5月9日、3人のフランス軍兵士がFLNに処刑された。フランス軍は猛り狂った。アルジェリア派遣軍総司令官サランがフランス本国の参謀総長エリー将軍にあて重大な電報をうつ。「現下の危機は、諸政党がアルジェリア問題に関し深刻な分裂状態にあることを示している。新聞記事によれば、『休戦』を目標とする交渉をもって始まろうとしている外交過程は、アルジェリアの放棄を予想しているものと考えてよさそうである。アルジェリア駐在軍は、もし国家の代表者が『フランスのアルジェリア』の維持を決意していないとすれば、戦闘に従事し無用の犠牲となる危険をおかしつつある将兵への責任を意識し、困惑している。フランス軍隊は、この国家資産の放棄に対しては、全軍一致して憤激をおぼえるであろう。絶望した軍隊がいかなる反応を示すかは予想出来ない。我々の憤激に対し、共和国大統領に注目せしめることを貴官に要請する。アルジェリアに我が国旗を堅持することの確固たる決意を有する政府のみが、我々の憤激を癒し得るものであることを」。サランはアルジェリア総督ラコストを訪れ、以上の電文を示した。社会党員であるラコストはこれに不快感を示し、サランの要求を個人的に大統領に伝えることだけを約束してアルジェを去った。ラコストは可能な限りアルジェリア人に譲歩しようとしていたが、その中途半端な妥協案はコロンとFLN双方から愛想を尽かされてしまっていた。
サランの電文は本国政府への明らかな最後通牒であったが、この時点でサランが実際の反乱を考えていたかどうかは分からないし、それにこの男はこの時点ではコロンの支持を受けていた訳ではない。「バズーカ事件」を思い出せばわかるように、彼はむしろコロンに疑われていた。反乱の口火を切ったのは派遣軍以外の勢力であった。
まずアルジェのド・ゴール派が週刊誌『ディマンシュ・マタン』に「発言されよ、我が将軍」との大見出しを載せた。「将軍」とはもちろんド・ゴールのことである。ガイヤール内閣倒壊後、パリではしばらくの間後継内閣の調整が難航していたが、どうにかMRPのフリムランという線でまとまりかけていた。彼フリムランはアルジェリア戦争をFLNとの交渉によって解決すべしと唱えていた……その人物の組閣がアルジェのド・ゴール派を刺激したのである。ところが、この見出しを見た「7人組」が早合点した。「ド・ゴール派のクーデター近し」。ならばド・ゴール派の機先を制し、自分たちが反乱を起こすべきである。「7人組」の中心人物ラガイヤールが宣言した。「明日、私は総督府と放送局を占領しよう」。彼ラガイヤールはこの時27歳、元落下傘部隊少尉で「スエズ戦争」にも「アルジェの戦い」にも従軍し、除隊後アルジェ大学で法学を学んでいた。アルジェのペタン派「7人組」を代表する、極右の「学生のプリンス」であった。
5月13日、アルジェ市の戦没者記念碑にて、先に処刑された3人のフランス兵の追悼式が行われた。大学生による「奇襲隊」の配置をおわったラガイヤールが酒場「オトマティク」に現れ、「本日ただいまから自分は反徒となる」と「劇的に宣言した(アルジェリア独立革命史)」追悼式には数万のコロンが集まっていた。派遣軍総司令官サランが式場に到着するより早く、ラガイヤールが記念碑の台座に飛び乗った。「フランスのアルジェリアが売り渡されるのを黙視するつもりか? 裏切者どもが我々を統治するのを許すのか? 最後までフランスのアルジェリアを守り抜くのか?」そこにサランが到着した。追悼式は滞りなく行われた。サランが記念碑を離れようとしたその時、ラガイヤールの「さあいこう ! 1人残らず総督府へ、この腐った政権をやっつけろ ! 」
群集が総督府に殺到した。暴動を鎮圧すべき落下傘部隊が現場に駆け付けたが、彼等は何もしないで黙って見ているばかりだった。本来が「フランスのアルジェリア」支持のアルジェリア派遣軍(の少なからぬ部分)はラガイヤールの反乱に共感を示してしまい、ここに派遣軍とコロン全体を巻込む本格的な反乱が開始されたのである。電話連絡を受けたパリのラコスト総督は「発砲するな」としか言えず、ガイヤール内閣倒壊後に組閣予定だったフリムランはまだ就任していなかった。
結局、アルジェ市の警備責任者マシュー将軍が群集に担ぎ上げられ、ラガイヤール等とともに「公安委員会」の組織にとりかかった。マシューは「アルジェの戦い」を指揮し、コロンの英雄とされた人物だった。この時ちょうど50歳、戦前からフランス植民地軍に勤務し、黒色アフリカで自由フランス軍に参加、各地に転戦してフランス第2機甲師団の副師団長までつとめあげた。インドシナでは外人部隊を率い、スエズ戦争にも従軍した、当時のフランス軍で考えられる最高の歴戦の勇士であった。そんな彼が総督府のバルコニーから宣言する。「アルジェリアがフランスに完全編入されるため、ここに、公安委員会が設立されたのである!」
それにしても、「公安委員会」というのは、フランス人なら誰でも知ってる名称で、フランス革命の時の恐怖政治の中枢となった組織の名であり、本国の第四共和政を打倒して新政権を打ち立てようとする「反乱」、いや「革命」の意志がここに明確化された訳である(大森ド・ゴール伝)。……しかし本当をいうと、マシューは熱心なド・ゴール派であり、最初は「7人組」の反乱を鎮圧するつもりで、地下道を通って総督府に駆けつけてきたのに、大群衆の熱気にあてられてしまったのだった(前掲書)。実際、ド・ゴールに忠実である以外は政治に無関心であることを誇りとするマシューは反乱に巻込まれたことに苛立っており、群集の「マシュー万歳!」に対して「俺をこんなにコケにしやがって」とぼやき、落下傘部隊の制服を着たラガイヤールに対しては「軍服を着て何をやらかそうってんだ?」と言い放っていた。
その他のド・ゴール派も公安委員会に加わった。遅れて到着したド・ゴール派のレオン・ドルベックにラガイヤールが呟いた。「あんたの筋書きより少し先へ行ったということさ」。しかし、ラガイヤールに出し抜かれたとはいえ、政治の世界ではド・ゴール派の方が一枚上手であった。ド・ゴール派は派遣軍総司令官サラン将軍を説得し、「責任ある軍当局は公安政府を樹立するため、国民の認める権威者に訴えることが緊急の必要事と考える。この最高権威者による鎮静化への呼びかけのみが、事態の再建を可能ならしめる」との電報を(本国に向け)うたせた。「最高権威者」とはもちろんド・ゴールのことである。ド・ゴール派はペタン派「7人組」の起こした反乱を巧く利用し、どさくさ紛れのド・ゴールの政権復帰を狙って動き回っていた(前にも書いたが、ド・ゴール本人の意志は全く不明である)。「5月13日の13の陰謀」と称される、数限りない陰謀が渦巻いていた。(註1)
註1 実はサランやマシューもド・ゴールを担ぎ出すクーデター計画をたてており、今回の騒ぎもその筋書きの上だった、という話もある(アルジェリア戦線従軍記その他)。少なくともアルジェのド・ゴール派が(ド・ゴール本人の意志と無関係に)独自の政権奪取計画を立てていたのは間違いない。大森ド・ゴール伝によれば、彼等による蹶起はまさしく5月13日を予定していたとのことだが、どうなんでしょ。
その夜、パリではピエール・フリムランが首相の任命を受けた。前述の通り、彼はMRP内部の対FLN和平派を代表していた。アルジェリアの「反乱」を聞いた社会党の議員団は「共和国に対するファシスト(ここでは反乱軍のこと)の陰謀」を阻止するため、新首相支持を決めた。共産党も棄権という形で暗黙の支持を示した。新政権はまずは強気に出る。首都パリを封鎖して各種過激派の動きを封じにかかり、サランとマシューに事情を説明せよと要求する。
この時点ではサランとマシューは記者会見を開き、「公安委員会は、フリムラン政権が任命する新総督が、アルジェに到着するまでの暫定措置である」と語っていた。フリムランもとりあえずひと安心……したいところだが、それまでパリにいたド・ゴール派の要人、例えば前アルジェリア総督スーステルといった連中が首都を抜け出すのを止めることは出来ない(註1)。また、サランとマシューの次に記者会見を開いたレオン・ドルベック……アルジェのド・ゴール派代表……がフリムラン政権がアルジェに送ってくるであろう総督を認めないと言い放ったこと、マシューも前言を翻してこれに同調したとのニュースも流れ出す。
註1 14日、ド・ゴールは回顧録の打ち合わせでパリに出てきていた。出版社の担当が「事件」のせいで回顧録の執筆が遅れるのではないかとたずねたが、ド・ゴールはすまし顔で、「何の事件かね?」と答えたという。
15日、アルジェではサランが(「7人組」をさしおいて)現地の実権を掌握しつつあった。彼は総督府に集まった1万5000のコロンに向かい、自分がいかにアルジェリアの地に結び付けられているかを切々と訴え、演説の最後に「フランス万歳 ! フランスのアルジェリア万歳 ! 」と唱えた。コロンの人心はサランへと集まってきた。ここでもド・ゴール派が巧く動いた。ド・ゴール派のレオン・ドルベックがサランをつついて何事か囁く。「……して、ド・ゴール万歳 ! 」サランはラガイヤールのような無頼漢ではなく、マシューのように状況に流された訳でもない。現地の公権力の代表格たる「アルジェリア派遣軍総司令官」であり、なおかつコロンの支持を受ける「公安委員会」の実権を掌握した彼が、ここで、明確にド・ゴールによる新政権の樹立を主張した。かくしてペタン派「7人組」の勢力は後退し、アルジェはド・ゴール政権要求の一色に染まったのである(註2)。ド・ゴール派に金を貰った一部のアルジェリア人までが「フランス万歳! ド・ゴール万歳!」と叫ぶ(註3)中、本国のフリムラン首相はサランに詰問の電話を入れたが、妥協の余地はどこにもなかった。パリとアルジェ、2つの政府が並び立った。
註2 もっとも、コロンの多くは大戦中にヴィシーを支持した記憶からド・ゴールを嫌っていた。ここにきて突然ド・ゴール人気が沸騰したのは、もっと嫌いな本国政府に対抗する錦の御旗として便利であったからである(アルジェリア革命)。
註3 この工作を行ったのは「アルジェの戦い」で活躍したトランキエ大佐であるとされている。
これを受けて、ここで初めてド・ゴールが発言した。「再び共和国の前に立ちふさがってきた試練にかんがみ、共和国は、自分、ド・ゴールが共和国の権力を掌握する用意があることを知らなければならない」。別にアルジェの「反乱軍」を支持するとも何ともいっていないが……、それでもアルジェの公安委員会、中でもマシュー将軍は大喜びした。17日、前アルジェリア総督スーステルがアルジェに到着し、公安委員会に合流した。2年ぶりにアルジェに戻ってきたスーステルはコロンの大歓迎を受けた。彼がスイス経由で乗ってきた飛行機は、ド・ゴール派の有力なスポンサーであるダッソー社がチャーターしたものであった。
19日、ド・ゴールが記者会見を開いた。「私には、この瞬間が、私がもう一度フランスのために直接有用となりうるであろう時期に訪れたように思われる」。中小の党による不安定な連立政権ばかり続いて強力な政策のとれない現在の政体では「我々の直面する問題は、絶対に解決されない」「私は誰(政党)にも属していない人間、しかもあらゆるものに属している人間である」。また、公共の自由を尊重するか(独裁をたくらんでいるのではないのか?)との質問に、ド・ゴールは最高の尊大さ(ド・ゴール伝)で答えた。「この公共の自由を回復したのは、私だったのだ。67歳にもなって、私が独裁者の生涯を始めると思うのか?」最後に「私はいうべきことをいった。いまや自分の村に帰って、そこで国家がどう処理するかを待っている」。ここでも、ド・ゴールはアルジェリアをどうするかについては一言も発言しなかった。
じれったい ! アルジェの反乱軍は本土侵攻計画「復活」作戦を整えた。本国のトゥールーズ軍管区ミゲル司令官から支援の約束を取り付けた。作戦決行は27もしくは28日と定められた。5000の落下傘部隊がパリ近郊に降下、これも反乱軍を支持するランブイエの第2機甲部隊を率いるグリビウス大佐の戦車とともに首都の主要地点を制圧し、落下傘部隊の指揮官マシュー将軍とミゲル司令官とがヘリコプターでド・ゴールをお迎えする、というものである。
24日、コルシカ駐留の落下傘部隊250人が反乱軍の指令を受け、島の中枢部を占領した。死傷者は皆無であった。首相フリムランは激怒したが、この期に及んでもまだ反乱軍との直接対決を避け、「アルジェ暴動は理解出来るが、コルシカ暴動は許し難い」という矛盾した声明を発した。首相は艦隊に出動を命じたが、海軍の返事は「艦隊は出港中で目的地は不明」というバカげたものであった(ホンマかこの話(註1))。ただ内相モッシュのみが反乱軍との対決姿勢を鮮明にし、共和国保安隊に動員をかけるとともに、労働組合の指導者たちに非常時の協力を呼びかけた。さらに、NATO(註2)に供出して西ドイツに駐留させているフランス軍部隊の一部に帰国を命じたが、彼等の態度もまた不明瞭であった。警察も心配だった。モッシュはコルシカ島の反乱軍を鎮圧するための警察機動隊を空路現地に送り込んだ……軍用機だとパイロットが反乱軍に寝返る恐れがあるので民間機をチャーターした……が、彼等はコルシカに着くとすぐに寝返ってしまった。アルジェの反乱軍首脳部とド・ゴール邸とでやりとりされていた無線は全て傍受・解読されていたにもかかわらず、反乱軍に好意的な参謀総長の手によって握り潰されたとも言われている。
註1 海軍はヴィシー海軍の伝統から反ド・ゴール派が多かったが、ド・ゴール派の多い気象台が虚偽の天候報告を行ったために出撃出来なかったという話もある。(大森ド・ゴール伝)
註2 「北大西洋条約機構」の略称。ソ連に対抗する集団防衛体制であり、49年にアメリカ・カナダと西欧10ヶ国によって結成された。
しかし政界が大揺れに揺れる最中の25日日曜日、80万ものパリ市民が週末休暇を楽しむべく自動車に乗ってパリを出た。彼等はコルシカのニュースを大して気にしていないらしく、どうやらド・ゴール政府が近日中に成立するものと思っているようであった(註3)。その上空では空軍のド・ゴール派が戦闘機を飛ばし、自由フランスの旗印「ロレーヌ十字」を大空に描くデモンストレーションを行っていた。株価が暴落し、一部の悲観的な人々は食糧の買いだめに走っていた。全世界の耳目もフランスに注がれた。米英両国としてはNATOの中核たるフランスが内戦に突入するのはとんでもない話だが、かといって(大戦中の記憶からしても)ド・ゴールという人物を信用することも出来なかった(大森ド・ゴール伝)。西ドイツのある新聞は、「(ドイツの)戦前の危機の中から、ヒトラーが登場した時の危険に似ている」と論評した。
註3 『ド・ゴール伝』より。レジャー史上でも画期的な話だそうである。
26日、ド・ゴールと首相フリムランが会見した。フリムランは、自分は辞任してド・ゴールに道を譲る用意があると述べた。しかし後継首相の任命権は共和国大統領ルネ・コティのみが有していた(註4)。
註4 第四共和政の大統領の目立った権限はこれぐらいしかない。したがってこの文章にも全然登場しなかった。
27日朝、(どうやって来たのか)私服姿の反乱軍落下傘部隊士官がパリに集まり出した。彼等の目的のひとつは政府内の強硬派モッシュ内相の誘拐であり、その中には今やすっかり影の薄くなった「7人組」のラガイヤールの姿があった。彼等の「標的」モッシュの方は、「復活」作戦は翌日夜に実行されるとの極秘情報を手にしていた(註5)。
註5 これは、反乱軍の側が恫喝の目的で意図的に情報を漏したようである。(大森ド・ゴール伝)
その情報はド・ゴールも独自ルートで手に入れていた。同日午後、ド・ゴールは自身が「合法的な」共和国政府を組織する「正規の手続き」に着手していると述べ、同時に「公共の秩序を乱す行為は、私はこれを是認することは出来ない」と語った。ド・ゴールは「反乱軍」のサランに電報をうち、「復活」作戦を中止するよう要求した。サランはこれを受けた。サランの使者を前にド・ゴールが断言する。「私は、国全体の要請に応えて登場する全権者として求められ、国の指導権を引き受けて、無用の分裂から国を救うことを望む。私は仲裁者として立ち現われなければならず、現在、相対立している両党派(パリとアルジェ)のうちの一方のチャンピオンとして立ち現われてはならないのだ」。すでに、首相フリムランがド・ゴールに対し「いまや、軍部の蜂起を押える力は貴殿以外にない。コルシカ反乱に対して、否定声明を出していただけないか」と要請した際、ド・ゴールは「ノン! 貴殿の要請を受けることは、すなわち、私が仲裁者でなくなるということだ。私は、事態収拾策をみずから放棄するようなことはしたくない」と答えていた。とにかく、内戦の危機はとりあえず回避された。問題はド・ゴールの政権樹立が本当に出来るか否かである。
28日未明、首相フリムランが辞任した。調整が続く中、夕刻のパリで社会党・共産党その他左派による「反ファシズム行進」が行われた。「共和国万歳 ! 」「ド・ゴール反対 ! 」「マシューを吊るせ ! 」30万の市民が参加した。しかし、市民はやはりそれほど危機感を感じておらず、「群集は驚く程上機嫌で、およ闘争的な気分ではなかった(アルジェリア独立革命史)」また彼等は実際にはド・ゴールにさほどの反感を抱いておらず、もし軍事クーデターがあれば無関心ではないが、ド・ゴールに対し何らかの「合法的権力委任」がなされれば、彼等は何もしないだろうとの印象を周囲に与えた(ド・ゴール伝)。「祖国の救世主ド・ゴールという『レジスタンス神話』はまだ生きていた。多くのフランス人はド・ゴールの(独裁ではなく)共和国への愛着を信じて疑わなかった(渡邊フランス現代史)」。
社会党もド・ゴールの扱いをめぐって分裂していた。社会党の長老ギ・モレはすでにド・ゴール擁立に動いていた。ド・ゴール政権を阻止するためには共産党との連合が不可欠だが、鮮明に反ド・ゴールの共産党と組むことは即反乱軍との武力衝突勃発を意味していた。本土の軍隊も警察も反乱軍に共鳴しているのに、いったいどうすればいいのだ。それに、社会党の特に右派からみれば、共産党というのがまた信用できない……(註6)。「マシュー(反乱軍による武力制圧)よりド・ゴール(合法の政権樹立)の方がまし」。左翼の穏健派はド・ゴール許容に傾きつつあった。ギ・モレはド・ゴールに対し「貴殿の第四共和政に対する合法的態度を確認したい」との密書を送り、きわめて好意的な返答を得ていた。とはいえ社会党の苦渋は並大抵ではなく、断固としてド・ゴールに反対する勢力も存在した。
註6 56年の「ハンガリー動乱」により、共産主義全体への評価が下がっていた。
その日夜、エリゼー宮でド・ゴールと両院議長の会談がもたれた。会議は難航した。大統領コティのもとにアルジェからの電報が届いた。「29日15時までにド・ゴールが就任するか、然らずんばその翌日01時00分を期して『復活』作戦を発動する」。
29日、大統領コティはついにド・ゴールへの組閣依頼を行った。「いまや、事態は収拾を許さぬ状態となった。私は、この非常事態に際して、内戦を回避できる存在はド・ゴールしかいないと思う」。コティもやはり共産党を信用しておらず、去る27日に社会党のギ・モレ等政界長老と会談した際にも、「共産党との連携よりは、ド・ゴールを選びたい」と漏していた。財界と関係の深い独立農民社会行動派党首ピネーもド・ゴールを支持する。財界としても、共産党の勢力伸長は阻止する必要があった。30日、ド・ゴールは組閣依頼に同意した。しかし単に政府首班になるだけでは意味がない。在野のド・ゴールが練っていた、フランス第四共和政を根本から覆す改革案を押し通す理想の舞台造りが必要である。最後の関門、議会による信任が残っている。
6月1日午後、ド・ゴールが国民議会の所在地ブルボン宮を訪れた。ド・ゴールが持ち出した就任の条件は次の3つ。「6ヵ月間に渡る政令による全権」「4ヵ月間に渡る国民議会の休会」「新憲法を国民に提出する権限」。7分間いいたいことだけ喋ると、ド・ゴールはさっさと退席した。投票は329対224、ド・ゴールの叙任が承認された。反対したのは共産党。社会党と急進社会党はまっぷたつに割れていた。12年と4ヵ月ぶりのド・ゴール政権復活がここに果たされた。自由フランスの英雄、反乱軍希望の星、泥沼にはまり込んだアルジェリア戦争を終息させ得る唯1人の男、内戦の危機に立つフランスはド・ゴールを再び政治の表舞台へと呼び戻した。様々な立場に立つ多くの人々の期待を一身に担って再登場したド・ゴールは、しかし、これからのアルジェリアをいかなる姿に導くか、肝心要のこの問題にはいまだに口をつぐんだままだった。しかしとにかくド・ゴールの首相就任を受けたアルジェの反乱軍は「復活」作戦の中止を決定した。反乱の開始から3週間。狂乱の5月は過ぎ去ったのである。
かくしてド・ゴール内閣は成立した。閣僚は社会党・急進社会党・MRPがそれぞれ3つづつ、ド・ゴール派が4つ、その他。反乱軍のメンバーは除外され、見かけは以前の(第四共和政でよくあった)連立政権とかわりばえのしないものであった。ピネー、ギ・モレ、ガイヤール、フリムランといった首相経験者を閣僚に迎えたことは、根強い共和主義の伝統を持つフランス政界を懐柔する方策であった(嬉野ド・ゴール伝)が、「フランスのアルジェリア」を守るための強力な政府を求める反乱軍の連中にとってみれば、彼等はFLNに妥協しようとした前科があり、「何もかわってないぞ」というところである。
6月4日、ド・ゴールがアルジェを訪れた。現地ではド・ゴール内閣への不満が高まっていた。しかし総督府のバルコニーに立った(御丁寧にも准将の制服を身に着けていた)ド・ゴールは群集にむかい、「Je vous ai compris ……(諸君等の気持ちはわかった)」と語った。コロンや派遣軍の将兵は熱狂した。やはりド・ゴールは我等の味方だ。しかしド・ゴールは、「なにが、どうわかったのか」は一言も話さなかった。この「諸君等の気持ちはわかった」こそは、政治家ド・ゴールの真骨頂であり、後々まで様々な解釈・誤解を生み出すことになる。
ド・ゴールはそれに続けて、コロンとアルジェリア人双方が参加する「平等な選挙」の開催を予告し、さらにFLNとの「和平」を訴えた。もちろんこれらはコロンや派遣軍が望むものではないはずである。「平等な選挙」をやったのでは、数に劣るコロンは少数派になってしまうではないか。しかしド・ゴールに「わかった」といわれて有頂天になった彼等はそのことをしっかりと理解出来なかった(アルジェリア独立革命史)のである。それに、FLNが求めているのは「完全独立」であり、コロンも現地軍もそれを嫌って「和平」に反対していたのに……。みんな、思考が停止してしまっていた。
そして6日、港町モスタガネムを訪れたド・ゴールがついに「フランスのアルジェリア万歳 ! 」「共和国万歳 ! 」の言葉を発した。これが聞きたかったのだ。コロンも派遣軍将兵も大喜びした。しかし「そのあとで、彼が本気でそのつもりだったのか、それとも単に口が滑っただけのものかについて憶測がなされるのを、(ド・ゴール本人は)疑いもなくちょっと面白がったのである(ド・ゴール伝)」
9月28日、ド・ゴール等の起草した憲法草案が国民投票にふされた。結果は「賛成」実に80%もの支持を得ていた(棄権は13%)。「反乱」の間にも、いや、フランスが混乱しているその隙を狙ってのFLNのテロが続いており、8月にはフランス国内でもFLNのテロが頻発していた。そのことがフランス人をして強力な政体樹立へと向かわしめたのである(ド・ゴール伝)。また、社会党のギ・モレは、この憲法が通らなければ再びアルジェが「復活」作戦を起こすだろうとすら語っていた。
その、「第五共和政憲法」とはいかなるものか? ここでは大統領と首相が両方存在する。両院議員・県会議員・市町村議会議員によって選出される任期7年の大統領(後に直接国民投票による選出に改正)は、議会を超えて政府を自己に従属させ、首相を自由に任命・解任する権限を持ち、一定の内容の法律案を議会の審議にかけずに直接国民投票にかける権利を有し、国民議会を自由に解散することが出来る。また、緊急事態と大統領が判断する問題について、大統領は何らの拘束を受けることなく立法権・執行権を自らに集中させ、憲法の一部停止も可能となる。閣僚と議員との兼任は禁止(註1)、かつ閣僚就任時に所属政党から離脱しなければならないことから、大統領の持つ行政権はさらに議会を圧倒することになる。政府に対する不信任動議は可能だが、その際の欠席・棄権は政府支持とみなされる。
註1 議員が閣僚に任命された場合には自分のかわりを指名する。しかし何故か閣僚と市長村長・県会議員の兼任は可能である。
もっとも議会も全く無力ではない。大統領の独裁者化を防ぐための三権分立が保証され、イギリス式の議院内閣制も取り込まれていることからフランスの政治制度は「準大統領制」とか「擬似大統領制」とか呼ばれている。首相は議会の多数派の長であることが望ましい(註2)とされ、しかも大統領と議会とが別々の選挙によって選出されることから、両者が対立することも当然ありうる。しかも大統領と首相の役割分担についても曖昧な点が存在するため、86年、社会党の大統領ミッテランと保守派の首相シラクとが並び立つという異常事態「保革共存」が出来した。かような大統領と首相とが対立する「行政権の二重性」の問題に対し、その時は大統領が軍事・外交を、首相が内政を受け持つという妥協が行われたのであった。
註2 無視しても問題ないが、その時の大統領と議会の力関係による。
それについては後述するとして、かような強力な権限を有する大統領は先進国ではフランス以外に例がない(フランス史3)。特にド・ゴールは首相を自分のいいなりになる人物だと考えており、首相が大統領と対等の権力を持って並び立つのを嫌った。また、第五共和政における大統領は専属の事務局を有してそちらで具体的な政策立案を行うため、首相を中心とする政府の閣僚は大統領と実務官僚の中継ぎのような存在で、ド・ゴールに反対する者は直ちにクビになった。しかしド・ゴールは決して単なる独裁者ではなく、大問題を国民投票にかけて直接有権者の信任を問うたり、地方訪問を頻繁に行って国民の声に耳を傾けようともした。ド・ゴール本人に言わせれば、「国家がフランス統一、国の高次の利益、一貫した民族行動を代表する十全な機関であるには、政府は議会すなわち政党によってではなく、彼等を飛び越え、国民全体による直接の委託を受けたひとりの国家元首(大統領)によってつくられるべきであり、この直接の委託によって、その元首は意志し決断し、行動することができねばならない(希望の回想)」「さもなくば、フランスに不幸をもたらした個人主義、多様性愛好癖、不和対立の傾向等から、フランス特有の小党分立的傾向がきっと再び台頭する(前掲書)」という訳である。議会を舞台とする政党政治を嫌ったド・ゴールは、国民と大統領とは(議会ではなく)直接的な信頼関係によって結びつくと考えたのであり、これは逆にいえば国民投票で敗れた時がド・ゴールの最期の時となるということである。(渡邊フランス現代史他)