ドイツの植民地 第4部 ニューギニア
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現在のパプア・ニューギニア地域の存在は16世紀からヨーロッパ人に知られていた。その南のオーストラリア大陸では18世紀の後半からイギリスによる植民地の建設が始まるが、ニューギニアはヨーロッパ人にとっては居住条件が悪くこれといった資源も見当たらなかったことからほぼ放置されていた。しかし19世紀に入ると航海者や学者や宣教師や商人がかなり頻繁に訪れるようになり、その中には長期間に渡って滞在する者も現れた。
ドイツ勢力は1873年に民間商社ゴッドフロイが進出して交易を開始、75年には軍艦「ガゼル」がニューギニアの北東に散らばる島々を探検し、78年には同じく軍艦「アリアネ」がビスマルク諸島ニューブリテン島の一部を雑貨と引き換えに原住民から購入した。ゴッドフロイ社は79年には経営困難に陥ったため、銀行家アドルフ・フォン・ハンスマンの設立した「ニューギニア商会」が業務を引き継ぐことになった。
そして84年10月、ニューギニア本島北東部のマダン地方の原住民がドイツ人の植民を認める旨の協定書に調印するに至る。まぁ「調印」と言っても、原住民(ドイツとの交易で鉄製品を欲しがった)は読み書きが出来ないため、紙切れに「X」と書いただけであったが。続いて11月、軍艦「エリザベート」がビスマルク諸島やアドミラルティ諸島の各地にドイツ国旗を掲揚した。この動きに対抗してイギリスも、10月のうちにニューギニア本島南東部のポートモレスビーにイギリス国旗を掲揚した。実のところイギリスの本国政府としてはニューギニアのことを「食人島」と呼んで(植民相カーナヴォン伯の言)興味を示さなかったのだが、オーストラリアの白人入植者がドイツの進出を強く警戒したため、「オーストラリアの北辺を守る」という戦略的観点から今回の措置に及んだのであった。まぁもっとも、原住民の大半は自分がドイツやイギリスの支配下に入ったなんて全く知らなかった訳だが……。イギリス領となった地域は1906年にオーストラリア(註1)領に移管されることになる(註2)。それからニューギニア本島の西半分はずっと以前の1828年にオランダによって領有が宣言されていたが放置状態になっており(註3)、イギリス・オーストラリア領の開発もあまり真面目にはなされなかった。そんな中で、何故かドイツだけが比較的に熱心な開発をはかることになる。
註1 イギリス植民地として開拓されたオーストラリアは1901年にイギリス国王を国家元首に戴きつつも独自の憲法と議会を持つ自治領「オーストラリア連邦」を組織、事実上の独立を達成した。ちなみにニュージーランドが自治領になったのは1907年である。
註2 オーストラリア領となった地域のその後については当サイト内の「ニューギニア近現代史」を参照のこと。
註3 領有宣言の際に砦を建設したが、1836年にはオランダ王室のプレートだけを残して撤収した。
ただ、ニューギニアには70年代〜80年代前半にミクルホ・マクライというロシアの民族学者が3次に渡って長期滞在していたことがあり(その調査報告はドイツも参考にした)、彼は白人の魔の手から原住民を守るための(原住民による)自治といった計画を思い描いていた。ドイツ・イギリスに先を越される形となった彼はロシア政府に支援を求めたが、ロシア本国から遠く離れた地域でドイツと揉めるのを嫌った政府はこれを却下した。ドイツ政府に抗議の電報を打ったが効果なしである(註4)。さらにフランスがビスマルク諸島ニューアイルランド島への植民をはかり、150名の入植者を送り込んでいたが、準備不足のため撤収している。
註4 マクライは88年に死去した。
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ドイツ領に組み込まれた地域における本格的な開発は1885年の11月、前述の「ニューギニア商会」の探検隊がニューギニア本島のヒューオン半島に上陸したことによって始まった。東アフリカもそうだったが、ニューギニアのドイツ領も最初は会社の経営する植民地として始まったのである。ニューギニア商会は原住民から二束三文の品物とひきかえに入手した土地を白人の入植希望者に高値で転売することを目的として設立された組織であった。
ニューギニア商会の探検隊が上陸したヒューオン半島の原住民にとってはドイツ人は史上初めて遭遇する白人種であり、彼らはいまだ石器時代そのままの生活を送っていた。原住民はドイツ人を歓迎して土地を売り渡し、鉄製品やビーズを報酬にくれるならドイツのために仕事をすると約束した。しかし彼らは労働者としてはあまり使えないことがじきに判明した(彼らはその時点では貨幣経済と全く無縁だったので、しんどい思いをして賃労働をしなければならない理由がなかった)し、商会が期待していた白人入植者もほとんどやってこなかった。そこで商会はニューギニアの周囲の島々(そちらの住民はかなり前からイギリス植民地との交易を通じて貨幣経済に組み込まれていた。ヒューオン半島のあたりもやがてそうなる)や東南アジアから労働力を集めてカカオや煙草の農園をつくることにした。ところがそれらの農園ではマラリア、赤痢、感冒、天然痘といった病気が流行し、労働者がばたばたと倒れていった。
うまくいったのはニューギニア本島ではなくその北東に位置するビスマルク諸島ニューブリテン島のココヤシ農園だけであった。しかしこの島では原住民トーライ族との紛争が発生した。1890年に起こった戦争ではドイツ側が動員した兵力も周辺の島々で集めた弓矢や槍で武装する集団を主力としていたため、その戦いの様相は伝統的な部族間の戦争と大して変わるものではなかった(註5)が、93年の戦争ではドイツ海軍の巡洋艦が出動してドイツ人兵士60名が上陸する大規模なものとなった(註6)。
註5 この戦争の原因はドイツがトーライ族の土地に道路を敷こうとしたことによる。最終的にトーライ族は賠償金として貝殻貨幣を支払い、ドイツ側は以降の道路建設に関して事前の交渉をすることを約束した。
註6 トーライ族の方から講和。ドイツからの交易品なしでは困るようになっていたからである。
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ニューギニア本島でも小規模な戦争が何度も起こり(註7)、まるで利益があがらない状態が続いていた。99年、ニューギニア商会はやむなく植民地の行政権を放棄し、以降の管理はドイツ帝国政府が引き継ぐこととなった。初代総督はアルバート・ホールである。これで原住民との諍いがなくなったかというと、そんなことは全然なく、かえって苛烈な統治が行われることになる。
註7 しかしニューギニアでは概ね原住民の村が小規模で散在しすぎていたことから大規模な反乱などは発生しようがなかった。
19世紀の最後の年、ニューギニア本島とビスマルク諸島、アドミラルティ諸島に所在したドイツの公的な事務所は2つだけであった(本島のマダンとニューブリテン島のココポ)。ホール総督はニューブリテン島の北のニューアイルランド島カビエンを皮切りに次々と新しい事務所を開設してまわり、各事務所の付近に住む部族の長を「ルルアイ(首長)」に任命するという形でこれを統制した。つまり間接統治を行ったという訳で、ルルアイとなった族長には「全ドイツの最高位のルルアイ」たるドイツ皇帝ウィルヘルム2世の肖像絵が贈られた。後にドイツ領オセアニア全体の首府となるラバウル(ニューブリテン島東北部)の事務所が開設されたのは1905年である。その頃にはニューギニア本島の農園事業も軌道に乗ってきた。各事務所はそれぞれ数十人の原住民を雇って組織した警官隊に周辺の村々を巡回させ、若い男を農園労働や道路建設に供出させて、抵抗された場合には容赦なく攻撃、場合によっては軍艦を呼んで砲撃したりした。ルルアイの多くはむしろ自分の権威を維持するために自らすすんでドイツに協力し、村の若者たちを差し出した。
ホール総督は原住民よりもアジア人を誘致して働かせた方がよいと考えていた。原住民に労働をさせるとすぐに死にそうに思えたからなのだが、民間のドイツ人農園主は格安ですむ原住民を要求した。その結果、1913年までに約10万人の原住民が「雇用」され、うち約2万5000人が契約期間中に死亡したという。この数字はホール総督による推定である。しかしホールも優しかった訳ではなく、原住民に年4週間の強制労働(もしくは税金を支払う)を義務づけている。また、彼は原住民女性の雇用を禁止したが、これは、ドイツ人が彼女等にうつした性病のせいで人口が減るというようなことがあったからである。
ドイツ支配の道具である警官隊は1913年の時点で650名の人員を擁し、ドイツ人の指揮官と原住民の巡査からなっていた。巡査には近代的なライフル銃が与えられており、ドイツ人の扱う機関銃とあわせて反抗的原住民の鎮圧に破壊的な威力を発揮した。その一方でキリスト教の布教も熱心に行われ、1906年にニューギニア本島が激しい地震に見舞われた時には、それを「白人の力の印」と考えた多数の原住民が入信した。宣教師たちは総督府や地方事務所の役人が知らないような地域にもどんどん入り込んでいった。
まぁしかし、宣教師の活動範囲は別として、地図上のドイツ領に住む人々のうち、実際にドイツの支配が及んでいたのは2割以下であったといわれている。ニューギニア本島はいくらか奥地に進むとすぐにジャングルに行き着き、その先は山岳地帯であることから人間は住んでいないと思われていた。そこでも住民が「発見」されるのはドイツ支配が終わった後の1930年代のことである。