フロンドの乱

 フランスでルイ14世が即位したのは1643年のことである。その時ルイはまだ満5歳にもならない幼児であったので国政は母のアンヌ・ドートリッシュと、宰相のマザラン枢機卿が担当した。この頃のフランスはドイツ方面の戦乱「三十年戦争」に介入して神聖ローマ皇帝やスペインと戦っている真っ最中であった(註1)。マザラン……イタリア出身でフランスに帰化した人物……は戦費を賄うために次々と新税を導入し、さらに王室の権力を増大させるために国内の大貴族の権勢を削ぐ努力を行った。

註1 これについては当サイト内の「三十年戦争」を参照のこと。


 これに強く反対したのが「高等法院」である。これは一種の司法機関で、本来は王室が地方の大貴族(旧貴族)に対抗するために設置したものであったのだが、そこの裁判官たち(もともとは平民)はそのうちに役職を世襲化して地方に根を張り、中央政府(王室政府)と対立するようになっていた(註2)。王室政府は先代の国王ルイ13世の頃から地方行政の監察・治安維持・徴税を担当する「地方総監」を派遣して旧貴族・高等法院を締め付けており、48年1月には宰相マザランが新たに7つの財政勅令を発布した。王室の出す法は高等法院に登記する必要があるのだが、マザランはこれを力づくでやってしまったのである。さらに、戦時で困窮していたことから一部の官僚の俸給を停止する(註3)とか言い出す。

註2 平民が官職(王室が財源として売りに出していた)を手に入れて貴族化(上級の官職には爵位が付随していた)したものを「法服貴族」という。それ以前からの貴族階級は「帯剣貴族」と呼ばれる(それにも大小がある。本稿でいう大貴族とか旧貴族とかいうのもこれのこと。本稿ではかなりいい加減に使い分けている)。官職の売買は昔から行われていたが、1604年の「ポーレット法」によって官職価格の60分の1を税金として毎年払えばその官職を世襲してもよいことになった。

註3 註2で述べた「ポーレット法」を今後も継続して官職世襲を認めてやるかわりに俸給を4年間停止するという案。


 首都パリの高等法院はこの年6月、「27ヶ条宣言」をぶち上げた。新規の課税は高等法院の同意を得ること、直接税の4分の1減税、地方総監の廃止……。ちょうどその頃イギリスで議会と国王の争い「清教徒革命」が進行していたため、フランスの高等法院もまた「王国の改革者」をもって任じていたのである。そこには宰相マザランが外国人であることへの反感、幼少の国王ルイ14世に対する侮りといったことも作用していた。これ(高等法院)に庶民が味方する。庶民は王室政府に徴税される立場であったし、折からの凶作に苦しんでいた。

   高等法院のフロンド

 三十年戦争の最中で余裕のない王室政府はやむなく法院に妥協、直接税の8分の1減税、国境地帯を除く地方総監の廃止を約束したが、8月20日戦地にて名将コンデ親王(註4)の軍勢が勝利(ランスの戦い)して三十年戦争の帰趨がほぼ決するや態度を変え、同月26日をもってパリ高等法院評定官ブルーセル……70代の老齢ながらも反マザランの急先鋒……の逮捕に踏み切った。日頃から人気のあったブルーセルの逮捕に激怒したパリ市民は市街に樽や荷車でバリケードをこしらえ武装蜂起した。こうして始まる内乱が「フロンドの乱」である。フロンドとは石を飛ばす子供用の玩具(註5)のことだが、叛徒たちがマザランの邸宅目掛けて投石したからこう呼ばれたという説や、叛徒たちがしばしば子供じみた行動を見せたからという説があり、正確な由来は不明である。王母アンヌは強硬に対処しようとしたが宰相マザランが妥協を訴え、とりあえずブルーゼルを釈放することにした。アンヌとマザランは肉体関係を持っていたという噂がある。

註4 彼は以前は「アンギャン公」と呼ばれていた。当サイト内の「三十年戦争」ではそう表記している。

註5 危険なため法律で禁止されていたが、学生の間で流行していた。


 10月、「ウェストファリア条約」が成立して三十年戦争に一応の決着がついた。実はフランスはこの条約では神聖ローマ皇帝と和睦しただけであってスペインとはその後もまだ10年以上も戦い続けるのだが、とにかく余裕の出来たフランス王室政府は高等法院派のパリ市民と断固対決すべく翌49年1月5日にパリの王宮を抜け出してサン・ジェルマンの離宮に入り、戦地から戻ってきたコンデ親王の軍勢1万5000を用いてパリを包囲した(註6)

註6 「ウェストファリア条約」の内容はフランスの勝利といってよいものであったが、スペインとの戦争が続いたうえに国内のゴタゴタのため、殆どの人が関心を示さなかったという。


 パリの反乱軍は足並みが揃っていなかった。主導権を握っていたのは高等法院だが、軍事に疎いので戦闘の指揮はその味方についた一部の旧貴族(例えばコンデ親王の実弟コンチ親王)がとっていたが、旧貴族は優雅な戦争ごっこがしたいだけ、パリ市民は武器の扱い方も知らず、ただ単に暴れたいだけの奴もいるといった具合で歴戦のコンデ親王軍に連敗した。あげく旧貴族たちが王室政府に勝つためにスペインと同盟したいとか言い出したため、そこまで過激でない高等法院が王室政府との交渉を開始した。また、49年1月にイギリスの清教徒革命が最終局面に入って国王チャールズ1世が処刑されるという出来事(註7)があり、基本的に自分たちの利益さえ守ってもらえるならそれで満足な高等法院(官僚らしく遵法精神がある)をびびらせてしまった。パリ市民が清教徒革命の影響を受けて暴走したら統御出来なくなるからである。

註7 その後のイギリスでは共和政府が成立。


 そんな訳で3月にはパリ高等法院と王室政府の和議「リュエイユの和」が成立したが、その頃にはノルマンディ地方やギュイエンヌ地方にも反乱が波及していたため、そちらへの対処を迫られた王室政府はパリの叛徒の罪を問わないという譲歩をした。ここまでの段階を「高等法院のフロンド」と呼ぶ。地方の反乱は年末には収束した。その前後には王室のもとにチャールズ1世の息子チャールズ(2世)とジェイムズが亡命して来た。

   貴族のフロンド

 ところが、この乱でもっとも活躍したコンデ親王がすっかり調子に乗り、日に日に横暴になっていった。宰相マザランはやむなく50年1月に親王を逮捕したが、親王の姉のロングヴィル公妃といったコンデ一門がブルゴーニュやノルマンディー、シャンパーニュ等で大規模な反乱を起こすに至る。こうして始まるのが「貴族のフロンド」である。反乱軍の主力は地方の中小の帯剣貴族(註2で説明)であった。戦闘は王室側の優勢であったがパリ高等法院や国王の叔父オルレアン公、三十年戦争で活躍した名将テュレンヌ……ロングヴィル公妃の色香に迷ったという……までもが反乱軍に加担したため、マザランは51年1月にコンデ親王を釈放して自身はドイツに亡命した。王室政府は王母アンヌが仕切ることになるが、彼女は反乱軍によって軟禁状態にされた。

 しかし反乱軍の足並みは(今度も)揃わなかった。反乱軍が制圧したパリではコンデ親王・高等法院・市民の3派が路線をめぐって対立、その情勢を利用して高等法院と市民を味方につけた王母アンヌがさらにテュレンヌの買収に成功し、コンデ親王を地方に追い出してしまった。

 しかしコンデ親王は南西部のギュイエンヌ地方で足場を固め、減税を唱えて民衆を味方につけつつ52年5月にはパリを目指して進撃してきた。王母アンヌはマザランを亡命先から呼び戻して戦力を増強したが、するとマザラン嫌いの高等法院(フロンドの乱のそもそもの発端は両者の対立)が離反する。しかし5月には「エタンプの戦い」でテュレンヌ率いる王室政府軍が勝利する。

 この時のコンデ親王軍(コンデ自身は別のところにいた)にはスペイン軍が参加していた。前にも書いたがスペインとフランスは三十年戦争が終わった後もまだ戦争状態を続けており、スペインはコンデ親王に加担するという形でフランス(王室政府)に勝利しようと目論んだのである。

 7月、コンデ親王軍がパリに接近してきた。パリ市民は高等法院と同じくマザランが嫌いなので、またコンデ親王に加担したいと思わないでもなかったが、コンデ親王軍にスペイン兵が混じっていることから城門を閉ざしてしまった。フランス人は三十年戦争でスペインと激闘し今でも交戦中なのに、コンデ親王ときたら手段を選ばないにも程があるからである。しかし……。コンデ親王軍はテュレンヌ軍の優勢な攻撃にさらされてパリ市の城壁まで追いつめられたが、突然パリ市内にあるバスティーユ要塞の大砲がテュレンヌ軍を砲撃し、城門を開いてコンデ親王軍を迎え入れてしまった。国王ルイ14世のいとこのオルレアン公女モンパンシュがコンデ親王支援を決めてパリ市民を説得したのである。この時の戦いでは後に『箴言集』を著す文学者ラ・ロシュフコー公がコンデ側の一員として従軍していたが、顔の真ん中に弾を喰らって一時的に失明したという。テュレンヌ軍の側にはイギリスのジェイムズ王子……生活に困っていた……が従軍していたが、フランス王室政府としてはイギリスの共和政府を刺激してコンデ親王の側につかせたりしないよう、ジェイムズを必要以上に優遇しなかった。

 話を戻して……、コンデ親王はまたしてもパリ市民と仲違いした。コンデ軍の貴族たちが旧来の特権の保持にこだわりすぎたからである。王室政府はもう一度パリ市民と高等法院を味方につけるため、彼等に嫌われているマザランを再度(形だけ)亡命させるという奇略でその歓心を買うことに成功した。そんな訳でコンデ親王軍は9月にはまたしてもパリを逐われ、11月にエーヌ河畔で冬営していたところをテュレンヌ軍に叩かれて亡命した。馬草が調達出来ない冬季に戦いを挑むのはこの時代としては異例であったし、この前後にルイ14世が成人に達した(といってもまだ14歳)ことも王室側を有利に導いた。ちなみにマザランがどれだけ嫌われていたかというと、48年から53年にかけて発行された反王室冊子の多くがマザランを叩いていたことから、それらの冊子を総称して「マザリナード」と呼ぶぐらいである。

 最後まで王室政府に抵抗したのはギュイエンヌ地方のボルドーであった。ボルドー市民はコンデの弟コンチ親王を戴き、上流階級も庶民も結束して王室政府に対抗していたが、やがて農民や中小商人、手工業者からなる「楡の木同盟」という組織が現れ、イギリスの共和政府との同盟をはかるようになった。しかしこの同盟は共和制や(召使い・施しを受ける者を除く)21歳以上の男子選挙権といった当時としてはあまりに過激な綱領を掲げ出したことから上層市民に離反されてしまい、同盟内部でもイギリス派とスペイン派に割れての内部抗争が発生した。けっきょくボルドーは53年7月に至って王室軍に降伏した。

 かくして、「フロンドの乱」は王室側の勝利をもって終結した。マザランはこの年2月にはパリに戻り、コンデ親王をはじめとする旧貴族の敗退によって王室の権勢がぐっと上昇した。高等法院も機能を削がれ、地方総監がそれまで派遣されていなかった地域にも送られることになった。

   仏西戦争

 ただし、三十年戦争から継続しているフランスとスペインの戦争はまだ終わっていない。コンデ親王はスペイン軍に投じてその指揮官の1人となり、改めてテュレンヌ率いるフランス軍との戦いを続けることにした。戦闘は主にスペイン領南ネーデルランド(現在のベルギー)方面で行われた。宰相マザランはこの戦争を優位に運ぶためにイギリス共和政府との同盟を模索した。フランスに亡命しているイギリス王子のうちまずチャールズ(2世)に年金を与えて穏便に追放することでイギリス共和政府を喜ばせたのである。ただし弟のジェイムズはフランス軍に勤務してスペイン軍との戦いに活躍していたため、もうしばらくフランスに留まった。が、イギリス共和政府は本格的にマザランからの同盟の話(註8)に乗ることにして54年にスペインのカリブ海植民地を攻撃、これを見たチャールズはスペイン側に加担してそちらの援助で王政復古を目指すことに決め、ジェイムズにもフランスを去るよう命令した。テュレンヌに懐いていたジェイムズは渋りつつも兄の命令に従い、スペイン軍に転職して6個聯隊をあずかる身となった。しかしジェイムズから見るとスペイン軍というのは実に能率が悪く、指揮官は兵士の前に姿を見せないし、行軍が終わるとすぐに眠りにつく習慣があった。そのことをコンデ親王に愚痴ると、「まだまだこんなもんじゃないぞ」と肩をすくめられる始末である。

註8 同盟してくれるならこの頃スペインが押さえていたダンケルクを占領し次第イギリスに引き渡すと約束した。


 そして57年、フランス・イギリス同盟が正式に成立した。まずテュレンヌの率いる英仏連合軍2万1000がスペイン軍3000の駐留するダンケルクを包囲したが、そこにスペイン側の援軍1万6000が到来する。テュレンヌは6000の兵にダンケルクの包囲を継続させ、自分は残り1万5000の兵をもってダンケルク北東の砂丘にてスペイン軍と対峙した。これが58年6月14日の「砂丘の戦い」である。砂丘の沖にはイギリス艦隊が到来して陸軍を援護する。スペイン軍の総司令官はドン・ジュアン将軍。同軍の左翼隊はコンデ親王が率い、右翼隊はドン・ジュアン直率、ジェイムズは騎兵隊を指揮することになった。右翼隊の後方には予備隊を控えてある。

 戦場となったところは海と運河に挟まれた細長い砂浜で、海岸寄りに小高い砂丘があり、そこに登ればあたり一面を見下ろすことが出来る。そのことに目を付けたスペイン軍が動いて砂丘を先取したのだが、しかしそこは海岸寄りなので引き潮になると広い平地が出来るという地勢であった。英仏軍は引き潮になるのを見計らって前進を開始し、まずイギリス軍の歩兵隊に海岸寄りから攻めさせた。潮がどんどん引いていって平地が広がると(英仏軍は)水際に騎兵を投入し、それをイギリス艦隊の艦砲射撃で援護する。これで手痛い打撃を被ったスペイン軍は予備隊を海岸方面へと投入した。スペイン軍としては英仏軍が引き潮を見計らって海岸寄りから攻めてくることまでは見当がついていたのだが、実際に海岸に展開した英仏軍は数の上では大したものではなく、艦隊の援護で火力を補っていた。つまり英仏軍は比較的に少ない陸上兵力と艦隊のみでスペイン軍の注意を海岸方面へと引き付けることに成功した訳で、「頃合いよし」とみたテュレンヌは予備隊を運河方面へと投入、スペイン軍の背後へと回り込ませた。スペイン軍は戦死者1000、捕虜5000、行方不明2000という大損害を出して壊滅した。コンデ親王やジェイムズがいくら奮戦してもどうにもならなかった。英仏軍の損害はたったの400であった。この戦いは陸上の戦闘に艦砲射撃が協力した世界初の例だそうである。

 テュレンヌ軍はさらなる快進撃を続けたが、その間にルイ14世が大病を患うもどうにか回復するという出来事があり、息子の治癒を喜んだ母后アンヌ・ドートリッシュが是非この機会にと対スペイン和平を主張した。同年9月3日にはイギリス共和政府の指導者オリバー・クロムウェルが病没、チャールズとジェイムズが故国に帰還する見込みが開けてきた。そして翌59年11月7日、「ピレネー条約」が成立し、全ての戦争が終結した。コンデ親王は赦免されてフランスに帰国した。さらにここでフランス国王ルイ14世とスペイン王女マリ・テレーズの結婚が取り決められる。60年5月8日にはイギリスのウエストミンスター・ホールでチャールズが「イギリス国王チャールズ2世」たることを宣言、フランスでは61年3月にマザランが亡くなり、以降は「太陽王」ルイ14世の親政期に入ることになるのである。

                                                                                                                                   おわり

   参考文献

『新版フランス史』 井上幸治編 山川出版社世界各国史2 1968年
『絶対主義の盛衰』 大野真弓・山上正太郎著 現代教養文庫世界の歴史9 1974年
「国際政治の展開」 成瀬治著 『岩波講座世界歴史14』 1969年
「フランスの民衆運動」 千葉治男著 『岩波講座世界歴史14』 1969
『絶対君主の時代』 今井宏著 河出書房世界の歴史13 1989年
『フランス史2』 柴田三千雄他編 山川出版社世界歴史大系 1996年
『ヨーロッパ近世の開花』 長谷川輝夫他著 中央公論社世界の歴史17 1997年
『フランス史』 福井憲彦編 山川出版社新版世界各国史12 2001年
『聖なる王権ブルボン家』 長谷川輝夫著 講談社選書メチエ 2002年
『イギリス革命史上 オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム』 友清理士著 研究社 2004年
『名将たちの決定的戦術』 松村劭著 PHP文庫 2007年

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