「フランス軍はなくなったって話だ。連中はインドシナで全滅しちまった」。1954年11月1日、CRUAが武装蜂起を開始した。「アルジェリア戦争」の勃発である。ゲリラたちは自らの運動を「民族解放戦線(以降FLNと記す)」と称し、アルジェリア東部オーレス地方を拠点として各地の警察署等を襲撃した。武装は貧弱であり、独立を願うアルジェリア人の多くも武装闘争に非観的な観測が強かったが、FLN幹部ベルカセム・クリムは「全愛国勢力の団結は、誰かの号令や指導者間の話し合いで、忽然とつくりだされるものではなく、ただ日々の激しい闘争の積み重ねのなかでのみ、鍛えあげられていくのだ」と唱えた。「彼等は、合法的手段による改革に深い幻滅を抱いている全人民が、このような直接行動を望んでいることを、信じて疑わなかった(アルジェリア解放戦争)」
本国政府(マンデス・フランス内閣)の内相ミッテランは(それに対していくらかの制限をつけつつも)武力弾圧に乗り出し(註1)、フランス軍中でも精鋭を誇る第25落下傘師団を投入してきた。以後、この文章に何度も登場するであろう「落下傘部隊」の第一陣である。戦闘部隊の指揮官デュクルーノー大佐はディエン・ビエン・フーの戦いで活躍した男であり、インドシナで身につけた対ゲリラ戦術をFLNとの戦いにも活用した。FLNの幹部は次々に戦死し、最初は3000を数えた正規軍も350人程度にうち減らされた。
註1 この時ミッテランがFLN鎮圧を指示したことは、後々まで政敵が彼を攻撃する際の格好の材料となった。
12月、本国のマンデス・フランス首相はアルジェリア総督を交代し、ジャック・スーステルなる人物を送り込んできた。高名な民族学者である彼は1940年に逸早く自由フランスに馳せ参じ、大戦中には自由フランス秘密機関の長、戦後のド・ゴール臨時政府にも情報相として入閣していた。テロリストの跳梁する(フランス側の視点)アルジェリアの総督として、まさにうってつけの人事といえた。それに、首相マンデス・フランスや内相ミッテランはアルジェリア人の権利拡大に反対という訳では決してなく、むしろ進歩的な改革によってアルジェリア人の不満を和らげよう(そしてFLNへの支持を断ち切ろう)と考えていた。もちろんそのことは新任総督スーステルも理解している。
スーステルはアルジェリア人の悲惨な境遇を目の当たりにし、「貧困の最前線突破」を唱えて若干の農地改革、不平等な選挙制度の改正、イスラム(アルジェリア人の主なる宗教である)系学校でのアラブ語(アルジェリア人の言語)の公用語化等の諸改革を打ち出した。アルジェリア人の4分の3はアラブ語すら読み書き出来なかったのである。
FLNはしぶとく生き延びていた。いや、それどころかFLNは55年4月にインドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議に参加してアラブ諸国の支援を取り付け、フランス軍がFLNのテロ地点を記した「疱瘡地図」の染みを確実に増やしていった。FLNは最初の1年間でコロンや親フランス派アルジェリア人の農場約900を焼き払い、家畜3万頭以上を略奪していた。これに対し総督スーステルは「無差別報復行為は厳重に禁止する」としていたが、軍のシェリエール将軍はこれを無視し、自分の部下に対し「状況に応じて機関砲・ロケット・爆弾を使用する決定権を委譲する」、その際には「総督による文書指示は行わない」との指示を発していた。ここでフランス軍は「集団責任」なる論理を持ち出した。これはつまり「疑わしきは全て破壊する」で、FLNとの繋がりを疑われた村落を破壊し、殺されたフランス兵1人につき数倍の報復をした。収容所にブチ込まれたアルジェリア人はそのほとんどが全くの冤罪だった。アルジェリアにおけるフランス軍の兵力は55年2月には8万3400人に達していた(FLNの蜂起が始まる前は5万弱)。
「集団責任」はかえってFLNを硬化させた。本来FLNによるテロの標的は、フランスの軍人・憲兵、親フランス派アルジェリア人(とその財産)のみであり、女性や子供は除外する方針であったのが、8月には「フランスの集団責任政策に対して、我々は軍人たると民間人たるとを問わず、ヨーロッパ人に対する集団報復をもって答えなければならぬ」と宣言し、8月20日の「フィリップヴィルの虐殺」においてコロンの老若男女約100人を殺害したのである。
近くにいたフランス軍が直ちに反撃した。見境ない報復で殺されたアルジェリア人の数はフランス側の発表で2000人、FLNの発表で1万2000人にのぼったというが、現地に急行した総督スーステルはFLNに残殺されたコロンの屍体や負傷者ばかりに目がいった。それまでFLNに対して極力寛容な政策をとろうとしていたスーステルは「反徒が荒れ狂って過ぎた後に残されたのは、略奪されつくした家々や、切りさいなまれた無惨な遺体だけではなかった」「信頼も、希望も、平和も打ち砕かれた。血潮の中から芽生え収穫されたものは、暗い憎悪であった」としてFLNへの大弾圧に乗り出した。アルジェリアのフランス軍は16万にも達し、この年末には砂漠地帯のFLNの一司令部を占領、そこで捕獲した書類からFLNの全体構造把握に成功した。おかげで、それまで必ずしもコロンの支持を受けていた訳ではない(渡邊フランス現代史)スーステルの人気は一気にあがり、56年の本国内閣の交代で総督職を逐われることになった彼の周囲には数万のコロンが群がって、「行かないでくれ ! 」「スーステル、スーステル、我等とともに ! 」と絶叫したのであった。
「フィリップヴィルの虐殺」で、何の罪もない人々(コロンの民間人)に対し残虐な殺戮が行われ、 その報復で大勢のアルジェリア人が殺されたことについては、FLNの指導者たちの方でも満足していた訳ではなかった(アルジェリア独立革命史)が、「FLNにとってこの事件は、差し引きで得たものの方が多かった(前掲書)」フランス軍の無差別かつ容赦ない報復は多くのアルジェリア人をFLN支持へとかりたてたのである。特に北部コンスタンチン県地域でのFLN加入者は1400人にのぼり、アルジェリア戦争の全期間を通じて、テロ行為が最も頻発した地域となった。フランスの高名な作家アルベール・カミュによる「民間休戦」の試みも失敗した。「この時(フィリップヴィルの虐殺)までに行われていたことは、様々な意味で『戦争まがい』あるいは、一部のフランス人が言っていたように、『奇妙な革命』だった。それがいまや、行きつくところまで行かねばおさまらぬ、血塗られた戦いが訪れた(前掲書)」のである(註1)。
註1 もちろんFLNにもフランスとの妥協を模索する穏健派がいるが、彼等は次第に強硬派によって退けられていく。後述するベン・ベラも穏健派の1人なのだが、彼に至っては……。
また、これは植民地の独立戦争ではよく起る話なのだが、FLNはフランス軍だけでなく、フランス軍に味方するアルジェリア人や、他の対フランス抵抗組織とも争っていた。とはいえFLNに対抗する有力な組織だったMNAは55年夏にはFLNとの抗争に敗れ、態度を決めかねていたアルジェリア共産党も事実上FLNと連携するに至った(註2)。
註2 ただし共産党系の「赤い秘密部隊」はフランス軍により壊滅させられた。FLNは共産党を完全には信用せず、そのせいでソ連とも仲が悪かった。(アルジェリア独立革命史)
フランス軍に味方するアルジェリア人兵士にも動揺がはしっていた。FLNの巧妙な宣伝工作に影響され、フランス人の士官を殺して脱走するアルジェリア人兵士があとを絶たなかった。数十人の兵士が武器庫の兵器を奪い、その足でFLNに合流することもあった。インドシナ戦争でフランス軍に属していたアルジェリア人兵士が故郷に帰ってみると家族がFLN討伐に巻込まれて殺されてしまっており、怒りのあまりFLNに身を投じるという例も多かった。
56年初頭、FLNの正規軍は1万5000人にも達していた(註3)。「正規軍」とはつまり戦時法の適応を受けるのに相応しい武装集団のことであり、「FLNはフランスが宣伝しているような単なるテロリストや盗賊団ではない」ということを示すため、揃いの制服や階級章を着用し、階級ごとの給料まで定めていたのである。
註3 対するフランス軍は16万である。純粋に軍事的見地にたてば、フランス軍の方が常に圧倒的に優勢であった。
1956年2月6日、フランス本国の新首相ギ・モレがアルジェ市(アルジェリアの首都)を訪問すべくパリを出発した。彼はアルジェリア戦争の終結を目指し、アルジェリア人のための種々の改革を行い、FLNとの秘密交渉に入る計画を立てていた。「フィリップヴィルの虐殺」以降強硬派に転じたアルジェリア総督スーステルを解任した彼は、今回のアルジェ入りに際し新任のアルジェリア総督(註1)カトルー将軍を伴うつもりでいたのだが……。
註1 正確には「総督」ではなく、新しく設けた「アルジェ駐在相」。本稿ではそのまま「総督」と記述する。
79歳のカトルーは自由フランスの老将、「やせぎすで勲章の重みで腰が曲がり、威風堂々好みのコロンにとっては、困難な職務に就く人物として推薦するに相応しい年格好とは思えなかった(アルジェリア独立革命史)」。しかもカトルーはモロッコの独立に一役買っていたことから、コロンに「売国奴」「植民地精算者」と呼ばれて嫌われていた。おまけに彼は大戦中の一時期にもアルジェリア総督を勤めてアルジェリア人の権利拡大をはかった(註2)前科(?)がある。(今さら言うまでもないが)他の植民地と違って巨大な白人社会を抱えるアルジェリアでは、現地民(アルジェリア人)の独立運動に対するコロンの反発が激しく、それも(FLNの求める)完全独立を認めてしまえば自分たち白人が少数派に転落してしまうとあっては尚更のことであった。コロンにとっては、正面の敵FLNはもちろんのこと、そのFLNと妥協するかもしれない本国政府もまた打倒すべき敵であった。「彼等は北アフリカでは(原住民とくらべて)少数派で、孤立感を抱いていたが、それも二重の意味において、つまり現地住民に対してだけではなく、本国の同胞に対しても孤立していると感じていたからである。こうしてフランス人ではありたいものの、みずからの特殊性をはっきりと意識していたがゆえに、政治的、あるいは社会的問題の解決を模索するにあたっては、第3の力を構成した。それは数が少ない分、活力に溢れる勢力であった(フランス植民地帝国の歴史)」しかも……詳しくは後述するが……本国の政界は小党分立で混乱を極めており、たとえ少数であっても強固な意志を有する集団が自分たちの考えを押し通すのは容易なことであった。
註2 ほんの申し訳程度の改革案であったためにアルジェリア人には冷淡に迎えられた。
新総督(予定者)カトルーに対抗して、過激な右翼団体が続々と結成されたが、その中にはかつてのカトルーの同志、自由フランスの闘士だった連中もたくさんいた。彼等は、自分たち「植民地の息子たち(コロン)」が、大戦中フランスのためにいかに勇敢に戦ったかを声高に訴えた。
そしてアルジェに到着したギ・モレ首相は現地の情勢をかんがみてカトルーを伴ってはいなかったにもかかわらず、コロンの大規模な抗議デモに迎えられた。石やトマトや腐った卵を投げつけられ、「カトルーを海に叩き込め ! 」「モレ、退陣しろ ! 」ギ・モレにとってショックだったのは、デモ隊の中に政府与党たる社会党の支持者までいたことである(註3)。
註3 ギ・モレは社会党員。政権そのものは連立政権。
ギ・モレはカトルーの総督就任を取り消した。3日後ギ・モレは新総督(アルジェ駐在相)に社会党右派のロベール・ラコストを任命し、さらに現地のフランス軍を(FLNのテロからコロンを守るために)50万に増強すると約束した。政府はコロンに完敗した。新着のフランス軍は未熟な新兵が多く、経験豊かなFLNのゲリラ戦士の攻撃にあって壊滅する部隊も出た。フランス兵の無惨な死様を見たコロンも本国世論も(FLNに対して)激昂し、新総督ラコストもFLN弾圧をさらに強化した。その一方でラコストは悲惨な生活に喘ぐアルジェリア人の最低賃金引上げ(それまでは本国労働者の賃金の1割にすぎなかった)・アルジェリア人自作農の創設(アルジェリア人の失業者は200万人もいた)等も精力的に行った、いや、行おうとしたのだが、今やFLNの勢力が浸透しきったアルジェリア人たちは、このフランス総督による「おめぐみ」を受けようとはしなかった。もし受ければ、FLNから「裏切り者」として処刑されるのである……。
FLNは軍事面での活動だけでなく、「政治行政機構(OPA)」によって、アルジェリア人集落における税金徴集・教育・民事裁判・戸籍事務、果ては火事の鎮火や井戸掘りまで行っていた。「FLNは全アルジェリア人そのもの(アルジェリア解放戦争)」であり、FLNの見解によれば、アルジェリア人はアルジェリア人であるかぎりFLNの一員なのであった。
1956年7月26日、エジプトのナセル首相が突如スエズ運河の国有化を宣言した。スエズ運河に密接な利権を有する英仏は対エジプト軍事干渉の準備を始め、アラブの強大化を恐れるイスラエルも英仏に加担した。
10月16日、地中海のフランス艦が不審な船舶「アトス」号を臨検した。「アトス」には小銃2300挺・軽機関銃74挺・迫撃砲72門その他の武器弾薬が満載されており、これはエジプトからFLNへの最初の大規模武器供与であった。この武器援助を要請していたFLNの幹部ベン・ベラは、しかしその一方でフランスとの和平交渉も併行して進めており、この時は問題の武器弾薬の受け取り場所モロッコへ向かう途中だった。
アルジェリア総督ラコストの主席軍事顧問デュクールノー大佐がベン・ベラの動きを嗅ぎ付けた。54年に一番最初にFLNと戦った落下傘部隊の指揮官であり、軍内部の強硬派(和平など手ぬるい、FLNの殲滅あるのみだ、と考える人々)であるデュクールノー大佐はベン・ベラを逮捕することによって和平交渉を潰そうと考えた(らしい。どの程度まで彼個人の発案なのか、その詳細は謎である)。
ベン・ベラはモロッコからさらにチュニジアに向かい、FLNとチュニジア・モロッコ両国政府による会議に出席する予定だった。ところがベン・ベラを乗せたモロッコ航空機はフランス側の命令でアルジェ空港に強制着陸させられ、ベン・ベラ等5人のFLN幹部はそのままフランス官憲に逮捕されてしまった。フランスとの和平交渉を考えていたベン・ベラの逮捕により、フランス・FLN間の細い糸は完全に断ち切れた。この「ベン・ベラ事件」を演出したデュクールノー大佐は、本国政府にも総督ラコストにも何の相談もしていなかった(らしい。特にラコストの関与は謎である)。
この事件におけるフランス(デュクルーノー大佐)の行動は明らかな国際法違反である。国際世論の対フランス感情が悪化し、自国の飛行機を強制着陸させられたモロッコ国王は激怒、フランス政府の閣僚の中にも抗議の辞職者が出た。モロッコもチュニジアもフランスとFLNの和平を仲介する意志があった(アルジェリア独立革命史)のにそれもおじゃん。FLNの大幹部逮捕にアルジェリアのコロンたちは大喜びしたが、この作戦に関して何も知らなかった本国のギ・モレ首相は怒り狂った。と、いっても、すでに国法で訴追されているベン・ベラを今さら釈放することも出来ず、ベン・ベラという対仏和平派を「失った」FLNの強硬派を勢いづかせるだけであった(前掲書)。
ところが、世界の耳目はこの直後に起った大事件へと吸い寄せられ、ベン・ベラ事件は脇に追いやられてしまった。10月29日、イスラエル軍がエジプト領に侵入し、いわゆる「スエズ戦争」が始まったのである。11月1日、イギリス軍機がエジプトの4つの基地を爆撃し、フランスも派兵を決定した。フランス兵への布告「必要とあらば諸君はエジプトにおける父祖の偉業(ナポレオンのエジプト遠征)を再現することになろう」。英仏に停戦を勧告する国連決議も無視し、5日には英仏合同の落下傘部隊がスエズを占領した。特にアルジェリアでのFLNとの死闘で鍛えられたフランス落下傘兵の前に、エジプト軍はろくな抵抗も出来なかった。エジプトからFLNへの武器供与等をかんがみて、フランスは、エジプトこそがFLNの原動力であり、エジプトを倒せばFLNはすぐ続いて崩壊すると信じていた(註1)。
註1 『アルジェリア独立革命史』その他による。もちろんそれだけのための「スエズ戦争」ではないが。
国際世論は英仏にとって最悪であった。米ソ両超大国までそろって英仏の軍事行動を批判した。アメリカはアラブ世界への自国の影響力低下を懸念し(註2)、ソ連は同時期に起ったハンガリー動乱への介入(註3)から世界の目をそらせるためであったといい(渡邊フランス現代史)、特にソ連は英仏に対して強硬で、核ミサイル使用の脅しまでかけていたという。結局英仏軍は停戦した。先に停戦に応じたイギリスに対するフランス軍の怒りは大きく、後の英仏対立の伏線となった。アルジェリア戦線から転用されていたフランスの派遣軍は、戦闘では勝っていた(註4)のに停戦に応じた本国政府への不信感を隠せなかった。そして、英仏軍が棄てていった兵器はその多くがFLNの手へと渡っていったのである(アルジェリア独立革命史)。また、この戦争やベン・ベラ事件はフランスとアラブ諸国の関係全般を悪化させ、さらにFLN支持へと押しやる要因となってしまった(アルジェリア解放戦争)。
註2 それに大統領選挙が近付いており、再選を目指す現職のアイゼンハワーとしては弱者の味方がしたかった。スエズ戦争開始前にイスラエルの打診を受けたアメリカ政府は「結構だ。しかし年末(大統領選挙)までに始めてもらっては困る」と答えたのにそれより先にことを起こしたのがアメリカを刺激したのだという。
註3 ハンガリーの民主化運動にソ連軍が介入、武力で粉砕した事件。
註4 戦死者はフランス軍が10人、イギリス軍が20人、イスラエル軍が約200人、エジプト軍が約3000人であった。