が頼りになると考えだし、ベルギー本国もカタンガ独立支持へと傾いた。公安軍の暴動で白人女性が暴行されたりしたことがベルギー世論を怒らせており、それに迅速に対処したチョンベの人気が高まったのである。ベルギー政府はカタンガに対し、出来る限りの援助を与えると言って寄越した。実はチョンベによる暴動鎮圧については左翼系のベルギー社会党ですら賞賛しており、カタンガ州の経済は「ユニオン・ミニエール社」をはじめとする欧米各国資本の5大会社に支配されていてベルギー政府も大株主であった。が、正式の独立承認ともなると国際世論の反応が気になるので見送ることにした。他の欧米諸国では、右翼勢力が反共産主義の観点からカタンガに好意を示し、影でこっそり支援する国もあったという。まぁしかし結局、カタンガ独立を正式に承認する国はひとつも現れなかったし、カタンガ州内の白人はともかく黒人大衆がどの程度チョンベを支持していたかについては世論調査のようなものが存在しなくてよく分からない(カタンガ在住の白人の中には反チョンベ派もいたのだが、彼らはすべて追放された)。また、カタンガ州北部のバ・ルバ族を中心とする中小政党の連合体「バルバカ・カルテル」は明確に反チョンベの旗色を明らかにし、ここにおいてカタンガは南北に分裂することとなった。ベルギー本国にもカタンガ独立に抗議する人々がおり、彼らは、チョンベの行動には法的根拠がないうえにカタンガの(黒人大衆の)世論を正確に代弁しているのか否かも不明であり、コンゴ経済の大黒柱であるカタンガが分離独立したらコンゴはますますガタガタになると主張した。
ちなみにチョンベは古い王家の流れを組む大富豪の出身で、ベルギー本国の商業学校で学んだ(これはコンゴの普通の黒人ではありえなかった)ことがあり、中学校卒で郵便局員やセールスマンをつとめつつ政治活動に入ったルムンバや、師範学校中退のカサブブとは毛並みが違っていた。チョンベは「カタンガ憲兵隊」のベルギー人指揮官に全権を付与し、先に暴動を起こした者だけでなくカタンガ内部の反チョンベ派までをも取り締まらせた。そういうベルギー人の行動はチョンベだけでなくベルギー本国政府の指図によるものでもあったとされている(コンゴ独立史)。
ともあれカタンガ在住の白人はチョンベのおかげで一安心と日々の仕事に戻ったが、他の地方の暴動はなかなかおさまらず、白人居留民の本国への雪崩的な脱出が発生した。特にそれまで植民地行政を担当してきた役人の大半が逃げてしまったことから、ろくな教育も経験もない黒人しかいなくなった各官庁の仕事は麻痺状態に陥った。白人の多くは逃げるにあたって事務所や金庫の鍵や重要書類を持ち去っていた(コンゴ独立史)というのだから、もうどうしようもない。
ルムンバはチョンベとベルギーが背後で繋がっていると判断し(それは正しかった)、ベルギーに軍の撤退を求めるとともに、国際連合への支援要請を行なうことにした(註7)。この時の国連事務総長はダグ・ハマーショルド、安全保障理事会は米英仏ソ中(註8)の5常任理事国とアルゼンチン・セイロン・エクアドル・イタリア・ポーランド・チュニジアの6非常任理事国からなっていた。当時のアフリカではそれまでヨーロッパ諸国の植民地だった地域が続々と独立を手にしつつあり、事務総長ハマーショルドはそれらを援助するのが国連の重要な使命であると信じていた。
註7 最初はアメリカに援助を求めたが、一国での介入を問題ありとしたアメリカ政府に国連を頼れと言われたのである。
註8 ここでいう「中」とは、北京の中華人民共和国ではなく台湾の中華民国である。1971年に中華人民共和国に安保理事会の席を奪われる。
ハマーショルドは1905年うまれのスウェーデン人、第二次大戦前は財務官僚であったが大戦後は外交畑を歩み、53年に第2代の国連事務総長に就任した。56年に勃発した「スエズ戦争」に際して国連緊急軍(現在のPKO)を迅速に組織してその手腕を示し、58年にはレバノンとヨルダンで同種の問題に取り組んだ。
話を戻して7月14日、国連安保理はベルギー軍の撤退を要求し、国連事務総長に国連軍編成の権限を与えるとの決議を行った。この決議は最大限の賛成票を集めるため、ベルギーには単に軍の撤退を求めただけでその行動の善し悪しについては国連としては何も言わない(註9)という慎重なものであった(カタンガ問題についても全く触れていない)。とりあえず、特定の国を代表するものではない国連という第三者がベルギー軍を撤収させ、かわりに国連軍がコンゴの法と秩序を回復するということである。米ソ両超大国ともに国連の介入を後押ししたが、これは双方相手の突出を牽制する意図があったと思われる。
註9 もちろんベルギーは派兵は必要な措置であったと主張するし、それに共感する国も多かった。対してソ連はベルギーの行動は侵略だと言ってはばからなかった。ベルギーの立場を最も強固に支持したのはフランスだが、この国の思惑については追々述べていく。
コンゴでは12日、ベルギー軍が(意図は不明だが)マタジ港を攻撃して黒人兵士12人を殺したことから暴動がさらに激化し(11日頃には沈静化していたのだが、マタジの戦闘でぶりかえした)、黒人兵士たちは白人を見つけ次第屈辱を与えてまわった。こういう状況下で白人避難民に罵られたりしたコンゴ中央政府のルムンバとカサブブは怒りのあまりベルギーとの国交を断絶してしまい、それではなおさら平和的な解決は無理だとベルギー軍の行動が活発化した。ベルギーは約1万の兵員を動かし、15日から18日にかけて23ヶ所で軍事行動を行って鉄道や幹線道路の要所を制圧した。落下傘部隊を主力とするベルギー軍はむろん公安軍の暴徒よりはるかに強かったのだが、戦闘で殺された黒人兵士の数が誇張して各地に伝えられ、さらなる暴動を誘発するという悪循環に陥った。ベルギーの航空会社サベナ社が長距離機を総動員し、18日までに約2万5000人の白人をコンゴの外に運び出した。
国連においては、アフリカ諸国の軍隊のみで国連軍を編成すべきとの意見も吐かれ、とりあえずチュニジア・モロッコ・ギニア・ガーナ・エチオピアの5ヶ国が自発的に部隊の提供を申し出ていたが、ハマーショルドは国際性(国連の行動なのだからそうあるべき)を強調するために上記の5ヶ国以外にもヨーロッパやアジアの諸国にも部隊の派出を要請した。各国からコンゴへの部隊の輸送は米英ソの3大国が中心となって引き受けることとなった。国際世論は国連の動きに好意的であった。特にアフリカ諸国は今回の任務はベルギーの侵略行為から同胞を救うためのものなのだと解釈しはりきった(ただしハマーショルドはそのような言質は与えていない)。
ハマーショルドは国連軍及び技術援助計画を「コンゴ国連機構(ONUC)」と命名した。これはコンゴからのベルギー軍の撤去と治安の回復のみを目的としていてコンゴの内政に介入する権限はなく(コンゴ公安軍がまともに治安維持の任務を遂行出来るように技術援助をするという権限があるのみであった)、かといってコンゴ中央政府の指図は受けず、自衛以外には武力を行使しないものとする。それからカタンガの独立問題については、国連安保理の内部でも、それはあくまでコンゴの「内政問題」に含まれる事柄だから国連としては一切関与すべきでないという主張、ベルギーが関与している以上は既に「国際問題」になっている(から国連の力でカタンガ独立を阻止すべき)という主張があって対立した。独立云々は置いておいて、とりあえず国連決議にある「ベルギー軍の撤退」を完全に遂行するために国連軍をカタンガに入れなければならないという考えも成り立つ。
かくして24日までにまず7ヶ国8500人の部隊がコンゴに空輸され、全国各地への展開を開始するが、結局カタンガだけは後回しにされた。これについてハマーショルドは、コンゴの他の地域での地歩を固めた上でカタンガ進駐を行いたいと説明した。そんな訳で、各地のベルギー軍は国連の指導に従って順次撤収していったが、国連軍が入ってこないカタンガにいる部隊だけは動こうとしない。それと余談だが、こういう情況の副産物として国連軍兵士の相手をする売春婦が現れたが、コンゴにはそれまでこの職業は存在しなかったという(石坂欣二著『コンゴ』)。ともあれ独立直後の7月5日から続いていた公安軍の暴動は国連軍の進駐によってひとまず終息していった。
ところで国連が動いてくれる前の段階ではルムンバは、ソ連に期待するような言動をみせていた。これは恐らく社会主義国なら「ベルギー帝国主義打倒」とかの言葉で乗せやすいと考えたからであり、同時にアメリカやカナダにも支援を要請していたことから、彼自身は別に共産主義者とかではなかったことはほぼ明白とされている。現に国連が本格的に動いた時には彼は「もはやソ連の援助は必要としない」とすら述べたのだが、その後7月下旬にアメリカに出向いて帰ってきた時には完全に親ソ連になってしまっていた。というのは、ルムンバがアメリカの援助を求めても「そういう話は国連を通してくれ」と言われたことと、コンゴ駐在アメリカ大使が今回の暴動における白人女性暴行の話を本国に報告し、それを受けたアメリカ政府が、ベルギーはあくまで単に居留民保護のために軍隊を動かしただけだったとの声明してルムンバを怒らせたからである。そして、そこにソ連が協力を申し出てきたのであった。その一方でルムンバはアメリカからの帰りにアフリカ諸国をまわって支援を頼み、好意的な返事を貰うことに成功した。
話を戻して、後回しにしている国連軍のカタンガ進駐をどうするかの問題がハマーショルドを悩ませた。当のカタンガは既にチョンベ政府によって「法と秩序」が回復されており、そこに入り込むのは国連軍の任務を越権する行為であるとの意見が各方面から提出された。ベルギー首相曰く「カタンガでは秩序が支配し、経済生活は回復され、人命の安全保障は確保されている」。これはまことにもっともであり、そういう状態にある地域に国連が派兵するのは「コンゴの純然たる内政問題に干渉する大問題」であり、国連がやっていいことではない。対してルムンバとソ連とその衛星諸国は構わずカタンガに進駐すべしと唱えてハマーショルドをせっついた。この要求を退けた場合はソ連が(国連機関を通さずに)介入してくる危険もあり得ると考えたハマーショルドは8月2日、3日後には国連軍をカタンガに進駐させると発表した。ただしハマーショルドは別に反共産主義の観点からこのような態度を示した訳ではなく、ソ連の介入(その場合はアメリカも首を突っ込んでくる)によってアフリカに東西の冷戦構造が持ち込まれてしまうのを避けたかった、ということのようである(コンゴ独立史)。この頃は東西冷戦がかなり緊迫していて、特にこの年の5月1日にはソ連領内のミサイル配備状況を探っていたアメリカの偵察機「U2」が地対空ミサイルに撃墜されるという事件が発生しており、米ソ両国がアフリカの新興独立国を自分の陣営に引っぱり込むためにあの手この手を使ってくるのは当然ありうると考えられたのである。それからハマーショルドは、進駐するとはいっても軍事衝突と人命の喪失だけは絶対に回避する決意であったし、コンゴ中央政府が国連軍のカタンガ入りに閣僚を同行させたいと申し出てきたのも断った。
しかしこれ(国連軍の進駐宣言)に対してカタンガ側は徹底抗戦を叫び立て、カタンガ在住の白人たちもこれに同調したことからハマーショルドは進駐をいったん諦めざるをえなくなった。実際のところこの当時のカタンガ憲兵隊の戦力は国連軍の力をもってすれば排除するのは難しくなかったのだが、ハマーショルドはあくまで流血をさけ、外交だけで解決することにしたのである(コンゴ独立史)。カタンガ側は4日に独自の憲法を制定(作成したのはベルギー人の教授)し、7日にはチョンベを大統領に選出した。
12日、ハマーショルドはカタンガ首都エリザベートヴィルを訪問し、カタンガに残留するベルギー軍を国連軍と交代させるかわりに、国連機構としてはカタンガ問題に一切関知しないと約束した。カタンガでの国連の仕事はあくまでベルギー軍を撤退させることだけにある、と。チョンベはこの話に乗ることにした。ここでベルギー軍に撤収してもらうことにより、「カタンガはベルギーに依存している」という世論の印象を打ち消そうとしたのである(アフリカ傭兵作戦)。ハマーショルドの方はつまりこの措置を通じてカタンガの独立問題を「国連の関知し得ない純粋な内政問題」とみなす立場(これはルムンバにとっては都合が悪い。ルムンバは国連軍の力を用いてカタンガ独立を潰したがっている)を明確化したことになるが、このことの意味については、ハマーショルドは本心ではカタンガ独立に同情的だったという説や、ベルギー軍さえ出て行けば基本的に単なる内政問題にすぎなくなるのだと認識していたという説があり、はたまたアメリカの国連大使に「(国連軍が進駐すれば)チョンベの分離への努力は足場を失う可能性が高い」と語っていたともいう(「憲政上の危機」と国連)。そして15日、ようやく国連軍がカタンガ進駐を開始したが、その主力はスウェーデン部隊やモロッコ部隊で、親ルムンバ的な態度を見せていたガーナ部隊やギニア部隊は除外されていた。しかしハマーショルドは、コンゴ中央政府が独自に(国連を通さずに)カタンガに対して何らかの措置を講じたとしても、国連としてはそれを阻止することは出来ないとも言った。
ハマーショルドの真意が何であったにせよ、その措置はルムンバを満足させなかった。国連軍は黒人の部隊だけにしろとかコンゴ中央政府の人間を国連機でカタンガに乗り入れさせろとか訴える。これにソ連とアフリカ諸国が同調した。ハマーショルドは「国連機構はカタンガと中央政府間の政争に介入することは出来ないし、いかなる場合にも、中央政府の代理人として行動することは出来ない」としてルムンバの要求を退けた。ルムンバは「カタンガ進駐部隊にスウェーデン(ハマーショルドの母国)が入っているのはスウェーデンがベルギー王室に特別の親しみを持っている(註10)からだ」とか言い立て、ハマーショルドを相当に怒らせた(コンゴ独立史)。とはいっても、カタンガでは既に見たようにベルギー人の助力で憲法を制定し、さらに15日にはベルギー資本と関係するカタンガ国立銀行の設立が行われていたのだから、そういう「ベルギーの深入り(ベルギーによるコンゴへの内政干渉)」に国連が対処しようとしないのにルムンバが怒るのももっともであった(コンゴ独立史)。ともあれルムンバと国連の関係はかなり険悪なものになってきた。ルムンバ派の民衆が国連職員をリンチする事件も発生した。
註10 ベルギー国王ボードワンの母はスウェーデン王女。
それから、前述の通り麻痺しきったコンゴの行政機構を再建するために国連から顧問団が派遣されてきたが、現場にいた黒人の役人たちの大半は、国連顧問のせっかくの助言を聞いてもそれを理解して実行する能力を持たず、少数ながら残留していたベルギー人官吏と国連顧問の仲もいいものではなかった。その一方でMNCカロンジ派がカロンジの地元のカサイ州南部を独立させようと企んでいた。南カサイはコンゴではカタンガに次ぐ資源地帯である。南カサイの現地ではこの問題に部族対立が絡んで流血の惨事が頻発し、大規模な難民が発生するに至っていた。カタンガ問題の影に隠れて目立たなかったが、カロンジは8月6日をもって「南カサイ鉱山国」なる新国家の分離・独立を宣言した。この宣言は南カサイに根を張る「フォルミ・ミニエール社」という工業用ダイヤモンド会社と相談の上でのことであり、この会社はカタンガ経済を支配する「ユニオン・ミニエール社」と同系列であった(http://www.inosin.com/page008.html)。……ここまで露骨に敵意を示さないまでも、ルムンバがソ連に頼っていることを危惧するグループ、政治的混乱のせいで増大する一方の失業者に頭を抱える労働組合といった人々がルムンバを冷たい目で見るようになってきた。
同月15日、フランス領コンゴが完全独立を達成した。それまではフランスと軍事や外交を共有する「自治共和国」であったのだが、めでたく完全にフランスの支配から抜けたのである。とはいっても、2年前にさっさと完全独立していたギニアと違ってこの「コンゴ共和国(ブラザヴィル・コンゴ(註11)) 」の初代首相となったユールーは独立後もフランスと仲良くし(註12)、そしてルムンバを毛嫌いしていた。これは公安軍の暴動の時に国境のコンゴ河を渡って逃げてきた白人難民や、旧宗主国のフランスがコンゴ共和国に送ってきていた顧問団に色々と吹き込まれたからであるという(コンゴ独立史)。もちろんフランス御大(ド・ゴール大統領)の意図も働いていたのであろう。南カサイ鉱山国はユールーから資金援助を受け、ブラザヴィルではルムンバを「ソ連にコンゴを売り渡す売国奴」と決めつけ罵る冊子が印刷されていた(コンゴ独立史)。ルムンバという人はカリスマ性は充分に持っていて後々まで熱狂的な支持者が大勢いたのだが、混沌とした政局下で強硬な反対者が多かったことから相当に独裁的になってきていた(もともとそういう性格だったが)。彼は政治活動と報道を統制し、8月15日には反ルムンバの新聞『アフリカ時報』を閉鎖した。そして、国連軍がカタンガ問題について自分を助けてくれない(と、少なくともルムンバには思われた)以上、自分のコンゴ中央政府の兵力でカタンガ(と南カサイ)を潰す決心をした。コンゴの軍隊「公安軍」は8月23日をもって「コンゴ国軍」に改称された。最高司令官と参謀総長はこれまでどおりルンドラ少将とモブツ大佐である。人格は前者の方が優れていたが、指揮統率能力は後者の方が上であった。
註11 「ブラザヴィル」というのはこの国の首都。この時点では旧ベルギー領も旧フランス領も「コンゴ共和国」を名乗っていたため、混同を避けてこういう呼び方をした。以後、本稿でも旧フランス領を「ブラザヴィル・コンゴ」と表記する。
註12 58年にさっさと完全独立したギニアがフランスに突き放されたことはだいぶ前に註で述べた通りだが、60年になるとフランスとの協力関係を保ったままでの完全独立が可能となったのである。ところでアフリカにおけるフランスの植民地は「フランス領西アフリカ」と「フランス領赤道アフリカ」という2つの地域に大きく区分されており、前者はさらにセネガル、モーリタニア、スーダン(現マリ)、ギニア、コートジボアール、ニジェール、オートボルタ(現ブルキナファソ)、ダオメ(現ベナン)の8領域、後者はコンゴ、ガボン、チャド、ウバンギ・シャリ(現中央アフリカ)の4領域に小さく区分されていた。フランスはこれらを独立させるにあたり、「西アフリカ」「赤道アフリカ」という大きな単位ではなくニジェールとかガボンとかの領域ごとに独立させることにした(それらはこの年の1月〜11月にかけて続々と完全独立を達成)ため、人口も資源も少ないせいでフランスに依存しなければやっていけない小国がいっぱい出来るだけなのではないかという危惧が抱かれた。はたしてブラザヴィル・コンゴのユールー政権は親フランスを貫くことにしたのである。この1960年は英仏ベルギー等のアフリカの植民地が一挙に17も独立したことから「アフリカの年」と呼ばれたが、その内実はこういうものだったのである。
9月1日、カタンガにいたベルギーの「戦闘部隊」が全員撤収を完了した。そのあとには「戦闘部隊でないベルギー兵」が残り、チョンベの兵力「カタンガ憲兵隊」の指揮・監督を続けることとなった。国連軍は8月11日の時点で1万4500人に達し、コンゴ全土で治安維持のパトロールを行った。ルムンバはソ連からイリューシン輸送機29機とトラック100台、技術顧問200人を貰ってカタンガ・南カサイ攻略の準備を開始した。
「コンゴの『憲政上の危機』」に続く。