ド・ゴール伝 第2部その1

              

   自由フランス   (目次に戻る)

 「うたがいもなく我々は、敵の空陸の機械化部隊によって圧倒された。我々を敗退させたのは敵の数であるよりも、ドイツ軍の戦車と飛行機と戦術なのである。我が将軍たちを狼狽させ、彼等を今日の状態に追い込んだのは、ドイツの戦車と飛行機と戦術となのだ」「しかし、最後の言葉はいわれたであろうか? 希望は消えなければならぬのか? 我々の敗北は最終的か? ノン……フランスはひとりぼっちではないから。フランスはひとりぼっちではない。背後には広大な海外領土がある。海を支配し、戦い続けているイギリス帝国と、手を握ることもできる」「この戦争は不幸な我が国土だけに限られてはいない。この戦争の結末は、フランスの戦いによってきめられたのではない。これはひとつの世界戦争である」「私、ド・ゴール将軍、今ロンドンにいる……」「どんなことがあっても、レジスタンス ( 抵抗 ) の焔は消えてはならないし、消えないであろう」。

 6月18日、ロンドンのBBC放送を通じての、ド・ゴールの有名な初放送(註1)である。続く22日の放送で「自由フランス」という亡命政権をうちたてることを宣言したド・ゴールは、ドイツと休戦協定を結んでしまったフランス本国のヴィシー政府による欠席裁判にかけられ、死刑を宣告された。28日の放送ではド・ゴールは「ヴィシー政府と名乗る機関は憲法に違反する存在であり、侵略者の手先でしかない。その奴隷のような機関は敵に利用され、フランスの名誉と利害を損なうだけの存在でしかない。フランス人は武器を持つ者も持たない者も、抵抗を継続する義務がある。フランスの国土を敵の支配に委ねることは祖国への犯罪である。立て、フランスの兵士たちよ ! 」との激烈な文句を吐いた。ヴィシー政府への宣戦布告である。ド・ゴールの父アンリと親しかった哲学者ベルグソンに「ド・ゴールは、フランスを救い得る唯一の人物である」と評されたのはこの頃のことであり、チャーチル英首相は後に、「ド・ゴールは、小さな飛行機でフランスの栄光を持ち込んだ」と回想した。

 註1 この放送を実際に聴いた人はごく少数であったという。録音もされていない。ところでこの時のド・ゴールの声明には「ファシズムへの抵抗」と言った政治的メッセージは含んでいないが、これは世界にいる様々な政治的立場のフランス人を超党派の立場で結集したかったからだと思われる。

 「フランスは戦闘には負けたが、戦争に負けた訳ではない!」威勢のよい台詞であるが、自由フランス旗揚げ当時のド・ゴールの力はゼロに等しかった。常識的に考えて、一介の准将にすぎないド・ゴールよりも元帥ペタンの方が頼りがいがあるように思われ、6月末で休戦を拒否する将軍はド・ゴール唯1人、高級文官は皆無、もっともアテにしていた海外植民地の総督たちはヴィシー政府に服従する有様、ド・ゴールとは別に北西アフリカの植民地に渡って戦うつもりだった一部の議員たちも、6月28日にモロッコに着いたところであっさりと現地の総督(註2)に逮捕されてしまった。ド・ゴールも最初は自由フランスの代表にはもっと位の高い将軍なり総督なりにお願いするつもりだったのに、そんな人が現れないので、6月28日にようやく自分が自由フランスの代表に就任したのであった(註3)

 註2 モロッコにいたフランス北アフリカ軍総司令官ノゲス将軍は最初は休戦した本国に激怒していたが、ドイツ軍が自分の管轄に入ってくる意志を持たないことを確認するとすぐにヴィシー支持に乗り換えてしまった。

 註3 予算もなかった。自由フランス本部の職員は文具を自弁しなければならず、ド・ゴール自身も周囲に「紙をくれないか」と頼むほどであったという。

 ドイツ軍に逐われてイギリスに逃げてきたフランス兵たち(約5万)も、この時点ではひたすら故郷に帰りたがっていた。イギリスのフランス人収容施設の待遇が極めて悪く、ド・ゴールはあちこちに散らばるフランス兵の施設をまわって彼等を説得しなければならなかった。29日、ド・ゴールがその手におさめたのは外人部隊2個大隊にアルプス山岳兵200人、戦車1個中隊の3分の2、砲兵・工兵・通信兵数隊、若干の参謀将校のみであった。もともとフランス人はイギリスに対して好印象をもっておらず(民族的なライバル意識が強い)、今回のフランス崩壊にあたってイギリス軍がさっさと逃げてしまった(イギリスの大陸派遣軍は「フランスが休戦するより先に」ダンケルク港から本国に撤退した)という悪印象が強かった。自由フランスがそのイギリスの保護にある(傀儡である)という世論はド・ゴールを苦しめることになる。

 その一方で、この時点ではイギリス政府は自由フランスに便宜をはかりつつヴィシーとも外交関係を保つという様子見の情勢であった。

   

   メル・エル・ケビル事件   (目次に戻る)

 そのうち、フランス本国を脱出してド・ゴールのもとに馳せ参じる者も現われた。サン島の漁師たち、ヴィシーの基地から飛行機を奪って飛んできたパイロットたち、ヴィシー側の植民地から近くのイギリス植民地へと船や飛行機を使って脱出してくる者は大戦中を通じてあとをたたなかった。そして最初の将官ミュズリエ海軍少将。ミュズリエはド・ゴールより階級が上であるが、自由フランス代表であるド・ゴールの下につくことを(この時点では)快諾したのであった。ド・ゴールとしても、1日か2日前に「自分が自由フランス代表」といったのを取り下げる気にはなれなかったのであろう(この辺りの事情はよくわからない。それからミュズリエはド・ゴールの放送を聞いたからではなく自分の意志だけでイギリスにやってきた)。

 こうしてミュズリエの指揮下に自由フランス海軍の建設が始まったが、そこにとんでもない悲報が舞い込んできた。

 7月3日、フランスの植民地アルジェリアのメル・エル・ケビル軍港にて、ドイツとの休戦協定に従っておとなしく停泊していたフランス艦隊を、なんとイギリス艦隊が攻撃し、フランス兵約1500人を殺してしまったのである。これはつまり、フランスの艦隊(註1)がドイツ軍に利用されるより前に先手をうって潰してしまおうとしたのであり、ド・ゴール本人にもその点は理解できた(ド・ゴール大戦回顧録)が、フランス兵の対英感情は当然極めて悪くなり、そのイギリスの庇護下にあると見られた自由フランス軍への志願者も激減、7月末の時点でわずか7000人しか集まらなかった(註2)。ヴィシー政府は事件の2日後をもって正式にイギリスと断交、反イギリス・反自由フランス感情を煽った。メル・エル・ケビルのフランス艦隊司令官だったダルラン提督はイギリス憎しに凝り固まり、以後熱心な対独協力派になった。

 註1 米日英に次ぐ世界第4位の強力な海軍とされていた。メル・エル・ケビルには戦艦4隻を主力とする艦隊がいた。この事件に際しては、まずイギリス側からフランス艦隊に対し、イギリスとともに戦うか、イギリスの港に来るか、自沈するか、戦闘を交えるか、といった選択肢が提示された。結局は返答期限が切れて英仏の戦闘になってしまったのである。

 註2 それ以外は本国に送還されてしまった。イギリスとしても、大勢のフランス兵に持たせる武器を用意出来なかったのである。

 ……ただし、ヴィシーとイギリスが全面的に戦闘状態に突入することもなかった。ヴィシー側は、イギリス軍がヴィシー植民地を本格的に攻略してきた場合にこれを防ぐ自信がなく、イギリス側は、あまりにヴィシーを刺激することで彼等を完全にドイツ側に追いやってしまうのを警戒していた(その後しだいに大胆になっていくのだが。とにかく状況次第)。イギリスの援助によってヴィシーと対決しようとするド・ゴールの立場はなかなかに難しいことろである。その一方でドイツも……ヴィシーの植民地と海軍がイギリス・自由フランスに合流することを恐れており(註3)、その扱いには非常に慎重であった。40年10月にヒトラーがスペインの独裁者フランコ将軍に参戦を要請した際、フランコが参戦の条件としてフランス領モロッコとアルジェリアの割譲を要求してきたが、ヒトラーとしては上の理由から断らざるを得なかった。フランコも事情を知っていて参戦回避の口実としたのだという(ある第二次世界大戦)。

 註3 ドイツは海軍が弱体なので、ヴィシーの海外植民地に睨みをきかせることが出来ない。

 敗戦で呆然自失のフランス人は、それでもドイツ軍に直接占領されないヴィシー政権の自由地区がいくらかあるだけでもマシであり、それはペタン元帥のおかげであると真面目に考えていた(ド・ゴール伝)。自由フランス軍は7月21日には「戦闘を再開した」との声明を発し、ジャンヌ・ダルクの旗印「ロレーヌ十字」(註4)を軍旗としたが、その旗のもとに集う者はごく少数であった。また、ド・ゴールの周囲には右翼的な思想を持つ人士が目立ったため、イギリスにいるフランス知識人の中にさえ自由フランスを敬遠する傾向があったという(ある第二次世界大戦)。レジスタンス(抵抗)はまだ散発的にしか始まっていなかった。(自由フランスはその後「戦うフランス」に名称変更するが、ややこしいので本稿では以後も「自由フランス」に統一する)

 註4 後で詳しく述べるが、チャーチルとド・ゴールはしっくりいかなかった。後にチャーチルは、「大戦中、私の重荷はロレーヌの十字架であった」と語った。

   

   海外植民地   (目次に戻る)

 8月7日、ド・ゴール=チャーチル協定が結ばれ、イギリスの援助による自由フランスの財政基盤が確立した。軍隊(註1)はすでにもっている(少ないけど)。ここで欲しいのは領土である。もちろんこの時点では祖国フランスから侵略軍を追い払うのは夢物語だが、それ以外にもアテがある。すなわち海外植民地である。当時のフランスはイギリスに次ぐ世界第2位の植民地帝国を誇り、面積にして1200万平方キロ、その地域の人口は約7000万、うち白人の入植者のみで150万人を数えていた。「ヒトラーはヨーロッパで第1回戦に勝つことが出来た。だが第2回戦が、それも世界的規模において始まろうとしている」「我々フランス人はアフリカで戦闘を続行せねばならない(ド・ゴール大戦回顧録)」

 註1 軍隊だけでなく、市民局・行政局・経済局・法務局・新聞情報局等を擁する「民間事業本部」も設置された。

 既に見たように、海外植民地の総督たちは皆ヴィシー政府を支持している(積極的か消極的かは別として)。ドイツとフランスの休戦協定はフランスの海外植民地を(ドイツ軍による)占領地帯から除外しており、ペタン元帥の掲げるスローガン「労働・家族・祖国」は、特に北アフリカの保守的な入植者たちに訴えかけるところが大であった(ド・ゴール大戦回顧録)。しかし、サハラの南、いわゆる黒色アフリカでは情勢はもっと有望であった。ここの植民者達は入植後まだ日が浅く(註2)、冒険精神に富んで、あっさり休戦した本国政府への憤激の色を隠せないでいた(前掲書)。特にカメルーンは第一次大戦前までドイツ領だったこともあり、現地の黒人たちも、かつてのドイツの「主人族」による支配よりも、フランス人の方をはるかに好ましいと考えていた(ド・ゴール伝)(註3)。たしかにドイツは「旧領」カメルーンの奪回を戦前から唱えており、ここだけはドイツ軍の直接占領下に置かれる可能性があったので、それは現地のフランス人入植者としても大問題であった。また、チャドでは現地の黒人知事フェリックス・エブエがナチス・ドイツの人種差別政策を嫌い、最も早い段階で自由フランス支持を表明していた(註4)。イギリスとしても、もしドイツ軍がカメルーンを再征服した場合、近くのイギリス領であるナイジェリアやガーナが脅かされる危険がある以上、ド・ゴールの作戦に異論を挟むつもりはなかった(ド・ゴール伝)。

 註2 北アフリカは100年前からフランス領だが、こちらはせいぜい50年。

 註3 黒人たちの一部にはドイツへの親近感が残っていたともいうのだが……。詳しいことは知らないが、フランスの植民地支配を正当化するために、それ以前のドイツによる支配を実際以上に悪く言っているのではないかと思わないでもない。

 註4 しかしその一方で、「かような植民地の意志決定は、全て現地住民の意志とは無関係に、数人の人物の意志によって決められた。しかも決定に携わったこれらの人々は、ヴィシー政府を支持していた人々と、政治的には大きな違いがあった訳ではない」とする資料『フランス植民地帝国の歴史』もある。

 こうして8月下旬、ド・ゴールは赤道アフリカ、チャド、カメルーンに配下の士官と僅かの兵力を送り込み、これらの地域を全く無血で自由フランスの支配下におさめることに成功した。本国のヴィシー政府ともドイツ軍とも無縁な、自由フランス初の領土である。ド・ゴールが次に狙うのはセネガル、ここはヴィシー政府を支持していた。

   

   ダカール上陸作戦   (目次に戻る)

 ド・ゴールはイギリス政府を説得し、セネガルの首都ダカールを攻略する「脅迫」作戦を立案した。ダカールはアフリカ大陸の西端に位置するという地理的好条件を持ち、そこに目を付けたドイツが潜水艦の基地をつくったりしたらイギリスの世界戦略に重大な妨げとなるであろう……という訳でこの作戦にはイギリス軍も参加する。上陸部隊は自由フランス軍、それを運ぶ船団と護衛の艦隊は自由フランス・イギリス混成だが主力はイギリス艦である。セネガルの首都ダカールは西アフリカにおけるフランス植民地の重要拠点として、戦艦「リシュリュー」以下の強力な艦隊、航空機、近代的な陣地、砲台を備えていたが、ここも先月イギリス軍に攻撃されたことからヴィシー支持に固まっており、その攻略には相当の困難が予想されていた。

 「脅迫」作戦は発動前からヴィシー側に漏えいしていた。今回の作戦に関してド・ゴールに相談された自由フランスの指揮官たちが……せいぜい師団長や閣僚の末席程度のポストしか経験したことのない人が指揮する寄せ集めの軍隊なので厳格に機密保持するといった細かいことに目が届かなかったのか……酒場で作戦を漏してしまい、スパイから早期に事態を把握したヴィシー側が本国艦隊から新型艦6隻を派遣する時間を与えてしまったのである。

 9月23日、ド・ゴール自ら指揮する自由フランス軍2700人を乗せた輸送船団、イギリス戦艦「バーラム」「レゾリューション」に空母「アークロイアル」を主力とする艦隊がダカール港の沖に到着した。しかし、まず現地が濃霧に包まれていたことから、「イギリス戦艦の勇姿で敵の志気を挫く」という当初の目論みが外れてしまった。降伏勧告のビラをまきにイギリス空母から飛び立った爆撃機も撃墜されてしまう。ダカールに駐在するヴィシーの西アフリカ総督ボワソンは自由フランスに合流する考えは全くもっていなかった。ついさっきフランス本国から送り込まれてきた艦隊の指揮官たちも反イギリス・反自由フランスを説いていた。

 ド・ゴールから送られた使節団は銃撃のおまけつきで追い返された。続いて濃霧の中イギリス艦とダカール側の砲台とが猛烈に叩きあい、続いてダカール側の潜水艦がイギリス戦艦を雷撃しようとしたところをイギリス駆逐艦に撃沈された。自由フランス所属の艦が上陸部隊の陸揚げをはかったが撃退された。

 翌24日も猛烈な砲戦が行われた。実はダカール港内にいるヴィシー戦艦「リシュリュー」はスクリューの故障で動くことが出来なかったのだが、対空砲火によってイギリス空母機の爆撃を退け、さらにイギリス戦艦に主砲弾を直撃させた。ダカール側も少なからぬ損害を出すが、濃霧と煙幕のおかげで決定的な敗北は免れた。

 25日も戦闘継続である。午前9時頃、ダカール側潜水艦「ベヴジェール」がイギリス戦艦「レゾリューション」に魚雷1本を命中させた。イギリス艦隊のカニンガム提督はもはや戦意を喪失、ド・ゴールもフランス人同士が長々と戦うのを嫌い、イギリス政府の方も長期戦闘を避けたがったことからやむなく撤収の運びとなった。ダカール攻略は失敗したのである。

   

   勢力拡大   (目次に戻る)

 それでも、自由フランスの志気は衰えなかった。自由フランスには更にカトルー大将が参加する。カトルーはインドシナ総督(現在のヴェトナム・ラオス・カンボジアを治める)をつとめていたが、この年6月に日本軍がインドシナ北部への進駐を申し入れ(註1)、軍事力の不足から受け入れを表明せざるを得なくなった。イギリスもアメリカも助けてくれなかったので仕方なかった(註2)のだが、本国のヴィシーはそれを理由にカトルーを解任してしまい、怒ったカトルーはヴィシーではなくロンドンにやって来て自由フランスに参加したのであった。

 註1 フランス本国がドイツと休戦したのを好機とみたのである。

 註2 9月に実際に進駐が実行された時点でようやく対日経済制裁に踏み切る。

 この時チャーチル英首相はこの将軍をド・ゴールに替えて自由フランス代表に擁立しようとした。先のダカール攻略に失敗したのはやはり(准将にすぎない)ド・ゴールに貫禄が足りないからだと考えてのことだった(村松ド・ゴール伝)のだが、カトルーはこれをきっぱりと断り、自分より3つも階級の低いド・ゴールを立ててやった。しかし、このことにかんする『ド・ゴール大戦回顧録』の記述はちょっと無茶苦茶である。「ド・ゴールは、これよりのち位階の階梯から抜けたのであり、そして階級制度で律せられぬ義務を賦与されているのだ」。軍人がそんなこと言っていいんかい!

 10月8日、ド・ゴールはすでに自由フランスの影響下にあるカメルーンのドワラ港に入って大歓迎を受け、そこからさらに奥地のチャド、次に中央コンゴのブラザヴィルを訪れた。10月27日、ド・ゴールは「ブラザヴィル声明」を行って、ヴィシー政府の正当性の否定、新たな「植民地防衛評議会」の創設を宣言した。この前後、ルクレール大佐率いる自由フランス軍の一隊がヴィシー側の植民地ガボンを攻略、約20人の戦死者を出した末にこれを占領した。この戦いに参加したのは外人部隊1個大隊に、白人と黒人の混成植民地1個大隊、数機の飛行機、数隻の艦艇であった。外人部隊は先のダカール攻略の際にもその姿を見せており、この頃の自由フランス軍の主力になっていたのは彼等外人兵(註3)や植民地で集めた黒人兵(註4)であった。ちょっと後の話だが、1943年の「フランス第1歩兵師団」は全世界から集まってきたフランス人以外に外人部隊に黒人やヴェトナム人まで含み、実に20の言語が話されていたという。それはともかく1940年10月末、中部アフリカはほぼ自由フランスの手に帰し、「ロレーヌ十字」の旗が翻ったのである。(註5)

 註3 名高いフランス外人部隊は1830年の創設。ほとんど白人であり、しかも伝統的にドイツ人が多数を占めている。

 註4 あくまでフランス植民地の原住民であり、他国からやってきた「外人兵」ではない。混合しないこと。

 註5 ちなみに、フランスと同じようにドイツに占領された国にオランダ・ベルギー等があるが、前者の植民地インドネシアやベルギー領コンゴは最初から対独戦の継続を維持していた。他に、ノルウェーは有力な商船隊を、ポーランドは小さな軍隊を、チェコスロヴァキアは東欧・中欧の情報網を持ってイギリスに逃れてきたが、ド・ゴールの自由フランスは全くのゼロから始めなければならなかった、と『ド・ゴール大戦回顧録』に述べられている。

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