註1 祖先ジャン・ド・ゴールは百年戦争の「アジャンクールの戦い」の際、イングランドの長弓隊に対抗して機動戦術をとるべきことを進言したが容れられなかったという。また、ド・ゴールの曾祖父はルイ16世の法律顧問をつとめていてフランス革命の時に投獄されたことがあるともいう。
ド・ゴールは最初は伝道師を目指していたともいうが、それよりも自身の身長2mという立派な体格を活かし、軍人になろうと決意した。普仏戦争(註2)に従軍した父アンリ等、ド・ゴール家の祖先には軍人が多かった。19歳でサン・シールの陸軍士官学校に入学した彼は当時の士官学校の規定に従い、最初の1年間を二等兵として地方の聯隊に勤務することになる。彼が送られたのはアラスの歩兵第33聯隊、普通なら「上を向け!上を向け!」と気合いを入れられるところを、長身のド・ゴール二等兵のみは「下を向け!」と喝を入れられた。部隊勤務を経て学校に戻った彼の綽名は「雄鶏」「アスパラガス」そして「コネターブル(大将軍)」。さして目立った成績を残した訳ではなかったが、1912年に卒業後はやはり歩兵第33聯隊に少尉として配属され、ここで新任の聯隊長ペタン大佐の知遇を得た。彼ペタンこそはド・ゴールの人生における最高の師であり、また後には最大の敵となった人物である。
註2 1870〜71年のフランス・プロイセン(ドイツ)の戦争。フランスの敗北に終った。
ペタン大佐はどちらかと言えば遅咲きの人物で、士官学校入学時の成績は412人中403番、卒業時にやっと250番、任官後も大尉から少佐に昇進するのに10年かかっていた。謙遜で控えめ、地道に戦術研究に没頭していた彼は特に日露戦争に注目する。彼が陸軍大学校の教官をつとめていた頃に起こったこの戦争では、銃剣をきらめかして突撃する日本軍はロシア側旅順要塞の機関銃陣地の前に空しく屍の山を重ねるばかりであった。また、フランスがプロイセン軍に敗れた普仏戦争においても、プロイセン軍の勝因の多くはその優れた火砲にあった。これすなわち「砲火は殺戮する」のであり、これを避けるには、「機械に人間をぶつけてはなら」ず、「砲兵が征服し、歩兵が占領する」のでなければならない。具体的には火器の威力の優先、砲兵と歩兵の密接な連携、塹壕による歩兵の保護等であるが、1914年に勃発する第一次世界大戦は、まさにペタン理論の正当性を実証するものとなった。
「私は、幼年時代には、未知の冒険を怖れもせず思い描き、あらかじめ歓迎していたと言わねばならない。つまりフランスは途方もなく大きな試練にさらされること、生命の利益はいつの日か、フランスに何らかのおおいなる貢献をもたらすこと、そして私はその貢献のための機会に恵まれるだろうことを疑っていなかった」。第一次世界大戦勃発時を回想するド・ゴールの言葉(ド・ゴール大戦回顧録)である。大戦勃発の直後、最前線に投入された第33聯隊はディナンの戦いにおいて優勢なドイツ軍砲兵の前に大打撃を被り、小隊長だったド・ゴール中尉も負傷して病院に送られた。
ペタンの方は少将に昇進し、第33軍団の司令官となって引き続き活躍した(註1)。ド・ゴールは傷の回復後偵察将校として前線に復帰する。ドイツ語の達者だった彼は夜の闇に紛れてドイツ軍陣地に忍び寄り、敵兵の会話を盗み聞きして味方に報告した。その勲功により表彰を受け、階級も大尉に進む。しかしまた負傷して後方に送られた。そしてその次の、ド・ゴールにとって3度目の負傷となるのが、世界戦史に名高いヴェルダンの戦いである。
註1 後さらに中将、第2軍司令官に昇進。
1916年2月21日、ドイツ軍によるヴェルダン要塞への総攻撃が開始され、以後4ヵ月に渡る激戦で敵味方あわせて死傷者60万という甚大な犠牲を支払った。結局はフランス軍がドイツ軍の攻撃を退けたが、この戦いにおいてフランス軍を指揮したペタンは英雄に祭り上げられ、後にはフランスの全軍300万を統べる総司令官に就任する。
ド・ゴールはどうなったのか? 彼はヴェルダンの戦いが始まった10日ほど後に重傷を負い、気絶している間にドイツ軍の捕虜となってしまった。フランス軍では彼は戦死と報告され、ペタン将軍は勇敢なド・ゴール大尉を讃える個人感状まで作成した。「ド・ゴール大尉。中隊長をつとめ、その知性と徳性において知られた人物である。おそるべき砲撃によって大隊に夥しい損害を出し、中隊また八方から敵の攻撃をうけた状況下に、それが軍の光栄にかなう唯一の策と判断して兵をまとめ、突撃を敢行、白兵戦を展開した。混戦のうちに戦死。功績抜群……ペタン」。
捕虜生活は大戦の終結までつづいた。ド・ゴールは5回脱獄をはかって5回とも失敗し(註2)、最後はインゴルシュタット城の牢獄「天女の宿」にぶち込まれた。同じ牢にはロシア軍少尉で後に赤軍元帥となるトハチェフスキー(註3)がおり、沈みがちなド・ゴールを、「未来は我々のものだ、くよくよするな」と慰めたという。
註2 2mの長身のため、体を通すトンネルを掘るのが困難であり、外に出ても目立ちすぎてしまう。
註3 後の赤軍(ソ連軍)において陸軍の機械化に尽力するが、スターリンに粛清される。
大戦終結後、帰国したド・ゴールは軍事顧問の1人としてポーランドに赴いた。当時のポーランドは革命ロシアの「赤軍」の攻撃を受けており、首都ワルシャワに迫る赤軍の指揮官の1人は例のトハチェフスキーであった。思わぬ形の再会だが、ド・ゴールはこの戦いで殊勲をたて、ポーランド政府から勲章をもらったりした(註4)。
註4 ポーランド軍少佐の位ももらっている。
そこから帰国した後は母校サン・シール士官学校の軍事史担当の教官を短期間つとめ、さらに1922年には陸軍大学校に入学した。理論よりも直感を優先し、「勤勉にして敏鋭、博学、しかし友人との折り合いわるく、性格的に円満を欠く」という訳で、2年後に卒業した時の成績は優・良・可のうちの良であったが、それでもペタン元帥の庇護を受けてその副官に取り立てられた。もっとも、2mの長身で「まるで自分自身の彫像を運んでいくみたいに、ふんぞり返ってまっすぐに歩いていた(ド・ゴールの最期)」頑固で傲慢なド・ゴールは軍の上層部に敵が多く、大尉から少佐に昇進するのに10年もかかってしまった(註5)。
註5 ペタンも10年かかっているが。
この間、ペタンは一貫してド・ゴールの味方であった。28年、ド・ゴール少佐の指揮する大隊が駐屯する地域に伝染病が発生し、ド・ゴール指揮下の兵士の中に、出身地の代議士に働きかけて他地域に転属しようとする者があらわれた。その結果としてのある兵士の転属命令を受け取ったド・ゴールはこれを破棄してしまったが、この件に関して出頭を命じられたド・ゴールは喚問会場ではなくペタンのところに赴き、問題を揉み消してもらうという事件を起こしている。
その後ド・ゴールは中東に赴任し、32年には中佐に昇進してパリの軍事最高会議事務長に就任した。
さて、フランスの陸軍大学校では、そこで教鞭をとる者は大学校卒業時の成績が「優」でなければならないとの規定が存在した。「良」にすぎないド・ゴールにはもちろんその資格がなかったが、しかしペタン元帥の特別のはからいにより、「戦闘行為と指揮官」というタイトルの特別講演を持つことが出来た。これを著作の形にまとめたのが『剣の刃』である。
「戦争の本質は偶然性にある」。敵の作戦・戦力・意志は常に不明であり、自軍の戦力もその時々の状況によって常に変化する。したがって戦場の指揮官には理論以外に優れた本能を必要とする。本能とは「天賦の閃き」とか「眼力」とか言われるもので、実際、「偉大な軍人は常に本能の役割と価値を重視した」。そして「本能のもたらした資料に検討を加え、秩序を与え、首尾一貫した全体像を描き出す」のが知性である。この知性と本能とがあわさったものが「直観」であり、これこそが指揮官の絶対的な武器なのである。
次に、指揮官とは「威信」を備え持つ者でなければならない。「威信には神秘性が必要である。なぜならば、人は知りすぎたものをあまり尊敬しないからである。偉大なる人物も召し使いにとっては只の人である」。しかしそれは部下を無視するという意味ではなく、むしろ全ての部下に対し「自分は特別の愛護を受けている」と信じこまさなければならない。そして、特に優れた「上級指揮官は、怯む兵士の前にここぞという時に姿を現して絶大の心理的効果を及ぼした」「威信には、神秘と超俗の精神が必要である。家庭的交友や甘い友情を求めたり、経済的・社会的欲望に屈する者には指揮官たる資格はない」のである。
「直感」によって現下の情勢を見極め、威信を備えた「沈黙、そして命令」。これこそがド・ゴールの哲学であり、自己の運命をフランスのそれと同一視した彼の政治理念でもあった。その後のド・ゴールの行動はこの『剣の刃』の出版された1932年において予め決定されていたといっても過言ではない。この書は「ド・ゴール版『マイン・カンプ』(註1)」とも呼ばれ、つまり独裁の方法論を述べたのだとの評も存在するが、この後のド・ゴールが本当に独裁者として振る舞うか否かは著者(当サイト管理人)のこの文章を読んでから御判断ください。
註1 ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーが己の政治信条を述べた著作。日本語で『わが闘争』。
当時のフランス軍を支配していたのは、塹壕と要塞とに重点を置く思想である。第一次世界大戦のヴェルダン戦において、強固な地下要塞に籠るフランス軍はドイツ軍の攻撃をはねかえすことに成功したが、戦後の29年にはその経験にかんがみ、ドイツ・フランス国境に強力な要塞線「マジノ線」を建設することが決定された。ペタン元帥はこの構想の中心人物であって、自身の唱える砲火網・塹壕による守備を優先し、数百kmに渡るマジノ線はすべて地下に構築し、通路には電車を、居住区には冷暖房を取り付けていた。
しかし、ド・ゴールの考えはペタンのさらに先を行っていた。
前作『剣の刃』は抽象的な議論に終始していたが、ド・ゴールはそこで語った「直感」に基づく具体的な戦略論を新たな著作『職業軍の建設を!』にて世に問うたのである。
フランスの国土は、北・西は海が、南西はピレネー山脈が、南東はアルプス山脈が天然の防壁を成しているが、肝心の、普仏戦争・第一次世界大戦の宿敵ドイツとの国境を接する北東部にはそのようなものは存在しない。従ってこの地域に近代的な要塞「マジノ線」が建設された訳だが、「あらゆる戦いの試練のうちで最も苦しい試練は籠城戦にある」のであり、そのため籠城戦の勇士には「最高の栄誉」が与えられる。しかし、この頃のフランス軍における兵士の兵役期間はたったの1年であり、「わが防御計画を訓練未熟な新兵まかせの陣地防御にのみ立脚して立案するのは愚劣というものであろう」。また、いまや軍隊の運命の多くは機械の性能に負うところが大であり、優れた機械の操作にはこれまた熟練の腕が必要である。
もっと長い訓練期間を経たプロの「職業軍」が必要である。そしてここでは、敵の攻撃から身を守る装甲と、フランス北東部の平坦なドイツ国境地帯を縦横に駆け巡る機動力をあわせ持つ「戦車」が注目される。これからの戦場は「職業軍戦士が船で、飛行機で、戦車でその支配を確実なものとするであろう」。
「機甲師団」は500輛の戦車を持ち、それを補助する歩兵や砲兵も車輌にのって行動する。彼等によって迅速に「大幹線鉄道や大動脈路の要衝を断てば、我々は敵の戦争機関を窒息せしめうる」のである。
この本はソ連やドイツで同じように戦車に注目していた人々にはそれなりに注目されたが、肝心のフランスでは大した反響を呼ばなかった。後で実際に戦争が始まった時、フランスの政府や軍上層部も戦車に全く無関心だった訳ではなく(註1)、その数と性能において実はドイツ軍に優っていたが、それらはあくまで歩兵支援用として各部隊に分散されており、戦車を1ケ所に集中して使う術を心得たドイツ軍に敗れ去ってしまうのである。それは少し先の話としても、二次大戦前の多くの将軍たちは戦車の本当の価値にほとんど気付かず、ド・ゴールの庇護者ペタン元帥も、「戦車や航空機は戦争にかんする既知の条件を変えるものではない。フランスの安全の主要素は要塞によって守られる切れ目なしの戦線である」と唱えていた。
註1 フランス軍でも一次大戦中にエスティエンヌ将軍が戦車の重要性に注目していた。
ペタンはともかくとして、政治家たち、特に左派の議員たちはこの本の「職業軍」なるものが右翼の武器になるのではないかという実にもっともな危惧を抱いた(村松ド・ゴール伝)。という訳で軍中央の保守派や左派議員に嫌われたド・ゴールは当時就任していた軍事最高会議事務長というポストを逐われ、地方の聯隊長に左遷されてしまったのだった。
地方に飛ばされたとはいえ、その聯隊は数少ない戦車聯隊だったのでド・ゴールは大してショックを受けなかったが、しかし別のところから大問題が出来した。ペタン元帥との決別である。
ペタンは自身の名による著作を書きたがっていたが、文章力の無い元帥はド・ゴールに代筆させようと考え、1930年頃にはほぼ完成に漕ぎ着けていた。しかしこの本は何かの事情によってお蔵入りになってしまい(註1)、以後しばらく放棄されていたこの『フランスとその軍隊』を、38年になってド・ゴールが自分の名前で出版してしまったのである。
註1 ド・ゴールの代筆がバレたからとか、ド・ゴールの機械化構想を嫌ったからとか言われている。
もちろんド・ゴールはペタンの許可を得ていたが、ペタンは自分が求めた献辞「ペタン元帥に捧げる。元帥は1925年から27年にかけて、第2章から第5章までの準備にかんし色々な助言をたまわった。感謝と賛辞を込めて」というのが、「ペタン元帥に捧げる。元帥は本書の書かれることを望み、最初の5章の起草にあたっては、多くの指導をたまわった」に改ざんされたと難くせを付けてきた。実際のペタンの心持ちは今となっては不明だが、とにかくペタンは激怒し、ド・ゴールを「恩知らず」「冷たい男」と罵倒するようになってしまった。