ムハンマド・アリ

   マムルーク

 エジプトには12世紀の後半から13世紀の半ばにかけて「アイユーブ朝」という国が存在した。この国では他国から買ってきた子供奴隷を教育して軍人に仕立て上げた「マムルーク」を用いていたが、やがてこのマムルークが力を持つようになって1250年にアイユーブ朝を打倒、独自の王朝「マムルーク朝」を建国した。エジプトの主たる住民はアラブ人とコプト人だが(註1)、マムルークはトルコ人・チェルケス人・グルジア人・クルド人等からなり、自分の国を建国してからも余所からの子供奴隷の買い入れを続けることでアラブ人に同化することを防いだ。子供奴隷はまず「ティバーク」という軍学校に入れられ、軍事とイスラムの教育を受けた上で奴隷身分から解放されマムルークの仲間となった。マムルーク朝のスルタン(王)は世襲ではなく、複数の有力者の中で力のある者が権力を握るという形で国を治めていた。マムルークは非常に強く、ヨーロッパから攻めてきた十字軍にもアジアから攻めてきたモンゴル帝国軍にも打ち勝っている。

註1 アラブ人というのは7世紀以降にイスラム教と一緒に東からやってきた人々、コプト人はそれ以前からの住人である。コプト人はキリスト教を信じており(今でもそうです)、エジプトの総人口の1割程度を占めている。中東のキリスト教徒については当サイト内の「中東のキリスト教」を参照のこと。


 マムルーク朝はヨーロッパとアジアをつなぐ中継貿易で巨万の富を得ていたが、15世紀末にポルトガル人が喜望峰航路を開拓し、エジプトを経由しなくてもヨーロッパからアジアに行けるようになると急激に衰えた。マムルーク朝はポルトガルに戦いを挑むが1509年の「ディーウ島沖の海戦」に惨敗、1517年には北から攻めて来た新たな敵オスマン・トルコ帝国によって滅ぼされてしまったのであった。

 オスマン帝国はエジプトに総督を置いて統治したが、現地民と癒着して反逆したりしないよう総督職を頻繁に交替した。マムルークの多くはオスマン帝国に恭順していたが、やがて時代が進んでオスマン帝国が衰えるようになるとマムルークたちが実質的なエジプトの支配者として君臨するようになる。子供奴隷の買い入れももちろん継続され、マムルークだけで農地の3分の1を独占した。しかしマムルークたちは結束していた訳では別になく、むしろ派閥抗争に血眼になって、特に18世紀の末頃にはエジプトを無政府状態に陥れた。

   ナポレオンのエジプト遠征

 1798年、ナポレオン・ポナパルトの率いるフランス軍3万5000がエジプトへと遠征してきた。フランス国家のエジプトへの野心は今に始った話ではなく、既に1671年に哲学・神学・数学者であったライプニッツが当時のフランス国王ルイ14世に対してエジプト遠征を献言し、アジアとアフリカのつなぎ目であるスエズ地峡に運河を通せばフランスはインド洋貿易を独占出来ると唱えていた。ちなみにフランスは16世紀以来、エジプトやシリア、レバノンといった東地中海の沿岸部との貿易、いわゆる「レヴァント貿易」を熱心に行っていた。ただ、ライプニッツ自身はドイツ人であり、フランスの野心がドイツ方面に向かないようエジプトという餌を与えておくというのが本音であったのだが……。

 そしてナポレオンがエジプトに現れた時、フランスはイギリスと戦争中であった。ナポレオンはエジプトを足場にしてイギリスの植民地インドを奪うという壮大な計画を夢想し、スエズ地峡の開削も構想した。その「スエズ運河」をフランスが独占してしまえば、喜望峰ルートでインドに向かうしかないイギリスの通商は甚大な打撃を受けることになる。

 フランス軍はアラブ人に対し「マムルークを懲らしめにきた」、オスマン帝国政府に対しては「エジプトを私物化するマムルークを倒してオスマン帝国による実効支配を取り戻してやる」と宣伝した。そしてフランス軍は「ピラミッドの戦い」でマムルーク軍を大破したが、彼等(フランス軍)を運んできた艦隊は「アブキール湾の海戦」でイギリス艦隊の攻撃を受け壊滅、オスマン帝国はナポレオンの宣伝を信じず対仏宣戦を布告、アラブ人もフランス軍を嫌って蜂起した(註2)。フランス軍はこの状況の打破を狙って北方のシリアへと進撃したが、アッコン要塞で食い止められた。

註2 フランス軍はアラブ人から食料を徴発し、そのことで憎まれたのである。それに対してコプト人はフランス軍に協力した。アラブとコプトの間にはいまだにわだかまりがあるという。


 しかし、かつて十字軍にもモンゴル帝国軍にも負けなかったマムルークの騎馬隊が「ピラミッドの戦い」でフランス軍の銃陣に惨敗したことは中東の人々にとっては大変な衝撃であった。また、フランス軍の占領地域における(兵士たちの行儀は悪かったが)優れた行政・司法機構や、各種の研究のために軍に同行していた200人の学者たちの学識はエジプトの人々の思想に大きな影響を与えることになる。

   ムハンマド・アリ登場

 1799年7月、アッコン攻略を諦めてエジプトに帰ってきたフランス軍にとどめを刺すべく、イギリス艦隊に運ばれたオスマン陸軍1万5000がナイル河口近くへと上陸してきた。その中にムハンマド・アリ(メフメット・アリ)という下級指揮官がいた。彼は現在はギリシア領となっているカヴァラという街に1769年頃に生まれたアルバニア人(註3)で、煙草商人をしながら街道の治安維持に携わり、今回は約300人からなる小部隊の副隊長としてエジプトにやってきたのである。

註3 ギリシアやアルバニアを含むバルカン半島の全域は当時はオスマン帝国の領域であった。


 しかし、上陸して最初の戦いはアリたちの惨敗、フランス軍に海へと追い散らされてイギリス艦に拾われるという有り様であった。ところがこのときアリの部隊の隊長が部隊を放り出して故郷に逃げ帰ったことがアリの出世の糸口となる。彼はたちまち6000人の兵員を擁するアルバニア人部隊の副隊長に出世した。彼等の奮戦によりフランス軍は1801年に降伏(註4)、翌年には講和条約「アミアンの和約」が成立したことによりフランス兵たちは故国に帰っていった。

註4 ナポレオン自身はそれ以前に部下を放り出して本国に帰ってしまっていた。


   カイロ暴動

 これで平和になったと思いきや、エジプト首都カイロにおいて、オスマン帝国が新たに派遣してきた総督ヒュスレヴ・パシャ(註5)とアリたちのアルバニア人部隊、さらに2派にわかれたマムルークの計4派による熾烈な権力闘争が勃発した。エジプト史にいう「カイロ暴動」である。まずアルバニア人部隊がヒュスレヴ・パシャを追放、しかしそこで権力を握るかに思われたアルバニア人部隊司令官ターヘル・パシャ(アリの上官)はヒュスレヴ・パシャの旧部下によって暗殺された。するとオスマン帝国は新任総督としてアリ・ジャザイリ・パシャを送り込んできた。

註5 「パシャ」とはオスマン帝国の文武の高官に与えられる称号である。本稿には○○・パシャという人物が何人も出てくるが、別に親戚とかではないのです。


 ターヘル・パシャが死んだおかげでアルバニア人部隊の司令官に昇格したアリは部下に規律を守らせることによってウラマー(イスラム知識人)や貿易業者の支持を確保していった。「バルディスィ派」と「アルフィ派」に分かれていたマムルークに対しては、まずバルディシィ派と同盟してアルフィ派を叩く。これで勢いづいたバルディシィ派は総督のアリ・ジャザイリ・パシャを殺すが、アリはバルディシィ派と同盟してやった代価を要求した。バルディシィ派はアルフィ派の反撃を恐れていたことからアリの要求を飲まざるを得ず、金を用意するためにカイロ市民に重税を課そうとした。するとアリは市民の暴動を使嗾してバルディシィ派を砂漠へと追放した。

 そしてアリは1805年5月14日、カイロ市民の要請を受けるという形で総督職に就任した。オスマン帝国政府はとりあえずアリの総督就任を追認し、様子をみることにした。このことからわかるとおり、アリは形式的にはあくまで「オスマン帝国の臣下であるエジプト総督」という立場にすぎないのだが、実質的には半独立国の主となった訳である。マムルークはこれまでフランス軍に叩かれアリに叩かれで弱体化してはいたが、地方の領主としてまだまだ侮り難い勢力を保持しており、アリに従う者もいれば逆襲のために雌伏している者もいるといった具合である。

   シタデルの惨劇

 1807年、イギリス軍がエジプトに上陸してきた。アリに不満を抱いていたマムルークの一部を抱き込み、アリを打倒して親イギリス政権を樹立しようというのである。しかしアリは「アル・ハミードの戦い」でイギリス軍を大破、これを撤退に追い込んだ。これはイギリス軍がアジア・アフリカにおいて喫した最大の敗退のひとつとされている。その頃のヨーロッパの情勢は……前述の「アミアンの和約」は1年で潰えて再びフランスとイギリスその他との大戦争が始っており、そちらに忙しいイギリスはエジプトについては諦めざるを得なくなる。オスマン帝国の方は内紛が起こっていてエジプトにちょっかいを出す余裕がなく、おかげで以後のアリはエジプト国内を固めるのに専念することが出来た。まずは自分の政権樹立に協力してくれたウラマーの代表ウマル・マクラムを追放、その他のウラマーをがっちりと自分の支配下に組み込んだ。これで、それまで免税特権に守られていたワクフ財産(宗教や慈善のために寄進された土地)に手を付けることが出来るようになった。

 アリにとって最も厄介な存在は、いまいち去就の定まらないマムルークたちである。1811年、アリは宴と称してマムルークの有力者470人をカイロ市のシタデル城に招き、不意打ちで皆殺しにした。これが「シタデルの惨劇」である。続いてカイロ市内だけでも1000人のマムルークが殺され、地方のマムルークたちも翌年にはアリの長男イブラヒムの率いる軍勢によって潰された。ただ、アリの軍隊ではその後もトルコ人やチェルケス人を士官として用いており、彼等はつまりアリに忠誠を誓ったマムルークであったのだろう(新規にエジプト外から雇い入れた者もいたようだが)。

   近代化の開始

 こうして独裁権力を手にしたアリは強力な富国強兵策を推進することになる。まずは税制の改革である。それまでの徴税は「徴税請負人」に委せていたために中間搾取が酷く、これを廃止して総督政府が任命する官吏に徴税させることにした。徴税請負人が反発すればマムルークと同じ運命である。農地測量調査を実施してきちんと農地面積を把握し、多い時期には20種類ぐらいあってしかも不定期に徴収していた税金を地租のみに一本化した。

 さらに、それまで年に一度のナイル河の自然増水に頼っていた灌漑を運河の開削によって(註6)一年中農業用水を利用出来るようにして農業生産を増大させた。農地に植える作物は国家が指定し(主に綿花)、収穫は公定価格で安く買い上げて専売した。その利益(1798年から1833年までの35年間で歳入が15倍に増加)を財源にしての官営工場(主に綿織物)の建設、軍事・工学・医学・薬学といった各種学校の開設とヨーロッパへの留学生の派遣、外国語書籍のアラビア語への翻訳、その翻訳書を刷る印刷所の建設、エジプト史上初の新聞であり現在でも発行されている官報『エジプトの出来事』紙の刊行、等々を推進する。アリはエジプトに来る前は煙草商人をやっていたことから商才があり、にもかかわらずまともな教育を受けていなかった(47歳まで読み書き出来なかったという)ことから教育の重要性を理解していた。18世紀まで東地中海の貿易(レヴァント貿易)に活躍していたフランスの商船隊はナポレオン戦争のせいで打撃を受け、そこにエジプト経済が躍進する余地があった。西洋医学の導入によって腺ペストを撲滅し、治安維持につとめたおかげもあってアリ治世下のエジプトの人口は250万から500万に激増する。

註6 別にそれ以前に運河とかの灌漑設備がなかった訳ではないが、ナポレオンのエジプト遠征やなんやの乱世のせいで荒廃していたのである。


 そして、特に力をいれたのが西洋式軍隊の創設である。西洋の近代軍がどれほど強いか、エジプトにやってきた直後にナポレオン軍に惨敗した経験を持つアリは骨身に沁みて知っていただろう。初期のアリの軍事力はアルバニア人部隊や帰順マムルーク部隊、さらにはアラブ系遊牧民部隊を寄せ集めたものであったのが、1822年には徴兵制度を導入して一般の農民を軍事力として動員することになった。これは最初はアラブ人のみが対象であったが翌年にはコプト人にも適用されることになる。

 兵士たちはアルバニア人やチェルケス人・グルジア人等(元マムルーク)の士官に指揮され、フランスから招かれた軍事顧問の指導を受けた。フランス人の顧問というのは、ナポレオン戦争の終結(1815年)で失職した旧フランス軍人がエジプトで再就職した例が多く、アリに旧主ナポレオンの面影を見いだして信服している者もいた。それにしても遊牧民(平時からあちこちを略奪してまわるための戦闘力を保持している)はともかく農民が軍隊に動員されるのはエジプトの歴史始まって以来のことで、各地の村では徴兵逃れの自傷行為や暴動が頻発した。その徴兵というのが、軍隊で村を襲って男たちを鎖とロープで繋いで連れ去るというやり方だったから抵抗されるのも無理はない。とある村では成年男子1466人のうち1273人が自傷行為で兵役を逃れたといい、そうやって自分で指を落としたり片目を潰したりしても後方任務につかされたという(山内昌之著『近代イスラームの挑戦』)から惨い話である。

 しかし、農民たちはもともと基本的には、自分はイスラム教(もしくはキリスト教)を信じアラビア語を話す者である、という以外には、自分の住んでいる「村」にしか帰属意識(自分のアイデンティティの主たる拠り所)を持っていなかったのが、徴兵制度のおかげで、自分は村を越えた「エジプトという国」に所属する「エジプト人」だ、という「国民意識」を持つようになるのである。エジプトという地域は周囲を砂漠に囲まれたかなり閉鎖的な空間であるという地理的要因もこれに大きく作用したようである。ただ、アリの方はエジプト人をあまり信用せず、前述のフランス人顧問や、オスマン帝国において商業部門に活躍していたギリシア人・アルメニア人を招致して要職に登用した。アリは自分はオスマン帝国の支配階級「オスマン人(註7)」の一員だと思っており、エジプト人の中に溶け込もうとはしなかった。

註7 オスマン人とはオスマン帝国の公用語である「オスマン語(トルコ語にアラビア語やペルシア語をミックスした言葉)」を使う帝国内のエリート層の自称であり、人種や民族とは異なる概念である。


 それはともかく、以上のような改革は日本の明治維新よりも半世紀も前に実施されたものである。しかしいま現在のエジプトが日本ほどの大国でないのは、このような近代化のために無理をし過ぎたからである。特に運河の開削は当時のエジプトの成人男子の半分ほどが駆り出されるという過酷なもので、農業では商品作物(綿花)の生産・輸出に力をいれすぎたことから国内の食料が欠乏した。それに、どんなに頑張って畑を耕したところで公定価格で安く買いたたかれるのでは真面目に働く気力も失せるというものである。工業では、官営工場の建設の際に民間の伝統的手工業も営業を認められはしたが、こちらも農業と同じように公定価格に縛られたことから操業意欲が減退した。工場や灌漑施設に蒸気機関を導入しようと思ってもエジプトには石炭も鉄鉱石も産出せず、それらを輸入したくてもコストが高過ぎて思うにまかせない。また、アリは様々な改革を確実に遂行するために強力な中央集権制を整備し、官吏を厳しく統制したが、そのせいで官吏たちは自分の判断では(アリの指示を仰がなければ)ほとんど何も出来なくなってしまった。が、そのような負の部分はすぐに表面化するものではない。アリは富国強兵策と並行して活発な外征を展開した。早くも1811年にはアラビア半島に遠征している。

   第一次アラビア戦役

 アラビア半島の沿岸部はオスマン帝国の属領であったが、その支配の及ばない内陸の砂漠地帯では18世紀の中頃から一種の宗教改革を唱えるイスラム教の一派「ワッハーブ派」が勢力を拡大、やがてはオスマン帝国の支配地域まで浸食する勢いとなっていた。この派の中心となったネジド地方の豪族「サウド家」こそは現在のサウジアラビア王家の先祖である。彼等はアリがエジプト総督になったのと同じ頃に聖地メッカを含むアラビア半島の大部分を制圧し、さらにイラクやシリアにまで触手を伸ばしていた。オスマン帝国政府は1799年にイラク方面からワッハーブ討伐軍を派遣したがうまくいかず、そこで1811年、エジプト総督ムハンマド・アリにアラビア遠征を依頼したのであった。
 
 アリがシタデル城でマムルークの有力者470人を殺すためにセッティングした「宴」とは、実はアリの次男のトゥーソンをアラビア遠征軍司令官に任命する式典という名目で開かれたものであった。こういう汚いやりかたをした罰があたったのかどうなのか、トゥーソンに率いられて海陸からアラビア半島に侵入した1万4000のエジプト軍は、11年12月の「アル・ハイフの戦い」でワッハーブ軍の前に敗退した。しかしアリは決して諦めずにアラビア侵攻を継続し、13年には自らの采配で聖地メッカを占領、さらに内陸部のメディナも占領した。14年にはエジプト本国が不穏となったため遠征軍の指揮をトゥーソンに任せて帰国するが、トゥーソンは15年にメディナを奪い返されたうえに16年末に病死したため、アリは長男のイブラヒムを新司令官に任命した。

 エジプト軍はメディナを再び占領し、18年にはワッハーブの本拠地ダルイーヤ城に迫る。ダルイーヤ城は半年に及ぶ激しい戦い(エジプト軍だけでも1万もの兵士を失った)の末に陥落し、城と町は徹底的に破壊、ワッハーブの指導者たちは斬首となった。遠征開始から7年が経過していた。こんな長期戦になってしまった理由は、ワッハーブ軍が激しく抵抗したことと、この戦役の時点のエジプト軍はまだ徴兵制を導入していないので、旧態依然とした寄せ集めの軍隊で戦う以外になかったからである。ともあれ、以降のアラビア半島のうち紅海沿岸地方はエジプトの支配下に組み込まれ、それ以外の地方はオスマン帝国政府の支配にまかされた。

   スーダン戦役

 20年、アラビア遠征軍がエジプトに帰国してくると、アリはそれを今度はスーダンへと差し向けた。そこには反アリ派のマムルーク勢力が潜伏していた。ちなみに歴史書の類ではこの時エジプト軍が進攻した地域を「東スーダン」と呼んでいるが、当時はサハラ南縁の黒人の居住地域(西アフリカから東アフリカまで含めて)のことを漠然と「スーダン」と呼んでいて、そのうちの現スーダン共和国地域のことを「東スーダン」と呼んだのであった。そこには16世紀初頭から「フンジュ・スルタン国」というイスラム国が存在したが、18世紀以降は外敵の侵入や内紛で衰えていた。アリは残存マムルークの討滅以外にも、スーダン方面に産する金や象牙、それから奴隷の確保を目論んだ。

 ナイル河を遡って南へ南へと進撃したエジプト軍はアリの三男カーメルを失うという苦戦を強いられつつも21年にフンジュ・スルタン国を滅ぼし、占領地域をナイル河流域から東は紅海、西はダルフール(昨今の「ダルフール紛争」の舞台)へと拡大していった。現在のスーダン共和国の首都となっているハルトゥーム市を建設して統治府を開設したのが23年である。この町はその後奴隷貿易の拠点となる。さらにスーダンの黒人をエジプト軍の兵士に仕立て上げるという試みも行われたが、彼等をエジプトまで連れてきてみると気候風土の違いから少なくとも兵員としては使えなかった。

 このスーダン戦役と同時期に創設されたエジプト農民による徴兵軍は、既に述べたように農民側の反発は大きかったのだが、しっかりと訓練してみれば実に使える有能な軍団であることがじきに証明された。彼等はスーダン戦役終了後の24年にエジプト南部で起こった大規模な反乱を鎮圧、その翌25年には今度は地中海を渡ってギリシアへと遠征する。

   ギリシア戦役

 ギリシアは15世紀以来オスマン帝国の主要な一部であったのだが、去る1821年から大規模な独立戦争が起こっていた。オスマン帝国政府は独力ではこれを鎮圧出来ず、ワッハーブの時と同じようにアリに助けを求めてきたのである。報酬は(ギリシアの)ペロポネソス半島およびクレタ島の総督職である。そしてアリの長男イブラヒムに率いられてギリシアに上陸したエジプト陸海軍はギリシア独立軍を圧倒、完全鎮圧の一歩手前まで行った。アリがエジプト人をあまり信用していなかったのと違い、イブラヒムは積極的にエジプト人の兵士の中に溶け込み、強い信望を勝ち取っていた。

 しかし、本来なら楽勝で終わって帰国出来た筈のエジプト軍に対し、2つの方面から横槍が入った。まずオスマン帝国政府の内部にいた反アリ勢力である。1805年にアリがエジプト総督に就任する前の一時期にエジプト総督だったヒュスレヴ・パシャ(当時のアリの上官に追放された人)がギリシア独立戦争の時にオスマン海軍の大提督(総司令官)という地位についており、これがアリのことを快く思っていなかった。もともと自分が支配していたエジプトをもっていかれたうえに優れた業績を見せつけられているのだから面白くないのは当然である。アリは政治力を駆使してオスマン帝国政府に圧力をかけ、ヒュスレヴ・パシャを大提督職から解任させることに成功した。

 が、もう一つの横槍はさらに厄介であった。27年10月、英仏露の3国連合艦隊がギリシア問題に介入すべくその姿を現したのである。もともと欧州諸国民はギリシア人に同情的で、多くの個人がオスマン・エジプト軍と戦うべくギリシアの戦地に駆け付けていたのだが、各国の政府は現状維持が望ましいとしてなかなか動こうとはしなかった。しかしエジプト軍が残虐行為を働いているという噂が流れたことや、この機会を利用してギリシアに政治的経済的な影響力を植え付けるのが得策だとの考えが欧州の政財界で次第に主流となったことにより、今回の連合艦隊派遣と相成った訳である(註8)

註8 この辺りの詳しい話は当サイト内の「ギリシア近現代史」を参照のこと。

 ギリシアのナヴァリノ湾にやってきた3国連合艦隊はエジプト軍に対し、とりあえず停戦を勧告した。これに対し、現地のエジプト軍司令官イブラヒムは「自分は返答出来る立場ではない」と突っぱねた。10月20日、エジプト・オスマン艦隊と3国連合艦隊の小競り合いが発生し、そこから大規模な戦闘「ナヴァリノの海戦」に発展した。結果は前者の惨敗である。この大事件(註9)について、英仏はさっさとオスマン帝国政府に謝ったがロシアはそのままオスマン帝国との戦争に突入した。ここでは詳しく書かないがその「露土戦争」もオスマン側の敗北である(註10)。ギリシアの独立は(英仏露のヒモ付きではあるが)確定的となり、エジプト軍も撤収を余儀なくされた(註11)。兵員の半数は生きて故国の土を踏めなかったという。この遠征の報酬として約束されていたペロポネソス半島の総督職は、半島が独立ギリシアの領土に含まれてしまったので貰える訳もなく、なんとかクレタ島だけを拝領した。

註9 3国連合艦隊は当初の計画では自分からは戦闘を仕掛けないつもりでいた。先に小競り合いを仕掛けたのはオスマン・エジプト側だったようだが、それがどうして大海戦に発展してしまったのか、その理由ははっきりしない。

註10 アリはこの戦争に際してオスマン政府から援軍を求められたが、さすがに断った。

註11 エジプト軍はオスマン政府に相談せずに撤退したため、わだかまりが残った。


   第一次シリア戦役

 ギリシア遠征でほとんど何も得るところなく無為に多くの兵員と艦船を失ったアリは、オスマン帝国政府に対し補償としてシリアを要求することにした。しかしオスマン側はこれを拒否した。当然である。ロシアに負けギリシアを失い、さらにシリアまで手放すなど出来よう筈がない(ここでいう「シリア」とは現在のシリア共和国だけでなくパレスチナやヨルダン、レバノンまで含んでいる)。先にアリの策謀で大提督の地位から逐われていたヒュスレヴ・パシャが帝国の要職に復帰して今度は陸軍総司令官に就任し、彼の影響もあってアリとオスマン帝国政府の仲はどんどん悪化していった。アリは新規の徴兵と財政改革、外人顧問の指導によって軍隊を再編した。特に強化されたのは海軍で、アレクサンドリアに新たに設けた工廠にて戦列鑑(戦艦)8隻・フリゲート艦15隻からなる大艦隊が建造された。ギリシア遠征で活躍したイブラヒムはこの頃の財政面での仕事にも辣腕をふるっている。

 31年11月、歩兵・騎兵8個聯隊と軍艦16隻・輸送船17隻からなるエジプト軍がシリアへと武力侵犯し、ここに「第一次シリア戦役」が勃発した。シリア遠征軍の司令官はもちろんイブラヒムである。この頃はオスマン帝国の方も近代化をはかっていたが、エジプト軍がアリという独裁的権力者とその有能な息子であるイブラヒム、アリに信服する外人顧問といった具合に人材が揃っていたのに対してオスマン軍は老大国の常として内部での権力闘争に忙しく、まともに戦える状態ではなかった。

 33年前にナポレオン軍がエジプトからシリアを攻めたことがあったが、今回のエジプト軍はナポレオンが持っていなかった海軍を有していたこともあり、往時のナポレオン軍以上の快進撃をみせた。ハイファ、スール、シドン、ベイルート等を瞬く間に占領、ナポレオンが落とせなかったアッコン要塞を半年の包囲の末に攻め落とした。32年6月の「ホムスの戦い」では「パシャ」の位階を持つオスマン軍の高級指揮官8人を捕えるという大戦果をあげた。こうしてシリアを席巻したはエジプト軍はさらにアナトリア(現在のトルコ共和国)へと侵攻した。

 オスマン政府では例の陸軍総司令官ヒュスレヴ・パシャが根こそぎ動員をかけてエジプト軍の3倍にあたる8万の軍勢を揃え、そのうちとりあえず5万3000をレシト・パシャに与えて出陣させた。こうして12月21日に起こる「コンヤの戦い」は激戦となるが、後方にいるヒュスレヴ・パシャは前線のレシト・パシャが手柄をたてるのを嫌って増援軍を送らず、そのせいでオスマン軍の大敗という結果に終わった。エジプト軍の死傷者792人に対してオスマン軍の死傷者は約3000、レシト・パシャを含む1万人が捕虜となった。

 年が開けて33年2月、エジプト軍はオスマン帝国首都イスタンブールから400キロのキュタヒヤに到達した。オスマン政府はイギリスに支援を要請したが、イギリス政府はそのころ選挙法改正問題で揉めており(註12)、他にも外交問題を抱えていたことから中東については問題を先送りとした。そこでオスマン政府はロシアに泣きついた。ロシアとオスマン帝国はつい数年前に戦争したばかりなのだが、もう面子に構っていられる状態ではなかった。

註12 イギリスは1832年に選挙法を改正し、選挙権の拡大と選挙区の再編を行ったが、そこで新たに選挙権を獲得したのは都市部の金持ちだけだったため、労働者の不満が高まった。


 これを受けたロシアは援軍として3万の軍勢と黒海艦隊を派遣してきた。無論その下心は中東における自国の影響力増大にあり、オスマン帝国内部の有力者に贈る色々なプレゼントを用意していた。と、それをみたイギリスとフランスが慌てて調停に動き出す。ロシアだけに美味しい思いをされてはかなわないからである。かくして33年3月をもって「キュタヒヤ休戦協定」の成立となり、アリは望みどおりシリアの領有を認められた(しかし形式的にはアリは今後もあくまでオスマン帝国の臣下という立場でシリアを支配するのである)。ロシアは今回の援軍派遣の代償としてオスマン帝国と「ウンキャル・スケレッシ条約」を結び、黒海と地中海を繋ぐボスポラス・ダーダネルス海峡(オスマン帝国の心臓部)に軍艦を通航させる(ロシア以外の軍艦は通航させない)権利を得た。黒海から地中海へと軍艦を繰り出すのはロシアの長年の夢であった。

   第二次アラビア戦役

 エジプトの膨張はその後も続く。36年にはアラビア半島への再遠征である。アラビアでは23年頃からワッハーブ派が勢いを取り戻していたのだが、彼等は内紛が甚だしく、エジプト軍が現れるとたちまち敗退した。エジプト軍は38年には遠くペルシア湾岸やイエメンにまで遠征した。が、こんなに四六時中戦争ばかりやっていたのでは体力が続かなくなる。たとえばシリアの民衆は最初はエジプトの支配下に入ることで暮らしが良くなると期待していたのだが、徴兵や専売制を押し付けられてすぐに不満たらたらとなった。シリアにはイスラム教スンナ派、ドゥルーズ派、キリスト教マロン派(註13)といった様々な宗派の信徒が入り組んで暮らしており、このうち特にドゥルーズ派がエジプトの支配に刃向かったため、エジプト当局はマロン派と結ぶことでこれを鎮圧した。

註13 ドゥルーズ派はシーア派の一派である。キリスト教マロン派はローマ・カトリック教会に属しながらも独自の典礼を保持する集団である。マロン派については当サイト内の「中東のキリスト教」を参照のこと。


   第二次シリア戦役

 38年5月、何度も言っている通り形式的にはオスマン帝国内の地方官(総督)という身分にすぎなかったアリは、帝国からの独立を宣言した。これはただ単にオスマン帝国の家来であることが嫌になったとかそういう訳ではなく、外国と付き合うに際して今の身分では不都合が多かったからである。オスマン帝国は16世紀から「キャピチュレーション」という領事裁判権や関税についての特権を外国人居留民に与えており、これは本来は強国オスマン帝国が弱小ヨーロッパ諸国に与えてやった恩典であったのだが、時代が進んで両者の力関係が逆転するにつれて単なる不平等条約になってしまっていた。そしてアリも、オスマン帝国の臣下である限りこの条約の規定に従わなければならないのである。(ただ、アリ自身は自分のことをあくまでオスマン帝国の支配階級たる「オスマン人」の一員であると考え、そこから独立してしまうのは心情的に抵抗が大きかったらしい。対して息子のイブラヒムにはそのような迷いはなく、積極的に帝国からの独立を主張していた)

 オスマン帝国政府はアリとの再戦を覚悟し、今度こそイギリスの支援を得ようとした。支援の代償に経済的な利便を提供しようというのである。かくして8月、「イギリス・オスマン通商条約」が締結された。その内容は「キャピチュレーションのこれまで通りの履行」「オスマン帝国全土におけるイギリス人の通商貿易権の承認」「オスマン側が賦課する関税は輸出税12パーセント・輸入税3パーセント・通過税3パーセントに固定」「全ての商品の国家独占や専売の禁止」等である。これでオスマン帝国は完璧に関税自主権を失ったことになるのだが、オスマン側としてはこの条約は「オスマン帝国全土」に適用されるのだから、綿織物の輸出や専売で潤っていたエジプト経済に痛撃を与えられて万々歳だ、と、その時点では思ったのであった。

 翌39年4月、オスマン政府はエジプト討伐軍8万をシリアに進攻させた。こうして始まるのが「第二次シリア戦役」である。オスマン帝国は前回の戦役で負けた後は外人顧問の指導のもとに軍の近代化を強化しており、優れた能力を持つ歩兵4万と騎兵6個聯隊を揃えるに至っていたのだが、砲兵隊は砲の種類が無意味に多くて混乱しており、何よりも人材がいなかった。いや、本当に人がいなかった訳ではないのだが、それを使いこなせなかった。

 6月24日、オスマン軍8万はネジブにてイブラヒム指揮のエジプト軍5万に遭遇した。オスマン軍には後にプロイセン軍の参謀総長となって全世界にその名を馳せるヘルムート・フォン・モルトケ(註14)が顧問として従っていた。モルトケはオスマン軍司令官ハーフィズ・パシャに対し「守りを固めて敵を迎え撃て」と進言したが、ハーフィズはお気に入りのイスラム知識人の「平原で戦うべき」との意見をいれた。そんな訳で始まる「ネジプの戦い」においてエジプト軍へと突進しようとしたオスマン軍の騎兵隊は、砲火で撃退されたうえに後続部隊の進撃路をふさいでしまう。モルトケは「予備の部隊を整然と前進させよ」と進言したが、半狂乱に陥ったハーフィズはいうことを聞かなかった。そのまま総崩れである。

註14 1800年生まれのドイツの軍人。最初はデンマーク軍に勤務したがやがてプロイセン軍に転職し、この頃はプロイセン参謀本部からオスマン帝国に軍事顧問として派遣されていた。58年にプロイセン軍の参謀総長となり、64年のプロイセン・デンマーク戦争、66年の普墺戦争、70年の普仏戦争にてプロイセン軍を勝利に導き、同国によるドイツの統一に多大なる貢献をする。


 「ネジプの戦い」の直後、オスマン帝国首都イスタンブールにおいてスルタン(皇帝)マフムート2世が亡くなり、長男のアブデュルメジドが即位した。その時の人事で大宰相に就任したのがこれまで何度も名前が出てきたオスマン帝国政府内の反アリ派の筆頭ヒュスレヴ・パシャである。彼は前回の戦役でロシア軍を呼び込んだ際にロシア側から色々なプレゼントを貰っており、そのことで海軍大提督アフメット・パシャに疑われていた。アフメットはヒュスレヴを疑うあまり、艦隊を率いてエジプト軍に投降するという背信行為に出た。

 ヒュスレヴは若い頃はそうでもなかったが歳をとるにつれて極端に保守的になり、政府内部に多くの政敵を抱えていた。新スルタン(まだ16歳)の母后ベズミャレム(まだ31歳)はヒュスレヴでは駄目だと見切りをつけ、改革派のムスタファ・レシトを登用した。レシトは新スルタンに各国の外交官たちの前で近代化にかける決意を表明させた。これがイギリスを喜ばせた。

   各国の介入

 イギリスはここ数年アラビア半島(イギリスとそのアジアの植民地を結ぶ経由地)の周辺に勢力を扶植する努力を続けており、その意味でエジプトがあまりに強大化するのは大問題であったし、詳しくは後で述べるがエジプトの背後にちらつくフランスの影を強く警戒していた。また、第一次シリア戦役でオスマン帝国を助けたロシアがこの機会にまた口を突っ込んでくるのを防ぐ必要を感じていた。先の戦役でロシアがオスマン帝国からもぎとった「ウンキャル・スケレッシ条約」のような、ロシアの利益のみをはかる条約をまた結ばれたら困るのである。最悪の場合、ロシアがエジプトと手を結んでペルシア(イラン)を分割し、そこからインド洋に乗り出してくる(イギリスとアジアの間に巨大な楔を打ち込む)可能性も考えられた。イギリス政府の閣僚のうち、アリを最も警戒していたのは外相のパーマストン卿である。パーマストンは後に中国においてアヘン戦争やアロー戦争、インドにおいてセポイの乱鎮圧といった帝国主義的侵略戦争を押し進める人物である。

 それにオーストリアもエジプト軍の快進撃を警戒した。オーストリアは21世紀の現在でこそ小国であるがこの頃は中欧の巨大な多民族国家であり、自分と同じような多民族の国であるオスマン帝国がこのまま潰れたりしたら(その場合は高い確率で諸民族間の騒乱が起こる)その火の粉が飛んできて大変な迷惑になると考えたのである。

 さらに、実はロシアもオーストリアと同じような理由でエジプトを警戒していた。ロシア政府は、エジプトがペルシアのカージャール朝(註15)と結んでロシア領のカフカースや中央アジアに住んでいるイスラム教徒を反ロシアに立ち上がらせるのではないかと勘ぐったのである(その意味で前述のイギリスの不安は全くの杞憂であった)。ロシアとしてはここで第一次シリア戦役の時のようにオスマン帝国に恩を売りつけるチャンスだったのだが、あまり欲張りすぎるのは危険だと冷静に判断し、ウンキャル・スケレッシ条約を撤回することでイギリスを喜ばせ、英露(とオーストリア)共同でエジプトに圧力をかけることにした。

註15 1796年から1925年にかけてペルシアを支配した国。


   ロンドン協定

 という訳でイギリス・オーストリア・ロシアの利害は一致した。この3国にさらにプロイセンを加えた4国は40年7月、「ロンドン協定」を締結した。その内容は「アリの一族によるエジプトの世襲支配権とシリア南部の1代限りの支配権だけを国際的に承認する(オスマン政府にも認めさせる)」というものであった。オスマン帝国の総督職は単なる官職であって世襲ではないのだが、エジプトだけは特例で世襲総督にしてやるからそれで満足しろという訳である。アリがこの話を10日以内に受け入れないならシリア南部の支配権は撤回、20日以内に受け入れないならエジプトの世襲支配権についても留保する。

 これに対してアリはフランスの支援を期待し、ロンドン協定の受け入れを拒絶した。エジプト軍にフランス人の顧問が勤務していたのは既に述べた通りだし、フランス政府は去る1830年に北西アフリカのアルジェリアを征服・植民地化していた(註16)ことからその維持のためにアリと結びたがっており、もっと露骨にアリの支援を通じてシリア方面に経済進出を企てたいとも思っていた。また、アリがナポレオンと同じ年に生まれたと自称していたことがフランスにおける親エジプト感情を高めていた。しかしこの頃、アルジェリアで大規模な反仏蜂起が起こっていたことや、首相ティエールの優柔不断のため、結局フランスはアリを助けることが出来なくなった。

註16 これにいては当サイト内の「アルジェリア征服」を参照のこと。


 そして、先のロンドン協定で提示された期限が切れ、イギリス・オーストリア・オスマン連合軍が当時世界最強のイギリス艦隊に運ばれてシリアに上陸してきた。さらにアレクサンドリア港(カイロの外港)が封鎖され、当時の世界で第7位の海軍力を誇っていたエジプト艦隊も身動きがとれなくなった。海路を使ってどこにでも展開出来る連合軍に対し、エジプト軍は手の打ちようもなく敗走した。さらにおまけにシリアにてイギリスの工作員に煽動された反エジプト蜂起が発生した。これまでエジプトに味方していたマロン派キリスト教徒も、第二次シリア戦役に伴う負担の増大に腹を立てて反乱軍に加わってしまった。11月5日、アレクサンドリアの沖合に集結したイギリス艦隊の勇姿をみたアリは完全に観念し、ロンドン協定の受け入れを表明した。

 戦後処理は意外と寛大であった。アリはエジプトに加えて、ロンドン協定では言及されていなかったスーダンの世襲支配権を認められた(ただしオスマン帝国の臣下として毎年年貢を払う義務がある)。これはイギリスが主張した融和策であった。しかし最盛期に15万を数えた軍隊は1万8000にまで縮小させられたうえにアレクサンドリアの海軍工廠は破壊されたし、38年8月に締結されていた「イギリス・オスマン通商条約」は言うまでもなくアリの支配地にも適用されることになった。アリ統治下のエジプト農業においては綿花の栽培に力が入れられ、工業では織物工場が熱心に運営されていたのだが、綿製品についてはイギリスも自国製品の売り込み先を探しており(註17)、エジプト製のものが邪魔になってきていた(アリは外国産の綿製品がエジプト国内に流通しないよう規制をかけていた)のである。まぁもっとも、この通商協定はエジプトよりもオスマン帝国本体の経済に深刻なダメージを与えることになるのだが……。

註17 イギリスの貿易相手は本来はヨーロッパ諸国やアメリカであったのだが、それらの国は自国産業擁護のための保護貿易に力を入れるようになり、新しい市場の開拓が必要になってきていたのである。


 アリはその後も精力的な政務を続けた。なんとか獲得したエジプト・スーダンの世襲総督職を間違いなく子孫に伝えるための準備を行い、外国から余計な疑いをかけられないよう昼行灯を演じたりもした。46年にはオスマン帝国首都イスタンブールを訪れ、これまで何度も争ってきた仇敵ヒュスレヴ・パシャと会い、昔の怨みも忘れて仲直りしたといわれている。その帰りに生まれ故郷のカヴァラに立ち寄っている。

 48年4月、重病に倒れて再起不能となったアリはエジプト・スーダン世襲総督職をイブラヒムに継承させた。しかし既に60歳に近かったイブラヒムは長年の戦いの疲れ(シリア戦役の時に結核を患っていた)で同年11月に父親よりも先に亡くなり、その跡はアリの次男トゥーソン(故人)の子アッバース・ヒルミが継ぐことになった。アリには全部で95人の子供がいたというが、正妻との間にもうけた男子は3人だけで、次男トゥーソンは第一次アラビア戦役の際に病没、三男カーメルはスーダン戦役の際に敵に捕らわれて殺されていた。

 アリが亡くなったのは1849年8月2日のことである。生年が不詳なため享年もはっきりしないが、「ナポレオンと同じ年に生まれた」という本人の自称によれば80歳であった。その2年後のエジプトでは、最盛期に24を数えた官営織物工場がたったの3つに減っていた。関税自主権をなくしたせいで他国製品との競争に負けたのと、もともと工場運営のノウハウが不足していたこと、大幅な軍縮に伴って国内の綿織物(軍服)市場が狭まったこと……による。アリの後継者たちは工業を諦めて綿花の輸出(綿製品ではなく畑でとれた綿花をそのまま輸出する)に力を入れることにした。商品作物を売って得た金で工業製品を買うという構造が出来てしまえば、後は植民地化までのレールが出来たのと同じであった。

                                             つづく


   参考文献

『西アジア史(新版)』 前嶋信次編 山川出版社世界各国史11 1972年
『カイロ』 牟田口義郎著 文藝春秋世界の都市の物語10 1992年
『中東軍事紛争史1』 鳥井順著 第三書館 1993年
『近代イスラームの挑戦』 山内昌之著 中央公論社世界の歴史20 1996年
『オスマン帝国衰亡史』 アラン・パーマー著 白須英子訳 中央公論社 1998年
『西アジア史1』 佐藤次高編 山川出版社新版世界各国史8 2002年
『西アジア史2』 永田雄三編 山川出版社新版世界各国史9 2002年
『エジプト近現代史』 山口直彦著 明石書店 2006年                                                               

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