コンゴの「憲政上の危機」
本稿は「コンゴ独立」の続編です。
8月25日、ルムンバは首都にて「全アフリカ人会議」を主催してカタンガ・南カサイ攻撃に関するアフリカ諸国の支援を訴えた。しかし会場の外では反ルムンバ派がデモを行い、各国の代表たちはとにかく武力行使はやめて国連と協力すべきとルムンバをたしなめた。26日、ソ連製の輸送機とトラックに分乗したコンゴ国軍がまず南カサイ首都バクワンガに侵攻し、戦闘なしで現地の制圧に成功した、のだが、コンゴ国軍は兵站がなっていなかったために略奪で食い扶持を賄ってしまい、そのことから戦闘が発生した(カロンジはカタンガに逃走)。さらにこの時の戦闘で非戦闘員の虐殺が起こった(近くに国連軍の小部隊がいたのだが、白人居留民の警護を優先した)。この残虐行為と、ルムンバの背後にうごめくソ連の影はルムンバと西側諸国の関係を急速に悪化させ、ハマーショルドにも今後の事態の展開について「最悪の恐怖」を予期させてしまった(コンゴ独立史)。ハマーショルドはソ連に対し、輸送機・トラックをルムンバに提供したことを抗議したが、それはルムンバとソ連の協定によるものであるから国連に口出しされるいわれはないとの返事であった。アメリカの新聞は「ルムンバとルムンバ体制が、モスクワからの遠距離操作の指令で動かされ、ソ連の援助で支えられているのだ」とか書き立てた。このような事態になることは事前にルムンバから南カサイ作戦を聞いていたガーナ(親ルムンバ国)政府の関係者も予測していたのだが、しかしそれでもルムンバは南カサイ制圧に満足し、続いてカタンガ攻略の準備にとりかかった。そもそも、ルムンバがソ連をひっぱり込んだのがいけないというのなら、そのような先例(外国の介入を促す)を開いたチョンベもいけない筈である(コンゴ独立史)。
しかし、南カサイからカタンガに攻め込もうとしたコンゴ国軍は、モブツ参謀総長の命令によって作戦行動を停止してしまった。これは国連に停戦を要請されたモブツが勝手に決めたことであり、ルムンバもルンドラ最高司令官(忠実なルムンバ派)も相談されていなかった(http://www.inosin.com/page008.html#3−5)。
9月5日、これまで影の薄かったコンゴ大統領カサブブ(アバコ党)がルムンバを首相の地位から解任すると宣言した。カサブブは独立前はルムンバと対立していたが、建国が成った後は大統領という地位に満足したのかひたすらルムンバの政策を支持し続けており、カタンガの独立も断乎阻止すべきと考えていた。そんな彼からみても、ルムンバのやり方は強引すぎるようになってきていた。カサブブの与党であるアバコ党もとうに反ルムンバに染まっていた。ルムンバ派の大物で外相のボンボコもルムンバに愛想が尽きかけていた。首相を解任する方法は、議会に不信任の動議を出すか、大臣1名の副署のある条令を大統領が出すかの2通りがあり、議会はルムンバ派が強かったため、後者をボンボコの協力を得て実施したのであった。ちなみに後者の手続きは「基本法(コンゴ憲法)」第20・第22条によるものであり、これはコンゴが独立する時に、ベルギーの憲法に記されている「国王と首相」の関係を「大統領と首相」に書き換えてコピーしたものであった。ベルギー国王はこの権限(首相を解任する権利)を1911年以来使ったことがなかった(使わないのが慣例になっていた)ので、コンゴでも使われることはないだろうと、「基本法」が起草された時点ではみんな思っていたらしい(コンゴ独立史)。ともあれこうやって始まるルムンバとカサブブの対決がコンゴ現代史にいう「憲政上の危機」である。
ここで問題となるのが国連の動きである。実はハマーショルドは今回の政変が起こる前にアメリカの国連大使を相手に「ルムンバは打倒されねばならない」と明言しており、政変が起こるや即時「基本法(コンゴ憲法)22条により元首(大統領)は首相を解雇できるが、同じく19条により元首の地位は『不可侵』である」「現状況では国連は元首を唯一の明確な権威として扱わざるを得ない」と声明した(「憲政上の危機」と国連)。さらにコンゴ国連機構は「内乱を回避して法と秩序を維持する」との名目でコンゴ国内の飛行場を閉鎖、そのせいでルムンバは地方にいる味方を首都に呼び出せなくなった。首都レオポルドヴィルはアバコ党の縄張りだから、これは明白に国連がカサブブに便宜を図るために行った措置である。また、アメリカのアイゼンハワー政権が、このところのルムンバの言動から彼を狂信的な共産主義者であると信じるようになっており、8月中旬頃からCIAを用いてルムンバ排除の工作を開始していたという(フリーマントル著『CIA』)。同様の活動はベルギーの工作員も行っていた(「憲政上の危機」と国連)。このように国連・アメリカ・ベルギーの3者が反ルムンバで一致したという訳であるが、ハマーショルドとしてはルムンバさえ消えればカタンガ問題も解決し、ベルギーのような外国勢力の侵入も阻止出来ると考えていたらしい(「憲政上の危機」と国連)。ただし、ハマーショルドにしても国連機構の職員たちにしても、ルムンバを「ヒトラー」と呼び、あるいは「子供」と見なすだけで、相手に粘り強く自分の考えを説明するようなことはなかったという(「憲政上の危機」と国連)。
ともあれ今回の政変は、大統領が合法的な手続きによって首相を解任したのだからこれは別にクーデターではなく、いきなりルムンバを逮捕するということもなかった。カサブブ個人としてはルムンバを抹殺する気は全くなく、せいぜい頭を冷やさせるという程度の考えでいたという(コンゴ独立史)。しかしルムンバはすぐに反撃し、ラジオを通じて「私は議会の信任を得ているのだから大統領には私を解任する権利はない。そんな非合法な権利を主張するなら、むしろ私の方が大統領を解任する」との宣言を行ない、夜間外出禁止令等の強硬措置でカサブブに対抗しようとした。ルムンバに好き勝手なラジオ放送を流されると内乱を煽ることになりかねないと判断した国連機構は放送局を封鎖した。しかしカサブブの方はブラザヴィル・コンゴ政府のはからいによってそちらの放送局を使わせてもらえた。
ルムンバの強硬な態度をみたカサブブは法務省にルムンバ逮捕を命じたが実施に至らず、7日の議会はとりあえず両者の宣言を無効にすると決議した。翌8日の議会ではルムンバが壇上で2時間に渡って熱弁を振るい、カサブブの宣言のみを無効とする決議を勝ち取った。ただしこれらの決議は基本法によるならぱ法的拘束力を持つものではなかった(コンゴ独立史)。
カサブブは新しい首相としてジョセフ・イレオという小党派の人物(支持者が少ないので独裁者になりようがない)を任命した。イレオは非力ではあったが、カタンガのチョンベ派や南カサイのカロンジ派、そしてルムンバ派まで含めた統一政府をつくるのだとはりきった。この「イレオ政府」の閣僚名簿が発表されたのが11日である。ルムンバの方は12日になってやっと(カサブブ派の警察に)逮捕されたが味方の兵士たちの圧力ですぐに釈放され、その前後には空港と放送局の封鎖が解除となった。13日の議会は、「議員評議会」による監視をつけるという条件付きでルムンバに「全権」を付与した。この時の評決には不正疑惑がある(コンゴ独立史)のだが、新首相のイレオは自分の内閣に関する信任を議会に問おうとしなかった。つまり、信任投票をやったら負けると認識していたということである。議員の多くはルムンバに不満であったが、かといってカサブブの行動も越権であると見なしており、イレオが議会に現れないのにも腹を立てていた(コンゴ独立史)。そんな訳で議会は、ルムンバを首相に留任させたうえで彼にカサブブと和解してもらうのが望ましいという意向を示した。旧宗主国のベルギーの慣例に従うならば新しい内閣の法的権限は議会の信任がなくても閣僚名簿を発表した時点で発生するのだが、しかしその状態で立法を行ったところで全て議会に却下されるのは目に見えており、結局は別に新しい内閣を組織しなおさなければならなくなる。もしカサブブ・イレオが合法にこだわるなら、ルムンバには勝てないということである。
一般世論の動向は、首都とその周辺はカサブブ支持、東部州と北カサイはルムンバ支持といった具合であった。外国の反応は、ギニア・ガーナ・ソ連、それからアラブ連合(註1)が明確にルムンバ支持、それ以外はコメントを控えて様子をみることにした(ただしアメリカは公式にはコメントしなかったが影では既に触れたとおりルムンバ潰しに動いていた。さらに詳しくは後述)。国連の会議場にはカサブブとルムンバ双方の代表が現れ、どっちを議席につけるかの議論の末どちらもつけないことにした。
註1 エジプト・シリア・北イエメンが連合して組織した国。主唱者はエジプトのナセル大統領。彼は反米親ソ路線を掲げ、ルムンバ派に共感を示していた。
カロンジはイレオ政府に入閣を求められ、一応これを受けることにした。チョンベはコンゴ中央政府の内紛を静観しつつ、「戦闘部隊でないベルギー兵」からなる技術顧問の指導のもとに力を蓄えた。ベルギー人を教官とする士官学校を開設し、ベルギー本国の士官学校にも留学生を送り込む。ハマーショルドはベルギー政府にカタンガからの技術顧問引き上げを要求したが、それをやるとカタンガの治安が悪化するからと断られた。コンゴ国軍の方は、実はここ2ヶ月間給料未払いの状態となっており、金をくれるなら誰の味方にでもなるという空気であった。そこで国連は補助金を出してやることで軍に政治的中立を守らせることにした。カサブブとルムンバの闘いが始まった時、首都にいた軍関係者で最高位だったのは参謀総長のモブツ大佐であった(ルンドラ最高司令官は地方に出向いており、国連軍が空港を封鎖したため帰れなくなった)ため、カサブブとルムンバの双方からモブツに協力要請が行われた。板挟みになったモブツは苦慮のあまり辞任するとか言い出した。有能な指揮官であったモブツに辞められると国軍が支離滅裂になると危惧した国連はモブツの引き止めにかかり、上述の補助金の支払いもモブツの手柄になるように配慮されていたという(コンゴ独立史)。
そんなことをやっている間にも世情は混乱を極め、例えば首都レオポルドヴィルの就業可能人口13万のうち実際に働いているのは7万かそこら、失業者が悪事を犯しても(ベルギー人がいなくなって)裁判官も弁護士もいないものだから警官も始末に困って最初から逮捕しようとしないという有り様であったという(石坂欣二著『コンゴ』)。
14日、カサブブは大統領権限を用いて議会に1ヶ月の休会を命じた。しかし同日午後遅く、モブツ参謀総長が「現在の難局から国家を救済するため、12月31日まで国家元首(カサブブ)と2つの政府(ルムンバとイレオ)、そして議会を無効とする」旨の宣言を行なった。正真正銘のクーデターである。モブツの背後にはベルギーや国連、そしてアメリカ、フランスの影も噂された。フランスというのは……、モロッコ軍の将官でコンゴ国連軍の副司令官をつとめるケッタニ将軍という人物がモブツの顧問を兼任していたのだが、このケッタニというのがもともとフランス軍(モロッコの旧宗主国)に勤務していたことから、今回のクーデターに際してもフランスの意を受けて何事か策謀したのではないかとの疑惑が噂されたのである。それから重要なのがアメリカの動きであり、CIAを通じて相当の資金援助がなされていたという。
背後関係がなんであったにせよ、今回もかなり紳士的にことが運ばれ、ルムンバもカサブブもイレオも逮捕されたりはしなかった。モブツは旧公安軍の下士官出身だがその後ジャーナリストに転身、植民地時代の末期にベルギーに留学してルムンバの代理人をつとめていたが、実はベルギー警察に情報を提供しており、ルムンバの方もそのことに気付いていたが「生活のためなのだろう」と寛大に許していたという(http://www.inosin.com/page026.html)。コンゴ独立の時に大統領付きの武官に任命され、公安軍の暴動の時に参謀長となった。
さてクーデター後のモブツはまずソ連大使館を閉鎖してそちらとの関係を断ち切った。これで西側諸国の支持を確かなものとする。それからモブツは自分では政権の座につかず、まだ少数しかいない黒人の大学卒業者及び在学者を集めた「委員会内閣(カレッジ)」を組織してそちらに政治を委ねることにした。「軍事独裁はしないよ」ということである。……モブツとしては本当は、国軍の人間(つまり自分の手下)を使いたかったのだが、そのような連中には政治を動かせるような教養も経験もないので大学生に頼らざるをえなかったという(コンゴ独立史)。とはいっても、上述の通りモブツは元ジャーナリストでベルギー留学の経験があることから大学卒業者にも顔が広く、しかも大学卒業者の多くは独立後の政府が自分たちを使いこなせていないと感じていたから、モブツの誘いに喜んで応じたのであった(コンゴ独立史)。
ルムンバはこの時もまだ首相官邸に居座っており、モブツと委員会内閣を激しく糾弾した。カサブブは最初はモブツの行動を「無礼」と見なしていたが、やがて考えを変え、委員会内閣を正式に承認すると言い出した。カサブブが一番やりたいのは話し合いを通じてのカタンガ独立阻止だが、そのためにはここはモブツと結んでルムンバ(カタンガに対して強硬すぎる)を抑えるのが望ましいと判断したとされている(コンゴ独立史)。モブツとしてはカサブブの権限を完全に剥奪したつもりでいたため、カサブブにこのような動きをされるのは面白くなかったのだが、委員会内閣の連中がカサブブを受け入れてしまったため、仕方なく黙認することにした(コンゴ独立史)。カサブブのような器用な立ち回りをしなかったルムンバは逮捕こそされなかったものの官邸に軟禁状態になり、国連軍ガーナ部隊の警護によってどうにか身の安全を守るという有り様となった。ともあれ新しい政府の立ち上げを見届けたモブツは(少なくとも表向きは)いったん政界から降りて国軍の監督に全力をあげることにした。
国軍と言えば、南カサイにいた国軍部隊は度重なる政変で中央政府との連絡が途絶してしまっており、無政府状態に陥ったまま(指揮官が無能なので統率が効かない)好き勝手な殺戮を繰り広げていた。それから東部州にはルムンバ派の有力な国軍部隊がおり、これがカタンガ北部に攻め入っていた。その際に用いられた飛行機はソ連が提供していたらしい(コンゴ独立史)。しかしこれは「食事も給料も提供する」という国連の説得によって食い止められた。この国連の行動は、このままルムンバ派部隊がカタンガを制圧してしまった場合、彼らを通じてのソ連の影響力が強まってしまうのではないかという西側諸国の懸念が反映されたのであるという(http://www.inosin.com/page023.html)。国連は南カサイからも国軍を撤退させ、どうにかこうにか滅亡の危機から救われた南カサイ鉱山国はカタンガの援助で再建されることになった。
その頃国連の会議では、ソ連がルムンバを助けるため、ハマーショルド(反ルムンバ)を徹底的に糾弾していた。「世界監視の中で国連の信用に泥を塗った元凶」云々。しかしギニアやガーナを含む大方の国はハマーショルドの権威が失墜して国連軍が撤収するようなことになればコンゴ問題はさらに大規模な内乱へと発展すると考えたため、ソ連はかえって孤立化した。9月20日の国連総会では「事務総長を通じて国連から要求される場合を除いて」兵器あるいはその他の戦争資材、および軍事要員、およびコンゴにおける軍事目的のためのその他の援助を、直接、間接を問わず、提供することを差し控えるよう要求するとの決議が賛成多数で採択された(ソ連陣営・南アフリカ・フランスが棄権。反対票は無し)。つまり、ソ連に勝手なことはさせないということである。
さて委員会内閣は、まず、役人が素人ばっかりで混乱を極めている官庁の立て直しにかかったが、自分たちも経験が足りないことを思い知るだけだったので、大学で教えを受けたベルギー人の教授に頼んで顧問を送ってもらうことにした。これを受け、コンゴ独立直後の暴動で本国に逃げていたベルギー人たちが1週300人ほどのペースで戻ってきた。彼らベルギー人がこの後のコンゴ中央政府(委員会内閣)の政策決定に重要な役割を果たすことになる(コンゴ独立史)。ただ、ここで問題となったのはカタンガの存在であった。委員会内閣はあくまでカタンガ独立を認めるつもりはなく、ベルギー政府もカタンガから手を引くつもりはなかったので、コンゴ中央政府とベルギーの国交は断絶したままになってしまった。とはいってもベルギーが委員会内閣とカタンガの二股をかけたことには違いなく、前者側の国立銀行に5億ベルギー・フランを貸したりした。ベルギーの一般国民はこういう態度で行くことに不安を感じたが、かといって特に名案といったものも浮かばなかった。
そして数週間が過ぎるが、委員会内閣はやっぱり駄目だということがはっきりしてきた。特定の政党に立脚する政府ではないので支持基盤が脆弱であり、地方の自治体をまるで掌握出来ないのである。北カサイと東部州ではルムンバ派の勢力が強く、カタンガ・南カサイは独立を取り下げようとせず、それ以外の州でも地方政治家たちが権力闘争を繰り広げており、委員会内閣を守り立てていこうという意志があったのはモブツの地元の赤道州だけであった。首都のお膝元であるレオポルドヴィル州の州長官クレオファス・カミタツですら委員会内閣(とモブツ・カサブブ)に激しく反発した。カミタツは諸勢力の和解協力を望んでいたのだが、中央政府においてルムンバは放逐状態なのにカサブブは大きな顔をしているという不合理を知って激怒したのである。モブツはカミタツを逮捕、彼の主催する週刊誌を発禁処分にした。経済はいくらか上向いてきたがそれも僅かな変化にすぎず、行政機構ですら賃金の支払いが滞って暴動が発生した。
このままではコンゴがバラバラになってしまうのではないかと危惧したハマーショルドとコンゴ国連機構の職員たちは、やっぱりここはルムンバの豪腕が必要なのではないかと考え直すようになってきた。それに、そもそも国連軍がコンゴに介入したのはベルギーを追い払うためであったのに、委員会内閣がまたそのベルギーの影響下に置かれるようになってきたのは困った話であった(「憲政上の危機」と国連)。また、ルムンバは親ソ的な行動から西側諸国に嫌われていたが、モブツがソ連大使館を閉鎖した以上はルムンバを復権させても問題ないように思われた。だいたいコンゴという国は人口はそれほどでもないのに面積がやたら広くて交通・通信網が行き届かず、これを完全に安定して統治するには各地方の自治を大幅に認めるか強権で言うことをきかすかのどちらかしかないのである。
コンゴ国連機構の職員たちは、とりあえず議会を再開しなければならないと考えた。そうすれば合法的にルムンバを復帰させやすくなるし、コンゴにおける国連の任務が秩序の回復にある以上、議会の再開を促すこともまた国連本来の(国際社会から委託された)仕事といえたのである。同じ理由で、ルムンバと彼の政敵たちを仲直りさせるというのも国連の任務であり、そんな訳でルムンバは国連軍によって護衛され続けていたのであった。モブツは国連のこの態度に腹を立て、もしルムンバを引き渡さなければ警護の国連軍を攻撃するとまで言い立てた。ともあれ「議会の再開による事態の収拾」という案は国際社会から好意をもって迎えられ、特にこの頃からコンゴ問題に関心を示すようになってきたインド政府が強く同意した(というより、議会再開という案はもともとインドのネール首相が言い出したらしい)。
とはいっても、このようなルムンバ復権工作を知ったアメリカはハマーショルドに疑念を持つようになった(「憲政上の危機」と国連)し、委員会内閣に誘われてコンゴに戻ってきたベルギー人と国連職員の仲も険悪なものである。ハマーショルドがカタンガだけでなく委員会内閣を補佐するベルギー人をも排除する方針を示したものだから尚更であった。
「ルムンバ暗殺」に続く。