紀元前58年、ガリア(現在のフランス)に攻め込んだローマの総督ユリウス・カエサルは、敵対するヘルウェティー族を破り、ガリアの諸部族をほぼ全て服属させることに成功した。この戦役はカエサル自身の筆による『ガリア戦記』第1巻の前半部分に詳しいが、この後ガリアの族長たちはビブラクテにて会議を開き、その結果をカエサルへと報告してきた。「ガリアを苦しめるゲルマン人を叩いてくれ」。
ゲルマン人! すでに50年以上も前の前113年、キンブリ・テウトニ族なる一団が北イタリアへの侵入をはかり、アルプスの麓にてローマ軍との大規模な武力衝突を起こしていた。ゲルマン人はインド・ゲルマン語族に属し、元来はバルト海沿岸地方に居住していたといわれるが、前500年頃には西ゲルマン・東ゲルマン・北ゲルマンにわかれ、先住のケルト人等を追い払って広大な居住地を獲得し、特にドナウ川・ライン川・ヴィスワ川に囲まれた広大な地域(現在のドイツにポーランドの西半とチェコを合わせたくらい)を「ゲルマニア」と呼ぶに至っていた。前述のキンブリ・テウトニ族は西ゲルマン人の一部であるが、ゲルマニアの外に進んだ集団もあり、東ゲルマン人の一部はずっと東の黒海北岸にまで達することになる。彼等こそ後の「ゲルマン民族の大移動」の先陣をきることになる「ゴート族」である。
それは後の話として……ゲルマニアの西の境界たるライン川を越え、現在のフランス、当時でいうガリアへと侵入するゲルマン人の一派がここに登場する。前71年頃ガリアに起こった戦争において、一方の旗頭たるセークァニー族がゲルマン人の来援を要請し、これに答えたゲルマン人約1万5000が東ガリアへと移ってきた。彼等ゲルマン人の応援を得たセークァニー族は敵対するハエドゥイー族をさんざんに撃ち破ったが、これが結果的に「庇を貸して母屋をとられる」ことになり、勝ったはずのセークァニー族はその居住地の3分の2をゲルマン人に差し出すハメになってしまった。
ガリアに侵入したゲルマン人の王アリオウィストゥスなる人物は、ガリアのケルト諸族から人質をとり、自分の意志に逆らう者に対して残酷な仕打ちをおこなった。ローマの総督カエサルがガリア遠征を開始した頃、ガリアに移住するゲルマン人の数は12万にも達していた。
このあたりの話もカエサルの『ガリア戦記』に詳しく描かれている。同書によると、カエサルに助けを求めるガリアの族長たちはアリオウィストゥスの暴虐を訴えたあと皆で泣き崩れてしまったが、自分の領地にゲルマンの進駐を許してしまっているセークァニー族の者だけは、(その場にゲルマン人がいる訳でもないのに)ゲルマン人の影に怯えるあまり泣くことも悲しむことも出来なかったという。
カエサルはガリアのケルト諸族とゲルマン人の仲を取りもとうとしたが、ゲルマンの王アリオウィストゥスはこれを突っぱね、カエサルの方もゲルマン人を討つべく麾下の軍勢に進発を命じた。ところがローマ軍の兵士達は道々ゲルマン軍の勇猛さを聞くうちにすっかり怖じ気付き、特に、戦争の経験もないまま自分の出世のためにカエサル軍に従ってきた連中の中には、なんだかんだと理由をつけてローマに帰ろうとする者もあらわれる始末だった。
カエサルは部下たちを励まし、アリオウィストゥスとの交渉をはかろうとしたが、カエサルがゲルマン軍の陣地に送った使者はそのまま抑留され、とうとう本格的な衝突が開始されるに至った。
カエサルは麾下の6個軍団を巧みに動かし、敵左翼を弱体と見てそちらへの激しい攻撃を行った。「カエサルの親衛隊」たるローマ第10軍団の攻撃があまりにも急激だったため、ゲルマン軍左翼は槍を投げる暇もなく(当時の槍は投げ槍として使われていた)、斬り込んできたローマ兵の剣によって後方へと押しまくられた。ところがゲルマン軍右翼は得意のくさび型陣型をもってローマ軍左翼へと猛攻撃をかけ、ローマ軍全体を危機的状況に陥れた。ここにローマ軍の予備騎兵隊を率いるプブリウス・クラッススが駆けつけてきた。プブリウスの勇戦によって、戦局は一挙にローマ軍の勝利へと転回する。総崩れになったゲルマン軍はライン川へと退却し、アリオウィストゥスは小舟で川を渡って逃れたものの、多くの兵士はローマ騎兵の追撃にあってとどめをさされた。従軍していたアリオウィストゥスの妻2人と娘1人が殺され、他の娘1人が捕虜になった。一族の女性や子供を連れて戦に望むゲルマン人の習慣が裏目に出てしまった訳である。
こうして、カエサルとゲルマン人の第1戦はカエサルの勝利によって終結した。アリオウィストゥスは1年後に淋しく死に、ローマ軍の方は少し早い(9月半ば)冬営の準備にかかることにしたのであった。
現在の我々が古代のゲルマニアを知るうえで最も基本的な文献となるのは、すでに登場したカエサルの『ガリア戦記』と、タキトゥスの『ゲルマーニア』のふたつである。
プーブリウス・コルネーリウス・タキトゥスは西暦56年頃、父の任地ベルギガ属州(現在のベルギー)に生まれたとされ、早くからローマに住んで、20歳の頃には軍団副官となり、ちょうどその頃ブリタニア属州(現在のイギリス南部)からローマ本国の執政官に転任してきたグナエウス・ユリウス・アグリコラの娘と結婚して、名実共に上流階級入りを果たした(註1)。26歳で元老院議員となり、29歳で護民官、32歳で法務官と昇進を続け、各地の軍団長を歴任した(といわれる。10年程の空白がある)後、41歳で執政官に就任した。もっとも執政官としてのタキトゥスの業績はほとんど知られておらず、その後いつ頃死んだのかも定かでない。
註1 アグリコラはスコットランド遠征で有名。タキトゥスの筆による詳細な伝記がある。
タキトゥスの主たる名声はやはりその文筆によるものである。最初の著作『弁論家についての対話』を著したのが24歳頃、岳父の活躍を描いた『アグリコラ』が42歳頃の作品とされている。ただし『弁論家についての対話』は40歳過ぎの作との説もあり、タキトゥスの生涯にはどうも不明瞭な部分が多い。
『アグリコラ』とほぼ同時期に書かれたのが『ゲルマーニア』である。タキトゥスは一時期ゲルマニア近くの属州総督もしくは軍団長であったらしく(複数の資料がその可能性を示唆しているが、確証はない)、怠惰に流れるローマ帝国への警鐘として、北方に勃興しつつある若い民族の剛健な姿を描き出そうとした、というのが一般に語られる 『ゲルマーニア』執筆の動機である。
ちょっと話がズレるが、せっかくだからタキトゥスの話を続ける。
次の作品が『同時代史』である。この書物では暴君ネロの死後の内乱から、西暦96年のドミティアヌス帝の死までの27年間を対象とする全12巻の大作だが、現在に伝わっているのは最初の2年分の話だけである。
約10年の月日をかけて完成した『同時代史』の次、タキトゥス最後の作品となったのが『年代記』である。同書は時代的には『同時代史』に先行するものであり、初代ローマ皇帝(元首)アウグストゥスの死からネロの死までの55年間の歴史をつづるものである。もっとも、こちらの方も全体の約3分の1が欠損しており、肝心のネロの死のくだりも読むことが出来なくなっている。(岩波文庫収録の国原吉之助訳『年代記』では、その部分が年代記風に略記されている)
話を戻す。『ゲルマーニア』である。
この著作は全部で46章からなり、どれもごく短い記述である。大きく2部に分かれ、第1部はゲルマニアの土地・習俗を描き、第2部ではゲルマン人の諸族を紹介している。第2部の記述から、当時のゲルマン人は、約50の「キヴィタス」なる小国家にわかれて暮らしていたことがわかる。キヴィタスの中で最高の権力を持つ者は「国王」もしくは「首長」であり、前者は1人、後者は数人が君臨するという違いがある。
国王・首長の下には、貴族・自由人・解放奴隷・奴隷という身分が存在した。以下、『ゲルマーニア』第1部の記述をもとに、ゲルマン人の社会・生活等を見渡してみよう。
戦争・講和・移住・裁判など、重大な問題は「民会」にかけられる。武器を持つ自由民は全員出席出来るが、実際に話し合うのは首長や貴族だけで、他の者はそれに対し承認・否認の意志を示すだけである。反対の場合はざわめき、賛成の場合は武器を打ち鳴らす。「最も名誉ある賛成の仕方は、武器をもって称讃することである(タキトゥス)」。
これは重要な話である。武器を持つことはすなわち一人前の男たる証なのである。ある一定の年齢に達した男子は、長老・父・近縁の者によって楯とフラメア(槍の一種)を与えられ、これによって自由民たる資格を得たのである。
貴族には「従士」が付き従う。従士は貴族の子弟および自由民である。その地位は高く、中世の「騎士」に近いものであるが、騎士が(主君にもらう)領地とひきかえに主君への忠誠を誓うのと違い、従士は主君の家で養われることになる。従士は主君を選ぶことが出来、主君は戦場において従士に遅れをとることを恥とする。
奴隷は主人に対し一定量の穀物・家畜・織物を納めるが、主人の家から独立した世帯と住居を持つ、小作人のような存在である。鎖に繋がれたり鞭で打たれたりすることはあまりない(ただし簡単に殺される)。奴隷にはゲルマン人に征服されたケルト人が多いが、ゲルマン人の中にも、自分自身を賭けた博打に負けて奴隷におちる者もいる。彼等は自己の自由を買い戻して解放奴隷になることが出来るが、どこの「家族」にも属さない以上、一人前の自由民として認められることはない。
タキトゥスによると、ゲルマン人は他の民族との通婚を一切しないことから種族的な純粋さをよく保っており、人口が多い割にその「鋭い空色の眼、ブロンドの頭髪、長大かつ強靱な体躯」を種族全員の特徴として誇っていた。もちろんこの記述にはローマ人タキトゥスの主観が混じっており、ゲルマン人が本当に何の混血も行っていなかったかどうかは疑わしいのだが……。ちなみに現在あちこちで発掘される古代ゲルマン人の遺骨の身長は平均1.72メートルであるといい、同時期のローマ人の平均身長より約20センチ高い。またゲルマン人のブロンドの髪がローマ人の讃嘆の的であったのは有名な事実で、ローマ人はゲルマン人の頭髪を買い取ってカツラとして用いていた程だったという。
もちろんその金髪はゲルマン人自身にとっても大変な誇りであって、髪の手入れをする櫛は死後の墓の中まで持ち歩いていたし、髪を切られることはすなわち不名誉な刑罰であった。中には黒や茶色の髪のゲルマン人もいたが、彼等は漂白剤を用いて人工的にブロンドの髪をつくりだしていたという。一説によるとそれはお洒落のためではなく、戦場で敵と間違われるのを防ぐためであったというのだが……確かにありそうな話である。
ゲルマン人の1日は日没から始まって翌日の日没に終る。これは夜型の生活を送っているという意味ではなく、日にちを数えるのに昼ではなく夜の数を数えるという意味である。これは、正確な時間を把握するのには、太陽の動きよりも、月の満ち欠けを見る方が便利という発想からくると考えられ、民会の召集も新月あるいは満月の日を期して行われる。「あたかも夜が昼を導くかのようである(タキトゥス)」
ゲルマン人は朝目覚めるとまず沐浴し、食事はその後にとる。沐浴に際しては、脂肪と灰からつくった石鹸が用いられる。貴族クラスだと湯を用いるが、一般は河川での水浴である。食卓には獣の肉(生で食ったり薫製にしたり)・パン(のようなもの)・柔らかいチーズ等の乳製品・野菜・魚等々が並ぶ。バターもあったが食するのは富者のみである。調味料は、岩塩程度のものはあり、岩塩坑をめぐる戦争も行われていた。食事は一人一人別の卓を用いる。酒類としてはもっぱらビールを嗜むが、ローマ産の葡萄酒もよく飲まれる。ローマ帝国は政策としての葡萄酒輸出を盛んに行った。ゲルマン人をアル中の腑抜けにするためである(マジで)。 「彼等は渇き(飲酒)に対して節制がない。もしそれ、彼等の欲するだけを給することによって、その酒癖をほしいままにせしめるなら、彼等は武器によるより、はるかに容易に、その悪癖によって征服されるであろう(タキトゥス)」
成人男子の仕事は、戦争以外には狩猟ぐらいしかない。農業や家事は女性・老人・奴隷の仕事である。男共がつね日頃なにをしているのかというと、ただひたすら飲んで騒いで喧嘩しているのである。そもそも、略奪によって獲得出来るものを、わざわざ働いて得ようという方が(ゲルマン人にとっては)よっぽど無能なことなのである。ただし意外というか何というか、少なくとも若いうちは女遊びはしない。『ガリア戦記』によると、ゲルマニアの若い男は童貞を守ることによって頑強な肉体を手にすることが出来ると考えており、20歳前に女性を知るのを恥としていたという。
成人してからも、基本的に妻は1人だけである(国王クラスは別)。婚姻の際には夫が妻に贈り物をする。それは牛・馬・剣・槍・楯である。ゲルマン人の一夫一婦制はタキトゥスも称讃するところであり、(彼によると)姦通すら滅多にないという。万が一不義密通を働けば、その女性は髪を切られて裸にむかれ、鞭によって家から追い出される。
ゲルマニアには都市は存在しない。村すらつくろうとせず、仮につくっても、それぞれの家の周囲に広い空き地をめぐらしている。ローマ建築では一般的な切り石やレンガもあまり用いない。地下に穴を掘って貯蔵庫にするが、これを婦人の織り場として用いることもある。
ゲルマン人は古来太陽・月・星・火等を崇拝していたが、それを「ヴォーダン」「トール」などの人の形に置き換えたのはローマの影響によるという。タキトゥスはヴォーダンをメルクリウス(ギリシア神話のヘルメス)、トールをマルス(アレス)と呼び、エジプトの女神であるイシスへの信仰もあったという。またタキトゥスは、ホメロスの叙事詩で名高いユリシーズ(オデュッセウス)がゲルマニアに漂着したとの伝説を伝えている。ユリシーズはこの時現地に都市を建設したとされ、タキトゥスの時代にも、ギリシア語を彫り込んだ記念碑や墓が存在していたという。「わたくしには、こういう事柄を、一々証拠をあげて立証する気もなければ、敢えてまた否認する心もない。要は人々、各々その性に従い、あるいは信を措き、あるいは措かなければよいのであろう(タキトゥス)」
僧侶のような職業としての聖職者は存在せず、家父長や部族の長が宗教的な儀式を主宰した。聖なる山の頂上、樹木のそば(註2)、泉のほとり等で、夏至・冬至・新月などの際、動物や人間を犠牲に供していたようである。(『ガリア戦記』では、ゲルマン人の神は太陽・月・火だけで、それ以外のものは噂も聞かないという。『ガリア戦記』は『ゲルマーニア』より150年ほど前の著作である。また、現在巷間に流布する『ゲルマン神話』の多くは13世紀頃に成立したものである)
註2 例えばザクセン族のイルミンスル。この樹は天空を支えていると信じられていたが、772年フランクの王カールによって破壊された。
ゲルマン人は戦に際して攻撃を重視し、身軽に動けるようにと、鎧も兜も身につけない。身を護る楯は木製で、皮と鉄の枠で補強してある。戦場に出るに際して身を飾ることはないが、盾だけはカラフルであった。右手にはフラメアという槍の一種を持つ。長さ1.8〜2メートル、重さ1.5〜1.8キログラム位のこの武器は投げにも突きにも用いられ、鋭い鉄製の穂先は両刃の木の葉型、敵の体に突き刺して引き抜く時に激しく揺さぶると、傷口が広まって治りが遅くなるという。 戦術は、くさび形の陣形をとって敵の懐に突っ込むというものである。彼等は突進には強いが負傷には弱いと紀元16年にゲルマン人と戦ったローマの将軍ゲルマニクスが語っている。ただし、その後ゲルマンとローマが接触が多くなるにつれてローマ製の武器が流れ込むことになる。騎兵もいたが、馬の体格も乗馬技術もローマから見れば甚だしく劣ったものであった。
ゲルマン兵の装備はローマ軍のそれと比べると極めてお粗末なものであったが、その各部隊はすべて家族や類縁の者によって編成されていた。戦場の後方には一族の女たちが控えている。彼女たちは負傷した夫を介抱し、食料を運ぶが、「すでに敗色があらわれ動揺に陥った戦列が、女達の激しく嘆願し、胸をうち露わして自分達の捕虜となる運命のまのあたりに差し迫っていることを示したために、ついに立て直されたものがいくつかあったことが伝えられている(タキトゥス)」もっともこれはカエサルには通用しなかったのだが……。
『ゲルマーニア』が書かれたのは西暦100年頃であるが、その後のゲルマニアの様子はさっぱり分からなくなる。『ゲルマーニア』第2部に登場する約50の小国家「キヴィタス」は4世紀に始まる「ゲルマン民族の大移動」の時代にはほとんど消滅・交替し、その過程においていかなる離合集散があったのかは現在の我々には知ることが出来なくなっている。
もちろん断片的にはローマ側の記録によって窺うことが可能である。そもそもゲルマニア方面の経営はローマ帝国にとって重要なもので、タキトゥスの生きた時代にも、数十年の歳月をかけてライン川中流とドナウ川上流を結ぶ長城(全長548キロ)が築かれている。少し話が前後するが、カエサルの跡を継いだアウグストゥスはゲルマニアへの数次に渡る遠征を企図し、西暦9年にはウァールスの率いるローマ軍3個軍団が、「トイトブルクの森」にてゲルマン軍の攻撃にあって全滅するという事件が起きている。その報告を受けたアウグストゥスが悲しみと狼狽のあまり、その後何ヵ月もの間「ウァールスよ、余の軍団をかえせ!」と叫び続けていたのは有名な話である。アウグストゥスの軍団は、ゲルマン人以外のいかなる敵にも敗れたことがなかったのである。
しかしアウグストゥスに続くティベリウス帝の時代にもゲルマニアへの攻撃は続行され、ガリアとゲルマニアを隔てるライン川の流域に50の軍事拠点と8万の軍勢が置かれることになる。この地域には1世紀末頃にマインツを首都とする上ゲルマニア、ケルンを首都とする下ゲルマニアの2つの属州が置かれ、ローマの先進文化が大いになだれ込むことになるのである。
ローマの商人たちは、「自由ゲルマニア」、つまりローマ帝国の支配下に入っていない地域にも盛んに進出していた。ローマ商人が持ち込む品は葡萄酒・食器・ガラス製品・石臼等々であり、かわりに琥珀・毛皮・女性の(ブロンドの)頭髪・奴隷(当然ブロンドの方が高値がつく)等々を持ち帰った。
ゲルマン人もまたローマ帝国領に入り込んでいた。ローマ史上に名高き五賢帝の最後を飾るマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の時代、マルコマンニー、クワディー等のゲルマン諸族がローマ領に侵入し、これらのゲルマン軍は撃退されたものの、ローマ軍に協力したいくつかのゲルマン諸族のローマ帝国領居住が認められることになった。また、ちょうどこの頃帝国内で流行したペストの猛威によってイタリアの人口が激減したため、捕虜になったマルコマンニー族数千人が北イタリアに住まわされ、労働力の足しにされるということもあった。
帝国内に移り住んだゲルマン人はもっぱら傭兵として用いられ、彼等は本物のローマ兵よりも役に立っていた。現在ドイツ各地で発掘されるローマ貨幣の多くは、ローマでの軍隊勤務を終えたゲルマン人が給料として持ち帰ったものであるともいう。
そして、ゲルマン人の受け入れが始まった五賢帝の治世から後、ローマ帝国自体の性質が大きく変わりつつあった。ここで再び話題を変えて、ローマ帝国の変質の過程をざっと眺めてみることにしよう。
初期のローマ帝国では、帝国発祥の地であるイタリアの、他の属州に対する政治的経済的優位は絶対的なものであった。しかし、これは時代の進行と共に崩れ、逆に、経済的に力をつけた属州がイタリアを圧倒するようになり、帝国中枢の要職や、しまいには皇帝の位にまで属州出身の非イタリア人が進出することになる。
212年、カラカラ帝が発した「アントニヌス勅令」によって帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられ、さらに3世紀末のディオクレティアヌス帝の改革によって、紀元前167年以来イタリアのみに認められていた免税特権が廃止され、イタリアとそれ以外の属州との区別がなくなってしまった。
軍隊の非イタリア化も急速に進んでいった。アフリカ出身の皇帝セプティミウス・セウェルスによって、それまでイタリア人のみで編成されていた親衛隊が解散され、新たに属州民による親衛隊がつくられたのが2世紀の末、ローマ軍全体の士官学校的な役割を果たしていた親衛隊の変質は、当然ながら他の軍団の非イタリア化にも拍車をかけることになった。
そしてゲルマン人も大量に軍隊へと流入した。(少し話が飛ぶが)4世紀以降のいわゆる「ゲルマン民族の大移動」に際して、ゲルマン軍を迎え撃つローマ軍の将軍がこれまたゲルマン出身の武将であった。この頃のローマには帝国に侵入するゲルマンの軍勢を追い出すだけの力がなくなっており、むしろそのゲルマン軍を自軍に雇い入れることによって急場をしのごうとしたのである。
ローマ軍の変質を象徴するようなエピソードをいくつかあげてみよう。例えば392年、帝国のキリスト教受け入れに反対するローマ貴族エウゲニウスの反乱がおこったが、この時エウゲニウスを助けたのはゲルマン人の武将アルボガスト(フランク族)であった。また、西ローマ帝国最後の名将として、敵対するゲルマン軍を何度も撃ち破ったスティリコもゲルマン人(ヴァンダル族)だったのである。
前者のエウゲニウスの反乱の際、反乱軍は古来のローマの最高神ユピテルの像を掲げ、対する皇帝テオドシウスはキリスト教の神に祈りを捧げていたが、実はどちらの軍勢も主力を占めるのはゲルマン人であって、テオドシウス側のゲルマン傭兵隊長アラリックは、その後帝国に反逆してローマ市を占領、大略奪を行うことになる。アラリックに対抗できる唯一の将軍であったスティリコは、その時すでに帝国内の政争の犠牲になって処刑されていた。ゲルマン出身だが帝国に忠誠なスティリコが、帝国を脅かすゲルマン軍のイタリアへの侵入を防ぐために、イタリア人を徴兵しようとしてイタリア人の反発を喰らったからである。それまでスティリコに従っていたゲルマン兵たちはその多くがアラリックのもとに逃げ込み、アラリックのローマ攻略に与って力となった。そんな馬鹿な話があるかと思うが、最終的に西ローマ帝国がゲルマン傭兵隊長オドアケルに滅ぼされたのも、直接の原因は(ローマに味方する)ゲルマン軍への給与の支払いが滞ったからであった。
「ゲルマン民族の大移動」の詳しい話は本稿の述べるところではない。しかし、以下の話を避けることは出来ないであろう。大移動の話だけ聞いていると、ローマ帝国は雲霞の如く押し寄せるゲルマン人の大群に呑み込まれてしまったかのような印象を受ける。しかし、実際にローマ領に侵入したゲルマン人は多い部族で10万程度であり、侵入を受けた地域の人口の方が圧倒的に多かったのである。そして、征服されたローマ系の人々にとって、新しい支配者ゲルマン人は、あいもかわらず「訳のわからぬ言葉を喋る蛮人」であり、信じる宗教もまるで異なっていた。大移動の時代、ゲルマン諸族の多くはアリウス派の異端のキリスト教……しかも日本の隠れキリシタンのように変質しきったキリスト教……を信じるようになっていたが、ローマ系の住民は正統的なカトリックの信者だったのである。
ゲルマン・ローマ両者の融合はまるでなされず、しかも西ローマ帝国が滅亡した後も東ローマ帝国の方は健在であって、6世紀になって勢いを盛りかえした東ローマ皇帝ユスティニアヌスの大攻勢により、もともと少数だったゲルマン人達は簡単に蹴散らされてしまう。ローマ帝国にゲルマン民族の流入が始まったのは紀元1世紀の前後だが、ゲルマンが完全にカトリックを受け入れ、(西ローマ帝国末期に「キリスト(カトリック)教社会」に変質した)ローマ社会との完全なる融合を果たすのは、ゲルマンのフランク王カールが、カトリックの代表者ローマ教皇から皇帝の冠を受ける西暦800年まで待たねばならないのである。
おわり
『ゲルマーニア』 タキトゥス著 泉井久之助訳 岩波書店
『年代記』 タキトゥス著 国原吉之助訳
『謎の民族 原始ゲルマン人の秘密』 S・F・ファビアン著 片岡哲史訳 佑学社
『蛮族の侵入〜ゲルマン大移動時代〜』 ピエール・リシュ著 久野浩訳 白水社文庫クセジュ
「古ゲルマン時代」 野崎直治著 『ドイツ史1』 山川出版社世界歴史大系
「イタリアと地中海世界」 弓削達著 『イタリア史』 山川出版社世界各国史
『ローマの歴史』 I・モンタネッリ著 藤沢道郎訳 中央公論社
『ローマ帝国衰亡史1』 ギボン著 中野好夫訳 筑摩書房
『ゲルマンとダキアの戦士』 ピーター・ウィルコックス著 斉藤潤子訳 新紀元社
その他