ドイツの植民地 第2部 南西アフリカ

   南西アフリカの建設   目次に戻る 

 現在のナミビア共和国地域に最初に訪れたヨーロッパ人は大航海時代(15世紀)のポルトガル人であったが、彼らが上陸した地点は砂漠地帯であったことから入植や商業活動はなされなかった。1786年になるとイギリスがこの地に流刑地を設定しようとしたが、想像以上に過酷な土地だったことから中止した。1793年になってやっとオランダがナミビア中部大西洋岸のワルビス湾……この地域で唯一の深水港……の領有を宣言、しかしこれは2年後イギリス軍に奪われた。続いて19世紀の中頃になるとドイツ人の宣教師が訪れ、キリスト教の布教活動を展開した。これはそこそこ進展したらしく、1858年にナミビア各地の首長多数が参集して締結したという「ワハナス平和条約」の冒頭には「聖なる三位一体、すなわち父と子と精霊の名において……」という文句があり、署名した首長の中にはヘンドリック・ヘンドリックスとかダヴィッド・クリスチャンとかいう西洋風の名前が見える。

 時代が進んで1883年、ドイツのブレーメンの貿易商人アドルフ・ルーデリッツが大西洋沿岸部のアングラ・ペケナという入り江に助手のハインリヒ・フォーゲルザングを派遣、そこに住んでいたベタニア族の首長ヨーゼフ・フレデリクスから入り江の周囲5マイルの土地を購入した。ベタニア族はイギリス人と付き合いがあったので、契約書にある「5マイル」のマイルというのは「イギリス・マイル(1600メートル)」のことだと思ったが、これが実は「ドイツ・マイル(7500メートル)」であったため、ベタニア族は自分の土地のほとんどをとられてしまった。

 そしてドイツ本国政府は1884年4月24日、その地がドイツ帝国の保護下にあることを宣言した。これがドイツの海外植民地第1号「南西アフリカ」である。同年〜翌年にかけて開かれたアフリカ分割に関する「ベルリン会議」によって国際的な承認を受けたが、1795年以来のイギリス領であるワルビス湾だけはドイツ領にならなかった。イギリスはドイツの動きに対抗し、南西アフリカの東のベチュアナランドを植民地化した。現在の「ボツワナ共和国」である。

 ドイツはベタニア族のみならずその周辺の諸部族とも「保護条約」を結んでいった。それを憂慮してワルビスのイギリス行政官に接近した(第三者を割り込ませることでドイツを牽制しようとした)ナマ族の首長ヘンドリック・ウィットブーイのような人物もいたが、むろん彼が期待したような返事は貰えず、(ナマ族は)しばらくドイツ軍に抗戦した末に保護条約を受諾した。90年には東アフリカの項で説明した「ヘリゴランド・ザンジバル協定」に絡んで、イギリス植民地のうち南西アフリカとザンベジ川をつなぐ細い回廊がドイツ側に譲渡された。現在のアフリカの地図をみてみるとナミビア領の北東部がボツワナ・ザンビア領の隙間に突き出しているが、それはこの時代のドイツとイギリスの取引の結果なのである。

 南西アフリカの大西洋沿岸部は不毛の砂漠に覆われていたが故にそれまであまりヨーロッパ人がやってこなかった訳だが、その砂漠にも原住民は住んでいたし、内陸部の「中央高原」は良好な気候に恵まれていたことから総勢1万3000人ほどの白人が入植した。「植民」の規模としてはここがドイツ植民地中最大である。その子孫の多くは21世紀の現在でもナミビアに根を張っており(約1万8000人)、ドイツ風の町や建築物があってドイツ語が通用したりする。後にナチス・ドイツの空軍総司令官として活躍するゲーリングの父もここで働いていたことがある。ドイツ本国においては植民地の獲得は以下のようにして正当化された(1894年に書かれた子供向けの本)。「ドイツ人の熱心さとドイツ人の活力が、重要な活動領域を獲得しました。今や、これらの国々を身近なものとし、野蛮人の子孫であるこれらの人々を道徳性の輝ける高みにまで導いていくことが、ドイツ人の仕事になったのです」。

 南西アフリカの主産品はダイヤモンドや金や銅といった鉱物資源と農業で、開発に必要な鉄道建設用地や入植者の農園用地が原住民から安値で買いたたかれた。土地を失った原住民は鉄道や鉱山で(劣悪な環境下で)働かざるをえなくなる。ドイツ人入植者は軍隊の後ろ盾のもとに原住民にどんな横暴を働いてもほとんど処罰されず、94年からは牧畜業に目をつけて、植民地の中部に住んでいた遊牧民ヘレロ族の牛を略奪してまわった。以下はドイツ弁務官パウル・ロールバッハの台詞。「南西アフリカにおける植民地化が決定されるということは、まさしく、牛を放牧していた土地を原住民から取り上げ、そのまったく同じ土地で、白人に自分の牛を放牧させることを意味する。この立脚点の道徳的権利が疑問視されるとしたら、こう答えよう。南西アフリカ原住民のような文化水準の人々にとって、民族の気ままな野蛮状態が失われるとともに、白人に従属し白人に奉仕する労働者階級が発展していくことは、本質的にもっとも高度な存在法則なのである、と。ある国民をそれぞれの個体について考えるならば、その存在は、全般的な発展にとってどの程度役立つかに応じて正当化されるように思われる。人類全般もしくはドイツ民族が発展するためには、南西アフリカの諸人種による民族の独立、民族の繁栄、政治的な組織の多少の温存の方が、白人種がこれらの人種のかつての領地を所有して彼らを利用することよりも大切である、もしくはそれと同じくらい大切だ、などということは、どんな理由をもってしても示すことは出来ないのである」。南西アフリカ総督テオドール・ロイトバインはもっと正直に、「あらゆる植民地化の最終目的は、……その観念的で人道主義的な附属物をぜんぶ取り払ってしまうならば……、結局のところ単なる商売にすぎないのである。植民地化する人種は、植民地化される国の原住民に対して期待されうる富をもたらそうという意図などもっていない。そうではなくて、植民地化する人種は、まず第一に彼ら自身のための利益を追求しているのだ……したがって、植民地化の方法について言えば、そこには基本的に1つの指針しかない、すなわち、野心的な商売に向かって最も安全なやり方で導いてくれる指針である」と語った。

   ヘレロ族の反乱   
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 たまりかねたヘレロ族は1904年1月、部族の最高首長サミュエル・マハレロに率いられて7000人規模の大反乱を起こし、土地と家畜を奪い返してドイツ人約100人を殺した。ドイツ植民地軍はこれをなかなか鎮圧出来なかった。ヘレロ族の戦闘力を軽くみていた上に、総督ロイトバインの思惑として、ヘレロ族を降伏させたら労働力として使いたいという考えでいたことから、あまり大量の死者が出るような戦術は使えなかったのである。しかし6月に1万5000の軍団を連れて着任してきたフォン・トロータ将軍……東アフリカでのヘヘ族鎮圧や中国の「義和団の乱」鎮圧に活躍した人物……は遠慮なくヘレロ族を浄化することにした。まず8月の「ヴァーテルベルクの戦い」でヘレロ軍主力を大破したが、その程度では満足しないトロータは10月2日、後に「皆殺し命令」と呼ばれることになる以下の布告を発した。「私はドイツ軍大将として、ヘレロの諸君にこの手紙を送る。ヘレロ族はもはやドイツの臣民ではない。すべてのヘレロ人は、この地を去らなければならない。そうしないのであれば、私は鉄砲をもって強制的にヘレロ人を追い出すことになろう。ドイツの国境線の内部で発見されたすべてのヘレロ人は、銃を持っていようがいまいが、牛を持っていようがいまいが、射殺されることになる。もはや女性だろうと子供だろうと受け入れるわけにはいかない。私は彼らを仲間のもとに追い返すか、または射殺するだろう。これがヘレロ人に対する私の決定である」。

 大砲と機関銃の前に追い散らされたヘレロ族は水も食糧も殆どないカラハリ砂漠に退却し、6〜8万人いた部族民のうち7〜8割が死亡したといわれている。生き残った者の大半はドイツ軍に降伏して収容所(さすがに浄化はまずいと考えた本国政府の指示で設置されたという)に送り込まれ、3000人程度がイギリス領に逃げ込むという結果となった。

   ナマ族の反乱   
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 植民地の南部に住むナマ族も、ヘレロ族より半年ほど遅れて反乱を開始した。ナマ族は無論ヘレロ族と同盟を結んだが、東アフリカのマジマジの反乱のような宗教的な媒介を用いずに共闘したことにその特徴がある。ただしナマ族は全部族が一斉に立ち上がった訳ではなく、まずジャコブ・マレンゴという人物(宣教師と一緒にヨーロッパに渡ったことがある)が1904年8月に数百名の部下を率いてドイツ軍の軍馬を奪取することから戦闘開始、その時点ではドイツ軍に加担していた(ナマ族の)ヘンドリック・ウィットブーイの一派も10月には反乱に立ち上がった。ドイツ軍はまず先にウィットブーイ隊を叩こうとしたが、そうすると別の地域でマレンゴ隊に暴れられて損害を出すという有り様である。さらにそれらとは別にコルネリウス・フレデリクスという人物が反乱を起こし、ドイツ参謀本部も驚くほどの効果的なゲリラ戦を展開した。1905年に入っても一進一退の戦闘が続き、特に大規模な戦いとなった10月23日の「ハルテビーストムントの戦い」ではドイツ兵17名が戦死している。しかし同月末にはウィットブーイが戦死(彼は70歳を過ぎていた)、その部下の中にはドイツ軍に投降する者も出た。その一方で、ナマ族を支援したという罪で植民地当局に処刑されたドイツ人や、本国議会に内部告発をしたせいで懲戒処分を受けた(ドイツ人の)下級官吏もいた。

 翌1906年の2〜3月、ドイツ軍はフレデリクス隊に攻撃を集中してこれを全滅させ、次にマレンゴ隊へと目標を切り替えた。戦いに耐えられなくなったマレンゴはイギリス植民地に逃走、そちらの警察に自首して保護を求めた。マレンゴとしては当時のイギリスがドイツと対立していた(註1)ことを利用出来ると思ったのだが、イギリスはマレンゴを歓迎せず、数ヶ月に渡って彼を拘留、釈放後も監視下に置いた。この頃の独英関係は確かにあまり良好ではなかったが、マレンゴが期待した程に険悪な訳でもなかったのである。マレンゴはやむなくイギリス領とドイツ領の境界地帯の山岳部に逃れ、新兵を募って戦闘を再開した。ドイツは鎮圧軍を差し向け、イギリス軍もこれに協力した。そして9月20日、マレンゴはイギリス軍との戦いの最中に戦死、彼の部下たちも翌年3月にはドイツ軍によって完全に鎮圧されたのであった。

註1 東アフリカの項では両国が同盟するかもしれないという話が出ていたが、それは結局実を結ばなかったのである。詳しくは後述する。


 以上、このドイツ植民地史上最大の反乱によってナマ族は人口の半数を失い、ドイツ側も1447名の死者を出した。この惨事の後遺症としてドイツ人の経営する農園や鉱山が労働力の不足に悩むようになったため、植民地の北部に住む諸部族(反乱に参加しなかった)が出稼ぎ労働者として導入されることになった。ドイツ当局は原住民を部族ごとに約20の「居留地」に押し込め、白人と黒人の結婚禁止、黒人の移動を制限するためのパス制の導入といった人種隔離政策を推進した。

 ヘレロ・ナマ族の反乱はドイツ本国の政局にも影響を与えた。社会民主党は植民地軍のやり方があまりにも過酷であると訴えたが、1907年のドイツ帝国議会選挙では植民地の経営を通じて本国の失業者を救済すべしと唱えた保守・自由主義諸派が勝利、社会民主党は大敗を喫した(81議席から43議席に急落。ただし得票率は32パーセントから29パーセントに落ちただけ)。もちろん、東アフリカの項でも説明した通り、ドイツ政府はあんまりにも厳しいやり方は問題があるとして色々と再考するようになるのだが、社会民主党はこの選挙に際して、では具体的にどうすればいいのかという政策を提示することが出来なかったのである。そこで社会民主党はこの選挙以降、「植民地必要悪論」を唱えるようになる。ドイツの労働者が高い生活水準を手に入れるためには植民地の獲得が必要であるし、党の唱える社会主義の理論によれば人類社会は未開野蛮な状態から資本主義社会を経過して社会主義社会へと進歩する(註2)ことになっているので、いま未開野蛮であるアフリカは「植民地化という名の資本主義」の洗礼を受けることで社会主義に進むことが可能となる、という訳である……。(そして社会民主党は12年の選挙で大勝し、議席数1位に躍り出る)

註2 この理論については当サイト内の「ロシア革命第1部その2」を参照のこと。

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